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古代史ランキング
邪馬台国の有力候補に急浮上?伊都国東遷説について説明します!【邪馬台国論争】
岡上佑の古代史研究
@kyupytarou
伊都国東遷説
ざっくりの解説ありがとうございます。
九州説 畿内説 どちらでもない説
古代史に興味を持って日が浅い立場から一言申し上げます。
本編でも触れておられましたが銅鐸から銅鏡に様変わりしたのは何故なのか…祭祀の流行が一変した要因がキモだと思っています。
卑弥呼の銅鏡百枚が一変する要因なのか…
妄想に答えはありません。
明日 富雄丸山古墳の現地説明会行ってきます。
妄想広げて来ます。
岡上佑の古代史研究室
すごいですね!多分ものすごい人でなのでしょうね!! いきなりシンボルを切り替えるというのは、当時の宗教的・迷信的な世界観としては、一大事ですからね!よほど大きな事件があったと考えて、不都合全くないと思います。
刮目天
とても素晴らしいもうそうです(^_-)-☆
祭祀の方式が変わるのはそれなりの、大変なことがあったからだと思います。
もともと銅鐸は弥生中期の奴国宮廷での伝統的な祖霊祭祀で使われた高さ10cm程度の舌のある小銅鐸でしたが、縄文系の人々が金属器の魅力から取り入れ祖霊・穀霊の祭祀を行い徐々に大型化して、しまいには据え置きのバカでかい「見る銅鐸」になりました。縄文人は創意工夫が上手で現代日本人に受け継がれています(^_-)-☆
二世紀初頭に奴国が宮廷祭祀の楽師師升らの反乱で滅ぶと、スサノヲ大王の王子イタケルが奴国から出雲に逃げ、その子孫が縄文海人ムナカタ族の王として半島南部の鉄素材を供給する鉄のネットワークを作り、隆盛になりました。恨みのある師升王の一族の倭国は半島の混乱で衰退したので、抗争が激化します。リーダーの権力が強大化し、各地の部族長も元締めの王(狗奴国の官狗古智卑狗、豊岡市久久遅神社の祭神で木の霊イタケルの子孫)と血縁関係を結んで序列化し、部族内の権力が増大したのだと思います。出雲地方発祥の大型四隅突出型墳丘墓が日本海沿岸などに普及し、墳丘上で首長霊祭祀を行って首長の継承儀礼が行われます。縄文系の人々の銅鐸祭祀が東に移行しながら消えて古墳時代に入ります。
クリックすると、王や妃など人物の様子が見れますのでどうぞ(^_-)-☆
鏡は縄文海人族の太陽神信仰の祭器です。卑弥呼も縄文系ムナカタ族の姫巫女です(宗像女神イチキシマヒメ)。太陽神が憑依して神託を述べるのを巫(かんなぎ)が解読して皆に伝えるシャーマン王のヒメ・ヒコ体制で部族を指導していたそのままの形で古墳時代になっても継続したということでしょう(^_-)-☆
【関連記事】
国引き神話は史実だった?(その1)~(その5)西谷墳墓群の被葬者は?
出雲国風土記の八束水臣津野命は最期の奴国王スサノヲの孫で、各地に散っていた部下を出雲に集め、裏切り者の倭国王師升らに復讐するために半島南部の鉄のネットワークを作ったと推理しました。鉄素材を大分県大野川流域から熊本県阿蘇山麓に集め、鉄製武器を供給する鍛冶集落を数多く造り、山鹿市方保田東原遺跡に山陰から畿内の兵士を集めて、佐賀平野筑紫平野などの倭国の集落を襲い倭国王難升米を苦しめました。倭国大乱です。
大倭日高見国が日本建国の謎を解く
八束水臣津野命から三代の王が日本建国の主役でした。最後の大国主久々遅彦が纏向遺跡の狗奴国王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇)に討たれて日本が建国されます。大国主の祟りで初代祭祀王として、台与との間の子ホムダワケが両親の祭祀王として纏向遺跡に呼ばれました。初代応神天皇(大田田根子)です。藤原不比等は建国の史実が不都合だったので神話を創作して隠しました。しかし、人々の心まで完全に隠すことはできなかったので、考古学や民俗学などの成果から推理できました(^_-)-☆
【検証22】難升米という人物は?(その1)
奴国を滅ぼした師升王の末裔の倭国王難升米が、「魏志倭人伝」で伊都国男王、一大率、男弟、そして魏への使者の大夫(たいふ)と、それぞれ、別の人物が居るかのように記載された理由は、倭国が女王を統治者とするエキゾチックで遠いところにある大国として魏の朝廷の人々の興味を惹くためだったということです。
女王卑弥呼は、本当は倭国の統治者ではなく、縄文海人ムナカタ族のシャーマン王赤坂比古(卑弥呼の父、伊聲耆=年老いた巫(かんなぎ)、古代豪族和邇氏の祖)に太陽神の神託を与える、王族の巫女(ひめみこ)だったと推理しています。古琉球および琉球王国を中心に沖縄で信仰された琉球神道の原型と考えられる原始的な信仰を鬼道ということにして難升米が魏側に伝えたのだと考えています。難升米は、卑弥呼の伝える太陽神の神託を倭国の政治に取り込むことで、沖ノ島経由の海北道中ルートを支配しているムナカタ族を懐柔したと推理しました。倭国と敵対する狗奴国側に半島南部の鉄を供給させないためです。
【吉野ヶ里遺跡】石棺の謎が判明した?
エジプト文明でもそうですが、太陽神信仰は鳥とも関係します。縄文海人ムナカタ族が作ったと考えている唐古・鍵遺跡出土の男女の祝(羽振り)を描いた土器の線刻画から分かります。吉野ヶ里遺跡謎のエリアの石棺の被葬者は卑弥呼の宗女台与の父で近江・北陸・越のムナカタ族を率いる王息長宿禰王(おきながすくねのみこ)と推理しました。巨漢だった大国主久々遅彦の国造りのパートナーですが、極端に小柄でしたので大国主神話で少彦名命(すくなひこなのみこと)とされています。米原市日撫神社の祭神として祀られていますよ(^_-)-☆
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
応援をしていただき、感謝します。
初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!
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邪馬台国の有力候補に急浮上?伊都国東遷説について説明します!【邪馬台国論争】
岡上佑の古代史研究
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伊都国東遷説
ざっくりの解説ありがとうございます。
九州説 畿内説 どちらでもない説
古代史に興味を持って日が浅い立場から一言申し上げます。
本編でも触れておられましたが銅鐸から銅鏡に様変わりしたのは何故なのか…祭祀の流行が一変した要因がキモだと思っています。
卑弥呼の銅鏡百枚が一変する要因なのか…
妄想に答えはありません。
明日 富雄丸山古墳の現地説明会行ってきます。
妄想広げて来ます。
岡上佑の古代史研究室
すごいですね!多分ものすごい人でなのでしょうね!! いきなりシンボルを切り替えるというのは、当時の宗教的・迷信的な世界観としては、一大事ですからね!よほど大きな事件があったと考えて、不都合全くないと思います。
刮目天
とても素晴らしいもうそうです(^_-)-☆
祭祀の方式が変わるのはそれなりの、大変なことがあったからだと思います。
もともと銅鐸は弥生中期の奴国宮廷での伝統的な祖霊祭祀で使われた高さ10cm程度の舌のある小銅鐸でしたが、縄文系の人々が金属器の魅力から取り入れ祖霊・穀霊の祭祀を行い徐々に大型化して、しまいには据え置きのバカでかい「見る銅鐸」になりました。縄文人は創意工夫が上手で現代日本人に受け継がれています(^_-)-☆
二世紀初頭に奴国が宮廷祭祀の楽師師升らの反乱で滅ぶと、スサノヲ大王の王子イタケルが奴国から出雲に逃げ、その子孫が縄文海人ムナカタ族の王として半島南部の鉄素材を供給する鉄のネットワークを作り、隆盛になりました。恨みのある師升王の一族の倭国は半島の混乱で衰退したので、抗争が激化します。リーダーの権力が強大化し、各地の部族長も元締めの王(狗奴国の官狗古智卑狗、豊岡市久久遅神社の祭神で木の霊イタケルの子孫)と血縁関係を結んで序列化し、部族内の権力が増大したのだと思います。出雲地方発祥の大型四隅突出型墳丘墓が日本海沿岸などに普及し、墳丘上で首長霊祭祀を行って首長の継承儀礼が行われます。縄文系の人々の銅鐸祭祀が東に移行しながら消えて古墳時代に入ります。
クリックすると、王や妃など人物の様子が見れますのでどうぞ(^_-)-☆
鏡は縄文海人族の太陽神信仰の祭器です。卑弥呼も縄文系ムナカタ族の姫巫女です(宗像女神イチキシマヒメ)。太陽神が憑依して神託を述べるのを巫(かんなぎ)が解読して皆に伝えるシャーマン王のヒメ・ヒコ体制で部族を指導していたそのままの形で古墳時代になっても継続したということでしょう(^_-)-☆
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国引き神話は史実だった?(その1)~(その5)西谷墳墓群の被葬者は?
出雲国風土記の八束水臣津野命は最期の奴国王スサノヲの孫で、各地に散っていた部下を出雲に集め、裏切り者の倭国王師升らに復讐するために半島南部の鉄のネットワークを作ったと推理しました。鉄素材を大分県大野川流域から熊本県阿蘇山麓に集め、鉄製武器を供給する鍛冶集落を数多く造り、山鹿市方保田東原遺跡に山陰から畿内の兵士を集めて、佐賀平野筑紫平野などの倭国の集落を襲い倭国王難升米を苦しめました。倭国大乱です。
大倭日高見国が日本建国の謎を解く
八束水臣津野命から三代の王が日本建国の主役でした。最後の大国主久々遅彦が纏向遺跡の狗奴国王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇)に討たれて日本が建国されます。大国主の祟りで初代祭祀王として、台与との間の子ホムダワケが両親の祭祀王として纏向遺跡に呼ばれました。初代応神天皇(大田田根子)です。藤原不比等は建国の史実が不都合だったので神話を創作して隠しました。しかし、人々の心まで完全に隠すことはできなかったので、考古学や民俗学などの成果から推理できました(^_-)-☆
【検証22】難升米という人物は?(その1)
奴国を滅ぼした師升王の末裔の倭国王難升米が、「魏志倭人伝」で伊都国男王、一大率、男弟、そして魏への使者の大夫(たいふ)と、それぞれ、別の人物が居るかのように記載された理由は、倭国が女王を統治者とするエキゾチックで遠いところにある大国として魏の朝廷の人々の興味を惹くためだったということです。
女王卑弥呼は、本当は倭国の統治者ではなく、縄文海人ムナカタ族のシャーマン王赤坂比古(卑弥呼の父、伊聲耆=年老いた巫(かんなぎ)、古代豪族和邇氏の祖)に太陽神の神託を与える、王族の巫女(ひめみこ)だったと推理しています。古琉球および琉球王国を中心に沖縄で信仰された琉球神道の原型と考えられる原始的な信仰を鬼道ということにして難升米が魏側に伝えたのだと考えています。難升米は、卑弥呼の伝える太陽神の神託を倭国の政治に取り込むことで、沖ノ島経由の海北道中ルートを支配しているムナカタ族を懐柔したと推理しました。倭国と敵対する狗奴国側に半島南部の鉄を供給させないためです。
【吉野ヶ里遺跡】石棺の謎が判明した?
エジプト文明でもそうですが、太陽神信仰は鳥とも関係します。縄文海人ムナカタ族が作ったと考えている唐古・鍵遺跡出土の男女の祝(羽振り)を描いた土器の線刻画から分かります。吉野ヶ里遺跡謎のエリアの石棺の被葬者は卑弥呼の宗女台与の父で近江・北陸・越のムナカタ族を率いる王息長宿禰王(おきながすくねのみこ)と推理しました。巨漢だった大国主久々遅彦の国造りのパートナーですが、極端に小柄でしたので大国主神話で少彦名命(すくなひこなのみこと)とされています。米原市日撫神社の祭神として祀られていますよ(^_-)-☆
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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