かんちがい

、かも知れないけど、思いついたことを書いていく、ヤマサキタカシの日記です。

「蜘蛛の糸」から分断社会を考察する

2022年07月10日 | Weblog
このブログを途中まで書いたところで、安倍元首相が銃撃されて亡くなるという事件が起こり、事件の背景もまだよく分かっておらず、今回の内容はタイミング的にどうなのかなと思いました。

個人的な安倍元首相についての印象は、公共事業などの財政政策だけでなく、金融政策にも手を入れたということで、景気もそれなりに良くなって、コロナ前においては、わりと若者たちには就職しやすい世の中になっていたのではないかなと思います。

ただ我々40代の低所得者層には、目に見えたり実感できる恩恵というのが、あまりない感じがするので、個人的にはそれほど思い入れがあるわけではない、というのが正直なところです。

とはいえ、功績を残されたというのは明らかだと思います。
誰に対してもご冥福は祈らないことにしているので、「お疲れさまでした」と申し上げます。

そして、あってはならない事件というのはもちろんなのですが、犯人が40代ということで、同年代ということもあり、なんだかやるせないものも感じます。

というわけで、あえて普段通り、今回のブログを上げようと思います。

〜〜〜

マイケル・サンデルという、ハーバード大学の教授さんがいらっしゃいまして、「実力も運のうち 能力主義は正義か?」という本を、昨年、岡田斗司夫さんが紹介していて面白そうだったので、買ってはいたのですが、難解でなかなか読み進まず、先日ようやく読み終わりました。



というか、途中から、この人わりと繰り返しが多いなぁということに気づき、途中からかなり斜め読みをして、新しい単語が出てきたらちょっとペースダウンをする、という方法をとったらすんなり読むことができました。

失敗小僧というYouTuberの方の動画をよく見るのですが、長い動画が多く、めっちゃ頭の良い方だとは思うのですが、わりと繰り返しの部分が多く、それが逆に何かをしながら聞くのにはちょうどいい、という面がありまして、それに近い感じなのかもなぁと思いました。

というわけで読み終えた記念に、以前のブログでちょっとだけ触れた点について、今回は再び取り上げてみようと思います。

芥川龍之介の「蜘蛛の糸」は、おそらく国語や道徳の教科書で読んだことのある方は多いと思うのですが、今回はそのネタバレを含みますので、念の為、ネタバレがヤダという方はここでブラウザバックしてくださいませ。

また、「蜘蛛の糸」は仏教の経典ではなく小説なので、「御釈迦様」は実際の御釈迦様というよりも何かのイメージ・メタファーとして解釈します。
このブログにおいて仏教を批判・揶揄しようという意図はありませんので、ご理解ください。

あんまり考えもまとまりませんが、とりあえず書いてみます。



アメリカでは、ドナルド・トランプが大統領に当選した時に「分断社会」というものが浮き彫りになり、そしてジョー・バイデンが当選した時のゴタゴタでその分断の溝の深さというものが、さらに明らかになってしまいました。

日本ではそこまでは明確に表れてはいないものの、「上級国民」や「親ガチャ」といった言葉がネットをにぎわすなど、静かに水面下で分断が進行している様子が伺えます。

そして新型コロナによって世界的に分断の溝は深まっているようです。

サンデル教授はその「分断社会」について、グローバリズムと能力主義に要因があるとし、警鐘を鳴らしています。

日本の状況もつまみながら簡単にまとめると、

グローバリズムによって、全ての人の人生において成功する権利があるとされ、全ての人に平等にその機会が与えられるべきだとされてきた。
そのため、大学については、学力試験など、家柄・人種ではなく学生の能力に重点をおいた選考方法がとられるようになってきた。
そして、難関校に入学するためには非常な努力が必要とされるため、合格した人たちは家柄などではなく、自分の努力・能力が成功を導いたのだと考える人が多くなってきた。
しかし実際には、低所得の家庭で育った場合、入試の土俵にすら上がれないことも多々あり、仮に合格したとしても、学業中に長時間バイトをする必要があったり、のちに奨学金の返済に苦しむこともある。
そして「成功は努力した結果」「失敗は努力が足りなかった報い」という論理のもと、低所得の要因は自分にあると労働者本人でさえ思っているため、労働者階級は自尊心を失い、やり場のない怒りが渦巻いている。

こうして高所得者と低所得者の間の溝が深まってゆく。

というものでした。


以前、「蜘蛛の糸」を子どもの時に読んだ解釈と、現在読んだ解釈が、異なるものになってしまったということを、ちらっとブログに書きました。

それがサンデル教授の主張と重なる部分があったので、今回はもう少し詳細に書いてみようと思います。



必要ないかも知れませんが「蜘蛛の糸」のあらすじを書いてみます。

御釈迦様は極楽からふと地獄をのぞいてみた時に、極悪人カンダタを見つけます。カンダタは生前、殺そうとした蜘蛛をやっぱり踏みつぶすのをやめたという善行を一度だけ行っていたため、それを思い出した御釈迦様は救い出してやろうと蜘蛛の糸を極楽から地獄へ下ろします。カンダタはこれ幸いとその糸を昇り始めるのですが、疲れてふと見下ろすと、他の地獄の亡者どもが同じ糸を昇っているのを目にします。糸が切れるのを恐れたカンダタが、おまいら下りろ!とわめいた瞬間、糸はぷっつり切れてしまいましたとさ。



もううろ覚えになってしまいますが、小学校の授業で「蜘蛛の糸」を勉強したときは、「さぁみなさん、カンダタはこの時どうすれば良かったと思いますか?」と、カンダタの浅ましさに焦点が当てられ、自分も特に疑問は抱かなかったと思います。

「みんなで一緒に昇ればよかったのだと思います」とか「そもそも極悪なことをしてきたカンダタが悪い」といった意見が出たような気がするけどどうだろう。

しかし、40歳を過ぎてから再び「蜘蛛の糸」を読んだ時、最後の段落が妙に引っかかる、というか、芥川龍之介の「悪意」のようなものを感じました。

御釈迦様は悲しそうな顔をしました、で終わってもいいと思うのですが、最後にこのような段落が付け加えられているのです。

引用〜
しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんなことには頓着致しません。その玉のような白い花は、御釈迦様のお足のまわりに、ゆらゆらうてなを動かして、そのまん中にある金色のズイからは、なんともいえないよい匂が、たえまなくあたりへ溢れております。極楽ももう昼近くになったのでございましょう。


これを読むと、なんだか、「蜘蛛の糸」は上級国民と低所得者の話のように感じてしまいます。

天国の住人(高所得者層)は、前世で善行(学生時代の努力)を積んできた結果を当然の報いとして受けている。とはいえ、御釈迦様の慈悲深さ(能力主義)によって、天国(成功)への道は、地獄の住人(低所得者層)にも開かれている。が、実質その道は蜘蛛の糸のように細いもので、かえって地獄の住人(低所得者層)を混乱させる結果ともなる。といっても、天国の住人(高所所得者層)の世界には何ら影響はなく、両者の溝が埋まることはない。

という、考察というか、うがった見方ができてしまいます。


まぁよく考えれば、例えば江戸時代は士農工商なんて制度があったりして、子供の頃から、とにかくサムライにはペコペコしなくてはいけない、とか、まさに分断社会というか、分別社会だったわけです。
ここ4、50年が少し異常、というか、通常ではなかったというだけで、もしかしたら社会は通常運転に戻りつつあるだけ、なのかもしれません。

しかし、「一億総中流」なんて言葉もその昔あったそうで、日本では皆同じ給食を食べ、同じ制服を着て、人類皆平等、と教育されてきたわけですが、いざ社会に出て、実際の世の中は平等じゃないんですよ、と言われても、なかなかすぐに適応できる人たちばかりではない、というところがあります。



もちろん、士農工商の制度よりも、個人個人の能力が認められる世の中の方が良いとは思います。
そして、能力がある人が成功する。これもいいでしょう。

しかし、能力のない人は、その能力のなさに応じた低レベルな生活を強いられなければならないのか。
また逆に、低レベルな生活を送らざるを得ない人は、能力がなかっただけ、ということになってしまうのか。

ここへきて、行きすぎた能力主義による弊害、というものが明らかになってきてしまったようです。

しかし、ガチガチの階級主義や、行きすぎた平等主義の弊害も明らかになっており、バランス、というのが重要になるのかもしれません。



サンデル教授は本の中で、こうすればいいのではないか、という解決策を幾つか書かれているのですが、ここでは逐一書き出すことはやめておきます。

一つだけ興味深いと思う点を、自分の言葉も混じっちゃいますが、挙げておきます。


トランプに投票した白人男性労働者に共通していた意識は、「置いていかれた感」ではないか、ということです。

世界をまたにかけ、目の飛び出るような収入を得ているビジネスマン、そして日に日に強くなっていく女性たち。

そういったグローバリズムやフェミニズムとの対立図式を打ち立てたトランプが、彼らの人気を集めたのではないか、という考察でした。


そこで、サンデル教授が重要だと考えるのは、「誰かの役に立っている感」だ、ということです。

元マネーの虎の高橋がなりさんの人生相談の動画を時折見ていたのですが、「人に喜ばれることが人間にとっての幸せなので、自分がやりたいことよりも、人が喜ぶことを仕事にしろ」とがなりさんもよく言っていて、近いものがあるなぁと思いました。

ただ、残念ながら、数字として考えてしまうと、「どれだけ人の役に立っているか」のものさしは、お金、ということになってしまいます。

先日、「底辺の職業ランキング」というものが炎上していましたが、例えば、保育士さんと比べて大企業のCEOは、100倍、1000倍人の役に立っているのだろうか。
逆に言えば、CEOに比べて保育士さんは1000分の1しか人の役に立っていないのか。



少し極端な表現になりました。もちろん、雇用を生み出すということも大事なことです。



「労働」と書いてしまうと、共産主義っぽく聞こえてしまうのですが、ただ、資本主義が「労働」を少々ないがしろにし過ぎてしまった感も否めません。

労働者たちが尊厳を取り戻すことが、必要なのではないかという、サンデル教授の考察でした。



日本においては、労働者たち、と一括りにはできないかもしれません。
「置いていかれた感」のある人たちには、非正規雇用、とか、引きこもり、とかも入ってくるのかもしれません。

最近は引きこもりとニートが同義語のようなってしまっていますが、引きこもりの人たちは、かつて労働意欲があったものの、社会とうまくいかず、引きこもらざるを得なくなってしまった人たちが多くいるのではないかと思っています。

そういった人たちが尊厳を持って生活できるようにするには、さらに至難の業かもしれません。



サンデル教授の具体案に興味のある方は、実際に本を読んでいただければなぁと思います。
大学入試の案なんかはぶっ飛んでて、それはどうかと思いつつも面白かったです(笑)


というわけで、日本とアメリカの状況がごっちゃになっちゃったり、自分の言葉が混ざっちゃったりして、まとまりがなく申し訳ございませんでした。
読み返してみると、もうちょっと書き足すこともあるような気もしますが、今回はここまでにしておきます。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました!


本の情報
「実力も運のうち 能力主義は正義か?」
著者:マイケル・サンデル
訳者:鬼澤 忍
早川書房


コメント
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