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#2022-10-01 03:24:17に記事にしましたが、図のリンクが切れていたので修理し、【関連記事】なども追加しました。よろしければ、またお付き合いください。古代史ブログ・ランキングのボタンを100回くらいお願いします(#^.^#)
7.記紀と日本人の信仰の謎
⑦高野山の秘密?(;^ω^)
高野山金剛峯寺へは、修学旅行か何かの機会に行っていると思いますので、高野山を知らない日本人は居ないと思います。弘法大師空海がなぜ高野山を開いたのか?についても、お坊さんなどの説明を聞いたかも知れません。嵯峨天皇から国家鎮護のために下賜された東寺を真言宗の布教の場とし、都会の雑踏から離れた高野山を修業の場として天皇の許可を頂いて開いたとされています。高野山は三大霊場の一つとされていますが、高野山という山が存在するのではなく、金剛峯寺の山号として高野山とされたもののようです。今回は空海がどういう縁があって高野山と名付けたのかを見ていきたいと思います。と言いますのも、日本建国の歴史とリンクしているようですので謎の解明につながっていますから(*^。^*)。
刮目天は、五代前の先祖に山伏姿の真言宗の僧が居たと今は亡き祖父から少年時代に聞いていたので、真言密教や修験道には少し憧れを持っていましたが、ほとんど知識はありません。しかし、古代史の謎を解くために調べた修験道や神仏習合などの流れで、密教についても入門書やネットなどで少しだけですが、調べていますが、奈良・平安時代頃までの仏教や修験道の目的は、国家鎮護ではないかと理解しました。すでに(その18)縄文時代から日本人の祖先神は蛇だった?で説明しましたが、地震、津波、落雷などの自然災害や疫病などは日本建国時代に、ヤマトを恨んで亡くなった貴人たち(主として大国主久々遅彦、ムナカタ女神卑弥呼とその宗女台与の三人)の祟りだと朝廷の貴族や庶民に至るまで信じており、これらの神々の鎮魂によって大災害から免れると考えていたようです。
空海は、国家鎮護のための修験道の理論的な裏付けとなる密教の奥義を求めて遣唐使に同行して唐に渡って、真言密教の第一人者である恵果阿闍梨(けいかあじゃり)に師事しました。恵果は空海の才能を直ぐに認めて、金剛界と胎蔵界の両部を伝授し、恵果は皇帝の師となっていたので、宮中の絵師たちに、両界曼荼羅図や密法具の製作を命じ、不空(恵果の師)から授かったものや自分の付嘱物を空海に与え、「この法をすぐに日本に持ち帰りそれを弘めなさい、それが私への報恩になる」と諭した。とwiki「恵果」にあります。その年に恵果が没し、恵果から授かった品物を持って帰国しました。当初二十年修行することになっていたのが二年で帰国した空海は入京を許されず、大宰府観世音寺に止め置かれました。別の船で無事入唐し、帰国後直ぐに上京した最澄の尽力により空海は入京を許されて、上述の通り嵯峨天皇より下賜された東寺を開いて京で真言密教の布教を行いました(弘仁14年 823年)。
そして、空海は長安を発つときに日本での修業の場とするために投げた三鈷(さんこ)を求めて諸国を歩いたという伝説が今昔物語などに残っています。大和国宇智郡(うちのこおり)で白黒の二頭の犬を連れた一人の狩人と出会い、犬たちに付いていくよう告げられました。
和歌山県伊都郡かつらぎ町の丹生都比売神社まで行くと丹生明神が現れて、「今菩薩がこの山にこられたのは全く私の幸せです。南は南海、北は紀ノ川、西は応神山の谷、東は大和国(奈良県)を境とするこの土地をあなたに永久に献上します」と告げられました(高野山真言宗HP「弘法大師の誕生と歴史」21高野山御開創②より)。唐を出るときに投げた三鈷が松の枝に引っかかっていましたので、この地を修業の場とすることを決めたと伝わっています。狩人は狩場明神という神で、二柱を伽藍の中で祀ったといわれています。
丹生明神は丹生都比売神社の第一殿の祭神です。丹生都比売についていくつか説がありますが、丹は辰砂(朱色の硫化水銀)ですから辰砂鉱山に関わると分かります。全国に約180社ある丹生都比売神を祀る神社は採掘に携わる丹生氏の一族が祀ったところだと考えられます。この丹生都比売神社が全国の神社の総本社となっています。その場所が伊都郡という地名になっており、魏志倭人伝に登場する伊都国との関係が示唆されますので、後で述べます。
第二殿には狩場明神が祀られていますが、高野御子神となっています。丹生明神の御子という説もありますが、精選版 日本国語大辞典「高野御子」の解説は以下の通りでしたので驚きました(^_-)-☆。
〘名〙 日吉神社の神の使いといわれる猿の称。
※永久百首(1116)雑「たかのみこいとも怪しと見まし鳬猿まろをしも引きたててとや」
日吉神社の祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)ですが、その総本社日吉大社の本宮では以下の二柱が祀られています。
西本宮:大己貴神(大物主に同じ)
東本宮:大山咋神
大山咋神は秦氏が松尾大社で祀る神ですが、秦氏は氏寺の太秦広隆寺で弥勒菩薩を本地仏とする大国主久々遅彦を祀っていますから、武内宿禰(大国主命)を祖とする波多氏のことと考えています。大山咋神の正体は大己貴命(おおなむち)つまり大山咋神は大国主久々遅彦のことだったのですよ(^_-)-☆。
神の使いの猿もサルタヒコ大神つまり大国主ということで、高野御子の正体も分かりました(「「神」はサルタヒコを示す暗号文字だった?!」参照)。ということは、丹生都比売は大国主の妃である女王台与がその正体なのです。ちなみに、台与は神代ではアメノウズメとされ、サルタヒコとペアです。例えば、アソツヒコ・アソツヒメなどの男女ペアの地の神様がいたるところに登場しますが、大体は二人のことと考えていいと思います(*^。^*)
高野という名で思い浮かぶのが宇佐八幡宮神託事件の孝謙天皇(重祚して称徳天皇)です。女帝は存在しないと考えているので、称制とみていますが、和風諡号が高野姫天皇(たかのひめのすめらみこと)です。宇佐神宮の真の八幡大神は大国主久々遅彦ですから、大国主命=高野御子の神託を受けて道鏡を即位させようとしたことを示唆しています。
もう一人が桓武天皇の母の高野新笠(たかののにいがさ)です。父は百済武寧王の子孫の和乙継(やまとのおとつぐ)とあります。称徳天皇が崩御して光仁天皇(こうにんてんのう)が即位し、高野朝臣(たかののあそん)を賜っていますから、大国主命の神託を意識した賜姓なのでしょう(「【衝撃】百済王のなぞ?いつ・誰が背乗りした?」参照)。
さて、高野御子神のことですが、大国主久々遅彦は兵庫県豊岡市久々比神社の祭神屋船久々遅命として祀られています。宗像大明神とも呼ばれ、スサノヲの王子イタケルの子孫ですので同じ木の霊とされ、上棟式の祭神となっています。その豊岡市竹野町に鷹野神社があります。竹野は北前船の寄港地であった為、当時の船頭たちが奉納した船絵馬や日和見や入船の連絡に使われた方角石などが残っている[1]とあります。二世紀から三世紀にかけて代々ムナカタ海人族を支配下に置いた久々遅彦の根拠地だったことが分かります。(2022.10.3 赤字追加)
(GoogleMapより)
創立年は不明ですが、社名は但遅麻国造といわれる竹野別氏の居住地であったことが由来とされるとありますが、主祭神が大国主に国譲りさせたタケミカズチです。「古代は加嶋神社と称し、賀嶋山に鎮座したが断崖絶壁で参拝が困難であった為、宝亀元年(770年)現在地に遷座したとある[2]」とあります。
国譲り神話のもととなった史実は尾張王建稲種命(たけいなだねのみこと)が大国主久々遅彦に討たれた父王乎止与(ヲトヨ、記紀では住吉大神の神託を疑い突然崩御した仲哀天皇)の仇討ちをした話で(景行天皇の九州遠征)、民話「さるカニ合戦」のモトネタだと突き止めています(「抹殺された尾張氏の謎(その3)」参照)。この話は日本書紀崇神紀の四道将軍のひとり丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)と重なります。しかし、丹波国造(たにわのくにのみやつこ、たんばこくぞう)は丹波氏(たにわうじ、姓は直)で、後に宿禰を賜姓された。一般に尾張氏(尾張国造)の同族とされるとあるので、実は景行天皇とされた尾張王建稲種命の時代だったことを突き止めています。つまり崇神天皇から応神天皇即位までの記紀で約350年間の話は三世紀末の史実を引き延ばして歴史を改ざんしたものだったことはすでに述べています(「え!記紀は天皇の歴史書じゃないのか?」参照)。
(詳細は「国譲り神話の史実は?」参照)
ということで、鷹野神社は高野御子である大国主久々遅彦の元々の根拠地の王宮だったことを意味しています。御子ですから父王は魏志倭人伝の狗古智卑狗(先代久々遅彦)です。熊本県山鹿市・菊池市あたりに前線基地を作り活躍した倭国大乱の英雄で狗奴国の有力者だった人物です。倭国王難升米の急襲を受けて戦死したので、ムナカタ海人族の先代赤坂比古(卑弥呼の父、卑弥呼の母は狗古智卑狗と兄妹、または姉弟ですから、卑弥呼は大国主と従妹でした)が狗奴国を裏切り、幼少期の大国主が九州なのか出雲なのか不明ですが(多分、北九州市八束鬚神社)、そこからこの地に落ち延びて育った場所ではないかと思います。先代赤坂比古の子供たち(八十神)に虐められたその時の伝説が「因幡の白兎」として古事記神話に残っています(「新説「因幡の白兎」だ!」参照)。(2022.10.3 赤字追加)
先ほどの通り丹生都比売の正体が十三歳で外交上女王に立てられ、大国主の妃とされ応神天皇を生んだ台与なのですが、台与を祀る丹生都比売神社の地名が伊都国を連想する伊都郡となっています。もしも、丹生氏が伊都郡という地名としたとすると、魏志倭人伝を読んでいたということです。そうすると狩場明神の二頭の犬というのも狗古智卑狗からの連想で作られた伝説と考えられそうです。
つまり、台与は伊都国でヤマト軍と戦い戦死して平原王墓に葬られたことを示唆しているようです(「【検証4】平原王墓の被葬者は誰だ?」参照)。丹生神社は九州では佐賀県に数多く見られます。この地で辰砂を採掘していた丹生氏の一族が和歌山県に辰砂を求めてやってきて、土着したと考えられます。佐賀県は神功皇后の伝承や祭神とみられる神社が数多くありますから、台与が記紀神話で神功皇后のモデルとされたことを示唆していますね(^_-)-☆
最後に、弘法大師空海は高野大師(こうやたいし)とも呼ばれていますので、国家鎮護とは主として大国主を祀ることだと分かります。そのために真言密教を伝え、修業の場として高野山を開いたということで間違いないですね(*^_^*)
【関連記事】
上で述べた永久百首(1116)は源俊頼の歌だとjikan314様からいろいろと教わった内容を記事にしていますので是非どうぞ(;^ω^)
【参考文献】
脊古真哉「高野山開創説話と丹生明神・高野明神」日本仏教綜合研究16 巻 (2018)
最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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私自身は大学時代に宿坊に泊まらせてもらった記憶がありますが
山奥って感じで畳の上に起きっぱなしだったタバコとマッチが湿ってしまってまるで使い物にならなかったって言う下世話な記憶しか残ってないんですよね
私の父親は真言宗智山派の寺の息子なんですが得度されてなく寺を離れて民間企業に職を求めた人でした
高野山に泊まったのは大学のゼミ中世文学の関係でしたし
今日も目から鱗のお話楽しく読ませていただきました。
早速いい、コメント。いつもうれしいです。明治になるまで、修験道や密教にほとんどの日本人はかかわっていたと思います。医療などの先端技術を担っていたので、多くの人たちから頼りにされていたのだと思います。日本は大国主の神霊の国といってもいいと思います。中世文学を学ばれたとは羨ましいです。わたしも、若ければこれから文学部で勉強したいと思いますね。もうすぐ後期高齢者ですので、何とか平均寿命まで生きたいと、現在は痛くない死に方を勉強しようと思っていますけど。またいろいろなアドバイスをお願いいたします。有難うございました(#^.^#)