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古代史ランキング

アートワークス@YouTube
17条憲法に書かれている「和を以って貴しと爲し忤(さから)ふこと無きを宗と爲す」の文中の「忤ふ」という文字の意味を考える。忤は杵(きね)の原字である事を知り、杵という字を使っていた杵築大社の本当の姿を推理。更に大分の宇佐神宮が杵築市の近隣にある。ともに日本では珍しい四拍手の拝礼作法を持つ。佐賀の杵島、長崎の彼杵も古代、土蜘蛛がいたとされている(黒字は刮目天による)。
刮目天
いい解説をありがとうございます。杵築大社が明治になって出雲大社とされたというのは深い意味がありそうです。記紀神話は実は江戸時代に本居宣長の影響を受けた平田篤胤の復古神道によって作られた、新しいものだと分かりました。それまでの神話は神仏習合や山岳信仰の修験道、道教などの影響で記紀神話と全く違うものになっていたのです。明治になって復古神道が国家神道になり、国史を国民教育したので、戦後も記紀神話が定着しているのだと分かりました。
出雲大社と宇佐神宮の関係ですが、宇佐神宮の主祭神八幡大神は、創建後に藤原氏によって八幡大菩薩応神天皇にされましたが、その前は神宮寺が弥勒寺ですので弥勒菩薩を本地仏とする大国主命だと突き止めています。つまり、出雲大社と同じ祭神なのです。なぜなのかは、宇佐の地と出雲が関係あるからそれを断ち切るために藤原氏が牛耳る朝廷がやったのです。つまり、史実が都合が悪いということを示唆しています。詳しくは拙ブログ「本当の古代史はどこに?」をご参照ください!お邪魔しました。(^^;)
ドリップ珈琲
当方も明治4年にもなって、わざわざ築杵大社からなぜ出雲大社へ改名したのか疑問に
思っていたんですよ。原因は「明治政府が皇室の権威を高める政策」でしょうね。
出雲=出雲大社(島根)を明治政府の強い力を使い、多くの人々に刷り込むためにあえ
て出雲大社へ改名したんでしょうね。
と言うのは、出雲(古事記の文面中)が他県にあっては都合が悪いので、人々の目をそ
らすためとも思えるのですね。
他県にある風土記によって、出雲を手がかりに皇〇のお里が解明されることを隠すこと
に、あえて出雲大社へ改名をすることに明治政府が利用したんではないでしょうか。
刮目天
日本神話は藤原不比等が政治的な理由で創作したものだと分かってきました。江戸時代まで多くの日本人の間では史実が基になった神話が語られていました。歴史学者斎藤英喜「読み替えられた日本神話」(講談社現代新書2006年)に変貌した日本神話が詳しく書かれています。しかし、神仏習合や修験道や道教の影響とみており、不比等が神話を創作したとまでは気づいておられなかったと思います。吉田和彦「『日本書紀』の呪縛」(集英社新書2016年)の中で「日本の過去をありのままに記したような書物ではない。それは、権力の座についた氏族たちが自分たちの権力の根拠と正統性を神話と歴史から述べた政治の書物であり、過去を支配することを目的とする書物であった。」(p.225)とあります。歴史学者も天皇の歴史書ではないと気づかれたようです(^_-)-☆
刮目天は考古学や民俗学などの成果から日本建国の史実を解明しましたので、よろしければ「【刮目天の古代史】古代史を推理する」などをご参照ください。
杵築大社の杵築の意味をもう少し説明した方がよいかもしれません。
三世紀後半の纏向遺跡の狗奴国(旧奴国)(ヤマト王権、後の大和朝廷)に杵(さから)う者、逆ふる者を討って日本を建国した話は七世紀末から八世紀初頭の大和朝廷を牛耳る藤原不比等が権力を維持するために不都合でしたので、建国の史実を隠すために出雲の大国主の国譲り神話を創作したのです。ですから神話の里の出雲の地に大国主の鎮魂のために日本一の巨大な神殿を築いたというのが杵築の地名の由来でしょう。
それでも出雲は大国主に確かに縁がある土地です。大国主とされた実在人物の祖父が出雲国風土記の意宇郡の最初の部分に書かれた国引き神話の神八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)です。二世紀初頭に奴国宮廷楽師師升らの反乱で殺された最後の奴国王スサノヲの子孫です。『八束水臣津野命は、遠く「志羅紀」「北門佐岐」「北門農波」「高志」の余った土地を裂き、四度、「三身の綱」で「国」を引き寄せて「狭布の稚国」に縫い合わせ、できた土地が現在の島根半島であるという[1]。』という話になっています(wiki「国引き神話」より引用)。以後、長い名前なので八束命と略します。
八束命が、出雲の地を根拠地として、半島南部(志羅紀、しらぎ)の鉄素材を入手し、「北門佐岐」と「北門農波」の北門は、「北方の出入口の意とし出雲の日本海側の港、佐伎を出雲市大社町鷺浦、・・・農波を松江市島根町野波」や越(高志)などを根拠地とする縄文系ムナカタ海人族に鉄を供給して、彼らを傘下とする王となった事績を意味する伝承と考えられます(詳細は「初期の新羅王も倭人だった?」参照)。
日本海沿岸部の各地の部族長が娘らを八束命に妃として差し出し、血縁関係を結んで鉄供給のネットワークに参加したと考えられます。従来行っていた「見る銅鐸」や銅剣などの青銅器を用いた穀霊・祖霊祭祀から、鉄製農工具の導入で生産性を上げた実績により族長の権威と権力が強まり、部族を代表する族長の祖霊に対する米神(めのかみ、首長霊)祭祀に変わっていったと考えています。弥生時代後期後半(二世紀後半)と推理した出雲市荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡で発見された大量の青銅器の埋納はこの頃行われたと考えています。そして出雲市西谷墳墓群に大型四隅突出型墳丘墓が登場し、日本海沿岸部などの部族長がこぞって四隅突出型墳丘墓を作るようになりました。地形を利用して造成された弥生時代後期の墓を墳丘墓と呼んで、その後の古墳と区別していますが、この宗教観の大きな変化が古墳時代の始まり(草創期)になったと考えています。

そして、大国主の父は魏志倭人伝の中で王よりも先に紹介された狗奴国の官狗古智卑狗(久々遅彦、代々王が襲名)で実力者だったと分かります。大分県大野川流域から熊本県阿蘇山麓にかけて、半島南部の鉄素材を持ち込み(下図の板片)、鉄製の武器を大量に生産する鍛冶工房の集落を多数作りました。さらに菊池川中流域の方保田東原遺跡を最前線基地としました。この遺跡で出土する外来土器から分かりますが、山陰や畿内などの兵士を呼び寄せ、倭国に属する佐賀平野、筑紫平野や福岡平野まで襲撃して伊都国三雲遺跡を王宮とする倭国王難升米を苦しめていました(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。

ところが三世紀初頭に半島の混乱を公孫氏が鎮めて帯方郡を設置したので(204年)、疲弊していた倭国は息を吹き返し、菊池川の集落を襲い大国主の父を討ち取ったと推理しました。大活躍していた王を喪って途方に暮れていた玄界灘を活動域とするムナカタ族の赤坂比古(和邇氏の祖)を難升米が懐柔しました。赤坂比古は八束命の姫を妻にして、生まれた姫巫女(卑弥呼)イチキシマヒメが告げる太陽神の神託によって政治を行う条件で狗奴国を裏切ったのです。赤坂比古は久々遅彦に代わって半島南部の鉄を入手したので、九州東部・中・南部、中国西部、四国などの大勢力が赤坂比古に従い、倭国側に着いてしまいました。
魏志倭人伝では政治的な理由で難升米によって倭国女王ということにされた卑弥呼は、元々不弥国(うみこく)である宗像市田熊遺跡で生まれたと思われますが、そこは伊都国・奴国などの敵地に近く、海に近いので物騒です。ですから早くから野麻国(ヤマコク、宇佐市安心院町宮ノ原遺跡)に疎開していたと思われます。倭国女王とされてからも数多くの兵士に護られてそこに住み続けました。女王(台)が住まうヤマコクという意味で邪馬台国と難升米が名付けました。安心院という地名は、要害堅固な城に移ったので院(女王)が安心したという故事から後世につけられたものでしょう。
そして、赤坂比古が狗奴国を裏切った時にはまだ幼い子供だった大国主久々遅彦は、おそらく祖父が作った和邇氏の陣屋跡との伝承のある北九州市八束鬚神社から八十神(赤坂比古の子供、大国主のいとこたち)に苛められて、身一つで追放されました。父王が本拠地とした豊岡市竹野町の鷹野神社まで落ち延びる途中の話が、因幡の白兎の話になったと思われます(詳細は「新説「因幡の白兎」だ!」参照)。兎(うさ、宇佐)は下でまた述べますが、大国主のニックネームなのです。高野山縁起で登場する高野御子(たかののみこ)も別名ですよ。これを隠すためにこの地やスサノヲとゆかりのある京丹後市の地を朝廷は竹野と字を変えさせたようですが、地元ではタカノと呼んでいます(「高野山の秘密?【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その21)」参照)。
後に、大国主は成人して倭国大乱の英雄だった父の跡を継ぎ、豊岡市久久比神社を王宮とし、久々遅彦を襲名します。偉大な父祖の業績を引き継ぎ、父祖の霊と一体となってさらなる偉業を達成できると信じたのだと考えています。大国主は卑弥呼の死後に王に立った狗奴国の有力者尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト)を討ち、魏を後ろ盾にして13歳の台与を外交上女王に立てて倭国を支配しました。古事記神話で、大国主が八十神を倒して妃とした薄幸の八上比売は台与のことでしょう。
大国主の祖先とのつながりのある列島各地の部族長は直ぐに狗奴国から離れ、大国主の味方になり、鉄供給ネットワークに加わったと推理しています。大国主という名は倭国の領土を大きく広げたこの故事から付けられた名前でしょう。大国主は菊池川で父王を弔った後、卑弥呼の墓である宇佐市安心院町三柱山古墳を訪れて、安心院盆地を挟んだ南側の妻垣神社奥宮一柱謄宮(いっちゅうとうぐう)で若い台与と一緒に弔ったと考えています。日本書紀では神武天皇が東征に当たり最初に立ち寄った母玉依姫の墓所として隠しています。そして、大国主の最初の国造りを行った場所が、安心院町佐田地区なのです。群生した葦を払って水田にして、最初の王都にした場所です。国造りを成功させるために、佐田京石や米神山のストーンサークルを造り父の霊をこの地に呼び寄せたことが米神山中腹の月の神谷に多数見られるアンテナ状の石棒から分かります。それらの方向がすべて南西(裏鬼門)に揃えられていると巨石文化研究家の猿田彦氏によって報告されています。サルタヒコもまた大国主の別名です。父王狗古智卑狗の終焉の地に向けられていた模様ですから不思議な話です。古代の人々は霊を明確に感じ取るスピリチュアルな超能力を持っていたようです(詳細は「大国主の豊葦原の瑞穂の国はここだった?」参照)。
(#1【古代ピラミッド】米神山 超古代文明!世界最古のピラミッドは日本にある!2万3千年前の巨石の謎 / Japanese ancient civilization 猿田彦TV@YouTubeより)
台与の父で近江・北陸・越を根拠地とするムナカタ族の王が息長宿禰王(おきながすくねのみこ)です。大国主神話で少彦名命とされた国造りのパートナーです。米原市日撫神社(ひなでじんじゃ)で少彦名命と息長宿禰王が一緒に祀られています。少彦名命は「草に弾かれて常世へ渡った、川で溺れて神去りしたなど様々な説話が存在する。」とwiki「スクナビコナ」にあります。今話題の吉野ヶ里遺跡の謎のエリアから出土した石棺墓の被葬者が肩幅36cmよりも小さい、とても小柄な有力者・シャーマンですので、男王ならば息長宿禰王だと推理しています。土の中から微小な骨片が発見されて、DNA鑑定されるとはっきりするかも知れませんね(^_-)-☆
大国主は、半島南部の鉄を支配し、帯方郡と交易を盛んにし、高温鍛冶炉の技術も手に入れて列島各地に普及させたので、大国主の倭国は大いに隆盛になったようです。ほとんど、狗奴国を呑み込むばかりの勢いになったと思います。

265年に司馬懿の孫司馬炎に魏の帝位が禅譲され西晋が建国されます。翌年に倭女王台与が西晋に珍しい宝石などを献上したと記録にありますので、恐らくその数年後に、纏向遺跡に集まった狗奴国勢を率いた尾張王建稲種命(たけいなだねのみこと、熱田神宮祭神、記紀の景行天皇)が父(記紀では孫の仲哀天皇)の仇討ちで大国主・台与・赤坂比古(卑弥呼の弟、日触使主)を討って日本が建国されます。しかし大国主の人気は死後も衰えることがなかったようです。現在でも日本全国、いたるところで別名や分身の名前でも祀られています。藤原氏への配慮もありますが、藤原氏自身も心から畏れていたようです。祟りを恐れるのは、藤原氏自身に何らかの問題があることを白状しているのですが(^_-)-☆
280年西晋によって狗奴国の後ろ盾だったと考えられる孫呉が滅ぼされ、呉人(倭人)が倭国(狗奴国)を頼って逃げてきたようです。大国主・台与の倭国を滅ぼしたので、次に狗奴国が西晋から報復されることを恐れて、大国主と台与の子を探し出して、大王(祭祀王)にしました。卑弥呼・台与の倭国をその子が継承したとするために、国名を邪馬台国(やまとこく)としたと推理しています。すべて大国主・台与そして、卑弥呼の祟りで起こった災難と考えていたようです。宇佐神宮に祀られるこの三柱を朝廷は特に畏れたのです。比売大神卑弥呼をヤマト勢が直接手にかけたわけではないのですが、狗奴国の倭国追討軍が押し寄せる情報を得た伊都国の難升米が、そのタイミングで起こった日食を不吉な前兆と見て、魏志倭人伝で説明された持衰(じさい)と同様に、卑弥呼が不謹慎だったからとして暗殺を命じたと推理しました。だから、卑弥呼もヤマトに祟ると信じていたようです。
以下の図に示す日本建国の過程を簡単に述べましたが、話をもとに戻して、出雲大社に名称を変えたのは宇佐との繋がりを切って、藤原氏が不都合と考えて創作した大国主の国譲り神話のもとになる日本建国の史実を明治政府も隠すことが目的だったということなのです。明治政府のこれに関わった人々は、江戸時代までは記紀神話とは全く異なる神話が語られていたので、建国の史実をある程度知っていたのではないかと思います。しかし、国史教育で記紀神話を国民に教育したことで、それまでの本当の日本人の神話が今となっては忘却の彼方に消えてしまいました。このような日本神話を否定して、歴史の真相を暴くことは日本人に喜ばれないかもしれません。しかし、真実が隠されたことを知らない日本人は将来間違った選択をして日本を消滅させる可能性があることを心配しています。やはり歴史の真相を考え、日本人の正体を知ることは、これからの日本人にとってとても大事だと思いますよ(^_-)-☆


長ったらしい面倒な話を最後までお付き合いいただき、感謝します(;^ω^)
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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いい解説をありがとうございます。杵築大社が明治になって出雲大社とされたというのは深い意味がありそうです。記紀神話は実は江戸時代に本居宣長の影響を受けた平田篤胤の復古神道によって作られた、新しいものだと分かりました。それまでの神話は神仏習合や山岳信仰の修験道、道教などの影響で記紀神話と全く違うものになっていたのです。明治になって復古神道が国家神道になり、国史を国民教育したので、戦後も記紀神話が定着しているのだと分かりました。
出雲大社と宇佐神宮の関係ですが、宇佐神宮の主祭神八幡大神は、創建後に藤原氏によって八幡大菩薩応神天皇にされましたが、その前は神宮寺が弥勒寺ですので弥勒菩薩を本地仏とする大国主命だと突き止めています。つまり、出雲大社と同じ祭神なのです。なぜなのかは、宇佐の地と出雲が関係あるからそれを断ち切るために藤原氏が牛耳る朝廷がやったのです。つまり、史実が都合が悪いということを示唆しています。詳しくは拙ブログ「本当の古代史はどこに?」をご参照ください!お邪魔しました。(^^;)
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当方も明治4年にもなって、わざわざ築杵大社からなぜ出雲大社へ改名したのか疑問に
思っていたんですよ。原因は「明治政府が皇室の権威を高める政策」でしょうね。
出雲=出雲大社(島根)を明治政府の強い力を使い、多くの人々に刷り込むためにあえ
て出雲大社へ改名したんでしょうね。
と言うのは、出雲(古事記の文面中)が他県にあっては都合が悪いので、人々の目をそ
らすためとも思えるのですね。
他県にある風土記によって、出雲を手がかりに皇〇のお里が解明されることを隠すこと
に、あえて出雲大社へ改名をすることに明治政府が利用したんではないでしょうか。
刮目天
日本神話は藤原不比等が政治的な理由で創作したものだと分かってきました。江戸時代まで多くの日本人の間では史実が基になった神話が語られていました。歴史学者斎藤英喜「読み替えられた日本神話」(講談社現代新書2006年)に変貌した日本神話が詳しく書かれています。しかし、神仏習合や修験道や道教の影響とみており、不比等が神話を創作したとまでは気づいておられなかったと思います。吉田和彦「『日本書紀』の呪縛」(集英社新書2016年)の中で「日本の過去をありのままに記したような書物ではない。それは、権力の座についた氏族たちが自分たちの権力の根拠と正統性を神話と歴史から述べた政治の書物であり、過去を支配することを目的とする書物であった。」(p.225)とあります。歴史学者も天皇の歴史書ではないと気づかれたようです(^_-)-☆
刮目天は考古学や民俗学などの成果から日本建国の史実を解明しましたので、よろしければ「【刮目天の古代史】古代史を推理する」などをご参照ください。
杵築大社の杵築の意味をもう少し説明した方がよいかもしれません。
三世紀後半の纏向遺跡の狗奴国(旧奴国)(ヤマト王権、後の大和朝廷)に杵(さから)う者、逆ふる者を討って日本を建国した話は七世紀末から八世紀初頭の大和朝廷を牛耳る藤原不比等が権力を維持するために不都合でしたので、建国の史実を隠すために出雲の大国主の国譲り神話を創作したのです。ですから神話の里の出雲の地に大国主の鎮魂のために日本一の巨大な神殿を築いたというのが杵築の地名の由来でしょう。
それでも出雲は大国主に確かに縁がある土地です。大国主とされた実在人物の祖父が出雲国風土記の意宇郡の最初の部分に書かれた国引き神話の神八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)です。二世紀初頭に奴国宮廷楽師師升らの反乱で殺された最後の奴国王スサノヲの子孫です。『八束水臣津野命は、遠く「志羅紀」「北門佐岐」「北門農波」「高志」の余った土地を裂き、四度、「三身の綱」で「国」を引き寄せて「狭布の稚国」に縫い合わせ、できた土地が現在の島根半島であるという[1]。』という話になっています(wiki「国引き神話」より引用)。以後、長い名前なので八束命と略します。
八束命が、出雲の地を根拠地として、半島南部(志羅紀、しらぎ)の鉄素材を入手し、「北門佐岐」と「北門農波」の北門は、「北方の出入口の意とし出雲の日本海側の港、佐伎を出雲市大社町鷺浦、・・・農波を松江市島根町野波」や越(高志)などを根拠地とする縄文系ムナカタ海人族に鉄を供給して、彼らを傘下とする王となった事績を意味する伝承と考えられます(詳細は「初期の新羅王も倭人だった?」参照)。
日本海沿岸部の各地の部族長が娘らを八束命に妃として差し出し、血縁関係を結んで鉄供給のネットワークに参加したと考えられます。従来行っていた「見る銅鐸」や銅剣などの青銅器を用いた穀霊・祖霊祭祀から、鉄製農工具の導入で生産性を上げた実績により族長の権威と権力が強まり、部族を代表する族長の祖霊に対する米神(めのかみ、首長霊)祭祀に変わっていったと考えています。弥生時代後期後半(二世紀後半)と推理した出雲市荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡で発見された大量の青銅器の埋納はこの頃行われたと考えています。そして出雲市西谷墳墓群に大型四隅突出型墳丘墓が登場し、日本海沿岸部などの部族長がこぞって四隅突出型墳丘墓を作るようになりました。地形を利用して造成された弥生時代後期の墓を墳丘墓と呼んで、その後の古墳と区別していますが、この宗教観の大きな変化が古墳時代の始まり(草創期)になったと考えています。

そして、大国主の父は魏志倭人伝の中で王よりも先に紹介された狗奴国の官狗古智卑狗(久々遅彦、代々王が襲名)で実力者だったと分かります。大分県大野川流域から熊本県阿蘇山麓にかけて、半島南部の鉄素材を持ち込み(下図の板片)、鉄製の武器を大量に生産する鍛冶工房の集落を多数作りました。さらに菊池川中流域の方保田東原遺跡を最前線基地としました。この遺跡で出土する外来土器から分かりますが、山陰や畿内などの兵士を呼び寄せ、倭国に属する佐賀平野、筑紫平野や福岡平野まで襲撃して伊都国三雲遺跡を王宮とする倭国王難升米を苦しめていました(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。

ところが三世紀初頭に半島の混乱を公孫氏が鎮めて帯方郡を設置したので(204年)、疲弊していた倭国は息を吹き返し、菊池川の集落を襲い大国主の父を討ち取ったと推理しました。大活躍していた王を喪って途方に暮れていた玄界灘を活動域とするムナカタ族の赤坂比古(和邇氏の祖)を難升米が懐柔しました。赤坂比古は八束命の姫を妻にして、生まれた姫巫女(卑弥呼)イチキシマヒメが告げる太陽神の神託によって政治を行う条件で狗奴国を裏切ったのです。赤坂比古は久々遅彦に代わって半島南部の鉄を入手したので、九州東部・中・南部、中国西部、四国などの大勢力が赤坂比古に従い、倭国側に着いてしまいました。
魏志倭人伝では政治的な理由で難升米によって倭国女王ということにされた卑弥呼は、元々不弥国(うみこく)である宗像市田熊遺跡で生まれたと思われますが、そこは伊都国・奴国などの敵地に近く、海に近いので物騒です。ですから早くから野麻国(ヤマコク、宇佐市安心院町宮ノ原遺跡)に疎開していたと思われます。倭国女王とされてからも数多くの兵士に護られてそこに住み続けました。女王(台)が住まうヤマコクという意味で邪馬台国と難升米が名付けました。安心院という地名は、要害堅固な城に移ったので院(女王)が安心したという故事から後世につけられたものでしょう。
そして、赤坂比古が狗奴国を裏切った時にはまだ幼い子供だった大国主久々遅彦は、おそらく祖父が作った和邇氏の陣屋跡との伝承のある北九州市八束鬚神社から八十神(赤坂比古の子供、大国主のいとこたち)に苛められて、身一つで追放されました。父王が本拠地とした豊岡市竹野町の鷹野神社まで落ち延びる途中の話が、因幡の白兎の話になったと思われます(詳細は「新説「因幡の白兎」だ!」参照)。兎(うさ、宇佐)は下でまた述べますが、大国主のニックネームなのです。高野山縁起で登場する高野御子(たかののみこ)も別名ですよ。これを隠すためにこの地やスサノヲとゆかりのある京丹後市の地を朝廷は竹野と字を変えさせたようですが、地元ではタカノと呼んでいます(「高野山の秘密?【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その21)」参照)。
後に、大国主は成人して倭国大乱の英雄だった父の跡を継ぎ、豊岡市久久比神社を王宮とし、久々遅彦を襲名します。偉大な父祖の業績を引き継ぎ、父祖の霊と一体となってさらなる偉業を達成できると信じたのだと考えています。大国主は卑弥呼の死後に王に立った狗奴国の有力者尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト)を討ち、魏を後ろ盾にして13歳の台与を外交上女王に立てて倭国を支配しました。古事記神話で、大国主が八十神を倒して妃とした薄幸の八上比売は台与のことでしょう。

大国主の祖先とのつながりのある列島各地の部族長は直ぐに狗奴国から離れ、大国主の味方になり、鉄供給ネットワークに加わったと推理しています。大国主という名は倭国の領土を大きく広げたこの故事から付けられた名前でしょう。大国主は菊池川で父王を弔った後、卑弥呼の墓である宇佐市安心院町三柱山古墳を訪れて、安心院盆地を挟んだ南側の妻垣神社奥宮一柱謄宮(いっちゅうとうぐう)で若い台与と一緒に弔ったと考えています。日本書紀では神武天皇が東征に当たり最初に立ち寄った母玉依姫の墓所として隠しています。そして、大国主の最初の国造りを行った場所が、安心院町佐田地区なのです。群生した葦を払って水田にして、最初の王都にした場所です。国造りを成功させるために、佐田京石や米神山のストーンサークルを造り父の霊をこの地に呼び寄せたことが米神山中腹の月の神谷に多数見られるアンテナ状の石棒から分かります。それらの方向がすべて南西(裏鬼門)に揃えられていると巨石文化研究家の猿田彦氏によって報告されています。サルタヒコもまた大国主の別名です。父王狗古智卑狗の終焉の地に向けられていた模様ですから不思議な話です。古代の人々は霊を明確に感じ取るスピリチュアルな超能力を持っていたようです(詳細は「大国主の豊葦原の瑞穂の国はここだった?」参照)。

台与の父で近江・北陸・越を根拠地とするムナカタ族の王が息長宿禰王(おきながすくねのみこ)です。大国主神話で少彦名命とされた国造りのパートナーです。米原市日撫神社(ひなでじんじゃ)で少彦名命と息長宿禰王が一緒に祀られています。少彦名命は「草に弾かれて常世へ渡った、川で溺れて神去りしたなど様々な説話が存在する。」とwiki「スクナビコナ」にあります。今話題の吉野ヶ里遺跡の謎のエリアから出土した石棺墓の被葬者が肩幅36cmよりも小さい、とても小柄な有力者・シャーマンですので、男王ならば息長宿禰王だと推理しています。土の中から微小な骨片が発見されて、DNA鑑定されるとはっきりするかも知れませんね(^_-)-☆
大国主は、半島南部の鉄を支配し、帯方郡と交易を盛んにし、高温鍛冶炉の技術も手に入れて列島各地に普及させたので、大国主の倭国は大いに隆盛になったようです。ほとんど、狗奴国を呑み込むばかりの勢いになったと思います。

265年に司馬懿の孫司馬炎に魏の帝位が禅譲され西晋が建国されます。翌年に倭女王台与が西晋に珍しい宝石などを献上したと記録にありますので、恐らくその数年後に、纏向遺跡に集まった狗奴国勢を率いた尾張王建稲種命(たけいなだねのみこと、熱田神宮祭神、記紀の景行天皇)が父(記紀では孫の仲哀天皇)の仇討ちで大国主・台与・赤坂比古(卑弥呼の弟、日触使主)を討って日本が建国されます。しかし大国主の人気は死後も衰えることがなかったようです。現在でも日本全国、いたるところで別名や分身の名前でも祀られています。藤原氏への配慮もありますが、藤原氏自身も心から畏れていたようです。祟りを恐れるのは、藤原氏自身に何らかの問題があることを白状しているのですが(^_-)-☆
280年西晋によって狗奴国の後ろ盾だったと考えられる孫呉が滅ぼされ、呉人(倭人)が倭国(狗奴国)を頼って逃げてきたようです。大国主・台与の倭国を滅ぼしたので、次に狗奴国が西晋から報復されることを恐れて、大国主と台与の子を探し出して、大王(祭祀王)にしました。卑弥呼・台与の倭国をその子が継承したとするために、国名を邪馬台国(やまとこく)としたと推理しています。すべて大国主・台与そして、卑弥呼の祟りで起こった災難と考えていたようです。宇佐神宮に祀られるこの三柱を朝廷は特に畏れたのです。比売大神卑弥呼をヤマト勢が直接手にかけたわけではないのですが、狗奴国の倭国追討軍が押し寄せる情報を得た伊都国の難升米が、そのタイミングで起こった日食を不吉な前兆と見て、魏志倭人伝で説明された持衰(じさい)と同様に、卑弥呼が不謹慎だったからとして暗殺を命じたと推理しました。だから、卑弥呼もヤマトに祟ると信じていたようです。
以下の図に示す日本建国の過程を簡単に述べましたが、話をもとに戻して、出雲大社に名称を変えたのは宇佐との繋がりを切って、藤原氏が不都合と考えて創作した大国主の国譲り神話のもとになる日本建国の史実を明治政府も隠すことが目的だったということなのです。明治政府のこれに関わった人々は、江戸時代までは記紀神話とは全く異なる神話が語られていたので、建国の史実をある程度知っていたのではないかと思います。しかし、国史教育で記紀神話を国民に教育したことで、それまでの本当の日本人の神話が今となっては忘却の彼方に消えてしまいました。このような日本神話を否定して、歴史の真相を暴くことは日本人に喜ばれないかもしれません。しかし、真実が隠されたことを知らない日本人は将来間違った選択をして日本を消滅させる可能性があることを心配しています。やはり歴史の真相を考え、日本人の正体を知ることは、これからの日本人にとってとても大事だと思いますよ(^_-)-☆


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