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古代史ランキング
#2024-03-11 16:35:55の記事に狗古智卑狗の霊ラインの図も載せましたのでよろしければご確認ください(#^.^#)
#2024-03-11 00:38:15に掲載しましたが、読み直してみて、大事なことを言い忘れたので、本文末尾に赤字で追加しました。その他の気になる箇所も赤字で修正しています。よろしければご確認ください(;^ω^)
#とりあえず形にしましたが、ミスがあるかも知れません。こんな時間になったので一応アップさせてください。また明日以降、大きな修正はお知らせしますのでよろしくお願いいたします(#^.^#)
7.記紀と日本人の信仰の謎
⑩熊野信仰の秘密?
平安時代後期に摂関政治が衰えて院政へと向かい、武士が台頭し、仏教界でも僧兵の強訴が起こり治安が大いに乱れました。そのような時代背景で末法思想が盛んになり「南無阿弥陀仏」と念ずれば極楽往生できるという阿弥陀信仰が、一般の人々にも広まりました(注1)。
紀伊半島の熊野の地は延喜元年(901年)に成立した正史「日本三代実録」で伊弉冉尊が火の神カグツチを産んで亡くなった場所とされ、常世の入り口とされました。古来、山岳信仰の修験道の修行の場でしたが、阿弥陀信仰と繋がり、浄土とみなされました。平安時代の貴族だけでなく、鎌倉時代以降は各地の武士、室町時代になって庶民までもが修験者の先達に従って行列を作って熊野三山へ参詣するので、俗に「蟻の熊野詣」と呼ばれるほどで、熊野詣が大流行しました。熊野三山は熊野本宮大社(主祭神:家都御子神=スサノヲ)、熊野速玉大社(主祭神:速玉神=イザナギ)、熊野那智大社(主祭神:夫須美神=イザナミ)の三つの神社の総称で、全国に3000社はあると言われる熊野神社の総本社です。
「熊野は記紀の神話に深く関わる古い土地だ。神武天皇が八咫烏[やたがらす]に導かれて大和国に進軍する折に上陸したのが熊野の海岸だと『古事記』は記し、『日本書紀』では天照大神の母、伊邪那美命[いざなみのみこと]が隠れたところだと伝えている。熊野の熊とは「隈(クマ)」に通じて奥に秘められた所、隠[こも]るの意で神々が隠れこもる所、あるいはアイヌの言葉で連山の峰を意味するクマネに由来するともいわれる。定説はないが、いずれも深い山々に閉ざされた辺境の地を指している。」(「神仏が習合する熊野信仰」より)
しかし、古事記ではイザナミの墓所は出雲と伯耆の境の比婆山であると史実を暴露しています。つまりイザナミは縄文海人ムナカタ族で米子宗形神社や弥生後期の大集落妻木晩田遺跡を拠点とする阿田賀田須命(あたかたすのみこと)の姫であるので安来市の久米神社奥宮がイザナミの墓所と推理しています(注2)。
「蘇る大丹波王国 丹後の熊野 はじまりの地」
Kiichi Saito@YouTube(古代丹波歴史研究所 第6回研究会講演2、2020.9.12)に熊野信仰の発祥が、丹後から出雲そして紀州熊野であることを伴とし子先生が論証されています。「丹波はスサノヲ・大国主の故郷だった(^_-)-☆」でも述べましたが、日本の建国を解明する上でとても重要な場所です。奴国第18代スサノヲ大王は、王都であった春日市須玖岡本遺跡よりも丹後半島の久美浜周辺を拠点として、半島南部にムナカタ族を伴って鉄素材を仕入れて、玉作のための鉄製工具を製造し、途中ヶ丘遺跡や奈具岡(ナーガの丘)遺跡などで玉作工房を整備したと推理しています。さらに鉄素材で漁具や農工具なども製造していた当時のハイテク工業団地を造り、各地のムナカタ族や江南の倭人系アズミ族に供給したと考えています。三国史記で、倭国の東北一千里のところにある多婆那国(丹波の奴国)出身の倭人である新羅第四代王脱解尼師今(だっかい にしきん)のモデルとなった人物がスサノヲ大王だと推理しています。
日本書紀ではイザナギとイザナミの神生みによって生まれた数多くの神が日本神話に登場しますが、その代表的な神が乱暴者スサノヲと女神アマテラスです。日本書紀は八百万の神々によってスサノヲが高天原を追放される神話になっています。古事記はさらに、スサノヲの手足の爪を剥ぎ、髯を切り(多分むしり)、財産をすべて没収する話を付け加えています。(2024.11.23 赤字修正)
107年に後漢安帝に160人もの生口を献上した倭国王帥升らを、57年に後漢光武帝より金印を賜った奴国(宋史 王年代紀第16代王沫名杵尊)の宮廷楽師らと推理しました。彼らが反乱を起こし、第18代奴国王スサノヲを捕らえて、金印の在りかを白状させるために拷問し、手に入らなかったために殺害したと推理しました。古事記は師升らの反乱の史実をそれとなく暴露しているのです。金印はすでに側近の部下のアズミ族が逃げる途中で志賀島に埋めて隠したと考えられます(詳細は「国宝「金印」の謎?(@_@)」参照)。
スサノヲは、日ごろの祭祀を宮廷楽師の師升らに任せていたのですが、たまに奴国に戻った時に彼らに縄文系の祭祀を取り入れるよう指示したと推理しています(注3)。あの、ばかデカい銅鐸を目の前に据えて伝統的な奴国の祖霊祭祀に組み込むなど夢にも思わなかった司祭の師升らはスサノヲに敵意さえ抱いたと思います。今度来る時までに整備しておけと言い残して旅立ったスサノヲが次に戻って来た時に拉致して倭国を乗っ取る計画を立てて実行したと推理しています。王族やスサノヲの部下が奴隷とされて後漢に贈られたのでしょう。
部下のアズミ族らの手助けでスサノヲの弟と推理したニギハヤヒと王子イタケル・オオヤツヒメ・ツマツヒメらが出雲方面に脱出したと推理しています。五十猛命と共に素戔嗚尊の命により全国の山々に木種を撒き、紀伊国(現在の和歌山県)に戻って住んだとされる。とウィキにあり、イタケルは和歌山市伊太祁󠄀曽神社に、姉妹もそれぞれ和歌山市大屋都姫神社・都麻津姫神社で祀られています。しかし、「西谷墳墓群の被葬者は?(^_-)-☆」で述べましたがイタケルが西谷3号墓、姉妹が西谷2号墓に葬られたと推理しています。
倭国王は公孫氏と交流し、華僑を伊都国の三雲遺跡に呼び寄せて、対外交易が復活したので、旧奴国を裏切る勢力が出てきました。ニギハヤヒは瀬戸内海航路の要衝の吉備の裏切り者をムナカタ族の支援を受けて討伐し、平定しました。ニギハヤヒは吉備討伐の途中で庄原市蘇羅比古神社に逗留し、葦嶽山やその丘陵部の鬼叫山に巨石を配置して、スサノヲ大王を弔い、師升ら裏切り者への復讐を誓ったと推理しました(「日本ピラミッドの謎?(@_@)?」参照)。そして、吉備平定を成功させたことで隆盛になり、この地で奴国を再興したので、死後に宋史王年代紀第19代王天照大神尊とされ、楯築王墓に葬られたと推理しています(「【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?(*^▽^*)」参照)。
この後の詳細は省きますが、日本建国の過程を図示していますのでご参照ください(注4)。
それで、やっと本題にたどり着きました。前回「備後・吉備のストーンサークルと日本ピラミッド葦嶽山(@_@)」でsazanamijiro様よりうれしいコメントを頂きました。それ以来毎日と言っていいほどGoogle MapやGoogle Earthで神社・遺跡などの探訪に没頭しました。そして、葦嶽山を通過する例のレイラインは、やはりスサノヲの霊ラインで間違いないと確信しました。霊ライン上に熊野神社などスサノヲを直接祀る神社などを赤い記号で示しました。かなりありますよ(^_-)-☆
(左クリックでGoogle MapのMy Mapで見ることができます。そこからさらにGoogle Earthに飛ぶと3D地図になり楽しめます)
北東(鬼門)の端は豊岡市気比の銅鐸出土地を中心として霊ライン付近にスサノヲを直接祀る気比神社や八坂神社が見られます。霊ラインの南側1kmあたりに韓国神社(物部神社)がありますが、いつの頃からか、祭神が素盞嗚尊とされ明治以降、韓國の社号となったとあります。
そして豊岡市気比に隣接する京丹後市久美浜町の甲山(カブトヤマ)はスサノヲの祭祀場です。スサノヲ自身も祭祀を行った可能性もあります。鬼叫山のドルメン(供物台)はニギハヤヒ大王が設置した可能性もありますが、巨石の多くはスサノヲのひ孫にあたる日高彦(ホホデミ)やその子大国主(高野御子)が設置したのではないかと考えています。
大国主は卑弥呼の死後の内戦に勝利した後に、宇佐市安心院町の卑弥呼の墓三柱山古墳の上でもストーンサークルを造り祭祀を行った後、妻垣神社奥宮の一柱謄宮で磐座祭祀も行い、最初に国造りをした佐田地区の佐田京石や米神山で巨石群を配置し祖神への感謝の祭祀を行ったと推理しています。米神山中腹の月の神谷やその上部の巨石群の石柱は、約80km先の日高彦の終焉の地山鹿市茶臼塚古墳にすべて向けられており、古墳頂部に置かれた大日如来の石祠から米神山のある北東方向(鬼門)の弥勒菩薩(大国主の本地仏)を指していることが曼荼羅の配置から分かりました(「【検証24】狗古智卑狗の墓発見!(その1)~(その3)狗古智卑狗の霊ライン?」参照)。
さらに米神山からこの霊ラインを約400kmも延長すると大国主の生誕地を示す石碑と日高彦が王宮とした五社大明神の古社(豊岡市竹野町鷹野神社の元宮で、鷹野神社は浜の天神さんとして天穂日命(日高彦)と、菅原道真を祭神にしています)にたどり着きました。鷹野神社の主祭神は国譲り神話のタケミカズチで尾張王建稲種命をモデルとしています。この丹後地方は尾張勢が大国主の王族らを武力で制圧して占領したことが、地名に鹿島とあり、尾張弁に近い方言になっていることから分かります。日本書紀崇神天皇紀の四道将軍のひとり丹波道主(たにわのみちぬし)の話とされています。(「宇佐は記紀が隠した秘密が満載だ」参照)。地元の伝承は藤原氏あるいは明治政府に遠慮して誕生の浦の石碑をタケミカズチの上陸した所とあります。これを狗古智卑狗の霊ラインと呼んでいます。(2024.3.13 赤字追加)
(クリックするとMapが現れますので、ご確認ください!)(【大発見!】大国主命の生誕地か?より)
そして南西(裏鬼門)の端は奴国の王宮のあった須玖岡本遺跡内の北側の丘に建つ熊野神社です。社伝によれば創建は宝徳年間(1449-1451年)「岡本の先人此の地を選び祖神を奉祀」とあり、祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊とあるが、祭礼に祇園祭7月15日とあり、熊野権現スサノヲを祀っています。スサノヲの終焉の地と推理しています。
狗古智卑狗の米神山を通過する霊ラインがかなり高精度だと分かりましたので、今回の葦嶽山を通過するスサノヲの霊ラインも単なる偶然ではないと見ています。しかし、近代的な測量技術を持たない古代人がどのようにして500kmも離れた目標物を定めたのか、とても不思議です。今のところニギハヤヒや大国主が霊力を感じてそれに従ったとしか思えません。古代史最大の謎ですね。
そういえばニギハヤヒは「『日本書紀』などの記述によれば、神武東征に先立ち、天照大神から十種の神宝を授かり天磐船(あまのいわふね)に乗って河内国(大阪府交野市)の河上哮ケ峯(いかるがみね)の地(現在の磐船神社周辺の一帯地と考えられている)に降臨し、その後大和国(奈良県)に移ったとされている。」と言われています(wiki「ニギハヤヒ」より)。この時ニギハヤヒが天磐船に乗っ て空から見下ろし、「虚空(そら)見つ大和(やまと)」といったという話になっており、庄原市蘇羅比古神社で祀られていると推理しています。オカルトっぽい話で恐縮ですが、UFOに乗った宇宙人だったのならば、霊ラインを説明できますよ( ^)o(^ )(2024.3.13 赤字追加)
葦嶽山と鬼叫山の石組みの方角をもっと調べたいと思います(^_-)-☆
(注1)日本の阿弥陀信仰は伝教大師最澄に師事した円仁(えんにん、第3世天台座主、慈覚大師)が838年(承和5)に入唐し、密教などの他五台山で法照(ほうしょう)流の五会念仏を学び、帰朝して不断念仏の修行法を広めたことをきっかけに、当初は僧侶・貴族を中心に信仰が広がりました。
(注2)日本書紀は有馬村とあるので、三代実録は熊野郡有馬村とされたが、古事記には書かれておらず、現在の島根県安来市伯太町久米神社奥宮と広島県庄原市熊野神社が候補である。宗像大社の社伝では「ムナカタの子はスミヨシ、その子はウサ」とあり(関裕二「海峡を往還する神々」PHP文庫、p.188)、スミヨシは父イザナギから海の支配を任されたスサノヲ。ウサはスサノヲの子孫大国主。宇佐神宮の主祭神八幡大神を意味する。奴国王伊弉諾尊が海運や対外貿易の主力産品である玉作を得意とするムナカタ海人族の姫伊弉冉尊と結婚することにより、対外交易を盛んに行って隆盛になった。これを日本神話では国生みと呼んでいる。恐らく、伊弉諾はムナカタ族の案内で列島各地を視察し、奴国が産業の主導権を握るようになったと考えられる。そのひとつの吉備児島は、日本の主要な商品である海産物を保存するために大量の塩が必要となるので、塩田開発に力を入れたようだ。
更に、イザナミが産んだ火の神カグツチはイザナギによって殺される神話は、二人の子でスサノヲの弟ニギハヤヒの子孫の尾張王乎止与命(おとよのみこと)が卑弥呼の死後に倭国王に立ったために大国主に討たれ、結局、大国主が列島主要部を支配した史実を表している。この史実を隠すために日本書紀では高天原から派遣されたタケミカズチらによる地上を支配する大国主の国譲り神話を創作したが、タケミカズチの父がカグツチとされることから史実に基づいて神話が作られたことが分かる。タケミカズチはヲトヨの後継者の尾張王建稲種命(たけいなだねのみこと)で熱田神宮の祭神として祀られている。記紀で景行天皇とされ、九州遠征で大国主らを討って、その後、大国主の傘下を鎮撫して日本を統一し、建国の英雄として創作されたヤマトタケルのモデルともされた人物だ。
イザナギがカグツチを斬った剣についた血の滴からたくさんの神が産まれた神生み神話は、奴国王族とムナカタ族の王族間の婚姻が、一方では4世紀から8世紀までのスサノヲとニギハヤヒのそれぞれの子孫の間の3世紀の建国時代の確執から、同族が殺し合う悲劇を招いたことを示唆しているのだ(詳細は「空白の世紀と倭の五王の謎?(その1)~(その3)」参照)。
(注3)豊岡市気比字溝谷出土の銅鐸4個の内最大のものが全長45.9cm、重量6.26kgの外縁付鈕2式銅鐸、紀元前2~1世紀青銅製、加茂岩倉遺跡出土の5号銅鐸と同笵だ。wiki「銅鐸」に「1世紀末頃には大型化が進み、鈕が薄手の装飾的なものへの変化が見られることから、銅鐸の利用法が、音を出して「聞く」目的から地面か祭殿の床に置かれて「見せる」目的へと変化したとする説が支持を集めている。」とある。しかし、福岡市博物館によると、「北部九州で出土する銅鐸は高さ約10cm内外の小銅鐸がほとんどです。市内では8点出土し、中には音を鳴らすために中に吊り下げた棒(舌)が入っている者もあり音を鳴らす道具であることが分かります。 一方本州の銅鐸は弥生時代後半期に大型化し、叩いて音を出すとともに「見る銅鐸」に変化します。」とあります。気比出土の銅鐸は福岡市のものよりもかなり大きいので「見る銅鐸」への移行期のものと考えられます。
(注4)以下に簡単に説明します。スサノヲ大王とイタケル王子の子孫三代が、出雲と丹後半島などを根拠地として、スサノヲ大王の縁故で半島の鉄資源を抑えて隆盛になり、日本建国の基礎を作りました(「日向三代神話は出雲三代がモデルだった!」参照)。しかし、師升の子孫の倭国王難升米が有能で、公孫氏やこれを討った魏を後ろ盾にして、隆盛になりニギハヤヒ大王の子孫の卑弥弓呼を王とする旧奴国(魏志倭人伝狗奴国)を苦しめました。吉備から纏向遺跡に王都を遷し、各地に散っていた旧奴国勢力を集めて、倭国討伐軍を送りました(「【検証5】纏向は邪馬台国じゃないよ!」参照)。卑弥呼の死は大軍勢がこのタイミングで押し寄せる情報を耳にした難升米は、247年3月24日日没直前の日食を見て不吉な前兆で、太陽神を祀る卑弥呼の怠慢で起こったと考え、暗殺したと推理しました。卑弥呼の死を知った弟赤坂比古(記紀の日触使主、魏志倭人伝の掖邪拘)が狗奴国勢に寝返りましたので、難升米は魏を頼って帯方郡に逃亡したと考えています。そのため、無傷で倭国を手に入れた大将の尾張王乎止与命(おとよのみこと、ニギハヤヒの子孫)が卑弥弓呼大王を裏切って倭国王に立ちました。それに反発した副将の久々遅彦(魏志倭人伝の狗奴国の官狗古智卑狗の子)と内戦となり、久々遅彦に味方した赤坂比古が尾張王を根拠地の鳥栖市に追い詰めて討ったと推理しました。そして、久々遅彦は丁度倭国に来ていた魏使張政の進言を受け入れて、13歳の台与を卑弥呼の宗女として外交上女王に立て、魏を後ろ盾にして狗奴国を裏切って対立しました。久々遅彦は半島の鉄資源も手に入れ、先端の高温鍛冶炉の技術も提供したので、列島内の豪族がこぞって傘下になったので、後世大国主と呼ばれました。しかし、父を殺された恨みから尾張王建稲種命が九州遠征を行います。景行天皇の九州遠征として日本書紀に詳細に語られていますが、その遠征ルート上に鉄鏃や銅鏃が出土することから戦闘の様子が分かりました(「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。建稲種命は北部九州や中部九州を攻めますがことごとく敗退し、南九州に落ち延びました。そこで援軍を待って攻め上り、油断をしていた大国主、赤坂比古そして台与まで討たれてしまいます。それぞれ、久留米市祇園山古墳、鳥栖市愛宕神社古墳、糸島市平原王墓に葬られたと推理しています。しかし、280年に呉が西晋に滅ぼされ、大国主・台与の祟りと恐れ、二人の間の子(記紀のオオタタネコ)を纏向に呼び寄せ祭祀王としました。応神天皇が初代天皇ということになります。
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
先日のコメントで、百畑キクリさんが3月10日の米神山の山開きに合わせて登って巨石群の方向などを観察していただいたと思います。無事に戻られたのかな?成果を期待しています( ^)o(^ )
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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