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古代史ランキング
最近聞いてないので、なんかおかしいなと思って、YouTube見たら青いなぎさを走り~でしたね!ごめん(*^▽^*)
以前にご紹介した桂川様のいい動画「卑弥呼の墓」の拙コメントへご意見いただきました。ちょっとくたびれて休んでいたのですが、大好きなサザンの曲を思い出してようやく復活しました。お付き合いください( ^)o(^ )
@波乗ジョニ夫 さん この時代の謎について、いろいろと想像を巡らすのは楽しいですが、事実に基づかないと空想や幻想(古代妄想)でしかないですから、仮説は、例えば万有引力の法則のように、科学的な信念となるまで何度も検証を繰返す必要があります(拙ブログ「古代妄想のすすめ!(^_-)-☆」参照)。
しかし従来の仮説構築と検証方法に重大な欠陥があることに気付きました。当然、証人はいませんから、物証を探し出す必要があります。ところが物証となる、一つの事象に対しても、幾つもの解釈があるのが普通ですから、どの解釈が正解かがよくわからないということなのです。
例えば、ある場所で親魏倭王の金印が見つかったとしても、発見された場所にもよるかも知れませんが、簡単に持ち運びできますので、そこが邪馬台国であると単純に決められません。邪馬台国かも知れないと言えるだけで推測でしかないのです。
それでは卑弥呼の墓はというと、持ち運びできないので、それよりましですが、卑弥呼の墓と言い切るためには色々と傍証を固めなければ、だれも納得しないと思います。
径百余歩は当時では約150mですが、いや、短里で測ると約1/5の30mだとか、ここのコメントで見られたように、殉葬された奴婢の墓も含めた大きさだとか、「径」は差し渡しの意味だから必ずしも、円墳とは限らない等々です。色々と意見がありますから、どうしてそこが卑弥呼の墓だと言えるのかを、当時の社会状況の説明や様々な状況証拠が伴いますが、一つひとつの状況証拠が、確実なのかという疑問も生じます。
卑弥呼が証言してくれるわけでもないので、すべて推論で導くしか手はありませんが、このような従来の方法ではお手上げ状態です。仮説と言っているモノがすべての事実に合致しないものまでたくさん登場し、ほとんど検証もされません。わしは絶対大和だと思う!いや四国だよ!と、空想的なこだわりによって、こだわる人の数だけ仮説がありますね(;´Д`)
そこで、科学的な解決手法に気付きました。
波乗りジョニーが説明してくれるアブダクションという、良く知られた演繹法や帰納法ではない第三の推論方法を導入し、結果から原因を推理する科学的な手法を用いれば、複数ある事象の解釈のうち、仮説に合致するものを正解として選択することができますよ(^_-)-☆。

このような事実に基づくこの解釈が正解であると分かると、その仮説は強化され、更に事実に基づくこの仮説によって推理を重ねることにより仮説の詳細化や仮説が説明できる範囲を拡張できます。
そして、すべての事象群を矛盾なく説明できるものが有望な仮説となります。
これによって、従来、関連性が分からずに誰も考えられなかったような大発見も可能なのです。
もしも、どの解釈も仮説に合致しないならば、その仮説はどこかが間違っているかもしれない、ということで見直す必要が出てきます。
このような科学的な推論手法で、今まで分かっている事象群によって仮説を検証して、事実に基づく蓋然性のある仮説を得ました。「古代史の謎を推理する」をご参照ください。

推論結果の一部についてご説明します。刮目天の仮説によれば、卑弥呼の死の直前の状況は図のとおりです。

卑弥呼の死後に狗奴国側の軍勢が北部九州に到着しました。玄界灘を支配するムナカタ海人族の姫巫女卑弥呼(ヒメゴ)の弟で族長赤坂比古(和邇氏の祖、愛宕大神、日触使主)が、卑弥呼が247年3月24日日没直前の日食のために倭国王難升米に暗殺されたことを知ったので狗奴国軍に投降しました。そこで、倭国王難升米は金印を持って半島に逃亡したと推理しています。
無傷で倭国を手に入れた追討軍の主将の尾張王が、魏使張政の進言で、狗奴国王卑弥弓呼(奴国第19代王天照大神尊ニギハヤヒ大王の子孫ヒコミコ)を裏切って倭国王に立とうとしたことで、副将として参加していた山陰から北陸のムナカタ海人族を束ねる王狗古智卑狗(久々遅彦、豊岡市久々比神社祭神久々遅命で、奴国宮廷楽師師升らに殺された第18代奴国大王スサノヲの子イタケルの子孫)が反発し、内戦となります。
結局狗古智卑狗側に立った赤坂比古が、尾張王を鳥栖市に追い詰めて討ち、九州最古級の前方後方墳赤坂古墳に葬りました。狗古智卑狗が内戦の勝者となり、結局狗奴国を裏切り、近江・北陸を支配するムナカタ族の13歳の姫巫女台与を卑弥呼の宗女として、卑弥呼と同様に対外的に女王として立て、魏を後ろ盾としたと推理しました。九州、四国、中国西部の倭国の領域に山陰から北陸・近江などを加えて列島主要部の大半を支配したので、記紀神話で大国主と呼ばれた人物です。265年に司馬懿の孫の司馬炎が魏から帝位を禅譲されたので、女王台与が266年に朝貢しました。
その頃、狗奴国は劣勢に立たされていましたが、呉の紀年銘鏡が宝塚市安倉高塚古墳と山梨県鳥居原狐塚古墳から出土していますので、呉を後ろ盾にして対立したと推理しています。父王を殺された尾張王が九州遠征し、苦難の末に大国主狗古智卑狗を高良山で討ち取り、赤坂比古も討ち、それぞれ祇園山古墳、愛宕神社古墳に埋葬しました。さらに、伊都国に逃げた女王台与を追い詰めて、武器を持って勇敢に立ち向かった台与を討取ったと推理しています。平原王墓に埋葬しました。
ところが、280年に西晋が呉を滅ぼしたので、狗奴国は後ろ盾を失い、大国主らの祟りだと怯えて国内は大混乱したようです。西晋に滅ぼされることを心配し、そこで一計を案じました。大国主と台与の鎮魂のために、二人の子を祭祀王として纏向に呼び寄せ、表向き、ヤマトの大王に立て、卑弥呼と台与の後継者ということにしたと推理しました。纏向の狗奴国を邪馬台国(ヤマト)と呼ぶことにしました。父大国主を桜井市茶臼山古墳で、母の台与を纏向箸墓で祀りました。大陸で一面も出土していない三角縁神獣鏡に景初三年銘などのものを呉の鏡職人に作らせて、卑弥呼の鏡としたとも推理しています。
この史実を日本書紀では崇神天皇が大物主の祟りで多くの人が死んだので、子のオオタタネコを呼んで祀らせて収まったという話にしています。しかし、史実を隠すために神武天皇や応神天皇の建国神話や仇討ちした尾張王の話を景行天皇の九州遠征の話にしたことが考古学の成果から判明しています。「【検証19】建国のための戦いだ」などをご参照ください。


この仮説は考古学などの成果を使って検証し、それらを矛盾なく説明できることを確かめていますから、有望な仮説の一つと考えています(「【刮目天の古代史】仮説を検証する」参照)。しかし、他にも事実に基づく仮説は存在するのかもしれません。
そこで、仮説間の優劣は、従来謎だった部分をどれだけ数多く、クリアに解明できるのかによって判定できると考えています。例えば、なんでヤマトの大王を天皇と呼ぶのか?などのことです。それらは日本建国の謎を解き明かすことによって分かることを示しました(^_-)-☆
それから、古事記については日本書紀の前に成立したとされていますが、9世紀に突然表に出した、宮廷で日本書紀を講義していた多人長(おおのひとなが、太安万侶の子孫)が言い出したものです。序文は人長が作ったものです。内容も日本書紀に沿っていますので、ほとんどデタラメな話ですが、日本書紀の歴史改ざんを暴露する部分も見えるので有用です。いずれにしても、記紀は歴史書としてはインチキですが、当時の人々の考え方を伝える第一級の文学作品と考えるのが正しい見方だと思います。詳細は岡田英弘「倭国の時代」(ちくま書房)を参照ください。
最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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@波乗ジョニ夫 さん この時代の謎について、いろいろと想像を巡らすのは楽しいですが、事実に基づかないと空想や幻想(古代妄想)でしかないですから、仮説は、例えば万有引力の法則のように、科学的な信念となるまで何度も検証を繰返す必要があります(拙ブログ「古代妄想のすすめ!(^_-)-☆」参照)。
しかし従来の仮説構築と検証方法に重大な欠陥があることに気付きました。当然、証人はいませんから、物証を探し出す必要があります。ところが物証となる、一つの事象に対しても、幾つもの解釈があるのが普通ですから、どの解釈が正解かがよくわからないということなのです。
例えば、ある場所で親魏倭王の金印が見つかったとしても、発見された場所にもよるかも知れませんが、簡単に持ち運びできますので、そこが邪馬台国であると単純に決められません。邪馬台国かも知れないと言えるだけで推測でしかないのです。
それでは卑弥呼の墓はというと、持ち運びできないので、それよりましですが、卑弥呼の墓と言い切るためには色々と傍証を固めなければ、だれも納得しないと思います。
径百余歩は当時では約150mですが、いや、短里で測ると約1/5の30mだとか、ここのコメントで見られたように、殉葬された奴婢の墓も含めた大きさだとか、「径」は差し渡しの意味だから必ずしも、円墳とは限らない等々です。色々と意見がありますから、どうしてそこが卑弥呼の墓だと言えるのかを、当時の社会状況の説明や様々な状況証拠が伴いますが、一つひとつの状況証拠が、確実なのかという疑問も生じます。
卑弥呼が証言してくれるわけでもないので、すべて推論で導くしか手はありませんが、このような従来の方法ではお手上げ状態です。仮説と言っているモノがすべての事実に合致しないものまでたくさん登場し、ほとんど検証もされません。わしは絶対大和だと思う!いや四国だよ!と、空想的なこだわりによって、こだわる人の数だけ仮説がありますね(;´Д`)
そこで、科学的な解決手法に気付きました。
波乗りジョニーが説明してくれるアブダクションという、良く知られた演繹法や帰納法ではない第三の推論方法を導入し、結果から原因を推理する科学的な手法を用いれば、複数ある事象の解釈のうち、仮説に合致するものを正解として選択することができますよ(^_-)-☆。

このような事実に基づくこの解釈が正解であると分かると、その仮説は強化され、更に事実に基づくこの仮説によって推理を重ねることにより仮説の詳細化や仮説が説明できる範囲を拡張できます。
そして、すべての事象群を矛盾なく説明できるものが有望な仮説となります。
これによって、従来、関連性が分からずに誰も考えられなかったような大発見も可能なのです。
もしも、どの解釈も仮説に合致しないならば、その仮説はどこかが間違っているかもしれない、ということで見直す必要が出てきます。
このような科学的な推論手法で、今まで分かっている事象群によって仮説を検証して、事実に基づく蓋然性のある仮説を得ました。「古代史の謎を推理する」をご参照ください。

推論結果の一部についてご説明します。刮目天の仮説によれば、卑弥呼の死の直前の状況は図のとおりです。

卑弥呼の死後に狗奴国側の軍勢が北部九州に到着しました。玄界灘を支配するムナカタ海人族の姫巫女卑弥呼(ヒメゴ)の弟で族長赤坂比古(和邇氏の祖、愛宕大神、日触使主)が、卑弥呼が247年3月24日日没直前の日食のために倭国王難升米に暗殺されたことを知ったので狗奴国軍に投降しました。そこで、倭国王難升米は金印を持って半島に逃亡したと推理しています。
無傷で倭国を手に入れた追討軍の主将の尾張王が、魏使張政の進言で、狗奴国王卑弥弓呼(奴国第19代王天照大神尊ニギハヤヒ大王の子孫ヒコミコ)を裏切って倭国王に立とうとしたことで、副将として参加していた山陰から北陸のムナカタ海人族を束ねる王狗古智卑狗(久々遅彦、豊岡市久々比神社祭神久々遅命で、奴国宮廷楽師師升らに殺された第18代奴国大王スサノヲの子イタケルの子孫)が反発し、内戦となります。
結局狗古智卑狗側に立った赤坂比古が、尾張王を鳥栖市に追い詰めて討ち、九州最古級の前方後方墳赤坂古墳に葬りました。狗古智卑狗が内戦の勝者となり、結局狗奴国を裏切り、近江・北陸を支配するムナカタ族の13歳の姫巫女台与を卑弥呼の宗女として、卑弥呼と同様に対外的に女王として立て、魏を後ろ盾としたと推理しました。九州、四国、中国西部の倭国の領域に山陰から北陸・近江などを加えて列島主要部の大半を支配したので、記紀神話で大国主と呼ばれた人物です。265年に司馬懿の孫の司馬炎が魏から帝位を禅譲されたので、女王台与が266年に朝貢しました。
その頃、狗奴国は劣勢に立たされていましたが、呉の紀年銘鏡が宝塚市安倉高塚古墳と山梨県鳥居原狐塚古墳から出土していますので、呉を後ろ盾にして対立したと推理しています。父王を殺された尾張王が九州遠征し、苦難の末に大国主狗古智卑狗を高良山で討ち取り、赤坂比古も討ち、それぞれ祇園山古墳、愛宕神社古墳に埋葬しました。さらに、伊都国に逃げた女王台与を追い詰めて、武器を持って勇敢に立ち向かった台与を討取ったと推理しています。平原王墓に埋葬しました。
ところが、280年に西晋が呉を滅ぼしたので、狗奴国は後ろ盾を失い、大国主らの祟りだと怯えて国内は大混乱したようです。西晋に滅ぼされることを心配し、そこで一計を案じました。大国主と台与の鎮魂のために、二人の子を祭祀王として纏向に呼び寄せ、表向き、ヤマトの大王に立て、卑弥呼と台与の後継者ということにしたと推理しました。纏向の狗奴国を邪馬台国(ヤマト)と呼ぶことにしました。父大国主を桜井市茶臼山古墳で、母の台与を纏向箸墓で祀りました。大陸で一面も出土していない三角縁神獣鏡に景初三年銘などのものを呉の鏡職人に作らせて、卑弥呼の鏡としたとも推理しています。
この史実を日本書紀では崇神天皇が大物主の祟りで多くの人が死んだので、子のオオタタネコを呼んで祀らせて収まったという話にしています。しかし、史実を隠すために神武天皇や応神天皇の建国神話や仇討ちした尾張王の話を景行天皇の九州遠征の話にしたことが考古学の成果から判明しています。「【検証19】建国のための戦いだ」などをご参照ください。


この仮説は考古学などの成果を使って検証し、それらを矛盾なく説明できることを確かめていますから、有望な仮説の一つと考えています(「【刮目天の古代史】仮説を検証する」参照)。しかし、他にも事実に基づく仮説は存在するのかもしれません。
そこで、仮説間の優劣は、従来謎だった部分をどれだけ数多く、クリアに解明できるのかによって判定できると考えています。例えば、なんでヤマトの大王を天皇と呼ぶのか?などのことです。それらは日本建国の謎を解き明かすことによって分かることを示しました(^_-)-☆
それから、古事記については日本書紀の前に成立したとされていますが、9世紀に突然表に出した、宮廷で日本書紀を講義していた多人長(おおのひとなが、太安万侶の子孫)が言い出したものです。序文は人長が作ったものです。内容も日本書紀に沿っていますので、ほとんどデタラメな話ですが、日本書紀の歴史改ざんを暴露する部分も見えるので有用です。いずれにしても、記紀は歴史書としてはインチキですが、当時の人々の考え方を伝える第一級の文学作品と考えるのが正しい見方だと思います。詳細は岡田英弘「倭国の時代」(ちくま書房)を参照ください。
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