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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和三年(2021)7月29日(木曜日)
通巻第6999号 <前日発行>
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(読者の声3)私の投稿に対して、景初2年は誤解で、景初3年が正しいとする反論が投稿されました。
その論によれば、「景初二年六月はまだ戦争中で勝敗が決着していません」「景初二年六月に卑弥呼が魏に使いを送ることはできません」とのことです。もし卑弥呼の遣使が、戦い済んだ翌年であったのならば、帯方郡の太守劉夏が、わざわざ護衛をつけて使者を都まで送り届ける必要がありません。
倭人伝には「太守劉夏、吏を遣わし、将(ひき)いて送りて京都に詣らしむ」と記載されています。平時であったのならば、なぜそこまでする必要があるのでしょうか。
都へは早馬を出しておき、卑弥呼の使いは自分たちだけで行けば済むことです。戦いの最中だからこそ、護衛をつける必要があったのです。
また、景初3年早々に明帝が亡くなり急遽喪が発せられました。
もし景初3年に派遣されたのだとしたら、喪中の遣使ということになります。弔問使ならばともかく、実に間が抜けた遣使ということになります。卑弥呼は魏が喪中であることも知らない間抜けだったのでしょうか。
更には、卑弥呼の使いは年内は魏にとどまっています。喪中に何のために留まったのでしょうか。仮に、喪中であったことを知らなかったとしたら、失礼を詫びて喪礼を済ましてすぐに帰国するのが普通です。
留まった挙句、返礼の贈り物は(喪中で渡されなかったため)持ち帰らず、喪が明けた翌年(正始元年=240)に、魏使が卑弥呼のところまで届けることになったのです。
このように、景初3年の派遣とするのは一見尤もらしく見えますが、少し踏み込んで考えるとチグハグで説明がつかないことが理解できると思います。
卑弥呼の使いは明帝を励ますために遣わされ、戦況を見極めるために留まっていたのです。明帝に不測の事態が起こらなかったら豪華な返礼品を携えて意気揚々と帰国したはずでした。
反論者さまの投稿のように、日本書紀を初め古い時代の史書に景初3年とするものがあることは事実ですが、これは早い時代から戦中の派遣は無いという思い込みがあったことを示していると考えます。
現存するのは書写されたのもとは言え、原文には景初2年とあるのですから、安易に書き間違いと思い込まず、慎重に吟味をすれば、このような誤解は解消するはずです。
残念ながら各種の年表など多くの資料は当然のように景初3年と記載されており、それに依拠する通説が少なく無いのですが、世人を迷わすものだ考えています。
(高柴昭)
貴誌第6999号(読者の声3)に景初三年説への反論が寄せられていますが、前回述べましたように景初二年六月の時点では勝敗が決しておらず、もしもその時に大夫難升米が帯方郡に行ったとすれば、面会した太守は公孫氏側の人物になります。しかし「魏志倭人伝」には難升米は魏側の太守劉夏と面会したとありますから、公孫氏滅亡後の景初三年六月のことだというのが明白な事実なのです。
「魏書 東夷伝 韓伝」に「明帝が景初中(237~239年)に密かに楽浪郡太守鮮于嗣と帯方郡太守劉昕を送った」という記事がありますが、すでに前回ご紹介した「東夷伝 序文」に「景初年間(二三七 - 二三九)、大規模な遠征の軍を動かし、公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った。」とあります。「魏書 公孫淵伝」によれば公孫淵の死は景初二年八月ですので、明帝はそれを知ってから、楽浪郡と帯方郡を攻めさせたということですので、景初二年六月よりも後の話なのです。
この景初二年か三年かの問題は、単なる「三国志」原文の誤写かどうかという軽い問題ではなく、「魏志倭人伝」がどういう政治目的で書かれたのかを証明するための非常に重要な話なのです。反論者様は明帝の功績を寿ぐために卑弥呼が遣使したという思い込みから、景初二年説に固執していますが、それが誤解であることをご理解いただいたと思います。
「魏書少帝紀」に「景初三年(239年)正月丁亥朔(ついたち)(十二月一日)、明帝が重体となった。」とあり、さらに、「魏書明帝紀」に『(景初)三年春正月丁亥の日(一日)、太尉司馬宣王が、〔遼東から〕帰還して河内に到達すると、明帝は早馬によって彼を召しよせ、寝室の中に引き入れて、手を取り、「私の病気はひじょうに重い。後の事は君にまかせる。君はよって曹爽とともに幼い息子を輔佐せよ。私は君に会えたのだから思いのこすことはない。」と告げた。宣王は頓首して涙を流した。その日、明帝は嘉福殿において崩御した。時に三十六歳であった。癸丑の日(二十七日)、高平殿に埋葬した。』とあります。(今鷹真・井波律子訳「三国志Ⅰ」世界古典文学全集24A 筑摩書房1977、p.110)
また、「魏書少帝紀」に(景初三年二月)丁丑の日(一月二十一日)に司馬懿の功績を大いに誉め、天子を善導する役「太傳(たいふ)」に除すという詔勅を下したとあります。この時点の曹魏の実力ナンバーワンは大司馬(軍のトップ)である上記の曹爽でした。すでに病死した曹魏第一の功労者曹真の子です。ですから司馬懿は倭の遣使によって曹真の功績を超えるものにしたいという政治目的から、明帝崩御後に、明帝が任命した帯方郡太守劉昕を自分の部下の劉夏に代えたと推理できます。
倭国を懐柔するようにとの司馬懿の命を受けた劉夏は、倭国に遣使を促し、景初三年六月に帯方郡に来た難升米らを洛陽に護衛を付けて送りました。司馬懿にとっては、自らの功績を最大限にアピールする最も重要なチャンスですから、幼い皇帝の補佐役になった司馬懿は、たとえ明帝の喪中であっても、卑弥呼の遣使を絶賛する詔勅を景初三年十二月に作らせたのだと推理できます。その詔勅を全文掲載する「魏志倭人伝」は、司馬懿を曹魏第一の功労者として顕彰するために作られた文書だということです。曹真の功績であるはずの大月氏の朝貢記事は明帝紀に簡単に書かれていますが、「三国志」に西域伝を意図的に載せていませんので、陳寿の偏向が見て取れます。
「晋書 宣帝紀」にも卑弥呼の朝貢を司馬懿の功績として魏の少帝から封邑を加増されたという記事が載せられています。陳寿の「魏志倭人伝」は司馬懿を顕彰するために西晋の朝廷の人々に向けて作られた文書で間違いないのです(渡邉義浩「魏志倭人伝の謎を解く」中公新書 2012,pp.33-65に詳しい)。
ですから、魏の朝廷の人々に司馬懿の功績を理解させるために、帯方郡太守劉夏と、前回述べましたように、漢字を読み書きできる倭の大夫難升米が談合して作った邪馬台国への行程記事に基づいて、陳寿が「魏志倭人伝」を書いたのだと推理できます。このような政治文書のフェイク記事を素直に読んで、いくら正しく解釈しても万人が納得できる邪馬台国の場所へはたどり着けなかったということなのです。
ということで、従来の発想では邪馬台国問題を解決できないということですから、ここで新しい発想として、邪馬台国への行程記事は一度横において、ヤマト王権成立過程を仮説推論(アブダクション)によって科学的に解明する手法を採用しました。それによって邪馬台国問題だけでなく弥生時代前期末から古墳時代初頭の歴史問題もほぼ解明できました。その詳細は拙ブログ「古代史を推理する」をご覧ください。
(刮目天)
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【参考記事】
伊都国の意味がヒントだった?(@_@)
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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(読者の声3)私の投稿に対して、景初2年は誤解で、景初3年が正しいとする反論が投稿されました。
その論によれば、「景初二年六月はまだ戦争中で勝敗が決着していません」「景初二年六月に卑弥呼が魏に使いを送ることはできません」とのことです。もし卑弥呼の遣使が、戦い済んだ翌年であったのならば、帯方郡の太守劉夏が、わざわざ護衛をつけて使者を都まで送り届ける必要がありません。
倭人伝には「太守劉夏、吏を遣わし、将(ひき)いて送りて京都に詣らしむ」と記載されています。平時であったのならば、なぜそこまでする必要があるのでしょうか。
都へは早馬を出しておき、卑弥呼の使いは自分たちだけで行けば済むことです。戦いの最中だからこそ、護衛をつける必要があったのです。
また、景初3年早々に明帝が亡くなり急遽喪が発せられました。
もし景初3年に派遣されたのだとしたら、喪中の遣使ということになります。弔問使ならばともかく、実に間が抜けた遣使ということになります。卑弥呼は魏が喪中であることも知らない間抜けだったのでしょうか。
更には、卑弥呼の使いは年内は魏にとどまっています。喪中に何のために留まったのでしょうか。仮に、喪中であったことを知らなかったとしたら、失礼を詫びて喪礼を済ましてすぐに帰国するのが普通です。
留まった挙句、返礼の贈り物は(喪中で渡されなかったため)持ち帰らず、喪が明けた翌年(正始元年=240)に、魏使が卑弥呼のところまで届けることになったのです。
このように、景初3年の派遣とするのは一見尤もらしく見えますが、少し踏み込んで考えるとチグハグで説明がつかないことが理解できると思います。
卑弥呼の使いは明帝を励ますために遣わされ、戦況を見極めるために留まっていたのです。明帝に不測の事態が起こらなかったら豪華な返礼品を携えて意気揚々と帰国したはずでした。
反論者さまの投稿のように、日本書紀を初め古い時代の史書に景初3年とするものがあることは事実ですが、これは早い時代から戦中の派遣は無いという思い込みがあったことを示していると考えます。
現存するのは書写されたのもとは言え、原文には景初2年とあるのですから、安易に書き間違いと思い込まず、慎重に吟味をすれば、このような誤解は解消するはずです。
残念ながら各種の年表など多くの資料は当然のように景初3年と記載されており、それに依拠する通説が少なく無いのですが、世人を迷わすものだ考えています。
(高柴昭)
貴誌第6999号(読者の声3)に景初三年説への反論が寄せられていますが、前回述べましたように景初二年六月の時点では勝敗が決しておらず、もしもその時に大夫難升米が帯方郡に行ったとすれば、面会した太守は公孫氏側の人物になります。しかし「魏志倭人伝」には難升米は魏側の太守劉夏と面会したとありますから、公孫氏滅亡後の景初三年六月のことだというのが明白な事実なのです。
「魏書 東夷伝 韓伝」に「明帝が景初中(237~239年)に密かに楽浪郡太守鮮于嗣と帯方郡太守劉昕を送った」という記事がありますが、すでに前回ご紹介した「東夷伝 序文」に「景初年間(二三七 - 二三九)、大規模な遠征の軍を動かし、公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った。」とあります。「魏書 公孫淵伝」によれば公孫淵の死は景初二年八月ですので、明帝はそれを知ってから、楽浪郡と帯方郡を攻めさせたということですので、景初二年六月よりも後の話なのです。
この景初二年か三年かの問題は、単なる「三国志」原文の誤写かどうかという軽い問題ではなく、「魏志倭人伝」がどういう政治目的で書かれたのかを証明するための非常に重要な話なのです。反論者様は明帝の功績を寿ぐために卑弥呼が遣使したという思い込みから、景初二年説に固執していますが、それが誤解であることをご理解いただいたと思います。
「魏書少帝紀」に「景初三年(239年)正月丁亥朔(ついたち)(十二月一日)、明帝が重体となった。」とあり、さらに、「魏書明帝紀」に『(景初)三年春正月丁亥の日(一日)、太尉司馬宣王が、〔遼東から〕帰還して河内に到達すると、明帝は早馬によって彼を召しよせ、寝室の中に引き入れて、手を取り、「私の病気はひじょうに重い。後の事は君にまかせる。君はよって曹爽とともに幼い息子を輔佐せよ。私は君に会えたのだから思いのこすことはない。」と告げた。宣王は頓首して涙を流した。その日、明帝は嘉福殿において崩御した。時に三十六歳であった。癸丑の日(二十七日)、高平殿に埋葬した。』とあります。(今鷹真・井波律子訳「三国志Ⅰ」世界古典文学全集24A 筑摩書房1977、p.110)
また、「魏書少帝紀」に(景初三年二月)丁丑の日(一月二十一日)に司馬懿の功績を大いに誉め、天子を善導する役「太傳(たいふ)」に除すという詔勅を下したとあります。この時点の曹魏の実力ナンバーワンは大司馬(軍のトップ)である上記の曹爽でした。すでに病死した曹魏第一の功労者曹真の子です。ですから司馬懿は倭の遣使によって曹真の功績を超えるものにしたいという政治目的から、明帝崩御後に、明帝が任命した帯方郡太守劉昕を自分の部下の劉夏に代えたと推理できます。
倭国を懐柔するようにとの司馬懿の命を受けた劉夏は、倭国に遣使を促し、景初三年六月に帯方郡に来た難升米らを洛陽に護衛を付けて送りました。司馬懿にとっては、自らの功績を最大限にアピールする最も重要なチャンスですから、幼い皇帝の補佐役になった司馬懿は、たとえ明帝の喪中であっても、卑弥呼の遣使を絶賛する詔勅を景初三年十二月に作らせたのだと推理できます。その詔勅を全文掲載する「魏志倭人伝」は、司馬懿を曹魏第一の功労者として顕彰するために作られた文書だということです。曹真の功績であるはずの大月氏の朝貢記事は明帝紀に簡単に書かれていますが、「三国志」に西域伝を意図的に載せていませんので、陳寿の偏向が見て取れます。
「晋書 宣帝紀」にも卑弥呼の朝貢を司馬懿の功績として魏の少帝から封邑を加増されたという記事が載せられています。陳寿の「魏志倭人伝」は司馬懿を顕彰するために西晋の朝廷の人々に向けて作られた文書で間違いないのです(渡邉義浩「魏志倭人伝の謎を解く」中公新書 2012,pp.33-65に詳しい)。
ですから、魏の朝廷の人々に司馬懿の功績を理解させるために、帯方郡太守劉夏と、前回述べましたように、漢字を読み書きできる倭の大夫難升米が談合して作った邪馬台国への行程記事に基づいて、陳寿が「魏志倭人伝」を書いたのだと推理できます。このような政治文書のフェイク記事を素直に読んで、いくら正しく解釈しても万人が納得できる邪馬台国の場所へはたどり着けなかったということなのです。
ということで、従来の発想では邪馬台国問題を解決できないということですから、ここで新しい発想として、邪馬台国への行程記事は一度横において、ヤマト王権成立過程を仮説推論(アブダクション)によって科学的に解明する手法を採用しました。それによって邪馬台国問題だけでなく弥生時代前期末から古墳時代初頭の歴史問題もほぼ解明できました。その詳細は拙ブログ「古代史を推理する」をご覧ください。
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