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火の神カグツチの正体ってか?

2023-12-15 09:14:06 | 古代史
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2021-11-12 22:55:16に記事にしましたが、その後分かったことを入れて改訂します。よろしければお付き合いください(;^ω^)

突然ですが、記紀神話に登場するカグツチという火の神様を知っていますか?
「日本書紀」では以下のような話になっています。
「火の神・軻遇突智が生まれるとき、その母である伊奘冉尊(いざなみのみこと)は、身を焼かれてお隠れになった。そのとき、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が恨んで言われたのが、『ただこの一人の子のために、我が愛妻を犠牲にしてしまった』
そして、伊奘冉尊の頭や足のあたりを這いずり回って、泣き悲しみ、涙を流された。
その涙が落ちて神となった。これが丘の上の木の下に現れる神で、啼澤女命(なきさわめのみこと)という。

伊弉諾尊はついに、腰に下げた十握剣(とつかのつるぎ)を抜いて、軻遇突智を三段に切った。
その各々が神となった。
また、剣の刃からしたたる血が、天の安河のほとりにあるたくさんの岩群となった。
これは経津主神(ふつぬしのかみ)の先祖である。

また、剣の鍔(つば)からしたたる血が注がれ、神になった。
その名を甕速日神(みかはやひのかみ)という。

次に熯速日神(ひのはやひのかみ)が生まれた。
その熯速日神、武甕槌神(たけみかづちのかみ)の先祖である。

または甕速日命(みかはやひのみこと)、次に熯速日命。
次に武甕槌神が生まれたとも言われる。」


「古事記」の方はイザナギが怒って十拳剣「天之尾羽張(アメノオハバリ)」で火之迦具土神の首を落して殺しました。十拳剣の刀身の根本からの血が岩石に落ちて、甕速日神(みかはやひのかみ)、樋速日神(ひはやひのかみ)、建御雷之男神(たけみかづちのをのかみ)が生まれました。「日本書紀」の「または」とされた、これらの三神が同時に生まれる説と同じです。また、十拳剣の先端からカグツチの血が岩石に落ちて三柱の神が生まれましたが「日本書紀」では経津主神の祖先でした。さらに、十拳剣の柄から血が落ちて闇淤加美神(くらおかみのかみ)、闇御津羽神(くらみつはのかみ)が生まれました。「古事記」ではさらにカグツチの死体の8カ所からそれぞれ神が生まれたとされました。

如何にも神話らしい話になっていますが、この火の神カグツチが日本建国時代の実在人物から創作されたということに気付きました。上の説明で記紀に登場する二柱の神タケミカズチとフツヌシが記紀神話の国譲り、つまり大国主命の葦原中国を平定する話に登場することから分かりました。

それぞれ、鹿島神宮と香取神宮の祭神とされる神ですが、フツヌシは物部氏の石上神宮の祭神布都御魂(フツノミタマ)のことです。神武天皇に尾張連(おわりのむらじ)の遠祖高倉下(かたかくらじ)より渡されたタケミカヅチの霊剣です。wiki「高倉下」によれば、「先代旧事本紀」巻5天孫本紀では、物部氏の祖神である饒速日命の子で尾張連らの祖天香語山命(彌彦神社の御祭神)の割註に「天降り以後の名は手栗彦命または高倉下命である」としている。とあります。



狗奴国を裏切った尾張連(おわりのむらじ)の祖の尾張王乎止与命(おとよのみこと)の話が、記紀では仲哀天皇の熊襲征伐にされたと推理しました(注1)。仲哀天皇は香椎宮で神功皇后から住吉大神のお告げを聞きますが、それを疑ったために突然崩御されます。尾張王乎止与命が仲哀天皇(タラシナカツヒコ)、神功皇后が卑弥呼の後に女王とされた十三歳の台与、神功皇后の傍らに常に寄り添う武内宿禰が住吉大神(スサノヲですが、スサノヲの霊力を引き継いだ子孫も意味します)で、尾張王乎止与命を殺した久々遅彦(狗古智卑狗)に対応します。日本海沿岸部を支配していた久々遅彦が卑弥呼の倭国を版図に加えたので、大国主と呼ばれたわけです。



その大国主に殺された尾張王乎止与命の子が、高良山で大国主を殺し、恐らく伊都国で台与まで殺して、日本建国を行った人物だと推理しました。記紀では仲哀天皇の祖父に設定された景行天皇(オオタラシヒコオシロワケ)とされましたが、尾張連の祖建稲種命(たけいなだねのみこと、熱田神宮の祭神で、日本武尊のモデル)です。(「サル・カニ合戦の元ネタは日本建国の戦いだった?」

さらに建稲種命を国譲り神話で大活躍したタケミカズチ(日本書紀:武甕槌神、古事記:建御雷之男神)とし、あろうことか藤原氏の祖神としてしまってますから驚きます。768年に平城京の守護と国民の繁栄を祈願するために創建された春日大社で氏神として祀っています。第四殿に比売神を祀っており藤原氏・中臣氏の祖アメノコヤネの妻と言ってますが、正体は卑弥呼ですよ。フツヌシも物部氏の祖神ですが第二殿に祀っていますから、きっと崇りを畏れたので、史実を誤魔化してゴメンナサイということで、表向き氏神として丁重に祀ったのでしょう( ^)o(^ )

という長い経緯があって、タケミカズチの父が火の神カグツチですから、その正体は尾張王乎止与命(仲哀天皇)なのでしょう!

火の神カグツチを祀る神社で有名なのは世界遺産になっている熊野市花窟神社(花の窟神社、はなのいわやじんじゃ)です。社殿がなく、御神体は磐座になっています。主祭神のイザナミが岩屋に祀られていますが、対面する巨岩がカグツチの墓所となっています。そして、その参道の横に小さな祠が二つあります。手前が稲荷神社で、奥が龍神神社です。お稲荷さんは豊受大神(台与)のことですから、龍神はカグツチを斬った第十七代奴国大王伊弉諾尊の血筋の大国主久々遅彦ということを表しているようです。


カグツチはまた、日本全国に存在する秋葉神社(神社本庁傘下だけで約400社)、秋葉大権現および秋葉寺のほとんどについてその事実上の信仰の起源となった浜松市秋葉山本宮秋葉神社(あきはさんほんぐうあきはじんじゃ)で祀られています(wiki「秋葉山本宮秋葉神社」)。

火伏せ・防火に霊験のある神社として知られている京都市右京区の愛宕神社は全国に約九百社ある愛宕神社の総本社です。祭神は本殿でイザナミを筆頭に豊受大神台与など五柱、若宮でカグツチなど三柱、奥宮で大黒主命(大国主命)以下十七柱となっています(wiki「愛宕神社」)。

やはり、カグツチのモデルである乎止与命(仲哀天皇)を殺した大国主久々遅彦(武内宿禰)と台与(豊受大神、稲荷大明神など)が一緒に祀られていますね。尾張王乎止与命を天皇扱いしたのは奴国第十九代王天照大神尊ニギハヤヒ大王の血筋だからですよ。龍蛇神を表すナカツヒコ(仲哀天皇の和風諡号)となっていますから分かります。

(注1)ヤマト王権成立過程については、何度も書いていますので、注にしました。初めての方は是非お読みください。
葦原中国は葦で覆われた中(ナーガ=龍蛇神)の国という意味です。大国主久々遅彦は奴国最後の大王スサノヲの子孫で、その大国主が国造りをしたのが宇佐市安心院町佐田地区だと突き止めています。卑弥呼の宮室が置かれていた安心院町三柱山三女神社の東約4キロの佐田神社に宮殿を置いて、米神山の西麓に佐田京石を置き、中腹にも巨石群を配置して、卑弥呼の死後の内戦に勝利して、大国主となったことを祖先神に感謝する祭祀を行ったようです。葦原を払って、一帯を稲穂がたわわに実る水田に変えたので、豊葦原の瑞穂の国と呼ばれました。(「大国主の豊葦原の瑞穂の国はここだった?(*^^)v」

卑弥呼の死ですが、「魏志倭人伝」には死因が書いてはいませんが、以下のように推理しました。

纏向遺跡の狗奴国から倭国征討軍が派遣されましたが、丁度その情報を伊都国を王都とした倭国王難升米が耳にした時期に、北部九州一帯で日食がありました(247年3月24日の日没直前)。難升米王は、太陽神を祀る卑弥呼の霊力が、不謹慎で衰えたたために起こった不吉な前兆と考え、卑弥呼を部下に命じて殺したと推理しました。つまり、狗奴国ヤマトは直接殺したわけではないのですが、卑弥呼が祟るとしたら原因はヤマトにあると後の大和朝廷の人々は考えたようです。

狗奴国による倭国追討軍ですが、纏向遺跡で出土した外来土器の約半数が伊勢・東海の土器であることからから、主将は、狗奴国王卑弥弓呼の親族で有力者の尾張王だと推理しました。同様に山陰・北陸の土器が続きますので、副将は豊岡市久々比神社の祭神久々遅命(くくのちのみこと)である久々遅彦(狗奴国の官狗古智卑狗)と推理しました。

すこし時代を遡りますが、日本海沿岸部で活発に活動していたムナカタ海人族の王となっていた先代狗古智卑狗が、二世紀後半から半島南部の鉄素材を沖ノ島経由で列島に持ち込み、出雲・備後・丹後半島などの鍛冶工房で鉄製武器や農工具などの鉄製品を製造して、旧奴国勢に供給していました。奴国を滅ぼした恨みのある倭国に対しては、大分県の大野川流域から熊本県阿蘇山麓にかけて鉄製武器製造の集落を多数造り、菊池川流域に最前線基地を造って、佐賀平野、筑後平野などの倭国の集落を盛んに攻撃して難升米王を相当苦しめていたことが考古学的にも分かりました。これが倭国大乱です。

204年、遼東太守公孫氏が混乱していた半島を平定して帯方郡を置いたので、難升米王は軍事援助を要請して、勢いを取り戻し、前線基地を攻略して、先代狗古智卑狗を殺したと推理しました。これによって大活躍していた王を失って途方に暮れていた玄界灘を活動域とするムナカタ族の族長赤坂比古(アタカタスミを祖神とする宗像君・和邇臣の祖)が難升米王に懐柔され、卑弥呼(比売大神・宗像女神)による太陽神の神託によって倭国の政治運営を行うことで合意しました。女王に共立したという「魏志倭人伝」の記事は、下で述べる政治的な理由からの潤色だと考えています。これによって、対外交易が復活したので、赤坂比古傘下の九州中・南部・中国西部・四国西部などの勢力が倭国側に着き、狗奴国には鉄の供給が止まってしまい勢力が完全に逆転しました。

さらに238年、公孫氏が魏の太尉司馬懿に滅ぼされてしまったので、翌年の6月に難升米王が帯方郡に出かけ、太守劉夏と朝貢の件で打ち合わせます。司馬懿が魏の朝廷で権力を握るための談合です。つまり倭国を朝貢させた司馬懿の功績を朝廷の人々に大きく見せるために、倭国を帯方郡から東南万二千里も離れた、女王が統治するエキゾチックな東夷の大国であって、ライバルの呉を東方海上から挟み撃ちにする戦略的に重要な位置に在るという設定で、大げさでデタラメな行程記事などを作ったと推理しました。倭人名や地名は難升米王が付けたと分かります。憎くたらしい狗奴国の狗古智卑狗は余りにも酷い名前ですよ。

さて、それで狗奴国側は倭国追討軍を送りましたが、到着した時に、卑弥呼が殺された赤坂比古勢は追討軍に投降したので、倭国王難升米は半島に逃亡したと考えています。ほとんど無傷で倭国を手に入れた尾張王は、狗奴国を裏切ってそのまま倭国王に立とうとしたことで、久々遅彦が率いるムナカタ海人族が反発し、内戦になりました。結局多くの兵士たちが倒れ、尾張王も戦死しました。墓は九州では珍しい、九州最古級の前方後方墳である鳥栖市赤坂古墳に埋葬されました。恐らく赤坂比古の領地でしたので、赤坂比古が直接、尾張王を討ち取ったものと推理できます。

赤坂比古は奈良県和邇座赤坂比古神社にイチキシマヒメ卑弥呼と共に祀られています。四世紀後半頃築造とされる東大寺山古墳に、公孫氏が難升米王の先代倭国王に与えた中平紀年銘大刀が副葬されていますので、被葬者は赤坂比古の子孫の日触使主(ひふれのおみ)と推理しています。実はこの名前は藤原不比等が強権で変えさせたもので、本当は日蝕使主(ひはえのおみ)の可能性が高いと思います。日食が原因で殺された卑弥呼に因む名前を貰ったのでしょう!(「卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう(@_@)」

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆記紀神話は藤原不比等が創作したのですよ( ^)o(^ )





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