かんちがい

、かも知れないけど、思いついたことを書いていく、ヤマサキタカシの日記です。

ニーチェが超えたかったものを考えてみる

2023年11月11日 | Weblog
ここのところ、本の感想はインスタグラムの方で短めに投稿していたのですが、今回は長文になりそうなのでブログの方に書こうと思います。

「史上最強の哲学入門」「史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち」(著:飲茶)という本を以前読みまして、そこで気になった人の著作を読んでいこうと思っていて、墨子やルソーといった人が面白そうだなと思ったのですが、手始めに一番気になったニーチェを読んでみることにしました。

ということで今回はフリードリヒ・ニーチェ「ツァラトゥストラはこう言った」(訳:森一郎)を読んだ感想を書いてみようと思います。



ニーチェといえば「神は死んだ」という言葉で有名ですが、読んでみて、この人ほど切り取られた言葉が一人歩きしてしまっている人も、そうそういないのではないかと思いました。

実際に内容に触れてみると、繊細な人が精一杯、力強く生きようと足掻き、もがいた痕跡という感じの、非常に美しい作品だと思いました。

なるべく言葉については丁寧に読んでいき、意味のわからないところは無理に理解しようとせずに、詩を読むような感じで、言葉自身が持つイメージに頼りながら読みました。
というと、ちょっと盛ってしまったかもしれません。長い作品なので、集中力が切れて、多少斜め読みしてしまった箇所もありました。

それでも、ニーチェ本人が意図していた意味かはわかりませんが、読んでいると結構、わかるなぁ、と共感できる箇所が多くありました。



最初に読んでいて思ったのは、これってナウシカ(原作版)じゃね?と思いました。

「風の谷のナウシカ」(原作版)は非常に好きな作品なのですが、ナウシカが最後のクライマックスで下す決断が、いまいち個人的には理解できないところがありました。
なんでそういう考えになるん?という感じでした。

でもニーチェの考えを通した後だと、「墓の主」が意味していたものとか、駿さんがお話の裏で伝えたかったことなどが、おぼろげながらわかるような気になり、あぁ、なるほどねぇ、そりゃそうなりますわ、と分かったようなつもりになりました。

ていうか、宮崎駿さん、相当ニーチェ好きなんだろうなぁ、と思っていたところ、答え合わせの機会は早く訪れました。



この本を読み始めた頃に、宮崎駿監督の「君たちはどう生きるか」がまだ映画館で公開されていたので、見に行ってみました。

あまり大きなネタバレは避けたいと思いますが、「大おじ様」というキャラが、発狂してしまったという設定や、キャラデザインもニーチェそのままで、思わずニヤリ。としてしまいました。



「ツァラトゥストラはこう言った」という本は、大雑把に言うと、ツァラトゥストラという人物が旅したりしながら様々な人たちと話したり体験したりするというお話なのですが、いわゆる「物語」のように明確な起承転結があるわけでもなく、エンターテイメントとして面白いかというと、個人的には面白いとは言えません。

ネットなどでは賛否両論のようである「君たちはどう生きるか」についても、ただひたすらに美しくはあるものの物語としてはよく分からない、という似たような構成という印象を個人的には受け、宮崎駿監督はもしかしたら自分なりの「ツァラトゥストラはこう言った」を作りたかったのではないか、と思ってしまいました。

どうしても「風の谷のナウシカ」(原作版)と「君たちはどう生きるか」を比較しながら観てしまいましたが、宮崎駿さんも82歳になられたということで、若い頃と比べて丸くなったところもあり、変わらないところもあり、などと考えていたら、クライマックスでは泣いてしまいました。
(といいながら今調べてみたら、ナウシカ(原作版)が完結したのって駿さんが50代の時だったんですね…)

ただ、宮崎駿さんの天才たるゆえんは、そいういった哲学的なものを一般民衆が楽しめるエンターテイメントまで落とし込めていたところだと思うので(鈴木敏夫プロデューサーの力もあるのかもしれませんが)、「君たちはどう生きるか」については、嫌いではないけど面白くはなかったなぁ、という感じです。
まだ一回しか見てないのでアレですけど。

ニーチェ研究をしている人が「風の谷のナウシカ」や「君たちはどう生きるか」を解説したら、面白いものになるかもしれませんね。
もしかしたら、既にやっておられる方もおられるのかもしれませんが…
実は、ブログのネタについては、基本情報以外の情報は、書き上げるまではあまり調べないようにしています。
宮崎駿研究の第一人者、岡田斗司夫さんの評論もまだ見ていません。


「ツァラトゥストラはこう言った」に話を戻したいと思いますが、「神は死んだ」という当時としてはかなり強烈であっただろう言葉は出てくるものの、何となく書き方は聖書にかなり影響を受けているような気がします。

全体的には新約聖書の福音書を意識して書かれているのは間違いないと思いますし、旧約聖書の預言書のような雰囲気を感じるような気もします。
それがオマージュなのか、揶揄なのかは分かりませんが。

ただ読んでいると、ニーチェが否定したかったのは「神」そのものではなかったのではないかなぁ、という気がしてきました。

実際、神は「いない」とせずに「死んだ」としたところに、ニーチェの神に対する複雑な心境が見えるような気がします。



読んでいた頃に、YouTubeでボーッと動画を見ていたところ、キツネの家畜化に関する実験のゆっくり動画がおすすめに出てきたので、なんとなく見てみました。

ロシアの遺伝学の研究者が、人になつきやすいキツネを選んで交配させていったところ、性格が温和な個体がかなりの割合で生まれてくるようになり、そのような個体は顔つきや体型まで柔らかい感じになっていった、ということです。

でも、あれ?これって人間の歴史も同じなんじゃね?
人間は自分達で人間という種を家畜化してるんじゃね?というのが「自己家畜化」という考えです。

例えば、ネコについて考えてみると、ネコと一口に言っても色んな性格の個体がいますが、警戒心が強くて人前に出てこないネコを人によっては好きという人もいるだろうと思いますが、一般的にはフレンドリーで好奇心旺盛なネコの方が好まれる傾向にあると思います。



これは人間の性格についても同じで、人間社会においても、警戒心が強くて人見知りな性格の人よりも、フレンドリーでコミュニケーションの取れる人の方が好まれる傾向にあり、これは言い方を変えれば犬とかネコの「家畜化」と同じなのではないだろうか、ということのようです。



宗教、特に「組織化された宗教」が教えとして説く理想的な人格というのは、平和で、穏やかで、やさしい、あえて悪く言うと「家畜化」されたものが多いような気がします。

ニーチェ自身の文を引用すると、
「じっさい今日では、ちっぽけな人間どもが主人になってしまった。彼らがそろって説いているのは、従順であり、謙遜であり、利口さであり、勤勉であり、気配りであり、ほかにも延々と続くちっぽけな徳目である。」

これだけを読むと、失うものが無いために自暴自棄になる弱者男性、すなわち「無敵おじさん」のような(私も片足くらいはつっこんでいるかも)、どうなってもいい、世界など滅びてしまえという思考パターンなのかと思ってしまいますが、ニーチェの文面からはそのような印象を受けることはありません。

というよりは、人間って、もっと上を目指せるでしょ?「超人」になれるでしょ?と言いたかったのではないかと思います。


わたしもクリスチャンとして育てられましたが、宗教組織において「うまく」やっていける人というのは、やっぱり見た目が良くて人当たりのいい人が多いような気がしたことも確かでした。

もちろん、「組織」として運用するのに、コミュニケーション能力が高い人が重宝されて然るべしと思いつつも、西暦1世紀当時のユダヤ社会において爪弾きにされた弱者のための宗教としてキリスト教は誕生したはずなのだけどなぁ、となんとなくモヤモヤしたものを感じたりします。

これほど多種多様な生物たちがうごめく自然界を創造した存在が、穏やかで平和な画一的な人格を持った人間のみを望んでいるのだろうか、とふと疑問に思ったりもします。

もちろん、誤解していただきたくないのは、穏やかで平和な人格が良くないということではなくて、問題はバランスです。

どんな人間も心に闇を抱えていると思いますが、その闇から目を背けたまま、うわべだけ平和なふりをした社会でいいのか、と思うのです。

といっても闇にばかり目を向けていても闇に取り込まれてしまうこともあると思うので、これまたバランスです。



訳者あとがきのところで、「永遠回帰思想」についても触れられていましたが、そこのところは今回は私にはちょっと読み取れませんでした。
次にまた再読する機会があるかどうかはわかりませんが、その時の課題にしようと思います。

ただ、現代社会、特に日本においては宗教の力が弱まりつつあると言えると思うので、ニーチェの思惑通りに事は進んだと思いきや、今度は「ポリコレ」という、ともすると宗教よりも厳しくうわべだけの規律に人々は縛られるようになり、永遠回帰思想を裏付けてしまっているのかもしれません。


最後に、今回読んでいて一番面白かった箇所を引用します。
「オズオズと、恥ずかしがり、不器用に、まるで飛びそこなったトラのように、そんなふうにあなたがたが忍び足で去ってゆくのを、あなたがた、高等な人間よ、私はしばしば見た。出たサイコロの目が悪くて、あなた方は失敗したのだ。
しかし、あなたがた、賭博者よ。それがどうしたというのだ。あなたがたは、賭けをして遊び、笑い飛ばすことを、つまり、どのように賭けをして遊び、笑い飛ばすべきなのかを、学ばなかったのだ。われわれはいつだって、大いなる嘲笑と賭博のテーブルに就いているのではないか。
それに、あなたがたが大きなことに失敗したとしても、だからといって、あなたがた自身がー失敗だったのだろうか。それに、あなたがた自身は失敗だったとして、だからといってー人間が失敗だったのだろうか。では、人間が失敗だったとしてーそれもよし、それで結構だ。」

2021年の流行語大賞のトップ10に「親ガチャ」という言葉が入ったそうですが、「上司ガチャ」とか「国ガチャ」とか、自分の力ではどうしようもできない要素があることは事実です。
私自身も、あまり今の人生がうまくいっているとは言えないと思うので、過去のいろいろなことをふと思い出して、恨み始めて、しばらく出られないことなどもあります。

でも、結局、自分に回ってきたカードなり牌なりを使って、一番良い手で上がれるようにやりくりするしかないんだよなぁ、と思うようになりました。

オーラスの最後までに、もしかしたらいい牌が引けることもあるかもしれない。

と、麻雀のルールを知らない私が言ってみました。


最後に、もしニーチェに詳しい方がこのブログを読んでおられて、その引用と考え方は違うよ、みたいなことがあれば、コメントで優しく教えていただけますと幸いです。


ということで、「自己家畜化」について興味が湧いたので、次はその本について読んでみようと思います。
もしかしたらインスタグラムの方で短めに感想を書くだけになるかもしれません。


今年の夏は暑かったですが、個人的にはそれほど暑いのは嫌いではないので、結構8〜10月くらいは調子良かったのですが、ここ最近日が短くなって少しずつ寒くなっていくと、冬眠の準備を始めたくなってしまうのか、調子悪くなってきました。

なんとか冬の時期も活動的に過ごしたいところですが、なんとかならないものでしょうか。


ではでは、最後まで読んでいただきありがとうございました。



「ツァラトゥストラはこう言った」
フリードリヒ・ニーチェ
森 一郎 訳
講談社学術文庫



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