無味乾燥な

つまらぬ話でございます

集団なんとか

2020-03-29 09:18:12 | 日記
今日は日曜日。
昨日は土曜日で、仙台で桜が咲いたという記録日になった。

今朝、テレビを見ていたら、ウィルスについて、ワイドショーでも、吾輩的に、やっと「まとも」なことを言うようになってきたなあ、と感じたてきた。たとえば「シューイチ」だった。このウィルス騒ぎで、最近の人間の考え方の「目的」から外れた混沌ばかりを作り出す世の中の傾向を整理できるようになるかもしれない、と思うと少し喜びも感じた。単に自分の意見と合致したものを得たという、自己満足であるようにも思えるのであり、たいそうな話ではない。広い概念での「風邪」の罹患対策として、できるだけ「3蜜」を避ける、というのは必要なことであるから、改めて認識する機会である。
だが、不思議でならないのは、地球上の各国がこぞって、今回の新型ウィルスによる死亡者数を、新しいウィルスに因るという要素を抜きにした、死因が「肺炎」の数値に単純に上乗せして、国の生命線である経済を止めようとしているのかということである。
まるで、宇宙人の侵略行為のように思う。
今回はじめて知った『集団免疫』という言葉は、実に興味深い言葉である。まるで、全世界が集団催眠術にかかっているような気がする。国民の生命を軽んじて経済優先を選択することでの批判に耐えられない国の代表者たちが、「政治」を行なっているからなのだろうか?(世界すべてのことは知らない日本の地方の単なるジジイには断定できることではないが、続ける。)昨日、正午前なので空いているかと思って入店したが、すでに混んでいて、カウンターの一席だけがあったので「3蜜」を避けきれないと観念したラーメン屋さんで週刊誌を見ていた(何人も触ったものを食べる前に触っちゃいけなかったのかな?)ら、ある生物学者が、この騒ぎの収束は、ワクチンと治療薬ができたときであると、「予言」していたが、そのとおりである。であれば、1年半も経済を止めるのか?それとも、イギリスで先走って言って怒られたようだが、集団免疫による感染者数の減少をもって収束として経済を再開させる気なのか?
吾輩的にはとても不思議なのである。
イギリスの首相や皇太子が感染したという話は、率先して免疫をつけている、ということなのか?そうならば、やはりイギリスは大したものである。
とにかく、この世界的な騒ぎは、興味深い。感染者数だけで一喜一憂することなく、そんなふうに観ているといいんじぢあないかなあ。

何もできないから、世界中が一刻も早く普通を取り戻すことができるようになることを祈る。

2020-03-22 12:09:23 | 日記
3連休、特に何もなし。

外国では、サイクリングも禁止しているところもあるようだが、強風の中自転車に乗っていると、ウィルスも飛んでいくんだからお薦めしようと思ったが、吾輩のような独りで居られるへそ曲がりばかりではなく、連んで行動する人は多いから、「濃厚」接触者が存在してしまうとやっぱりダメなのかという結論に至って、降車して休憩した。
空にはぽっこりと雲があった。
昨夜は、映画インデペンスデイがあると知っていたから、中に宇宙船があるように思う。
じいさんになってもそんなことしか考えないのだからヒマしている。
ヒマだと失った事しか考えない。必死で自転車を漕いで普通を取り戻す。疲れた。

このウィルスによる人間社会の変化は、学問的には非常に興味深い。しかし今、そんなことを言っている場合ではない。後で流れる雲を見ながらゆっくり考えてみよう。
今は何もできないから世界が平穏を取り戻せるように祈る。

動くのが大変。

2020-03-15 21:46:25 | 日記
先日、家の間近で道路工事があって近所を歩いていたら、道に高齢の男性が這いつくばっていた。
それを他人の媼が、立ち上がらせようとしていた。電動アシスト自転車の母子は、スイスイと通り過ぎて行く。確かに、闇にあって老人二人はよく見えなかった。
歩いて行く方向にそれが見えた以上無視はできない。なんとか立ち上がらせた。構図が変わると、吾輩より体格がいい。媼は小さい。
デカイ翁は、近所の飲み屋に飲みに行ったが休みであった。それがわかった時から、持病の腰痛で歩けなくなった、住んでいるアパートはすぐそこである、と言う。
こんな暗くなってから出かけるのは止めろ、と言い、後ろから両脇を上に上げながら玄関口まで連れて行った。
翁と一緒に付いてきた他人の媼は共に八十年以上生きているそうで、翁は独居だと言った。
一人暮らしは、最早無理だと思ったが、それを吾輩が言うのは、助けたという思い上がりと感じられないとも限らないからやめた。
その後その辺りを通ると、生きているんだろうかと思う。

昨日、雨が降る前に、と、二駅先の駐輪場に通勤用のAEONで買ったママチャリを取りに行った。
パンクしている。
シーラント入りの修理剤を使って一週間は乗ることができたのだが、先週帰路で空気が抜けた。
最初、駐輪場の付近に自転車屋を探して、ネットで見つけた2キロ離れたところまで、引いて(押す?)行った。
入り口が少し開いていたので声を掛けてみると、吾輩と同年代に見えるおじさんがいた。
事情を説明すると、まだやってない、と言った。開店時間かと思いきや、その父親が先日まで入院して、今はまだ体力が戻っていないと言うのだった。
吾輩は、2キロ自転車を押して駐輪場に戻った。
その後にあった組合の飲み会でその話をしたところ、どの地域でも、自転車屋さんの高齢化があり、パンクすると大変なんだと複数の人が教えてくれた。
それで昨日は、駐輪場で空気入れを借りて、礼も早々にママチャリに跨がって走り出したが、30mぐらいで、ゴツゴツし始めた。
数キロ自転車を押して買ったAEONまで行って、チューブ毎交換して貰った。三千円強を払った。
通勤用には使わないことにして、家まで乗って帰った。買い物用にする。
来月から自転車を使う方々、パンクへの対処法を考えておかなければなりませんよ。

世界が平穏になりますように、と祈る。


なれ

2020-03-08 22:04:57 | 日記
「風邪」とは何だったのか。分からなくなった。
世界中で何だか分からなくなってしまったように思う。中国で最初にウィルスが発見されて、新しい病気として扱われて、エラい大騒ぎである。「風邪」だったら誰に責任があるということになるのだろう?製造拠点のシフトが目的なのか?そんなこんなと、これを進めると、もともとこれが目的だったという、国際的推理小説のようなオチがあるならば、映画の原作になって面白くて良いのだが。

問題は、いくらテキトーだったとはいえ、政治家として次がいないことである。
東日本大震災以来、やたらと、生物としての宿命、多数決の原則を無視した、無茶苦茶な意見が基準になるという、人気取りがおかしい。街中でのアピールに、年寄りやらに小遣いを渡して訳のわからない人の署名を集め、拡声器で「反対」を唱えるやり方は特におかしい。年寄りを死なないようにするとか、100%面倒を見るなんてことは無理なことである。
野党が、テキトーさをネタに国会での攻撃材料として、ツッコミを必要以上に感情的にウジウジとやってみせるのは、国民の日本人らしさを忘れさせる謀略のようにも感じてしまう。
ただ、この騒動によって、給食や子ども食堂での食事に依存している子どもが多いということを知ることになり、そのような社会の問題が表面化するのは、改善しなければならないこととして認識されるようになった。オーストラリアの山火事の中でのコアラの姿と同じように、救出してやらなければならないことである。そのような子どもたちの親の仕事は、家の中だけで解決できないなら皆で考えなければならないことである。

自分は、テキトーやウィルスより、バッタが怖い。
昔のホラー映画を見てから怖くて仕方がないのだが、西からこっちにでかいバッタが侵攻しているらしいのである。
トイレットペーパーが無くなるより、バッタに食われて食べ物がスーパーに無くなる方が人間が酷いことになるというのは誰でも解ると思う。この時、この国のリーダーは誰がやっているのか。
皆んな、よく考えなければならない。

利害だけでどうこう言っている人は見放して、今必要なのは、「ウィルス騒ぎ」に早く慣れてしまって、見えてきた必要な処方を施すことではなかろうか。

目的を忘れないこと

2020-03-01 21:52:44 | 日記
トレーニングジムも含めて出歩きを禁じられて、録画して溜めていた映画を観て過ごす。
「ニュースの真相」。終盤で、主人公が、査問委員会に言う。何故事実を問わないのか、行動した目的が事実の追及にあったにも関わらず、事実の検証はなく、その処理の方法の責任追及についてだけになるのはどうなのか。
中村哲さんは、「議論は無用」、"just practice" と言った。

ウィルスのことは、それが原因で亡くなった方の数が問題なのであり、分母の数はわからないのであるから、確率に意味はなく、途中経過である進行形の対処法の是非をどうこう言うことには全く意味がない。巨大津波と同じく、後から検証して、その段階での方法の科学的な評価をするべきであって、今どうこう言うことはダメだ。
供給されるべきは、罹患したらどうなるかであって、個人個人の心配度合い、余裕というものに影響される不確実な罹患者数ではない。全数検査しない我が国のスタンスは、これが根拠だと言えばいいのにそう言わないのは他に理由があるのだろう。従来からあるmhlwの欠陥が、その「他の理由」にある。
結界ではない人間の作った区域内での数など全く意味がない。長たちが、全国放送で私はちゃんとやってますよ、と言う機会を提供しているだけで、結局のところは、国でちゃんとしてくれというだけである。少しズレるが、自分たちの仕事を、直営でやるよりも民間委託のほうが有益だと平然と言える人たちだからそんなものである。コストでいえば、直営>(同じ行為+利益)が成り立つのであれば、民間のコストはどこで吸収するというのか?低賃金と買い叩きが正しいことなのか?
テレビで途中経過で方法論にぐだぐだコメントしても意味がなく、「専門家」ならば、ひたすらに死に至らないようにすることを考え、実行しなければならないのである。
治療できる薬を作ること、治癒の方法だけが必要であり、できるまでの間は、今ある医学的な統計(疫学)によって導き出した分母を利用して、罹患した場合の亡くなる確率はこれぐらいだと伝えるのがよいと思う。

現在の我が国は、公共の福祉という目的の為に制度を作るが、実施において目的はどこかに行ってしまい、勝手に作った面倒なフォーマットにこだわることに終始してエネルギーを浪費してしまう。情報公開が前提であるから、フォーマットに合わせないと自分の落ち度になると考えるところで止まってしまい、何のためにやっているのか分からなくなるのである。日頃そんなこればかりやっている公務を担っている人達に、先々のことを考えることなどできるわけがない。国会での政府対野党の不毛なやりとりも背景にあるのだろう。
最も大きな問題は、国際的にこの流れがあるように見えることである。国内の報道が、自分たちのフォーマットに合うところだけ切り取っていて、私はそれしか見ていないのかもしれないが。

単なる個人の感想である。

自転車で海まで行った。この光景に希望を感じた。