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【刮目天の古代史】今年の大発見第2位!(^_-)-☆

2023-12-28 23:55:18 | 古代史

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今年の第2位はこれでしょう。発掘説明会の動画を何度も見ました。知事さんと同様に心がときめきました。いや、吉野ヶ里遺跡が邪馬台国とは考えてはいませんが、被葬者が気になったので今年の夏に吉野ヶ里遺跡の新築日吉神社に行ってきました。なんと、「【吉野ヶ里遺跡】え?日吉神社ご神体が仏像なの?(@_@)?」で述べたとおりでしたので、とても驚きました(@_@)!

ご神体の薬師如来像と周りの石祠から分かりました。被葬者はやはり大国主の国造りのパートナーでした。石棺の横幅から肩幅が36cm? 子供と変わらないサイズです。石棺の内部に朱が敷かれていたようですし、場所的にも遺跡全体を見渡せる位置です。そして石の蓋に彫られた記号のような絵は星座を表しているとの説が有力です。高貴な女性の墓でしたら首飾りなどの玉類が沢山出てきたはずです。ですから男性のシャーマン王の墓でいいと思います(^_-)-☆


(クローズアップ現代 2023年7月4日 午後2:52 公開 より)


卑弥呼の死後に大国主久々遅彦が尾張王乎止与命(をとよのみこと、記紀の仲哀天皇)との内戦に勝利して13歳の台与を卑弥呼の跡の女王に立てて、魏を後ろ盾として狗奴国と対立したのです。台与は神功皇后のモデルとなった人物ですので、その父が近江・北陸を拠点とするムナカタ海人族の息長宿禰王(おきながすくねのみこ)です。石棺の被葬者はこの人物だと推理しています。



息長氏の根拠地である滋賀県坂田郡、現在の米原市日撫神社(ひなでじんじゃ)に少毘古名命(すくなひこなのみこと)・息長宿禰王(おきながすくねおう)・応神天皇が祀られています。「延喜式神名帳の坂田郡五座の一つ。神功皇后戦勝祈願復員の時にお礼として建立したと伝えられています。そのため歴代天皇の厚い崇拝がありました。」とあります。

祭神の応神天皇は正史「日本書紀」では仲哀天皇が父となっていますが、仲哀天皇はその父日本武尊(やまとたけるのみこと)が薨去して38年後に生まれた計算になりますので、どちらも架空の人物なのです。応神天皇の本当の父は大国主久々遅彦で、母が台与と推理しています。米神(めのかみ、首長霊)信仰では応神天皇は父の霊を身に纏っていると考えられていたので古代人にとっては矛盾はないのですが、表向き大国主を隠すために祭神としたと考えられます(^_-)-☆

ちなみに、大国主久々遅彦は豊岡市久久比神社で祀られていますが、その隣の地区が日撫なのです。だから、人々が太陽神である天照皇大神大国主命をとても慕っているので、日撫という地名になったのだと考えています。豊岡市日撫は「ひなど」と呼ぶようですが。

ついでですが、滋賀県野洲市須原13に苗田日撫神社(なえたひなでじんじゃ)という小さな社を見つけました。祭神は天照皇大神とありますので、大国主久々遅彦のことですね(^_-)-☆その隣に兵主大社があります。「旧中主町のほぼ中央にある神社で、平成30年には建立1,300年を迎える歴史ある神社です。祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)、別名八千矛神(やちほこのかみ)です。奈良時代初めの創建という、県下でも有数の古社です。」だそうですから、この地区でも大国主はとても人気がありますね。

そして大国主は身長七尺(約2.2m)の猿田彦(さるたひこ)を分身とするので、恐らく巨漢だったようです。上述のとおり、息長宿禰王が極端に小柄な人物だったので大国主神話で二人の対比で少彦名命とされたと考えています。少彦名命は御伽草子の一寸法師のモデルとも言われています。当時は子供には、大人にない特別な能力があると信じられていたようですので、鬼退治の主人公として子供がよく取り上げられているのだと関裕二さんが指摘していました(^_-)-☆

息長宿禰王の系譜は開化天皇の皇子彦坐王(ひこいますおう)の曾孫となっています。しかし、父迦邇米雷王(かにめいかずちのみこ)は「迦邇(かに)」が尾張、「米(め)」が「頭目(かしら)」を意味しますので尾張王という意味です。そして「雷王」ですから国譲り神話の「タケミカズチ」を連想しますので、日本建国の英雄の尾張王建稲種命(たけいなだねのみこと、日本武尊のモデル)が正体である景行天皇と同一人物となりますから、息長宿禰王の系譜を誤魔化すために作られた系図だと推理しています。日本書紀には事績が記されていない彦坐王の名前も、架空の人物だと直ぐに分かるものですから、ちょっと笑ってしまいますね( ^)o(^ )



息長宿禰王は上記のとおり近江坂田郡とヒスイの産地である糸魚川下流域を根拠地とするムナカタ海人族と見ています。弥生後期の国内最大級の集落伊勢遺跡もこの部族が造ったので、伊勢神宮外宮に豊受大神台与が内宮よりも先に祀られたと考えられます。だから伊勢神宮に天照大神を祀ったのでしょう。伊勢周辺ももとは息長一族のテリトリーだったと考えています。ニギハヤヒ大王の子天香山命が吉備から大和の葛城に進出し、葛木坐火雷神社を宮として鏡作りの工人を抱えていたので、その子孫乎止与命を、息長宿禰王が尾張に呼び寄せたのではないかと考えています。ですから尾張王と親密な関係だったので、台与が仲哀天皇の皇后とされたのだと思います。初期の前方後方墳も東近江市神郷亀塚古墳が発祥で、乎加神社(おかじんじゃ)では台与を豊遠迦比売命(豊岡姫命)・白山比売(白山比咩神)として祀っていると考えています。尾張王は狗奴国王卑弥弓呼(ひこみこ、記紀の開化・崇神天皇)の前方後円墳に対抗して、近江の前方後方墳を継承したのだと思います。尾張に青銅器職人が多いので近江でも大型の三遠式銅鐸が作られたのです。また、尾張勢は鉄鏃よりも銅鏃を好むようなので、尾張王の足跡を発見できました。鉄のネットワークを握って隆盛になっていた出雲三代の久々遅彦(王の襲名)と尾張王の関係は、もともとあまり良くなかったのではないかと思います。

そして日本書紀では、本当の初代応神天皇の史実を誤魔化すために神武天皇を登場させていますので、記紀で神功皇后とされた台与は、神武天皇の母玉依姫に対応します。ですから神武天皇の父ウガヤフキアエズが大国主のことなのです。すでに「日向三代神話は出雲三代がモデルだった!」で述べたとおりです。米原市の北が長浜市ですから出雲の国引きの神八束水臣津野命(略称、八束命)の別名長浜明神(記紀の海神豊玉彦)に因む地名になっています。長浜市内に長浜明神社を探したのですが、見当たりませんでした。しかし「長浜」という地名が残っていますので、多分どこかの神社の境内社か摂社として隠されているのだと考えています。長浜市竹生島に弁財天卑弥呼が祀られていますが、竹生島竜神拝所があり、その向かって右手には、仏教の守護神「八大龍王」がありますので、八束命を祀っているのではないかと考えられます(「龍ゆかりの神社⑥竹生島」参照)。つまり、息長氏も出雲三代の王に従う縄文系ムナカタ海人族ということなのです(^_-)-☆

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