いつも応援ありがとうございます。
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング
#まぬけなはなしで笑われそうですが、3ケ月前の下の動画に既にコメントしていましたので驚きました。従ってタイトルを変更しますネ(;^ω^)(2024.3.13)
#2024/03/12 22:23にアップしましたが、不躾な長文のコメントでしたが、Up主様よりいつものように暖かいお返事を頂きましたので、早速本文の末尾に青字で追加させていただきました。どうも有難うございました。(^^;)
#いつもとてもいい動画を発信されているので、今回もついコメントしてしまいました。よろしければお付き合いください(#^.^#)
すばらしい!人気沸騰ですね、うらやましい( ^)o(^ )
そして宇佐説、有難うございます!正解だと思います(^_-)-☆
九州説の中で魏志倭人伝にある「自女王国東度海千余里、復有国、皆倭種」の記述を無視しない解です。他の場所だと何故無視しなければならないのかを説明する必要があります。最初に宇佐説を学説にした富来隆先生もこの一文を決め手としました。また、投馬国は関門海峡付近の「鞆の浦」からとして、北九州から周防灘に面した豊前地域の大集落群を考えたようですからピッタリです。
そして多くの方は、狗奴国の官狗古智卑狗に因む地名である菊池辺りが狗奴国と見ています。実際、倭国大乱時に北部九州の倭国と山鹿市方保田東原遺跡や菊池市うてな遺跡などの狗奴国の軍勢と戦ったと考えられます。
そこで熊本に居た狗奴国勢との共立であれば、狗奴国王卑弥弓呼は247年頃の卑弥呼の死の直前も邪馬台国連合倭国と敵対関係だったのですから、狗古智卑狗の配下の熊本勢が何らかの理由で狗奴国王を裏切って倭国側についたと考えることができます。
それでは狗奴国王はどこにいるのかですが、宇佐の邪馬台国から東の纏向遺跡を狗奴国王の王都と考えると、その後のヤマト王権の成立を比較的楽に説明できます。
纏向遺跡は三世紀初頭から造られていますが、卑弥呼が女王に立てられた時期と一致します。そして三世紀半ばまで各地から首長レベルの人々が多数集まって最初の前方後円墳である石塚古墳からいくつも前方後円墳などが造られて祭祀を行っています。この重要な祭祀儀礼に九州の人々が参加していないのです。それは三世紀半ばまでの外来系土器に九州の土器が無いことから分かります。畿内説の最有力候補の纏向遺跡は邪馬台国ではあり得ない、最も分かり易い証拠なのです。伊都国の一大率は女王への贈り物を検査して間違いなく女王に届ける役目ですから、その部下が来ていないような場所は邪馬台国ではないでしょう。そうでないというのなら理由を説明すべきです。
また、倭国の玄関口である北部九州の人々が重要な祭祀に参加していないということですから纏向遺跡の勢力と倭国が敵対していたと分かります。二世紀末弥生後期後葉の倭国大乱期の方保田東原遺跡では山陰や畿内の土器が出土していますので、狗奴国側の兵士を呼び寄せて倭国と戦争していたということで、つじつまが合います。
ということで、狗奴国の勢力の一部は当初は女王国の南でしたが、狗奴国の王都は女王国の東の纏向遺跡だと推理しています(詳細は「【邪馬台国問題】景初二年か景初三年か?」参照)。
もしも、卑弥呼が共立された後も熊本に狗奴国勢が居たのならば、伊都国に居た倭国王がいったい誰と卑弥呼を共立したのか全く説明できないと思います。さらに、三世紀末に纏向遺跡でヤマト王権が成立したことも容易に説明できないと思いますが、いかがでしょうか?長くなって申し訳ありませんでした(;^ω^)
三国志の原資料を探ろうとした動画ですが、思った以上に人気がありました。みんな、こういうところに関心があるようです。(^^) 宇佐説もいろいろな意味で合点が行く説だと思います。方保田東原遺跡。いつか実際に訪問して勉強したいです。
【関連記事】
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆記紀神話は江戸時代にできたのですよ!王年代紀を書いた平安時代中期の東大寺の僧奝然の俗姓は秦氏。古事記を書いた多人長と関係がある氏族でした。
秦氏と古事記の関係?古事記は日本書紀が隠した史実を藤原氏に悟られないように暴露する暗号書だったのですよ!
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
応援をしていただき、感謝します。
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング
#まぬけなはなしで笑われそうですが、3ケ月前の下の動画に既にコメントしていましたので驚きました。従ってタイトルを変更しますネ(;^ω^)(2024.3.13)
#2024/03/12 22:23にアップしましたが、不躾な長文のコメントでしたが、Up主様よりいつものように暖かいお返事を頂きましたので、早速本文の末尾に青字で追加させていただきました。どうも有難うございました。(^^;)
#いつもとてもいい動画を発信されているので、今回もついコメントしてしまいました。よろしければお付き合いください(#^.^#)
すばらしい!人気沸騰ですね、うらやましい( ^)o(^ )
そして宇佐説、有難うございます!正解だと思います(^_-)-☆
九州説の中で魏志倭人伝にある「自女王国東度海千余里、復有国、皆倭種」の記述を無視しない解です。他の場所だと何故無視しなければならないのかを説明する必要があります。最初に宇佐説を学説にした富来隆先生もこの一文を決め手としました。また、投馬国は関門海峡付近の「鞆の浦」からとして、北九州から周防灘に面した豊前地域の大集落群を考えたようですからピッタリです。
そして多くの方は、狗奴国の官狗古智卑狗に因む地名である菊池辺りが狗奴国と見ています。実際、倭国大乱時に北部九州の倭国と山鹿市方保田東原遺跡や菊池市うてな遺跡などの狗奴国の軍勢と戦ったと考えられます。
そこで熊本に居た狗奴国勢との共立であれば、狗奴国王卑弥弓呼は247年頃の卑弥呼の死の直前も邪馬台国連合倭国と敵対関係だったのですから、狗古智卑狗の配下の熊本勢が何らかの理由で狗奴国王を裏切って倭国側についたと考えることができます。
それでは狗奴国王はどこにいるのかですが、宇佐の邪馬台国から東の纏向遺跡を狗奴国王の王都と考えると、その後のヤマト王権の成立を比較的楽に説明できます。
纏向遺跡は三世紀初頭から造られていますが、卑弥呼が女王に立てられた時期と一致します。そして三世紀半ばまで各地から首長レベルの人々が多数集まって最初の前方後円墳である石塚古墳からいくつも前方後円墳などが造られて祭祀を行っています。この重要な祭祀儀礼に九州の人々が参加していないのです。それは三世紀半ばまでの外来系土器に九州の土器が無いことから分かります。畿内説の最有力候補の纏向遺跡は邪馬台国ではあり得ない、最も分かり易い証拠なのです。伊都国の一大率は女王への贈り物を検査して間違いなく女王に届ける役目ですから、その部下が来ていないような場所は邪馬台国ではないでしょう。そうでないというのなら理由を説明すべきです。
また、倭国の玄関口である北部九州の人々が重要な祭祀に参加していないということですから纏向遺跡の勢力と倭国が敵対していたと分かります。二世紀末弥生後期後葉の倭国大乱期の方保田東原遺跡では山陰や畿内の土器が出土していますので、狗奴国側の兵士を呼び寄せて倭国と戦争していたということで、つじつまが合います。
ということで、狗奴国の勢力の一部は当初は女王国の南でしたが、狗奴国の王都は女王国の東の纏向遺跡だと推理しています(詳細は「【邪馬台国問題】景初二年か景初三年か?」参照)。
もしも、卑弥呼が共立された後も熊本に狗奴国勢が居たのならば、伊都国に居た倭国王がいったい誰と卑弥呼を共立したのか全く説明できないと思います。さらに、三世紀末に纏向遺跡でヤマト王権が成立したことも容易に説明できないと思いますが、いかがでしょうか?長くなって申し訳ありませんでした(;^ω^)
三国志の原資料を探ろうとした動画ですが、思った以上に人気がありました。みんな、こういうところに関心があるようです。(^^) 宇佐説もいろいろな意味で合点が行く説だと思います。方保田東原遺跡。いつか実際に訪問して勉強したいです。
【関連記事】
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆記紀神話は江戸時代にできたのですよ!王年代紀を書いた平安時代中期の東大寺の僧奝然の俗姓は秦氏。古事記を書いた多人長と関係がある氏族でした。
秦氏と古事記の関係?古事記は日本書紀が隠した史実を藤原氏に悟られないように暴露する暗号書だったのですよ!
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
応援をしていただき、感謝します。
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング