あなたの宗教は何ですか?と聞かれて、はっきり答える人は最近は少ないのではないだろうか。
昔のアニメとかを見ていると、ガンダムでシャアが「南無三!」と口走ったり、北斗の拳でケンシロウが相手に「念仏でも唱えろ」とか言ったりと、あまりストーリーの設定と関係のないところでの宗教についての描写があったと思うのですが、最近ではあまり見ないような気もします。
宗教と一口に言っても色々ですし、正しいか間違っているかどうかは置いておいて、宗教が人々に前向きに生きるための役割を担ってきたという事実はあると思います。
しかし、宗教の影響力が弱まってきた現代においても、世の中は相変わらず問題とストレスだらけです。
そのような中で、宗教なしで、人々はどのように前向きに生きていくのでしょうか。
YouTubeのおすすめに上がってきた動画をふと見た時に、科学とテクニックで何とかしようとしている人たちがいることを知り、興味深いなぁと思いました。
幾つか関連動画を見ていて、なんとなく面白そうだったジョー・ディスペンザ博士の本を読んでみることにしました。
題名にもなっているプラシーボに関しては、なるほどそういうこともあるかもしれないなぁとは思いました。
プラシーボ効果というのは、お医者さんから「これであなたの病気が治りますよ」と言われて、ただの砂糖水を渡されて飲んだ時に、本当に治ったり効果が出る人がいることから、新薬開発では必ず比較試験を行うことになっているそうです。
それを逆手にとって、自分の体にとって良いイメージを瞑想を通して抱き続ければ、実際に体にも効果として現れてくる、というディスペンザ博士の主張です。
ご本人も、大きな事故で障害が残ってしまうだろうと言われた状態から復帰したということです。
これに関しては、自分にできるかどうかは置いておいて、プラシーボ効果というものが現実にある以上、瞑想で病気が治ったりする人がいても不思議ではないかなぁと思います。
ただ、プラシーボ効果だけでは、自分の身体の中で起きていることについては状況を好転させることができても、自分の身体の外で起きていることについては手が出せない、ということになってしまいます。
そこでディスペンザ博士は「量子場」へと理論を広げます。
量子場では「観測される」までは状況が決定しないので無限に可能性がある。瞑想によって量子場にアクセスし、自分の期待する結果を「観測」したも同然のように抱き続ければ、結果はその通りになる、というもののようです。
わたしは量子力学には詳しくないのですが、自分なりに噛み砕いて考えてみました。
量子力学では「観測」が重要な意味を持つそうです。
例えば、TV番組「鶴瓶の家族に乾杯」などで、それまで普通に歩いていたおばあちゃんに、ふとカメラを向けて話しかけると、「あらやだもう化粧してないから撮らないで」などと、おばあちゃんの行動パターンが変化することがありますが、同様に、量子の世界では対象が小さいこともあり、観測しているか否かが大きな意味を持ってくるようです。
「シュレーディンガーの猫」という有名なお話があって、SF好きの方ならご存じだとは思いますが、めちゃくちゃ端折って書いてみます。
猫をとある箱の中に閉じ込めて、その箱に猫を50%の確率で殺してしまう仕掛けを施した時に、その猫が生きているか死んでいるかは、フタを開けるまでは生きた猫と死んだ猫が混ざり合ったような状態で、フタを開けた時にそれは確定する、という思考実験です。
実際に実験されたわけではないので猫好きの方はご安心ください。
最初は笑い話として作られたようですが、現代ではあながち間違ってないかも…みたいな話になっているようです。
ディスペンザ博士の主張をシュレーディンガーの猫に当てはめてみると、瞑想を通して箱の中にアクセスし、そこで観測したも同然のように生きた猫のイメージを抱くならば、箱のフタを開けた時にはまさに生きた猫がそこにいる、ということなのではないかと私としては解釈しています。
これに関しては、結果からそうとしか考えられないというディスペンザ博士の説に過ぎないと思うので、それを間違いのない真実であるかのように主張されるのは、ちょっと危険、というか胡散臭くなってしまうなぁと個人的には思いました。
もちろん、将来的に博士の説が正しかったことが立証される可能性もあるわけですが。
「量子場」というのがそもそも何なのか、私にはあまりよく理解できていないので、認識が間違っている点もあるかもしれません。
何となくユングが「無意識」と呼んだものに近いような気がしますが…
というと、私はディスペンザ博士の否定派なのかと思われてしまいそうですが、実は、あながち間違っていないかもしれないとは思っています。
少し話はそれてしまうのですが、私は「五次元の世界」は精神世界、情報の世界にあるかもしれないとなんとなく思っているからです。
というのも、情報は時間の枠を越えることができると思うからです。
例えば農業を始めよう!となったときに、我々は1から試行錯誤する必要はなく、先人たちが長い年月をかけて積み上げてきた知識や技術といった情報を存分に用いることができます。
また、頭の中では自由に時間を遡って、昔の出来事を思い出したりすることもできたりします。
もちろん記憶も「情報」の一つです。
映画「インターステラー」も五次元が重要な要素となっており、重力は時間を飛び越える、ということだったと思いますが、個人的には重力は手段の一つで、結局時間を飛び越えたのは「情報」だったのではないだろうか、と思ったりもします。
そのような「情報」がカギとなる、未来の時間軸を含めた五次元の世界がもしかしたらあるのかも知れないなぁ、と思ったりするのです。
話がそれたついでにもうちょっと書いてみよう。
我々は一方向に流れる時間軸を含めた四次元で生活していると言われているが、容易に認識できる三次元において、例えば軟式テニスのボールという三次元の物体があったとして、何も手を触れたりしなければ、ボールはボールとしての形を保ったままである。
しかし、そこに指で押しつぶすなどの力を加えることによって初めて、ボールは形を変化させる。
それを五次元に広げてみる。
もしかしたら、五次元から見た四次元の事象というものは、力を加えない限り形を変えないボールのようなものなのかもしれない。
実際、全ての要因を数値化することができるのであれば、全ての事象は計算して予測することができるものなのかもしれない。
また、結果から逆計算して原因を割り出すことも可能かもしれない。
それを我々は「運命」と呼んだりするのだろう。
しかし、力を加えて四次元の事象を変化させることはできるのだろうか。「運命」を変えることはできるのだろうか。
もしかしたら、「意志」と呼ばれるもので、四次元の事象を変化させることができるのかもしれない。
むしろ個人的にはそう信じたい。
私はどちらかというと科学を理論的にとらえるよりも文学的にとらえるのが好きなので、今日もこうして妄想を膨らませているのです。
ただこうしてあれこれ考えるのは、趣味のことばかりでなく、仕事のこととかでも、ああ、明日はこれをしなくちゃ、とか、あの人はこれを頼んでもこんなことを言ってやってくれないかもしれない、とか、こんなことが起こるかもしれない、などと、時に消極的な方向にも考えが向き、一人でイライラしたりすることも多くありました。
ディスペンザ博士は「あなたという習慣を断つ」という言葉を使うのですが、そういう負のループから抜け出して、どうせなら良い将来のイメージを抱いて生活した方が、楽しく生活できそうな気がします。
例えば孔子は「四十は不惑」と言ったわけですが、もしかしたら40歳になったら迷わないような出来た人間になりなさい、ということではなく、もう疲れるから40過ぎたらあれこれ考えるのをやめなさい、という意味なのかもしれないと勝手に思ったりもします。
私個人としてはディスペンザ博士のことを信奉するわけではありませんが、良さそうなところは取り入れて行こうと思います。
でもやはり、博士自身も認めているところですが、科学の力で前向きに生きる方法を模索してみても、どうしても「宗教っぽい香り」は消すことができないものなのかもしれません。
昔のアニメとかを見ていると、ガンダムでシャアが「南無三!」と口走ったり、北斗の拳でケンシロウが相手に「念仏でも唱えろ」とか言ったりと、あまりストーリーの設定と関係のないところでの宗教についての描写があったと思うのですが、最近ではあまり見ないような気もします。
宗教と一口に言っても色々ですし、正しいか間違っているかどうかは置いておいて、宗教が人々に前向きに生きるための役割を担ってきたという事実はあると思います。
しかし、宗教の影響力が弱まってきた現代においても、世の中は相変わらず問題とストレスだらけです。
そのような中で、宗教なしで、人々はどのように前向きに生きていくのでしょうか。
YouTubeのおすすめに上がってきた動画をふと見た時に、科学とテクニックで何とかしようとしている人たちがいることを知り、興味深いなぁと思いました。
幾つか関連動画を見ていて、なんとなく面白そうだったジョー・ディスペンザ博士の本を読んでみることにしました。
題名にもなっているプラシーボに関しては、なるほどそういうこともあるかもしれないなぁとは思いました。
プラシーボ効果というのは、お医者さんから「これであなたの病気が治りますよ」と言われて、ただの砂糖水を渡されて飲んだ時に、本当に治ったり効果が出る人がいることから、新薬開発では必ず比較試験を行うことになっているそうです。
それを逆手にとって、自分の体にとって良いイメージを瞑想を通して抱き続ければ、実際に体にも効果として現れてくる、というディスペンザ博士の主張です。
ご本人も、大きな事故で障害が残ってしまうだろうと言われた状態から復帰したということです。
これに関しては、自分にできるかどうかは置いておいて、プラシーボ効果というものが現実にある以上、瞑想で病気が治ったりする人がいても不思議ではないかなぁと思います。
ただ、プラシーボ効果だけでは、自分の身体の中で起きていることについては状況を好転させることができても、自分の身体の外で起きていることについては手が出せない、ということになってしまいます。
そこでディスペンザ博士は「量子場」へと理論を広げます。
量子場では「観測される」までは状況が決定しないので無限に可能性がある。瞑想によって量子場にアクセスし、自分の期待する結果を「観測」したも同然のように抱き続ければ、結果はその通りになる、というもののようです。
わたしは量子力学には詳しくないのですが、自分なりに噛み砕いて考えてみました。
量子力学では「観測」が重要な意味を持つそうです。
例えば、TV番組「鶴瓶の家族に乾杯」などで、それまで普通に歩いていたおばあちゃんに、ふとカメラを向けて話しかけると、「あらやだもう化粧してないから撮らないで」などと、おばあちゃんの行動パターンが変化することがありますが、同様に、量子の世界では対象が小さいこともあり、観測しているか否かが大きな意味を持ってくるようです。
「シュレーディンガーの猫」という有名なお話があって、SF好きの方ならご存じだとは思いますが、めちゃくちゃ端折って書いてみます。
猫をとある箱の中に閉じ込めて、その箱に猫を50%の確率で殺してしまう仕掛けを施した時に、その猫が生きているか死んでいるかは、フタを開けるまでは生きた猫と死んだ猫が混ざり合ったような状態で、フタを開けた時にそれは確定する、という思考実験です。
実際に実験されたわけではないので猫好きの方はご安心ください。
最初は笑い話として作られたようですが、現代ではあながち間違ってないかも…みたいな話になっているようです。
ディスペンザ博士の主張をシュレーディンガーの猫に当てはめてみると、瞑想を通して箱の中にアクセスし、そこで観測したも同然のように生きた猫のイメージを抱くならば、箱のフタを開けた時にはまさに生きた猫がそこにいる、ということなのではないかと私としては解釈しています。
これに関しては、結果からそうとしか考えられないというディスペンザ博士の説に過ぎないと思うので、それを間違いのない真実であるかのように主張されるのは、ちょっと危険、というか胡散臭くなってしまうなぁと個人的には思いました。
もちろん、将来的に博士の説が正しかったことが立証される可能性もあるわけですが。
「量子場」というのがそもそも何なのか、私にはあまりよく理解できていないので、認識が間違っている点もあるかもしれません。
何となくユングが「無意識」と呼んだものに近いような気がしますが…
というと、私はディスペンザ博士の否定派なのかと思われてしまいそうですが、実は、あながち間違っていないかもしれないとは思っています。
少し話はそれてしまうのですが、私は「五次元の世界」は精神世界、情報の世界にあるかもしれないとなんとなく思っているからです。
というのも、情報は時間の枠を越えることができると思うからです。
例えば農業を始めよう!となったときに、我々は1から試行錯誤する必要はなく、先人たちが長い年月をかけて積み上げてきた知識や技術といった情報を存分に用いることができます。
また、頭の中では自由に時間を遡って、昔の出来事を思い出したりすることもできたりします。
もちろん記憶も「情報」の一つです。
映画「インターステラー」も五次元が重要な要素となっており、重力は時間を飛び越える、ということだったと思いますが、個人的には重力は手段の一つで、結局時間を飛び越えたのは「情報」だったのではないだろうか、と思ったりもします。
そのような「情報」がカギとなる、未来の時間軸を含めた五次元の世界がもしかしたらあるのかも知れないなぁ、と思ったりするのです。
話がそれたついでにもうちょっと書いてみよう。
我々は一方向に流れる時間軸を含めた四次元で生活していると言われているが、容易に認識できる三次元において、例えば軟式テニスのボールという三次元の物体があったとして、何も手を触れたりしなければ、ボールはボールとしての形を保ったままである。
しかし、そこに指で押しつぶすなどの力を加えることによって初めて、ボールは形を変化させる。
それを五次元に広げてみる。
もしかしたら、五次元から見た四次元の事象というものは、力を加えない限り形を変えないボールのようなものなのかもしれない。
実際、全ての要因を数値化することができるのであれば、全ての事象は計算して予測することができるものなのかもしれない。
また、結果から逆計算して原因を割り出すことも可能かもしれない。
それを我々は「運命」と呼んだりするのだろう。
しかし、力を加えて四次元の事象を変化させることはできるのだろうか。「運命」を変えることはできるのだろうか。
もしかしたら、「意志」と呼ばれるもので、四次元の事象を変化させることができるのかもしれない。
むしろ個人的にはそう信じたい。
私はどちらかというと科学を理論的にとらえるよりも文学的にとらえるのが好きなので、今日もこうして妄想を膨らませているのです。
ただこうしてあれこれ考えるのは、趣味のことばかりでなく、仕事のこととかでも、ああ、明日はこれをしなくちゃ、とか、あの人はこれを頼んでもこんなことを言ってやってくれないかもしれない、とか、こんなことが起こるかもしれない、などと、時に消極的な方向にも考えが向き、一人でイライラしたりすることも多くありました。
ディスペンザ博士は「あなたという習慣を断つ」という言葉を使うのですが、そういう負のループから抜け出して、どうせなら良い将来のイメージを抱いて生活した方が、楽しく生活できそうな気がします。
例えば孔子は「四十は不惑」と言ったわけですが、もしかしたら40歳になったら迷わないような出来た人間になりなさい、ということではなく、もう疲れるから40過ぎたらあれこれ考えるのをやめなさい、という意味なのかもしれないと勝手に思ったりもします。
私個人としてはディスペンザ博士のことを信奉するわけではありませんが、良さそうなところは取り入れて行こうと思います。
でもやはり、博士自身も認めているところですが、科学の力で前向きに生きる方法を模索してみても、どうしても「宗教っぽい香り」は消すことができないものなのかもしれません。