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日本列島の水田稲作はすでに述べたように紀元前十世紀後半に北部九州で始まり、前九世紀ごろには環濠集落が見られます。集落に有力者が出現するようになるのが、一般の人と区別して墓に葬られるようになることから分かります。理由はよくわかりませんが、武器で殺傷された人の墓が見られることから抗争もすでにこの頃から始まった模様です(藤尾慎一郎「弥生時代の歴史」講談社現代新書2015,pp.66ー71)。
前八世紀後半になってようやく西部瀬戸内、山陰西部や鳥取平野、河内平野、徳島平野、伊勢湾岸地域などにも水田が見られるようになり弥生前期後葉(前六世紀頃)までに各地で水田・畑作農耕が広がっていきます(藤尾、pp.72-80)。江南にルーツを持つ水田稲作民で海洋民族でもある安曇族が遠賀川式土器を持って各地に広がり、徐々に在地の縄文系の人々も彼らと交流し水田稲作を始め、遠賀川系の土器を作るようになったと考えています。下の図は安曇族ゆかりの地をプロットしたものですが、この他に四国や中国西部などにも安曇族が進出していることはナーガ(龍蛇)神に因む地名(那珂、那賀など)によって分かります(日本は古の倭の奴国だ、古代日本は海人国家だった)。
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すでに縄文時代から玄界灘・日本海沿岸部を拠点とするムナカタ海人族が列島太平洋沿岸や沖縄・南西諸島や半島南部などとの物流を担っていた模様で、紀元前十一世紀頃から江南出身の呉(倭)人や越人とも半島南部で交流はあったようです。
後漢から金印を貰った奴国は列島内の産品の対外交易を管理する必要からムナカタ海人族の部族長一族と婚姻関係を結ぶことにしました。第十七代奴国大王の伊弉諾尊と縄文系ムナカタ海人の姫伊弉冉尊との婚姻によって両者の文化の融合が急速に進み、日本民族が本格的に形成され始めたのだと思います。日本の始まりとなるこの事件は国生み神話として記憶されたのだと思います。
恐らく、それまでの奴国の大王は北部九州に留まって、主に部下のアズミ族が列島各地の資源(木材、朱や塩など)を求めて図のように日本各地に集落を作って、その土地の産物を奴国の交易センターに運んでいたのでしょう。伊弉諾尊はムナカタ族やアズミ族の案内で、自ら積極的に壱岐や瀬戸内海や日本海沿岸を視察し、各地の開発を命じたのではないでしょうか。
そして伊弉諾尊と伊弉冉尊から生まれたスサノヲ大王は母方のムナカタ族と共にしきりに半島南部に渡り、製鉄冶金工房で板状鉄製品を素材として入手して、列島内の適所に鍛冶工房を整備したと考えられます(新羅の脱解王が奴国大王?)。
弥生後期前葉に(一世紀末ころ)急に大型化した銅鐸(IV式:突線紐式)が近畿地方で広がりました。それまでの銅鐸の利用法は、木の枝に吊るし、銅鐸内部に木などで作った舌を紐で引っ張って音を出して「聞く」目的でした。鳥栖市の安永田遺跡からも銅矛の鋳型と共に銅鐸の鋳型が見つかっていますので、奴国の祭祀で使用していたものと考えられます。恐らく徐福に同行した冶金工人によるものでしょう。
ところが、スサノヲ大王の時代になって、この小型の「聞く銅鐸」から地面か祭殿の床に置かれて「見せる」目的の「見る銅鐸」へと変化したということです。農耕・稲作祭祀における穀霊信仰にどういう変化が生じたのかは定かではないですが、この頃に近畿で祭祀様式に急激な変化が起こっているということです。
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滋賀県野洲市小篠原字大岩山出土_突線紐V式銅鐸
スサノヲについては記紀神話でかなり多く語られています。縄文系の風貌をして、乱暴者で、母イザナミの死を嘆き、イザナギから見放される泣き虫のキャラクターが定着しているようです。しかし女神アマテラスは創作ですので、高天原を追放される話は奴国の人々に乱暴を働らいたのでスサノヲの身に何らかの異変があったことを示唆しています。
スサノヲが伝統的な奴国王家の祭祀に縄文系の「見る銅鐸」を持ち込み宗教改革をしようとしたのではないでしょうか。宮中の祭祀を取り仕切る司祭師升らの、見た目もとても奴国大王とは思えないスサノヲへの反発から、クーデター事件が起こったと考えられます(倭王帥升(すいしょう)は何者だ?)。師升らはスサノヲが留守の間に仲間たちと打ち合わせて、いつもの旅行から宮殿に帰還した警戒心の全くないスサノヲ大王を捕らえたのでしょう。
師升は奴国王の金印が手に入ればそのまま倭国王として振る舞えると考えたのでしょう。金印の在りかをスサノヲに白状させようと、髪をむしり、手や足の指の爪を剥がす拷問をした模様です。拷問して財産を没収した様子が記紀に描かれています。スサノヲも金印の在りかが分からないので、師升はスサノヲを殺してしまったようです。
恐らくスサノヲの側近のアヅミ族のひとりが、スサノヲが捕まったことを知り、素早く金印を王宮の保管場所から持ち出して、奴国を逃亡する途中で志賀島に埋めたものが江戸時代になって発見されたのでしょう。イタケル王子やスサノヲの弟ニギハヤヒもムナカタ族の手引きで素早く丸木舟で脱出したようです。二人はこの後の物語に登場する重要人物です。
結局、師升は金印を手に入れることが出来なかったのでしょう。後漢から倭国王として認めてもらうために、捕らえた奴国王族や部下を160人、素潜りなどの特技のある奴隷ということにして、大船団を組んで後漢安帝に献上するために洛陽まで朝貢しましたから大変な苦労でした。107年のことです。これによって、約五百年間続いた由緒ある奴国王の支配する倭国から、新たに師升王が支配する倭国の時代に変わりました。
このクーデターは日本の歴史上かなり重要な事件ととらえることが出来ます。約一万四千年前に揚子江下流域で発生した長江文明の流れを汲む奴国王イザナギと、約一万六千年前に日本列島で起こったと言われる縄文文明の流れを汲むイザナミ姫が結婚して、前述のとおり二人の間に生まれたスサノヲが奴国王となったのですが、宗教改革を行おうとしたために事件が起こったのだと考えられます。それによって二つの文明が衝突して新しい日本文明が生まれたということです。その結果、列島内部に相当大きな軋轢が生じ、二つの異なる民族がひとつになるためにおよそ百年間の日本で最初の戦乱の時代が訪れることになります。この時代の記憶が日本民族の心の大きな傷として残され、はるか先の二十一世紀の現代にも少なからず影響しているようです。争いのない世界だった縄文時代のままでいた方が日本人は幸せだったでしょう。日本は近代化し物質的には豊かになったかも知れませんが、日本が進化したとか、進歩したなどと胸を張ることはとてもできないような気がしますね(;一_一)。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
まだまだ続きますので最後までお付き合いください。
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日本列島の水田稲作はすでに述べたように紀元前十世紀後半に北部九州で始まり、前九世紀ごろには環濠集落が見られます。集落に有力者が出現するようになるのが、一般の人と区別して墓に葬られるようになることから分かります。理由はよくわかりませんが、武器で殺傷された人の墓が見られることから抗争もすでにこの頃から始まった模様です(藤尾慎一郎「弥生時代の歴史」講談社現代新書2015,pp.66ー71)。
前八世紀後半になってようやく西部瀬戸内、山陰西部や鳥取平野、河内平野、徳島平野、伊勢湾岸地域などにも水田が見られるようになり弥生前期後葉(前六世紀頃)までに各地で水田・畑作農耕が広がっていきます(藤尾、pp.72-80)。江南にルーツを持つ水田稲作民で海洋民族でもある安曇族が遠賀川式土器を持って各地に広がり、徐々に在地の縄文系の人々も彼らと交流し水田稲作を始め、遠賀川系の土器を作るようになったと考えています。下の図は安曇族ゆかりの地をプロットしたものですが、この他に四国や中国西部などにも安曇族が進出していることはナーガ(龍蛇)神に因む地名(那珂、那賀など)によって分かります(日本は古の倭の奴国だ、古代日本は海人国家だった)。
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すでに縄文時代から玄界灘・日本海沿岸部を拠点とするムナカタ海人族が列島太平洋沿岸や沖縄・南西諸島や半島南部などとの物流を担っていた模様で、紀元前十一世紀頃から江南出身の呉(倭)人や越人とも半島南部で交流はあったようです。
後漢から金印を貰った奴国は列島内の産品の対外交易を管理する必要からムナカタ海人族の部族長一族と婚姻関係を結ぶことにしました。第十七代奴国大王の伊弉諾尊と縄文系ムナカタ海人の姫伊弉冉尊との婚姻によって両者の文化の融合が急速に進み、日本民族が本格的に形成され始めたのだと思います。日本の始まりとなるこの事件は国生み神話として記憶されたのだと思います。
恐らく、それまでの奴国の大王は北部九州に留まって、主に部下のアズミ族が列島各地の資源(木材、朱や塩など)を求めて図のように日本各地に集落を作って、その土地の産物を奴国の交易センターに運んでいたのでしょう。伊弉諾尊はムナカタ族やアズミ族の案内で、自ら積極的に壱岐や瀬戸内海や日本海沿岸を視察し、各地の開発を命じたのではないでしょうか。
そして伊弉諾尊と伊弉冉尊から生まれたスサノヲ大王は母方のムナカタ族と共にしきりに半島南部に渡り、製鉄冶金工房で板状鉄製品を素材として入手して、列島内の適所に鍛冶工房を整備したと考えられます(新羅の脱解王が奴国大王?)。
弥生後期前葉に(一世紀末ころ)急に大型化した銅鐸(IV式:突線紐式)が近畿地方で広がりました。それまでの銅鐸の利用法は、木の枝に吊るし、銅鐸内部に木などで作った舌を紐で引っ張って音を出して「聞く」目的でした。鳥栖市の安永田遺跡からも銅矛の鋳型と共に銅鐸の鋳型が見つかっていますので、奴国の祭祀で使用していたものと考えられます。恐らく徐福に同行した冶金工人によるものでしょう。
ところが、スサノヲ大王の時代になって、この小型の「聞く銅鐸」から地面か祭殿の床に置かれて「見せる」目的の「見る銅鐸」へと変化したということです。農耕・稲作祭祀における穀霊信仰にどういう変化が生じたのかは定かではないですが、この頃に近畿で祭祀様式に急激な変化が起こっているということです。
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滋賀県野洲市小篠原字大岩山出土_突線紐V式銅鐸
スサノヲについては記紀神話でかなり多く語られています。縄文系の風貌をして、乱暴者で、母イザナミの死を嘆き、イザナギから見放される泣き虫のキャラクターが定着しているようです。しかし女神アマテラスは創作ですので、高天原を追放される話は奴国の人々に乱暴を働らいたのでスサノヲの身に何らかの異変があったことを示唆しています。
スサノヲが伝統的な奴国王家の祭祀に縄文系の「見る銅鐸」を持ち込み宗教改革をしようとしたのではないでしょうか。宮中の祭祀を取り仕切る司祭師升らの、見た目もとても奴国大王とは思えないスサノヲへの反発から、クーデター事件が起こったと考えられます(倭王帥升(すいしょう)は何者だ?)。師升らはスサノヲが留守の間に仲間たちと打ち合わせて、いつもの旅行から宮殿に帰還した警戒心の全くないスサノヲ大王を捕らえたのでしょう。
師升は奴国王の金印が手に入ればそのまま倭国王として振る舞えると考えたのでしょう。金印の在りかをスサノヲに白状させようと、髪をむしり、手や足の指の爪を剥がす拷問をした模様です。拷問して財産を没収した様子が記紀に描かれています。スサノヲも金印の在りかが分からないので、師升はスサノヲを殺してしまったようです。
恐らくスサノヲの側近のアヅミ族のひとりが、スサノヲが捕まったことを知り、素早く金印を王宮の保管場所から持ち出して、奴国を逃亡する途中で志賀島に埋めたものが江戸時代になって発見されたのでしょう。イタケル王子やスサノヲの弟ニギハヤヒもムナカタ族の手引きで素早く丸木舟で脱出したようです。二人はこの後の物語に登場する重要人物です。
結局、師升は金印を手に入れることが出来なかったのでしょう。後漢から倭国王として認めてもらうために、捕らえた奴国王族や部下を160人、素潜りなどの特技のある奴隷ということにして、大船団を組んで後漢安帝に献上するために洛陽まで朝貢しましたから大変な苦労でした。107年のことです。これによって、約五百年間続いた由緒ある奴国王の支配する倭国から、新たに師升王が支配する倭国の時代に変わりました。
このクーデターは日本の歴史上かなり重要な事件ととらえることが出来ます。約一万四千年前に揚子江下流域で発生した長江文明の流れを汲む奴国王イザナギと、約一万六千年前に日本列島で起こったと言われる縄文文明の流れを汲むイザナミ姫が結婚して、前述のとおり二人の間に生まれたスサノヲが奴国王となったのですが、宗教改革を行おうとしたために事件が起こったのだと考えられます。それによって二つの文明が衝突して新しい日本文明が生まれたということです。その結果、列島内部に相当大きな軋轢が生じ、二つの異なる民族がひとつになるためにおよそ百年間の日本で最初の戦乱の時代が訪れることになります。この時代の記憶が日本民族の心の大きな傷として残され、はるか先の二十一世紀の現代にも少なからず影響しているようです。争いのない世界だった縄文時代のままでいた方が日本人は幸せだったでしょう。日本は近代化し物質的には豊かになったかも知れませんが、日本が進化したとか、進歩したなどと胸を張ることはとてもできないような気がしますね(;一_一)。
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