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すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

『魏志倭人伝』も『記紀』もフェイクだよ(^_-)-☆

2021-07-03 23:00:38 | 古代史
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和三年(2021)7月3日(土曜日)
通巻第6972号
(読者の声2)貴誌6970号の書評欄において現代史一転して、「かくて本書を読みながら評者(宮崎)の論理的推理の結果は、「やっぱり『魏志倭人伝』はフェイクだ」。と言う大胆な仮説を導かれています。
その大胆さに誘い出されて質問です。フェイクとする根拠につきまして、差し支えない範囲でご教示いただけませんでしょうか。
私は、古今東西を通じて謀略は程度の差はあっても行われていたと考えています。
然し乍ら、それは、自分に有利になるような、何らかの目的があってなされるもので、謀略を行う価値のないところに手間暇をかけるような物好きまではやっていなかったと考えています。
そのような目で、『魏志倭人伝』を見た場合、言われるようなフェイクを仕掛けることで魏や陳寿にとってどのようなメリットが見込まれるのか(何のためにどこまでのフェイクを仕掛けたのか)という点が、甚だ理解しにくいと考えています。ご見解をお聞かせ頂ければ大変有り難いと思います。
  (高柴)

(宮崎正弘のコメント)フェイクは「だます」「でっち上げる」『偽造する』などの意味があり、目的は騙すことと、そのための偽造文書(典型はユダヤの陰謀説)がつくられます。
 魏志は、魏王朝の正統化が目的で倭人伝は附録のように付け足しで書かれていて、日本を倭などと蔑称して、ほとんどが彼らに耳障りのよい伝聞だけを集めていますが、邪馬台国の卑弥呼がその象徴的な捏造のたぐいと考えられます。
 邪馬台国なる王宮跡も、御陵も痕跡がないこと、まして卑弥呼を祀る神社がないという事実は、何を物語るのでしょう。
 現在の古代学者の多くが考えている邪馬台国とは、筑紫地方にあったのではなく、奈良の巻向あたりが伝聞として重複しているのではないかとするものですが、いずれにしても外国の文献を、日本の学者が金科玉条のように崇めるのは、自虐的であって、自律性の欠如です。
 魏志倭人伝が意図したのは、邪馬台国と魏がつよい絆で結ばれていることを誇示し、西の脅威(蜀など)を牽制したのだというのが岡田英彦説です。
 なお、小生は古事記を見直すため、伝説の現場のほとんどを何回かに分けて歩き、『歩いてみて解けた古事記の謎』(仮題)に取り組んでおり、まだ脱稿には到りませんが、秋頃に上梓できる予定です


西晋の史官陳寿が「三国志」を編纂した目的について、ご指摘される魏王朝の正統化はおっしゃる通りですが、その奥には西晋の基礎を築いた魏の武将で、後に西晋の宣帝とされた司馬懿の功績を称えるのが第一の目的です。それによって陳寿のパトロンで西晋の実力者張華の顔を立てるためです。張華は290年のクーデターで実権を握りました。勅令によって「三国志」を公認させ、多数の役人に書写させ、正史の資格が与えられて後世に伝わったと岡田英弘「日本史の誕生」(弓立舎1994年、p.70)にあります。

魏志倭人伝はそのような政治文書「三国志」の一部ですが、陳寿は、邪馬台国への行程記事や風俗記事などは主に倭国への魏使の報告書に基づいて編纂したと考えられます。その報告書の内容ですが、これは更に政治的な潤色が加えられていることが、これらの記事から分かります。以下はその真相を推理したものです。

238年、司馬懿は遼東太守公孫氏を滅ぼして魏の明帝曹叡の信頼を勝ち取り、次の少帝曹芳の補佐役に就きました。翌年正月に明帝が崩御し、司馬懿は、その最大のライバルであった曹爽を抑える目的で、倭国を手なづけるために部下の劉夏を帯方郡に派遣しました。六月、倭国は大夫難升米を郡に派遣し、太守劉夏と朝貢について打ち合わせ、十二月役人を伴わせて洛陽に行かせました。曹爽は、魏の武帝曹操の甥の曹真の子です。曹真は229年、西域の大国「大月氏(クシャン帝国)」に朝貢させ、蜀を挟み撃ちにする魏最大の功績をあげて軍事の最高職大司馬に就いた人物です。大月氏王の波調(バースデーヴァ)には親魏大月氏王の印綬が与えられました。曹真はその後まもなく病死しましたので(231年)曹爽が大司馬を引き継ぎました。ですから魏の実力ナンバー2の司馬懿が倭国を懐柔する理由は、それを朝廷の人々に曹真を超える魏最大の功績と認めさせるためなのです。

そのために、倭国に関して、以下のようなことにして邪馬台国への行程記事を劉夏に報告させました。
(1)洛陽から大月氏の都カーピシー(現在のアフガニスタンのバグラーム)まで万六千三百七十里と知られているので、倭国の都邪馬台国までの距離は、それを超える万七千余里としたい。そのために(当時、楽浪郡まで五千余里と知られているので)、その南の帯方郡から東南方向に万二千余里に邪馬台国(女王国)があるとした。
(2)倭国の人口が十万余戸の大月氏よりも多い大国とした(邪馬台国七万余戸、投馬国五万余戸、奴国二万余戸など)。
(3)倭国のことを知らない朝廷の人々の興味を惹くために、倭国が女王に統治される、大月氏国よりもエキゾチックな東夷の大国で、戦略的にも魏の最大のライバルの呉を東の海上から圧迫して抑え込めるとした。

ですから行程記事をいくら真面目に読んでも万人が納得できる場所にたどり着けないのです。
行程記事はフェイクだからです。

なぜそこまで言えるかですが、その根拠は以下のとおりです。ちょっと長くなって恐縮ですが、最後までよろしくお願いします。

〇当時の中国で使われていた里程は1里約450メートルですので、帯方郡から東南方向に万二千余里は約五千キロとなります。これでは日本列島を通り過ぎてニューギニアくらいまで行くことになってしまいます。そこで多くの研究者は1里約70メートルとする倭韓地短里説を主張しますが、各地点の1里当たりの距離はバラバラですので、つじつま合わせの説でしかありません。

〇当時の倭国では奴国(那珂・比恵遺跡群約164ヘクタール)に列島最大の交易センターが置かれ、その人口が最大の大都市であることが知られています。それに匹敵するような列島内の大都市と考えられる吉野ヶ里遺跡(約117ヘクタール)や纏向遺跡を邪馬台国と考える説がありますが、前者は奴国の2/3程度です。後者も大型建物のある南北1.5キロ・東西2キロ(約300ヘクタール)と広大な弥生遺跡ですが、主として巨大な前方後円墳を含む墳墓群などの祭祀施設や東国などの王・高官が居住したり祭祀などで使用する掘立柱の建物が多く、周囲に大きな水田もなく、主として祭祀目的の政治都市です。吉野ヶ里の面積の約3倍、奴国の約1.5倍ほどの面積があるようですが、それほど大きな人口を抱える大都市ではなかったようです。

さらに、纏向遺跡が邪馬台国ではない決定的な証拠は、ヤマト王権が成立する三世紀初頭から後半にかけて北部九州の人々との交流の痕跡がないことです。福岡県糸島市の伊都国に置いた一大率は女王に贈られる貢物をチェックして間違いなく届ける役目もありますので、その部下たちが行き来した痕跡のない纏向遺跡は女王の都ではあり得ないのです。

〇倭国大乱と呼ばれる争乱を収めるために女王に共立されたとされます。しかしそのような倭国を統治する巫女の女王が、本当に存在したとは考えられません。当時の巫女は、奈良県唐古・鍵遺跡の絵画土器に見られるように鳥の羽を着けて下半身を露わにして、記紀に依れば男性の祝(はふり)が奏でる琴の音に合わせて踊ります。トランス状態となって神が憑依し、神託を男王に告げることが巫女の役割です。卑弥呼以前に女王が存在したことを示唆する天照大御神の神話はありますが、考古学的証拠はありません。(注1)

むしろ、卑弥呼の死後に男王が立ったので内戦となったと記録されており、そこで卑弥呼の宗女で13歳の台与が女王に立てられています。つまりこの争乱の勝者である人物によって形式的に卑弥呼の跡継ぎにされただけで、卑弥呼と同様の姫巫女で、自らの意思で女王に立った訳ではないと推理できます。卑弥呼も台与も同じ部族(縄文系ムナカタ海人族)の王家の子女と推理しています。琉球神道が卑弥呼らと同じ縄文時代の伝統をかなり引き継いでいるようです。

そして丁度、二人目の魏使張政が難升米に黄幢(魏の正規軍の黄色い旗)を与えるために倭国に来ていて、事件を目撃しています。難升米は軍事を統括する倭国の男王だったと推理できます(孫栄健「決定版 邪馬台国の全解決」言視舎 2018,pp.227-302)。魏志倭人伝では卑弥呼の政治を補佐する男弟となりますが、刺史の役割の一大率でもあり、唯一伊都国に男王が居たと記録されていますので、伊都国に住む倭王だと推理できます。

〇下級役人だった張政が266年の台与の西晋への初朝貢と合わせて帯方郡に帰還していますので、約20年間倭国に滞在して台与の政権を魏が後ろ盾したことを意味します。そして平壌から南へ50kmで帯方太守張撫夷の墓が見つかっていますので、張政こそ倭国を手なずけた功績で太守に出世した人物だと考えることが出来ます。

もしも、難升米王が男王に立とうとしても元々倭王ですから内戦になるはずありません。難升米王はすでにどこかに消えたことを意味します。丁度、狗奴国との抗争が激しくなった時期だと記録されていますので、狗奴国が倭国に押し寄せたので、倭国から王が帯方郡に逃亡し、その後に狗奴国の軍勢の中で誰かが倭国王に立とうとしたために内戦が起こったと考えるのが自然です。

大夫と自称した難升米の正体こそ、師升の子孫の倭国王でムナカタ海人族を懐柔して姫巫女卑弥呼を女王に共立した人物だったと考えられます。

ですから、公孫氏滅亡後に難升米が直接帯方郡に足を運び、太守劉夏と談合して邪馬台国への行程や風俗を教え、劉夏が記録したと推理できるのです。

従来は「日本書紀」に倭国に漢字が伝わったのは四世紀の百済からとされていましたが、近年、当時の北部九州の弥生後期の遺跡から硯や木製組机などが発見されており、難升米らが漢字などを読み書きできるし、孟子も読む教養人であったことが分かりました。ですから、倭国内の地名や官職名・人名なども難升米が漢字を書いて伝えたと考えられます。伊都国だけが良い意味で殷王朝成立に貢献した政治家伊尹(イイン)に因む国名ですが、それ以外のほとんどのものが貶めるような卑字を多用しています。

さらに延光四年(125年)と書かれた文鎮様の銅片「室見川銘板」が伊都国の東側のこの河口付近で発見されています。師升王の出自は奴国の宮廷楽師・司祭で、クーデターにより倭国を乗っ取ったと推理したことを裏付けるものです。伊尹は「後世、伊尹は名臣として評価されているが、太甲の追放の一事に関しては、臣下でありながら主君を押し込めたこと、簒奪ではないかということが議論されることになる(孟子・尽心上篇)。有力な臣下が仲の悪い主君を追放したとする見方もある。」とあり、奴国王を廃した師升と重なります。(2021.7.5 赤字訂正)

難升米が師升王の子孫であることは、その姓が示しています。倭を金印には委と書かれたように、難は儺のニンベンを省略した字と見ると、儺は鬼やらいを意味します。鬼のようなスサノヲ大王を追放した(実際は殺した)師升王の故事に因み、儺升(難升)を王の姓としたと分かります。奴国を後世に儺県(なのあがた)と書いたのも故事に因むものでしょう。

奴国最後の王は「新唐書」・「宋史」に記された天御中主を初代王とする「王年代紀」第18代王素戔嗚尊であることも記紀神話から分かります。乱暴者のスサノヲが高天原の神々から手足の爪を剥がされて、財産もすべて没収されて追放されたとありますが、師升らに捕らえられて、拷問を受けて殺されたと推理しています。奴国王の金印の在りかを白状させるためでしょう。それが出来なかったために大人数の奴隷を献じて倭王に認めてもらうために朝貢したと考えられます。これによって神話のこの部分は史実に基づく話であって、高天原が筑紫の日向の宮を王宮とする奴国であったとシナ人に認識され、これらの史書に「日本は古の倭の奴国」であると正しく記載されましたから分かります。

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆日本神話は不比等が創作したことが分かります。江戸時代まで多くの人は伊勢の神と三輪の神は同じヘビの化身(天照皇大神大国主命)と信じていました。神仏習合、修験道や道教の影響を受けた記紀神話と全く違う神話が語られていたのですよ(^_-)-☆。


また、アマテラスというのは「日本書紀」で持統天皇の皇位簒奪を正当化するために藤原不比等によって創作された女神です。本当の天照大神尊は王年代紀でスサノヲ大王の後を継いだ第19代王です。奴国を脱出したスサノヲの弟ニギハヤヒが吉備を平定してヤマト王権の基礎を築いた人物と推理しています。

神武天皇の東征神話では、即位する前にすでにヤマトに降臨していた饒速日尊(ニギハヤヒ)が登美長髄彦(ナガスネヒコ)を斬った神話は、最初のヤマトの祭祀王(初代天皇)がニギハヤヒの直系の王によって擁立された史実を意味しています。神武東征神話は神功皇后が仲哀天皇の皇子たちを滅ぼして第15代応神天皇を即位させた話とも似ていますが、同様に初代天皇の即位の経緯を誤魔化すために創作されたものです。神功皇后紀の左注に卑弥呼と台与の魏志倭人伝や西晋の起居注を引用していますので、日本書紀の編者は日本建国の史実を知っていました。その上で史実を神話に閉じ込めたわけです。ニギハヤヒはこの文書の最後で分かりますが、日本書記で吉備津彦と云うことにされて史実が隠されました。(注2)

つまり、日本建国の史実は、編纂当時の権力者不比等にとって不都合だったというわけです。彼は藤原氏の権力を末長く保たせるために、娘の宮子を文武天皇に嫁がせ、701年に首(おびと)皇子(後の聖武天皇)を出産して、外戚の地位を得ました。同年大宝律令を制定し、708年に義兄の中臣意美麻呂を朝廷の祭祀を司る長官神祇伯に除し、建国時代に活躍した地方豪族の神社も管轄させて国家祭祀に倣うように社名や祭神の変更などを強権で行って、720年に「日本書紀」の完成を見て亡くなっています。(注3)

史実に最も近い話が、崇神天皇が大物主(大国主)の祟りを抑えてもらうために神託に従って子のオオタタネコを呼んで祀らせた話です。崇神天皇がニギハヤヒの子孫狗奴国王卑弥弓呼だということです(代々襲名したようです。初代卑弥弓呼が纏向に旧奴国王族を呼び寄せ、都を建設した王で210年頃築造された纏向最初の前方後円墳石塚古墳の被葬者だと推理しました)。

天照大神尊ニギハヤヒ大王の直系の王が、纏向に旧奴国王族を集めて恨みのある師升王一族とニギハヤヒを裏切って倭国側についた卑弥呼のムナカタ族らを追討するために、倭国追討軍を送りました。丁度その時期に日食が起こり(北九州で皆既日食、伊都国で海に沈む珍しい日没帯食)、卑弥呼の霊力が衰えたとして難升米王に暗殺されましたから、倭国の結束が乱れ、難升王は恐らく親魏倭王の金印を持って半島に逃亡したと思われます。そして、追討軍の主将だった旧奴国の有力者尾張王が倭国王に立とうとしたと推理しました(纏向遺跡の外来土器の半数が東海のもの)。そこで追討軍に参戦していた山陰から北陸までを支配地とするムナカタ海人族を束ねたスサノヲ直系の子孫狗古智卑狗(久々遅彦、豊岡市久々比神社の祭神、スサノヲの子イタケルと同じ木霊で上棟式の祭神)が尾張王と対立し、千人ほどが死んだと記録された内戦になります。結局、尾張王は殺され、上述のとおり、台与を女王に立てて魏を後ろ盾とする倭国王となり、纏向の狗奴国を裏切って対立します。卑弥呼の倭国に加えて日本海側も版図にしたので、久々遅彦は後世に大国主と呼ばれた人物です。記紀神話では武内宿禰(住吉大神、サルタヒコなどなど)、台与が神功皇后、尾張王が神託を疑って直ぐに崩御した仲哀天皇、という具合にそれぞれの実在人物をモデルにして神話が作られています。

そこで、殺された尾張王の仇討のために後を継いだ人物が大国主と台与の倭国を攻め滅ぼします。神話では大国主の国譲りです。タケミカズチが尾張王で、景行天皇の熊襲征伐の話の遠征ルートが鉄鏃・銅鏃の出土と一致することから分かりました。つまり孫の仲哀天皇の敵を死んだはずの祖父景行天皇が討った話なのです。

尾張王はニギハヤヒの子孫です。そしてニギハヤヒに殺されたナガスネヒコこそ大国主のことだったのです。大国主が死んだ後に祟りが起こったというのは、魏の後を継いだ西晋がライバルの呉を滅ぼして三国を統一したので、西晋に朝貢していた倭国を亡ぼしてしまった纏向狗奴国が西晋から追討されることを怖れて、大国主と台与の子ホムダワケをヤマトの祭祀王とした史実のことだったのです。

登美はトビ、つまりヘビを指します。神話のナガスネヒコが龍蛇神(奴国大王)の大国主のことだったのです。大国主ほど別名を多く持った神は居ません。何故ならば、日本建国の歴史を消した大和朝廷が最も畏れる神だからでした。狗古智卑狗は魏志倭人伝では狗奴国の官として、王よりも先に紹介された人物であり、日本建国の謎を知る張政の相棒のような存在の倭国王になった重要人物だったから先に登場させたのだと推理できます。

だから、朝廷は天変地異などが起これば、大国主を筆頭に、建国時代に不幸な死に方をした女王台与と卑弥呼を祀る神社に勅使を送り、神階と食封を捧げて鎮魂の儀礼を行うようにしていることからも分かります。四柱の神だけが皇族に与える位階と同じ品位が贈られています。

一品 伊佐奈岐命 (淡路国 伊弉諾神宮)
   八幡大神、八幡比咩神 (豊前国 宇佐神宮)
二品 吉備都彦命 (備中国 吉備津神社)


伊弉諾尊は国生みをした皇祖神ですが、呉王族と縄文海人王族イザナミ姫との子孫に皇位が継がれることになっているので、特別なご存在なのです。

八幡大神は通説では、第15代応神天皇とされていますが、その父大国主が正体です。宇佐神宮寺弥勒寺の本尊がその名のとおり弥勒菩薩であり大国主の本地仏なのです。首長霊信仰から首長と祖霊は一体化されると信じられています。神と名前を交換することも襲名も同じ考え方です。

八幡比咩神が宗像三女神の主神イチキシマヒメ卑弥呼と、大国主との神婚神話のあるタギリヒメとタギツヒメが応神天皇の母台与のことなのです。卑弥呼神社がないと言っている方は、誰がこのような名前を付けたのか気付いていません。縄文海人ムナカタ族のイザナミ姫と同じ母系の姫巫女のことを難升米が劉夏に書いて教えたからです。旧奴国を狗コロの奴国とした犯人も難升米です。漢字の分からない無教養の倭人をバカにしたので罰が当たったようです。多分、張政は帯方郡に手を回してもう用済みとなった難升米はどこかで人知れず消されているはずです。

細かい話は置いといて、雰囲気はお分かりになったでしょうか?

日本の建国が謎なのは魏志倭人伝も日本書紀も古事記も

肝心なところがフェイクだったからです。

ですから、従来のやり方では真相にたどり着けなかったのです。

しかし真相にたどり着くヒントはあります。科学的な手法でフェイクから真相を導く仮説推論(アブダクション)が有効ですよ。

推理作家か探偵になるつもりでやってみてください。楽しいですよ。

でも、多くの方は仮説で留まってしまいますから、
考古学などの成果を使って検証しないと、
仮説は事実に基づかないものでしかなく、
単なる古代妄想でしかないですよ。
いや、浪漫あふれる妄想ですから楽しいのですが、
妄想には必ず弊害があることをお忘れなく!(注4)

検証を繰り返すと今まで見えなかったことが、どんどん分かってきますよ!
余りやり過ぎると纏めるのが大変ですけど!
纏める必要もないかも知れませんが(*^-^*)



【関連記事】古代史の謎を推理する


(注1)平原王墓を卑弥呼の墓とみる説がありますが、魏志倭人伝の記述とは大きく異なる墓の形をしています。女王台与の墓だと推理しています。
【検証4】平原王墓の被葬者は誰だ?

(注2)【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?

(注3)不比等は、日食が原因で殺された卑弥呼を祀る和邇氏の神社の名を日群れの社に変えるようにしています。また本来八幡神として祀られた卑弥呼の存在を消すために、712年、宇佐神宮の前身である鷹居社を造り、八幡大神という名で応神天皇を祀らせました。原八幡神卑弥呼を比売大神(宗像女神)と呼ぶことにして、新たな八幡大神として大国主を主神として宇佐地方で祀らせて主位の座を奪わせ、さらに大国主から子の応神天皇にすり変えて、卑弥呼の記憶を徐々に葬ることを構想したのだと考えられます。応神天皇の伝承は後で作ったもので、元々宇佐にゆかりがあったわけではないので分かります。

(注4)日本書紀が行った最大のフェイクは、女性天皇の存在です。原理的に女性は巫女(神の妻)でしかなく天皇にはなれないからです。日本を滅ぼしかねない不比等の悪ふざけです。江戸時代までは伊勢神宮の祭神が誰だか知っていました。謡曲「三輪」が「今さら何を磐座や!」と伊勢の神と三輪の神(大国主)は同じ神とばらしていました。明治維新で平田 篤胤の復古神道を国学に入れて国民教育したので、不比等のフェイクで国民が洗脳されたのです。この話題はいくつか書いていますので、女性天皇で拙ブログを検索してみてください!

【参考】
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和三年(2021)7月2日(金曜日)
通巻第6970号
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  書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIEW 
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 かくもフェイクだらけが「現代史の『真実』」だ
  諜報工作とは攪乱、陽動、恐喝、誇大宣伝、偽情報が氾濫するプロの世界

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有馬哲夫『一次資料で正す現代史のフェイク』(扶桑社新書)
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 嘘を信じ込まされてきた。現代史は嘘に満ちているのだ。
 例えばチャーチルは真珠湾攻撃を事前に知っていた。戦後、世界史シリーズや、大森実らの所謂「偉人伝」を読んでも、こうした真実は出てこない。これまでの通説では、ルーズベルトから真珠湾攻撃を知らされ、狂喜したチャーチルが「これでわれわれは同じ穴の狢(むじな」だ」と言ったとされた。
大東亜戦争を長引かせたのはアメリカの無条件降伏という原則だったのであり、日本軍の頑迷さの所為ではなかった。日本の決断ののろさを指摘する史家が多いが、そうした分析もGHQの洗脳の結果かも知れない。
 目から鱗が落ちる現代史の真実を、著者は欧米のアーカイブを訪問し、資料を精査して、多くの裏付けを取った。
じつに時間とエネルギーのかかる作業である。
 その結果、ヤルタ協定の内容はヤルタで決められたのではなかったこと、小野寺信は英国諜報部の欺瞞工作のカモだったことなどが分かった。
 通説では日本の真珠湾攻撃を米軍は事前に暗号解読で掴んでいたが、海軍の暗号が察知できなかったことになっていた。ところが、これも米国はちゃんと知っていたことが、公文書館の文献やその他の証言から分かった。

 小野寺信がヤルタ至急電を大本営参謀次長に打電していたというのは「神話」であり、史実ではなく、英国情報機関の欺瞞工作にひっかかったというのが欧米の共通認識であるという。
 フェイク情報は「日本軍およびドイツ軍を攪乱するための偽情報だった」(中略)「背後で繰っていたのは、イギリス諜報部IM6」だった。諜報活動というのは、一種インテリジェンス戦争であり、敵の裏の裏をかく、その裏の裏をかくというのがゲームの鉄則である。
そして著者はこういう。
「事実として、小野寺が打電したというヤルタ会議に関する暗合電報は、イギリス国立公文書館からもアメリカ国立第二公文書館からも出てこない」(66p) 
 以下、本書はフェイクの羅列があって、「日本はソ連の参戦を知らなかったという嘘」、「アメリカが原爆投下を事前警告したという嘘」、「ソ連が原爆投下と無関係というのも嘘」、「中国の尖閣諸島に関する主張はフェイクだらけ」となる。
 最後に「クマラスワミ報告書は最悪のフェイク文書」ということなる。
 こうした騙し合いは、孫子の昔から戦争の鉄則だったと言っても良いが、お人好し日本人はその発想が希薄なのである。
かくて本書を読みながら評者(宮崎)の論理的推理の結果は、「やっぱり『魏志倭人伝』はフェイクだ」。
       ☆◎☆☆◎□☆□▽◎☆▽◎□☆◎☆◎▽
 


難升米が持参した金印が平壌辺りで発見されるといいな(^_-)-☆
最期までお付き合い、感謝します。ちょっと自分で書いていてこんがらがっていますし、
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
応援をしていただき、感謝します。
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