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【遂に解明⁉】邪馬台国と卑弥呼の宮殿の場所とは?【ゆっくり解説】
レイの謎解き日本史@YouTube
興味ある情報をたくさん提供していただき有難うございます。紹介していただいた考古学の成果は邪馬台国を特定するための基礎情報ですが、弥生前期から後期までの遺物がほとんどのようですから、そこから直接邪馬台国を特定することはできないものばかりだと思います。つまり、どれも人間が容易に持ち運べるものばかりのようです!やはり、邪馬台国には持ち運べない卑弥呼の巨大な 墓が存在しているはずでしょう!
比恵・那珂遺跡には卑弥呼の墓と比定されるものはありません!そこは奴国の中心都市で、当時の列島最大の交易センターだったことがわかり、弥生中期から後期初頭までの王宮のあった須玖岡本遺跡に後漢光武帝から金印を賜った王が居たと分かります。
その50年後に伊都国王帥升が倭国王として朝貢しています。ですから何らかの政変があったことを意味します。
そして、その後7、80年すると倭国大乱が何年も続き、弥生終末期に卑弥呼が登場します!
そこまでの倭国の状況を把握すると邪馬台国の場所も卑弥呼の正体も分かります。
そして、卑弥呼の墓が発見されて邪馬台国問題は解決ですよ。
考古学、民俗学などの成果から有力な仮説を導きましたので、よろしければ拙ブログをご参考にしてください^_^
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卑弥呼の正体は、魏志倭人伝の以下の文章にあるだけですから、上で述べたように倭国大乱の原因を考古学の成果によって推理すると分かります。
其國本亦以男子為王
住七八十年 倭國亂相攻伐歴年
乃共立一女子為王 名日卑彌呼 事鬼道能惑衆
年已長大 無夫壻 有男弟佐治國
その国というのは倭国全体のことです。七、八十年前までは男王が倭国を治めていたのですが、倭国が乱れて、何年も互いに攻め合っていたとあります。ですからこの男王は伊都国を王都としていた帥升(正しくは師升)の一族だということが分かります。そしてどういう勢力が戦争をしていたのか?ということも上で述べたとおりです(詳細は「倭王帥升は何者だ?」参照)。
つまり、後漢から金印を貰った奴国が107年に朝貢した帥升らに滅ぼされたわけですから、奴国の遺族と倭国が戦ったと推理できます。西暦180年から190年ころには後漢の朝廷内の宦官と豪族の権力闘争が激しく繰り返し政変が起こっていました。天候不順で農作物が不作なこの時期に地方の役人たちの農民への苛政によって、184年には太平道の教祖張角が信者を指導して大規模な農民反乱「黄巾の乱」が起こっています。半島でも韓人や濊人が強盛になって楽浪郡の統制が効かず、乱れた模様が三国志韓伝にあります。したがって、この時期の倭国は、楽浪郡との交流が思うようにできずに、伊都国に交易に来る華僑らも、危険を冒してまで来る者は激減したと思われます。そのため列島内の倭人らも奴国の交易センター比恵・那珂遺跡に来なくなり、倭国も衰退気味だったと考えられます。
一方、半島南部の鉄素材は奴国が滅んだ後も旧奴国の勢力が独占して、列島内の倭人たちに供給する鉄のネットワークが作られていた模様です。この時期にも列島各地で鉄製品が出土していることから分かります。
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各地の首長(部族長)らは鉄の供給元を支配している人物を王と仰ぎ、部族長の姫たちを王に嫁がせて、族長間の序列ができ、部族内での族長の権力が強まったと容易に想像できます。それを表すものが、二世紀後半から三世紀初頭の出雲から山陰・北陸などで盛行した大型の首長墓である四隅突出型墳丘墓です。古墳時代はここから始まったとみてもよいくらいですが、弥生時代後期後半の多くは地形を利用した墳丘墓ですので、古墳と区別しています。
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特に、丹後半島には傑出した副葬品が見られる赤坂今井墳丘墓などがあります。形式も四隅突出型ではない大型方形墓ですので、各地の首長たちの頂点に立った人物の墓だと分かります。
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奴国の隆盛を支えた交易品のひとつは玉類でした。丹後半島の玉作りの集落の奈具岡遺跡は代表的なものです。その地名は「ナーガ(奴)の丘」という意味ですから、弥生中期ごろから奴国王が直接支配していた集落だったことが分かります。ここに糸魚川のヒスイなどを持ち込み、半島南部の鉄素材から鉄針などの工具をここの鍛冶炉で自作して、勾玉や管玉などの加工を行っていた模様です。日本海沿岸部を根拠地としていたムナカタ海人族の首長たちをその傘下にしていたのは旧奴国の王族です。
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帥升という人物ですが、帥姓は当時は師姓でしたので、奴国の宮廷楽師だったことが分かりました。ですからクーデターによって倭国王になったと分かりました。殺された奴国王が記紀神話で高天原を追放された乱暴者の神スサノヲで、宋史王年代紀第18代王でした(詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」参照)。その王子のイタケルがクーデターを逃れて祖母イザナミの実家のあった米子市宗形神社で養育されて成人し、ムナカタ族をまとめる王に推戴されたわけです(詳細は「丹波はスサノヲ・大国主の故郷だった」参照)。
スサノヲは三国史記 第四代新羅王脱解尼師今(だっかい にしきん)のモデルとなった人物だと考えています。新羅はまだ建国されてはいませんが、丹後半島と朝鮮半島の辰韓・弁韓を行き来していました。脱解尼師今の系譜の最後の王が大国主久々遅彦だったのかもしれません。
大国主の祖父で出雲風土記の国引きを行った八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)が、各地に散っているムナカタ族の族長を傘下にした史実に基づく伝承ではないかと思います。栲衾志羅紀(たくぶすましらき)の三埼(みさき)は新羅のことでしょう。
後に、半島からの渡来人と言われる秦氏などが列島に戻って様々な技術を提供して活躍しますが、この時代に半島南部に居た倭人がほとんどだと考えています。秦氏は、その正体が大国主久々遅彦である武内宿禰を祖とする波多氏だと考えています。血統的につながっている者だけでなく、様々な技術者集団のようですが、その当時のシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)の遺跡は列島にないと思いますのでユダヤ人ではない倭人のはずですよ(^_-)-☆、また、四・五世紀にすでに豊前地方で比売大神卑弥呼を祀っていたと考えている、初期の宇佐神宮の禰宜だった辛嶋氏も秦氏とつながっているようですから、半島南部に定着していた大国主傘下のムナカタ海人族ではないかと考えています。
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倭国とは対照的に隆盛になっていたので、倭国を攻撃して、師升の一族の倭王難升米は苦しめられていたということです。ですから、前回も述べたとおり、204年、公孫氏が半島の混乱を沈めて、楽浪郡の南に帯方郡を設置しましたので、ムナカタ海人族を率いて倭国を攻撃していた先代狗故智卑狗(大国主の父)が菊池川に築いた最前線集落の方保田東原遺跡などが倭国側に襲撃されて、狗故智卑狗が戦死したと推理しています。王を喪ったムナカタ族の赤坂比古(和邇氏の祖)が倭国王難升米に懐柔されました。姫巫女(卑弥呼)市杵島姫命が告げる太陽神の神託に基づいて政治を行う条件で狗奴国を裏切って、倭国側についたのです。詳細は前回「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」述べていますので、ご参照ください。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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【遂に解明⁉】邪馬台国と卑弥呼の宮殿の場所とは?【ゆっくり解説】
レイの謎解き日本史@YouTube
興味ある情報をたくさん提供していただき有難うございます。紹介していただいた考古学の成果は邪馬台国を特定するための基礎情報ですが、弥生前期から後期までの遺物がほとんどのようですから、そこから直接邪馬台国を特定することはできないものばかりだと思います。つまり、どれも人間が容易に持ち運べるものばかりのようです!やはり、邪馬台国には持ち運べない卑弥呼の巨大な 墓が存在しているはずでしょう!
比恵・那珂遺跡には卑弥呼の墓と比定されるものはありません!そこは奴国の中心都市で、当時の列島最大の交易センターだったことがわかり、弥生中期から後期初頭までの王宮のあった須玖岡本遺跡に後漢光武帝から金印を賜った王が居たと分かります。
その50年後に伊都国王帥升が倭国王として朝貢しています。ですから何らかの政変があったことを意味します。
そして、その後7、80年すると倭国大乱が何年も続き、弥生終末期に卑弥呼が登場します!
そこまでの倭国の状況を把握すると邪馬台国の場所も卑弥呼の正体も分かります。
そして、卑弥呼の墓が発見されて邪馬台国問題は解決ですよ。
考古学、民俗学などの成果から有力な仮説を導きましたので、よろしければ拙ブログをご参考にしてください^_^
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卑弥呼の正体は、魏志倭人伝の以下の文章にあるだけですから、上で述べたように倭国大乱の原因を考古学の成果によって推理すると分かります。
其國本亦以男子為王
住七八十年 倭國亂相攻伐歴年
乃共立一女子為王 名日卑彌呼 事鬼道能惑衆
年已長大 無夫壻 有男弟佐治國
その国というのは倭国全体のことです。七、八十年前までは男王が倭国を治めていたのですが、倭国が乱れて、何年も互いに攻め合っていたとあります。ですからこの男王は伊都国を王都としていた帥升(正しくは師升)の一族だということが分かります。そしてどういう勢力が戦争をしていたのか?ということも上で述べたとおりです(詳細は「倭王帥升は何者だ?」参照)。
つまり、後漢から金印を貰った奴国が107年に朝貢した帥升らに滅ぼされたわけですから、奴国の遺族と倭国が戦ったと推理できます。西暦180年から190年ころには後漢の朝廷内の宦官と豪族の権力闘争が激しく繰り返し政変が起こっていました。天候不順で農作物が不作なこの時期に地方の役人たちの農民への苛政によって、184年には太平道の教祖張角が信者を指導して大規模な農民反乱「黄巾の乱」が起こっています。半島でも韓人や濊人が強盛になって楽浪郡の統制が効かず、乱れた模様が三国志韓伝にあります。したがって、この時期の倭国は、楽浪郡との交流が思うようにできずに、伊都国に交易に来る華僑らも、危険を冒してまで来る者は激減したと思われます。そのため列島内の倭人らも奴国の交易センター比恵・那珂遺跡に来なくなり、倭国も衰退気味だったと考えられます。
一方、半島南部の鉄素材は奴国が滅んだ後も旧奴国の勢力が独占して、列島内の倭人たちに供給する鉄のネットワークが作られていた模様です。この時期にも列島各地で鉄製品が出土していることから分かります。
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各地の首長(部族長)らは鉄の供給元を支配している人物を王と仰ぎ、部族長の姫たちを王に嫁がせて、族長間の序列ができ、部族内での族長の権力が強まったと容易に想像できます。それを表すものが、二世紀後半から三世紀初頭の出雲から山陰・北陸などで盛行した大型の首長墓である四隅突出型墳丘墓です。古墳時代はここから始まったとみてもよいくらいですが、弥生時代後期後半の多くは地形を利用した墳丘墓ですので、古墳と区別しています。
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特に、丹後半島には傑出した副葬品が見られる赤坂今井墳丘墓などがあります。形式も四隅突出型ではない大型方形墓ですので、各地の首長たちの頂点に立った人物の墓だと分かります。
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奴国の隆盛を支えた交易品のひとつは玉類でした。丹後半島の玉作りの集落の奈具岡遺跡は代表的なものです。その地名は「ナーガ(奴)の丘」という意味ですから、弥生中期ごろから奴国王が直接支配していた集落だったことが分かります。ここに糸魚川のヒスイなどを持ち込み、半島南部の鉄素材から鉄針などの工具をここの鍛冶炉で自作して、勾玉や管玉などの加工を行っていた模様です。日本海沿岸部を根拠地としていたムナカタ海人族の首長たちをその傘下にしていたのは旧奴国の王族です。
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帥升という人物ですが、帥姓は当時は師姓でしたので、奴国の宮廷楽師だったことが分かりました。ですからクーデターによって倭国王になったと分かりました。殺された奴国王が記紀神話で高天原を追放された乱暴者の神スサノヲで、宋史王年代紀第18代王でした(詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」参照)。その王子のイタケルがクーデターを逃れて祖母イザナミの実家のあった米子市宗形神社で養育されて成人し、ムナカタ族をまとめる王に推戴されたわけです(詳細は「丹波はスサノヲ・大国主の故郷だった」参照)。
スサノヲは三国史記 第四代新羅王脱解尼師今(だっかい にしきん)のモデルとなった人物だと考えています。新羅はまだ建国されてはいませんが、丹後半島と朝鮮半島の辰韓・弁韓を行き来していました。脱解尼師今の系譜の最後の王が大国主久々遅彦だったのかもしれません。
大国主の祖父で出雲風土記の国引きを行った八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)が、各地に散っているムナカタ族の族長を傘下にした史実に基づく伝承ではないかと思います。栲衾志羅紀(たくぶすましらき)の三埼(みさき)は新羅のことでしょう。
後に、半島からの渡来人と言われる秦氏などが列島に戻って様々な技術を提供して活躍しますが、この時代に半島南部に居た倭人がほとんどだと考えています。秦氏は、その正体が大国主久々遅彦である武内宿禰を祖とする波多氏だと考えています。血統的につながっている者だけでなく、様々な技術者集団のようですが、その当時のシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)の遺跡は列島にないと思いますのでユダヤ人ではない倭人のはずですよ(^_-)-☆、また、四・五世紀にすでに豊前地方で比売大神卑弥呼を祀っていたと考えている、初期の宇佐神宮の禰宜だった辛嶋氏も秦氏とつながっているようですから、半島南部に定着していた大国主傘下のムナカタ海人族ではないかと考えています。
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倭国とは対照的に隆盛になっていたので、倭国を攻撃して、師升の一族の倭王難升米は苦しめられていたということです。ですから、前回も述べたとおり、204年、公孫氏が半島の混乱を沈めて、楽浪郡の南に帯方郡を設置しましたので、ムナカタ海人族を率いて倭国を攻撃していた先代狗故智卑狗(大国主の父)が菊池川に築いた最前線集落の方保田東原遺跡などが倭国側に襲撃されて、狗故智卑狗が戦死したと推理しています。王を喪ったムナカタ族の赤坂比古(和邇氏の祖)が倭国王難升米に懐柔されました。姫巫女(卑弥呼)市杵島姫命が告げる太陽神の神託に基づいて政治を行う条件で狗奴国を裏切って、倭国側についたのです。詳細は前回「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」述べていますので、ご参照ください。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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