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【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その4)

2021-07-24 22:33:34 | 古代史
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今回がこの検証の最終回です。最後までよろしくお願いします。


前回(その3)で玉杵名邑(たまきなのむら、熊本県玉名市)で土蜘蛛の津頰(つつら)を殺したところまで書きました。天皇はさらに阿蘇に行きます。
「十六日に阿蘇国(あそのくに)に着かれた。
その国は野が広く遠くまで続き、人家が見えなかった。
天皇は、
『この国には人がいるのか』
と問われた。
そのとき、二人の神である阿蘇津彦(アソツヒコ)と阿蘇津媛(アソツヒメ)が、たちまち人の姿になり、やって来て言われた。
『私たち二人がおります。どうして人がいないことがありましようか』
それでその国を名づけて阿蘇(あそ)という。」

あ、そ~?!ダジャレじゃん(´ω`*)
「日本書紀」の編者もいい加減に馬鹿らしくなってきたようです。夫婦の神がよく登場しますが、大和朝廷が最も畏れるのが大国主狗古智卑狗(久々遅彦)と台与ですから、色々な神の名で登場させます。「道祖神もやっぱり」で見たように、それぞれの土地に神が存在するとして、二人の正体を隠すためですから、分かってしまえば笑えますね。


(クリックで拡大)

阿蘇に行く途中で西弥護免遺跡の倭国勢を攻撃した模様です。ここは大国主が軍需工場としたところです。大量の鉄鏃が出土しています。阿蘇では下山西遺跡を攻撃した模様です。尾張勢の銅鏃が墳墓から見つかっています。

「秋七月四日、筑紫後国(つくしのくにのみちのしりのくに)の三毛(みけ、福岡県三池)に着いて、高田の行宮(たかたのかりのみや)にお入りになった。」
(途中省略)
「七日、八女県(やめのあがた、福岡県八女市)に着いた。
藤山を越え、南方の粟崎(あわのさき)を望まれた。
詔みことのりして、
『その山の峯は、幾重も重なって大変麗しい。きっと神は、その山におられるのだろう』
と言われた。
時に、水沼県主猿大海(ミヌマノアガタヌシサルオオミ)が申し上げるに、
『女神がおられます。名を八女津媛ヤメツヒメといいます。常に山の中にお出でです』
それで、八女国(やめのくに)の名はこれから始まった。」


「八月、的邑(いくはのむら、福岡県浮羽)に着いて食事をされた。
この日、食膳掛が盞うき(酒杯)を忘れた。
当時の人は、その盞を忘れたところを名づけて浮羽(うきは)といった。
現在、『的(いきは)』というのは、それが訛ったものである。
かつて、筑紫(つくし)の人々は、盞(うき)を浮羽(うきは)といった。

十九年秋九月二十日、天皇は日向(ひむか)から大和にお帰りになった。」


というように、のんびりした記事になっていますが、実はこの辺りから倭国の中枢部ですから大国主が直接指揮して、久留米市の野畑遺跡でも戦闘が行われた模様です。おそらく大国主は大分県で尾張王を相当痛めつけたので、ここまで尾張王らが攻めてくるとは予想していなかったのかも知れません。大国主は劣勢になったので高良山に立て籠もって戦闘したのではないかと考えています。しかし、恐らく70歳以上の年齢ですから体力的にもたず、この辺りで戦死したのだと思います。

大国主の亡骸は丹後地方で見られる葺石付きの方墳の祇園山古墳に葬られたと推理しています。男女の骨が見つかっているので、女性の方は大国主に最期まで連れ添ったお気に入りの妃だったのでしょう。台与は当初は一緒に戦って、伊都国に息子のホムダワケ(後の応神天皇)と一緒に逃げたと考えていましたが、台与は最初から伊都国に居たのかも知れません。ホムダワケは前回(その3)の(注2)で述べたように、夜陰に紛れて小舟で筑後川を下り、有明海から大隅正八幡神宮に落ち延び、隼人に匿われたと考えています。

尾張王オシロワケは大国主を討ち取った後、浮羽郡の長島遺跡でも戦ったようです。その後、景行紀には日向から大和に帰還したとありますが、先代尾張王タラシナカツヒコ(仲哀天皇のモデル)が葬られた赤坂古墳に参拝したはずです(注2)。そして小郡市の三国の鼻遺跡でも戦跡がありますし、福岡市に北上して井尻B遺跡にも戦闘の痕跡があります。さらに伊都国に入り、武器を自ら持って奮戦する台与を殺して、平原王墓に葬ったと推理しました。女王の棺の上に素環頭大刀が載せられていました。この台与の戦いぶりから神功皇后の女傑のイメージができたようです。

何度も同じことを繰返して恐縮ですが、景行天皇のモデルとなった尾張王建稲種命の九州遠征は、先代尾張王(仲哀天皇のモデル)が大国主(狗古智卑狗)に殺されたので、その仇討が第一の目的だったのです。そして尾張王建稲種命が大国主を殺すことにより、結果として狗奴国ヤマトが倭国を手に入れたわけです。尾張王建稲種命がヤマトを裏切らずに、その成果をヤマトの卑弥弓呼大王に差し出したのは、恐らく大王直属の物部勢が尾張王建稲種命の軍勢にかなり加わっていたからではないでしょうか。建稲種命自身は父王の恨みを晴らした時点で目的を達成したので、伊都国の台与を殺す場面には立ち会わなかったのかも知れません。つまり台与を殺したのはその後の主導権を握った物部勢(尾張勢と共にニギハヤヒ大王を祖としていますので、同族です)ではないかということです(【検証4】平原王墓の被葬者は誰だ?)。ですから、その後の物部主導のヤマト政権は台与の崇りを畏れ、対外交易の拠点を伊都国から西新町遺跡に遷したと推理しました(【検証10】ヤマトはなぜ伊都国を捨てた?)。

ということで、景行天皇の熊襲を征伐する話は、大国主が支配していた倭国を尾張王建稲種命が討伐した史実を誤魔化すために作られた話だと推理しました。そして「日本書紀 神代(下)」の大国主の国譲り神話は、この史実をさらに神話の時代にまで遡らせて真相を誤魔化したものです。日本建国の本当の主役である尾張氏の活躍を景行天皇の熊襲征伐という話にして、日本建国の歴史から尾張王建稲種命の活躍を抹消し、藤原氏の権力の正統性を主張するためにチャッカリと藤原氏の祖神に活躍させました。考古学的に矛盾する神武天皇の東征神話など何重もの作り話を作ったので、日本建国の真相が誰にもわからないようにしました。

この景行天皇紀でも(その2)で土蜘蛛退治を三柱の神に祈願する踏石(ほみし)の占いの話を載せました。三柱の最初は志我の神で、これは志賀大神(しがおおかみ)つまり住吉三神です。この神は女王台与をモデルとして「日本書紀」に登場させた神功皇后に常に寄り添って助けた神です。忠臣の武内宿禰でもあり、その正体は大国主です。次は直入物部の神でヤマト建国の基礎を築いたニギハヤヒ大王のことです。そして最後に直入中臣の神を登場させています(注1)。つまり藤原不比等の祖神です。

国譲り神話では、高天原の要求に中々従わないので、物部氏の祖神経津主命(フツヌシ、下総国香取の神)と中臣氏の祖神神武甕槌(タケミカズチ、常陸国鹿島神宮祭神)が派遣され、タケミカズチが大国主の力自慢の次男タケミナカタを投げ飛ばし、大国主に国譲りさせた功労者としています。中臣氏の祖神として物部の祖神フツヌシと共に春日大社でも祀っています。藤原不比等は、日本建国の真の功労者である尾張王建稲種命の功績を奪うために景行天皇の話と同時に、国譲り神話を創ったというのが真相でしょう!

【参考記事】国譲り神話の史実は?愛知県長久手市に景行天皇社があります。そこから東に10キロ離れた豊田市に猿投(さなげ)神社があります。現在の主祭神は大碓命 (おおうすのみこと)ですが、「近世以降で、それ以前は猿田彦命、吉備武彦、気入彦命、佐伯命、頬那芸神、大伴武日命など諸説があった。元々は猿投山の神を祀ったものとみられる」Wikiに有ります。大国主の分身がサルタヒコだと突き止めています。大国主の息子タケミナカタを投げ飛ばしたタケミカズチが景行天皇のモデルの尾張王建稲種命だったと分かります。つまりタケミナカタも大国主の分身なのですよ(^_-)-☆

なお、本文中の「日本書紀」の記述は「日本書紀・日本語訳「第七巻:景行天皇 成務天皇」を使用させていただきました。

(注1)物部の神と中臣の神の前に「直入」と書いたのは何故なのか?これらの神が直入郡に元々居たのかという想像してしまいますが、違うでしょう。豊後国風土記の中に直入郡の地名由来が以下のように書かれています。
「昔、郡の東の桑木村(くはきのむら)には桑が生えていた。その高さは極めて高く、枝も幹も真っ直ぐで美しかったので、俗に直桑村(なほくはのむら)と呼ばれた。これを後の人が直入郡と改めたのがこれである。」

しかし、これでは「直入」となった理由が良く分かりません。「単刀直入」というような意味からではないでしょうか?つまり、景行天皇が速見村の行宮で速津媛から土蜘蛛の情報を聞いて早速、直入郡球覃郷(くたみのさと)に入って土蜘蛛退治に取り掛かったということで郡名を付けたのか?、土蜘蛛退治を、全く筋違いの大国主にまで単刀直入にお願いしたのか?あまり重要な話ではなかったですが、重要なのは直入郡入りしたのは物部と中臣だったということを読者に印象付けたいためでしょうか?

でも、完成当時の人々はみんな尾張氏の先祖建稲種命の活躍を知っていたと思いますので、後世の読者に向けてでしょうね。不比等は後世には「日本書紀」で創作された歴史に置き換わることを確信していたのでしょう。後世のことまで考えたというのは、不比等の想像力は大したものですね。千三百年も経過した現代でもすべて謎のままでしたから(@_@)

(注2)鳥栖市の牛原原田遺跡の住居跡付近で鉄鏃が見つかっています。これは尾張王乎止与命(ヲトヨ、記紀では仲哀天皇)がヤマトを裏切って倭王に立とうとしたことで大国主狗古智卑狗らと内戦になった時の戦跡と考えています。千人ほど殺されたとあります。卑弥呼の弟赤坂比古の手によって鳥栖市に追い詰められて殺されたと推理しています。
 また二子塚遺跡の戦跡は、後期後半の第一次倭国大乱で難升米王が先代狗古智卑狗を攻めた時の痕跡ではないかと考えています。


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