刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その2)

2021-07-21 22:22:59 | 古代史
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前回(その1)景行天皇の九州遠征の話の続きです。すでに当ブログで何度も述べているので、前回あまり述べませんでしたが、景行天皇というのは実在の天皇ではありません。というかまだ、天皇が生まれる日本建国の前の時代の話です。ですから初代応神天皇の父とされる仲哀天皇ですが、この方も天皇でもなく、応神天皇の本当の父でもありません。「日本書紀」が史実を隠すために天皇として登場させた人物です。

仲哀天皇は纏向狗奴国の卑弥弓呼大王に最初に派遣された倭国征討軍の主将の尾張王乎止与命(ヲトヨ、記紀では仲哀天皇)がモデルです。仲哀天皇の和風諡号タラシナカツヒコを使った方がいいかも知れません。彼が、倭国王難升米を追い払って、卑弥弓呼大王を裏切り倭国王に立とうとしたので、征討軍に参戦した山陰から北陸の縄文海人を配下にしていた狗古智卑狗(久々遅彦、スサノヲ大王直系の王)らが反発し千人ほどが殺される内戦が起こって、尾張王乎止与命が殺されます(鳥栖市の九州最古級の前方後方墳赤坂古墳に埋葬されたと推理しています)。

そして狗古智卑狗が倭国に加えて山陰・北陸まで支配し、魏を後ろ盾として纏向狗奴国と対立し、結局は滅ぼされたので、後世大和に国譲りした大国主と呼ばれます。景行天皇は「日本書紀」では仲哀天皇の祖父という設定ですが、この九州での戦乱の考古学の証拠から、大国主と女王台与の倭国追討のために派遣された乎止与命の後を継いだ尾張王だと推理しています。和風諡号は建稲種命(タケイナダネ、記紀の景行天皇、仲哀天皇の祖父)です。ですから倭国の中枢部に攻め込み、父乎止与命の恨みをはらすために大国主を殺し、結果的に日本を統一することが尾張王建稲種命の九州遠征の目的となります。

さて、「日本書紀」では景行天皇(建稲種命)は速見邑の行宮で速津姫から「茲(この)山に鼠石窟という大きな岩屋があり、青と白という土蜘蛛が住んでおり、直入県(なおいりのあがた、竹田市)の禰疑野には打猿(うちざる)、八田(やた)、国麻侶(くにまろ)と言う三人の土蜘蛛が住んでおり、これらの土蜘蛛が皇命に従わず、戦うと言っています」という悪い情報を聞き、取り敢えず直入郡北部の来田見邑(くたみのむら、竹田市久住町、旧直入郡球覃郷くたみのさと)に移動して、宮処野神社(みやこのじんじゃ、大字仏原)に行宮を造り、群臣と謀ることにしました。

(クリックで拡大)

速見邑から来田見邑へのルートは、大分市内の下郡遺跡に戦跡がみられますので別府湾を横断して、ここを攻撃し、更に雄城台遺跡でも銅鏃が見つかっていますので、ここも攻撃して来田見邑の行宮まで進軍したと考えられます。

行宮で景行天皇(建稲種命)は、今、ここで多くの兵を動かして土蜘蛛を討とうとしたら、わが兵の勢いに恐れて山野に隠れてしまうだろうから後できっと災いがある。ということで強い兵を選んで椿の木で作った椎(つち)を持たせて石室の土蜘蛛を襲撃し、稲葉川の上流でことごとくその仲間たちを殺しました。「血は流れて踝(くるぶし)までつかった」とあり、そこを血田(ちた)、椿の木の椎を作った所は海石榴市(つばきち、つばいち)と呼ばれています。

豊後国風土記には海石榴市と血田の場所については、図のとおり大野郡の条にあるのですが、稲葉川は大野川の支流で、その川上は大野郡よりもずっと西側の直入郡です。ですから、竹本晃「景行巡行伝承にみる『豊後国風土記』撰者の試み」(万葉古代学研究年報 = Annual report of Man'yo historical research (13) 15 - 30 2015年3月)には、海石榴市も血田も直入郡のどこかにあるはずで、撰者が石室を鼠石窟と思い込み、さらに稲葉の川上を大野郡内と誤解したためだと主張されています。

しかし、その場合、来田見邑が直入郡内であり、稲葉の川上を現在の稲葉川のことだとしたら大野郡に戻るのは不自然であるということからの発想ですが、そのような解釈では海石榴市も血田の場所も、更に現在でも鼠石窟は不明となっているようですが、それらすべてが不明ということになります。

鼠石窟のことですが、竹本氏は速津媛が速見郡の行宮で「茲(この)山」と言ったことから行宮から西南方向に位置する直入郡に入る途中に在り、そこでの出来事だろうという見解です。しかし、それならば鼠石窟の青・白を退治する話は省略し、別の石室に居た土蜘蛛が退治されたことになり、これも不自然な話です。

そこで、刮目天が師匠と仰ぐ、邪馬台国宇佐説を最初に学説として提唱された富来隆先生の「鼠ノ石窟と土蜘蛛」(別府史談 No.9 1995. 11 ,p.24- 30)にヒントがありました。つまり、鼠ノ石窟の朝鮮語の発音「チー・トーングル」が「大将(ティ、チ”ャング)」とか「鍛冶屋(ティ、チ”ャングカン)」に類似しているという指摘です。鉄鏃が大量に出土したのは大野川流域です。となるとその流域の鍛冶屋集団を纏めていたのが鍛冶屋の大将「青と白」と考えられます。

そうだとすると、血田は風土記から大野川の支流の緒方川の右岸の河川敷ですので、その上流が鼠石窟ということになります。緒方宮迫西石窟東石窟のある豊後大野市緒方町宮迫の台地に陣を構えていた二人の大将(白は副将でしょう)が景行天皇(建稲種命)の強兵に奇襲されたということだと考えられます。(2021.7.22 赤字訂正)

そうなると竹本氏も「古代において、河川の名称がどこから変わるのかはわからないが、(途中略)「川上」の地をどこと推定するかで、認識も随分と異なってくる。」までは正しいと思いますが、「『豊後国風土記』撰者は、「稲葉の川上」を大野郡内と認識してしまったのではないだろうか。」というのではないようです。

むしろ「日本書紀」の編者が直入郡の来田見邑が稲葉川流域であることから鼠石窟の伝承にあった川上を稲葉川と誤解してしまったのを、「日本書紀」の後に完成したと言われる現存の「豊後国風土記」の撰者は、伝承が緒方川上流であることを原風土記から知っていましたが、「日本書紀」の誤りを修正できず「稲葉の川上」を消して鼠石窟、血田と海石榴市を伝承どおり大野郡の条に記述したのだと考えられます。

不比等は「日本書紀」の編纂にあたり、各地に風土記の編纂を命じています。不比等が集めた原豊後国風土記には史実である尾張王建稲種命の伝承が書かれていたはずです。「日本書紀」の編纂者はそれをもとに景行天皇の熊襲征伐に書き変えたものだと考えています。現存する豊後国風土記の撰者は「日本書紀」に合うように原風土記を書き変えたのでしょう。

上述の石窟の磨崖仏は平安時代後期に作られたものですが(注1)、末法思想から、伝承に在る鼠石窟の激戦の死者を弔い鎮魂のために作られたものと考えられます。大分県に石仏が多いのは恐らく、日本建国時代の戦死者の霊を弔うためではないかと思います。

景行天皇(建稲種命)軍は緒方川上流の戦場から、一気に阿蘇を抜けて倭国の本拠地に攻め上ろうと考えましたが、行く手にはまだ三人の土蜘蛛が残っています。

「また、打猿を討とうとして禰疑山(ねぎやま)を越えた。そのとき、敵の射る矢が横の山から飛んできて、降る雨のようであった。天皇は城原(きはら)に帰り、占いをして川のほとりに陣を置かれた。」(宇治谷猛「日本書紀(上)」講談社学術文庫,1988,p.157)とありますから、すでに景行天皇(建稲種命)は城原に入っており、城原を出て鼠石窟を襲った強兵部隊とどこかで合流したのかも知れません。しかし、福岡県東部の合戦の様子から景行天皇(建稲種命)はそれ程大軍で九州遠征したものでないかも知れないと考えられますから、景行天皇(建稲種命)が直接強兵部隊を率いて鼠石窟を襲撃したと考えて図にその後の経路を記しました。

景行天皇(建稲種命)は城原で体勢を立て直し、禰疑野の八田を破り、白旗を掲げた打猿を許さないのでみんな自ら谷に身を投げたと書かれています。景行天皇(建稲種命)は柏峡(かしわお)の大野(竹田市萩町柏原)に宿られ、そこで神意を占ったとあります。「踏石(ほみし)」と呼ばれる大きな岩のような石を蹴飛ばし「土蜘蛛を滅ぼすことが出来るなら柏の葉っぱのように舞い上がれ」と言って、大空に舞い上がったと書かれています。お願いした神様は、志我(しが)神、直入物部神と直入中臣神だとあります(この神についてはこのシリーズの最後に述べるつもりです)。

そして直ぐに日向に向かう話になりますから、景行天皇(建稲種命)の土蜘蛛退治は失敗したので、悔しくて岩を蹴飛ばしたというのが史実ではないかと思います。前回の遠征ルート図では大分市の下郡遺跡を攻撃するときに舟を係留した場所に戻ったのかと考えましたが、「豊後国風土記 速見郡条」に速津媛の話が以下のように書かれています。
「昔、纏向日代宮御宇天皇(景行天皇)が球磨贈於(クマソ)を征伐しようと筑紫に向かった。そこで周防国の佐婆津(さばつ)から船出して海部郡の宮浦に到った時、この村には速津媛(ハヤツヒメ)という女がおり、この者は村の長であった。」

海部郡宮浦は速見郡ではないことは明らかで「日本書紀」に矛盾します。上の図の佐伯市米水津大字宮野浦だと思います。これは撰者が意図的に書いたものかもしれません。あるいは、伝承では速見邑ではなく海部郡宮浦となっていて、緒方町宮迫を先に攻撃し、禰疑野で土蜘蛛にさんざんな目に遭って、一旦日向まで退却したという伝承だったのかも知れません。前回(その1)に掲載した景行天皇九州遠征図を変更しました。しかし冒頭、速津媛が「茲(この)山に鼠石窟という大きな岩屋があり」とありますので、海部郡宮浦で大野郡緒方町宮迫の台地を指したというのが自然のような気もしますね。

(注1)これらの磨崖仏の名称ですが、南に西石窟、北に「東石窟」とあります。以前から九州で時々おかしな方角になっているのは魏志倭人伝のフェイクによるものだと考えています。でもこの地名はずっと後ですから、元寇と関係あるのかも知れません。つまり九州内部の方角地名を魏志倭人伝に倣い、意図的に変えているのでしょうかね。この現象は長崎県や佐賀県にもみられますよ。


最後までお付き合い、ありがとうございます。
次は日向国から先の話です。
今回も結構ややこしいので、うまく書けませんでしたが、次もよろしくお願いします。
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【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)

2021-07-17 21:50:05 | 古代史
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「日本書紀」巻7の景行天皇の九州遠征の記事と鉄鏃・銅鏃の出土地とがよく合致することをすでに、【検証6】倭国大乱の実相は?で明らかにしました。前回【検証19】では更に古墳時代初頭の列島全体の出土状況を概観しましたので、今回は景行天皇の事績から古代史の真相はどうであったのかを推理していきます。

ここでお断りしますが、刮目天は科学的な手法で歴史を明らかにするのが目的です。しかしこのような活動は、従来からの民間伝承や古社の由緒に基づく地方自治体の地域振興策や日本人の神への信心に反する部分が生じることになるかも知れません。できるだけ表現を考えるように努力しますが、つい調子に乗り過ぎたり、表現力が余りないので図らずも読者の心を傷つけたとしたら申し訳ありません。

といいますのも刮目天の立場は、既にご存知のとおり「日本書紀」は完成当時の権力者藤原不比等がその権力を将来に渡って維持する目的で、藤原氏と神社行政を仕切る同族の中臣氏のために創作したものだと考えて推論を組み立てています。「日本書紀」をよく読めば、至る所で真実を表す歴史でないことが分かります。不比等の意図は、日本建国で活躍した豪族を没落させて、藤原氏のみが繁栄できるようにするためだと確信しています。時には天皇家さえも貶める内容になってることからも分かります(注1)。

さて、そのような視点で景行紀の九州遠征記事を読み解いていきますが、遠征の切っ掛けは「十二年秋七月、熊襲(くまそ)がそむいて貢物を奉らなかった。八月十五日、天皇は筑紫に向かわれた。」ということです。周防佐波(防府市)に到着されるのが九月五日ですが、大和から周防までの鉄鏃・銅族の出土状況を見ると、途中の吉備や広島で戦跡が見られますから、かなりお疲れのようです。様子を部下に偵察させますが、そこに沢山の部下を持つ地元の女首長の神夏磯媛(かむなつそひめ)が白旗を掲げて天皇に背きませんから攻撃しないように言ってきました。さらに、皇命に従わない四人の悪い賊の情報を伝えてきました。賊の居る場所を表と図に示しました。天皇は部下に命じて、四人の賊を誘い出して全部殺したという内容です。


(クリックで拡大)

御木(みけ)川は中津市を流れる山国川ですが、その上流の賊耳垂(みみたり)は、恐らく筑紫平野を防衛する戦略的な拠点と考えられる日田盆地に配置された倭国側の武将でしょう。また、高羽の川上は彦山川の上流のようです。さらに緑野の川上は英彦山神宮の近く深倉川の上流のようです。緑野の地名の由来が「血みどろ」ということですから、激戦があったのでしょう(田川市添田町ホームページより)。福岡県東部海岸では戦跡が三か所見られます。ですから、最初の記事のとおり賊を全部退治したというのではなく、激戦の末、行橋市や京都郡で倭国勢を追い散らし、天皇は長峡(ながお)に行宮を建てましたが、西側の山地に遮られた田川やさらに奥の日田に配置された倭国勢によって阻まれたので、いきなり倭国の本拠地(福岡平野・筑紫平野・糸島平野)には進められず、宇佐方面に進軍したのだと推理できます。

宇佐の川上にたむろする鼻垂(はなたり)ですが、駅館川上流ということですから卑弥呼が居た宇佐市安心院町三柱山です。大国主が最初に国造りをしたのも安心院町佐田地区と推理していますが(「大国主の豊葦原の瑞穂の国はここだった?」)、三柱山は要害堅固の山城になっているので部下を配置していました(「誤解と幻想の卑弥呼」)。卑弥呼の宮室だった三女(さんみょう)神社の西側のV字溝の中から尾張勢が使う銅鏃が発見されていますから、押し寄せたと思われます。大国主の倭国側は半島南部の鉄をふんだんに入手できましたから、兵は銅鏃よりも強力な鉄鏃を使っているはずです。卑弥呼の侍女たちの居住区と推理している宮ノ原遺跡から鉄鏃や土製の投げ弾が見つかっています(「本当に卑弥呼の墓なのか?」)。この時は兵舎があったと思われます。天皇の軍勢は安心院を攻撃した後、直ぐに速見郡に移動していますから、ここを占領したのではないと思います。卑弥呼も死んでいるので、すでに戦略的にも重要な拠点ではなくなっているということです。

そして、次は阿蘇山に続く大分県側の山間部での激戦ですが、まだまだ先はありますので、取り敢えず今回はここまでにさせて下さい。

(注1)しかし現存する日本最古の正史という「日本書紀」は、日本の正統性の根拠資料であるとして、特に戦前の世代は皇国史観の教育を受けて来ています。戦後は学校では教えられなくなっていますが、父祖からそれを伝え聞いている現代の人々からも、「天照大御神」を否定する者は日本人ではないと言われかねない危険も伴います。刮目天の読者は、そういう先入観無しに、刮目天の意見には同意できない部分が多々あるとは思いますが、歴史の真相にご興味があるのでお付き合いいただいているものだと思っています。古代史の科学的探求によって世の中を引っ繰り返したいなどと言う大それたことは考えていません。ですが、唯物論を信じる権力者たちの利権のために今の日本がとても危機的な状況に陥れられているという事実の認識を共有していただき、できるだけ科学的根拠に基づき伝統的な日本人として行動しようとしていることをご理解ください。


ここまでお付き合い、ありがとうございます。
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【検証18】倭国大乱の痕跡だ!

2021-07-09 22:01:40 | 古代史

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二世紀初頭に奴国宮廷楽師師升らのクーデターで奴国が滅亡してから三世紀末に初代天皇(ヤマトの祭祀王)が即位して日本が建国されるまでに、大きな戦が三回あったと考えています。最初の抗争については、魏志倭人伝に「倭国はもとは男王が居たが、往(とど)まるとこ七・八十年であり、その後乱れ、何年も攻伐し合っていた」とあります。范曄「後漢書」には「桓帝(146年~167年)から霊帝(~189年)の時代にかけて倭国大いに乱れ、互いに攻伐し合って、何年も君主が居ない状態になった」と、より詳しく記録されています。魏志倭人伝の記述と異なる范曄を信じない方は、それほど大乱ではなかったのではと想像しているようですが、実際はどんな状況だったのでしょうか?

すでに、【検証6】倭国大乱の実相は?で見たように、倭国というのは師升王が奴国最後の大王スサノヲから奪った領土です。奴国王直轄地の福岡平野・奴国王族の伊都国王の糸島平野、小郡・朝倉などの筑紫平野に加えて佐賀平野が主な領域ですが、唐津付近や長崎県の壱岐や大村・島原半島なども人口は少ないと思われますが、倭国の領域ではないかと考えています。

それ以外の土地はほとんど反倭国の旧奴国王族やそれに従う縄文系の人々の支配下だと考えています。何故そう言えるかですが、古墳時代中期か後期まで列島内で本格的な鉄の製錬は行われておらず、半島の鉄素材を輸入して、列島各地の鍛冶工房で鉄製品を生産していました。ですから、列島各地に鉄素材を供給する力を持った人々と、当時のハイテク冶金技術を持って農機具などの製品を生産する人々、そして鉄製品の流通を支配する人々の首長が各地への配分を決めて権力を持っていたと考えられます。各地の部族長などは、これらを支配する首長、つまり大王の傘下に加わり、それぞれの部族内で権威と権力を高めたのだと考えられます。これが、首長墓の大型化に繋がり、古墳時代の幕開けとなります。日本列島はこの大きなうねりのような動きに乗って建国されたのです。

弥生時代の半島の製鉄遺跡は主に慶尚南道と京畿道に発見されています(関 清「東アジアにおける日本列島の鉄生産」日文研叢書巻 42、pp.311-326)。紀元前108年、前漢武帝は真番郡と楽浪郡を置いてそれぞれの地域の鉄を管理したと考えられます。しかし、武帝が拡大政策をやり過ぎて財政的に疲弊して、すべての地域を直轄管理できなくなったので、前82年に真番郡を廃止しています。

その後を受けて主な供給先である列島への鉄素材の供給を奴国大王が抑えたのだと考えられます。スサノヲ大王の時代には製鉄の現場に直接乗り込んで、奴国が独占的に供給・流通を抑えるように交渉したと考えています。紀元前から奴国は慶尚南道の倭人たちと同族のようですから、繋がりが深く、その中心都市である釜山市の莱城遺跡で発掘される土器の9割以上が北部九州の弥生中期前半の土器だそうです。ですから、古くから奴国が半島南部の鉄の製錬工房の秦人らと関係を深めて、列島への鉄素材の供給を支配し、対価として列島内の珍しい産物を入手して楽浪郡の華僑らと交易することによって隆盛になったのでしょう。(注1)

そういう地盤があったので、奴国が滅亡した後もスサノヲ大王の血を引く久々遅彦が鉄素材と製品流通の利権を持って奴国の復興に寄与したものと考えられます。

下の図は、弥生後期後半の列島内の鉄鏃・銅鏃の出土状況を示したものです。北部九州が倭国の領域でそれ以外は旧奴国側の支配下として記号の色分けをしています。「住居」で発見された鉄鏃・銅鏃は主として、集団戦の準備のために竪穴住居の床に炉を作って鉄あるいは青銅製の矢尻を製造していたことを表しています。「墳墓」で発見されたものは、主に戦闘で矢傷を負った兵士らが埋葬されたものでしょう。環濠や溝で発見された鉄鏃・銅鏃は集落を外部から攻撃した勢力のものと考えられますから、明かに「戦跡」でしょう。ただし、地域的に戦跡のほとんど見られないところで出土したものは大規模な集団戦の痕跡ではないと思われます。仲間割れか何かの小規模な抗争を意味し、倭国や列島のかなりの領域を巻き込んだ大乱とは関係ないものではないかと推理できます。


(クリックで拡大)

このような見方で、この図を見ると大規模な集団戦は主として北部九州で起こっていることが直ぐに分かります。そして、倭国を攻撃していたのは、後で詳しく見ますが、出土状況から主として熊本県北部を流れる菊池川流域の集団だと考えられます。それを支えるのは阿蘇の鍛冶工房群と、さらに大分県側の竹田市、豊後大野市など大野川流域の鍛冶工房の集落だと分かります。

鉄鏃の素材は、半島南部の狗邪韓国から海北道中ルートで運び込まれた板状鉄斧です。阿蘇の集落では湖沼鉄(褐鉄鉱)による小規模な製鉄も行われたと考えられてはいますが、やはり大量の鉄製武器を作る必要があるので、メインは半島の鉄素材です。そして、兵士や武器製造に従事する専門工人は列島各地からやってきていると考えられます。菊池川流域の方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡では山陰や畿内の土器が見つかっています。九州の外の出土地を見ると山口県、岡山県、鳥取県、高知県、香川県などで多く出土しています。やはり戦場に近いので緊張感を持って鉄鏃が作られていることを表しているようです。なお、「その他」として計上したものは、土器だまりなどの土坑、食糧貯蔵用のピットなどで見つかったものや、出土位置の不明なものです。中には戦跡に数えるべきものがあるかも知れませんが、主戦場とかけ離れている孤立した場所では大乱を直接表すものではないと思われます。

そして北部九州の戦跡を細かく調べてみました。

(クリックで拡大)

先述の方保田東原遺跡から多くの兵士が丸木舟にのって菊池川を下り、有明海に出て佐賀県の倭国側の環濠集落を襲ったようです。さらに奥に進み、佐賀県と福岡県の県境あたりでも激しい戦闘が行われたようです。難升米王かその先代の倭国王が伊都国の三雲遺跡に王宮を造っていたと考えています。その王宮も含めて福岡市西部の遺跡でも戦跡が見られます。倭国は誰が統治者か分からない程の大乱だったことを示しているようです。しかし、三雲遺跡とその周辺の戦跡は終末期のものである可能性もあります。つまり、247年3月24日の日食によって卑弥呼が暗殺された後の、狗奴国の追討軍が王宮に押し寄せた痕跡かも知れません。しかし野方中原遺跡にこの時代の明確な戦跡もありますから、ここまで狗奴国勢に攻めこまれたのは確かでしょう。

しかし、驚くべき大発見がここでありました。北部九州は列島内の他所に比べて鉄製品が数多く出土していますので、この大乱ではすべて鉄鏃が用いられていたと考えていたのですが、何と糸島半島と福岡市西区と東区の遺跡で銅鏃が住居内で造られていました。倭国王は半島が混乱していたので、楽浪郡との交易が出来なかったようです。鉄素材が不足していたので青銅器を溶かして銅鏃を作っていたのだと推理できます。

さらに、狗奴国側の最前線基地の集落方保田東原遺跡とうてな遺跡の溝で鉄鏃と一緒に倭国勢の銅鏃が発見されました。これだけならば戦況は一進一退だったのかも知れないと思われますが、しかし倭国側が前線基地を攻略して、恐らく主将として戦闘を指揮していた大国主の先代の久々遅彦が戦死したその痕跡だと推理しました。

その直前の、204年に遼東太守の公孫氏が半島の混乱を鎮めて楽浪郡の南側に帯方郡を作りました。窮地にあった倭国王難升米は早速、朝貢し支援を求めたのだと推理できます。公孫氏の支援を受けた倭国側は勢いを取り戻し、菊池川流域の狗奴国の前線基地を破壊し、大活躍していた大将まで討ち取ったので、海北道中ルートを支配していたムナカタ族は途方に暮れたと思います。そこで難升米王がすかさず彼らへ懐柔工作を行ったものと推理できます。難升米王は戦略的に重要な鉄供給ルートを断てば狗奴国は衰退せざる得ないと考えたと思います。ムナカタ族は王族卑弥呼が巫女として太陽神の神託を告げて政治を行う方式でしたが、難升米王は伝統的な倭国の祭祀にこれを取り入れる譲歩をしたものと考えられます。

それまでの倭国では死者の埋葬は、主として甕棺が用いられていたのですが、急に衰退して、縄文系と考えられる石板を組み合わせた箱式石棺に変わっていますから、当時としては伝統を捨て去る大改革をしたのではないかと推理しました。つまり、倭国王難升米は伝統的な祭祀儀礼に、縄文系の姫巫女による太陽神の神託を取り込む戦略的な譲歩をしたのだと思います。難升米王は、公孫氏との交渉を成功させました。後に魏の帯方郡太守とも交渉し親魏倭王の印綬を授けられましたから極めて優秀な人物だったと考えられます。魏志倭人伝から卑弥呼が二十代後半か三十才あたりで女王に共立されたと考えられますから、その男弟であるとした難升米は、卑弥呼よりも年下ですので戦略眼のある柔軟な頭の持ち主の優れた若者だと考えられます。(注2)

(注1)この地域にはシナ人が秦の始皇帝の圧政から逃亡してきたという伝承があり、中には、鉄の製錬・冶金技術などを持っていたシナ人たちが製鉄に携わっていたはずです。

12世紀中頃に完成した「三国史記」の新羅第四代王脱解尼師今は倭人です。さらにその孫が第九代王伐休、さらにその孫が第十代から十二代王で、脱解王の子孫が新羅の王だったと記録とされているので、弥生時代後期の列島への鉄素材供給はこれらの倭人の王たちが仕切っていたと考えられます。

脱解王は倭国の東北千里にあった多婆那(たばな)国の出身とされています。すでに弥生中期から丹後半島の奈具岡遺跡などで玉造りを行っており、その鉄製の工具なども、半島南部の鉄素材を入手して、ここの鍛冶工房で生産していたようです。同様な遺跡が峰山町の途中ヶ丘遺跡で、弥生後期まで鍛冶工房での鉄製品の生産などは続いていました。スサノヲ大王の子孫が狗古智卑狗(久々遅彦)として代々、玄界灘と日本海沿岸部を主要な活動域として物流を担っていた縄文海人族を束ねる王となっていたと考えています。魏志倭人伝では狗奴国の王卑弥弓呼よりも先に登場させてた狗奴国王の最有力の臣下です。狗古智卑狗は代々、スサノヲ大王直系の子孫で、縄文海人の王が襲名したと考えています。 脱解王はスサノヲ大王がモデルで、脱解王の後継者は丹後半島周辺を拠点としていた狗古智卑狗がモデルではないでしょうか。「日本書紀 垂仁紀」に新羅王子の天日矛(アメノヒボコ)が帰化する話がありますが、天(アメ)氏は奴国王の姓と考えられます。これも狗古智卑狗をモデルとして創作されたものでしょう。ですから、脱解王の出身地の多婆那国というのは丹波の奴国を意味するのだと考えられます(丹後半島の付け根辺りから丹波(たにわ)と呼ばれたようです)。

(注2)東大寺山古墳に副葬された中平年銘鉄刀は公孫氏から難升米の先代倭国王に贈られたものかも知れません。この古墳は卑弥呼を祀る和邇氏のものだと考えられ、魏の司馬懿に公孫氏が滅ぼされたので、ムナカタ族の族長に難升米が与えたものが伝世されたものかも知れません。
中平紀年銘鉄刀は卑弥呼のものか?

【関連記事】

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)




最後までお付き合い、ありがとうございます。
次は、終末期から古墳初頭の鉄鏃・銅鏃の出土状況に基づき推理していきます。
通説と違うので、推理が飛躍しすぎだと感じられるかもしれません。
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『魏志倭人伝』も『記紀』もフェイクだよ(^_-)-☆

2021-07-03 23:00:38 | 古代史
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和三年(2021)7月3日(土曜日)
通巻第6972号
(読者の声2)貴誌6970号の書評欄において現代史一転して、「かくて本書を読みながら評者(宮崎)の論理的推理の結果は、「やっぱり『魏志倭人伝』はフェイクだ」。と言う大胆な仮説を導かれています。
その大胆さに誘い出されて質問です。フェイクとする根拠につきまして、差し支えない範囲でご教示いただけませんでしょうか。
私は、古今東西を通じて謀略は程度の差はあっても行われていたと考えています。
然し乍ら、それは、自分に有利になるような、何らかの目的があってなされるもので、謀略を行う価値のないところに手間暇をかけるような物好きまではやっていなかったと考えています。
そのような目で、『魏志倭人伝』を見た場合、言われるようなフェイクを仕掛けることで魏や陳寿にとってどのようなメリットが見込まれるのか(何のためにどこまでのフェイクを仕掛けたのか)という点が、甚だ理解しにくいと考えています。ご見解をお聞かせ頂ければ大変有り難いと思います。
  (高柴)

(宮崎正弘のコメント)フェイクは「だます」「でっち上げる」『偽造する』などの意味があり、目的は騙すことと、そのための偽造文書(典型はユダヤの陰謀説)がつくられます。
 魏志は、魏王朝の正統化が目的で倭人伝は附録のように付け足しで書かれていて、日本を倭などと蔑称して、ほとんどが彼らに耳障りのよい伝聞だけを集めていますが、邪馬台国の卑弥呼がその象徴的な捏造のたぐいと考えられます。
 邪馬台国なる王宮跡も、御陵も痕跡がないこと、まして卑弥呼を祀る神社がないという事実は、何を物語るのでしょう。
 現在の古代学者の多くが考えている邪馬台国とは、筑紫地方にあったのではなく、奈良の巻向あたりが伝聞として重複しているのではないかとするものですが、いずれにしても外国の文献を、日本の学者が金科玉条のように崇めるのは、自虐的であって、自律性の欠如です。
 魏志倭人伝が意図したのは、邪馬台国と魏がつよい絆で結ばれていることを誇示し、西の脅威(蜀など)を牽制したのだというのが岡田英彦説です。
 なお、小生は古事記を見直すため、伝説の現場のほとんどを何回かに分けて歩き、『歩いてみて解けた古事記の謎』(仮題)に取り組んでおり、まだ脱稿には到りませんが、秋頃に上梓できる予定です


西晋の史官陳寿が「三国志」を編纂した目的について、ご指摘される魏王朝の正統化はおっしゃる通りですが、その奥には西晋の基礎を築いた魏の武将で、後に西晋の宣帝とされた司馬懿の功績を称えるのが第一の目的です。それによって陳寿のパトロンで西晋の実力者張華の顔を立てるためです。張華は290年のクーデターで実権を握りました。勅令によって「三国志」を公認させ、多数の役人に書写させ、正史の資格が与えられて後世に伝わったと岡田英弘「日本史の誕生」(弓立舎1994年、p.70)にあります。

魏志倭人伝はそのような政治文書「三国志」の一部ですが、陳寿は、邪馬台国への行程記事や風俗記事などは主に倭国への魏使の報告書に基づいて編纂したと考えられます。その報告書の内容ですが、これは更に政治的な潤色が加えられていることが、これらの記事から分かります。以下はその真相を推理したものです。

238年、司馬懿は遼東太守公孫氏を滅ぼして魏の明帝曹叡の信頼を勝ち取り、次の少帝曹芳の補佐役に就きました。翌年正月に明帝が崩御し、司馬懿は、その最大のライバルであった曹爽を抑える目的で、倭国を手なづけるために部下の劉夏を帯方郡に派遣しました。六月、倭国は大夫難升米を郡に派遣し、太守劉夏と朝貢について打ち合わせ、十二月役人を伴わせて洛陽に行かせました。曹爽は、魏の武帝曹操の甥の曹真の子です。曹真は229年、西域の大国「大月氏(クシャン帝国)」に朝貢させ、蜀を挟み撃ちにする魏最大の功績をあげて軍事の最高職大司馬に就いた人物です。大月氏王の波調(バースデーヴァ)には親魏大月氏王の印綬が与えられました。曹真はその後まもなく病死しましたので(231年)曹爽が大司馬を引き継ぎました。ですから魏の実力ナンバー2の司馬懿が倭国を懐柔する理由は、それを朝廷の人々に曹真を超える魏最大の功績と認めさせるためなのです。

そのために、倭国に関して、以下のようなことにして邪馬台国への行程記事を劉夏に報告させました。
(1)洛陽から大月氏の都カーピシー(現在のアフガニスタンのバグラーム)まで万六千三百七十里と知られているので、倭国の都邪馬台国までの距離は、それを超える万七千余里としたい。そのために(当時、楽浪郡まで五千余里と知られているので)、その南の帯方郡から東南方向に万二千余里に邪馬台国(女王国)があるとした。
(2)倭国の人口が十万余戸の大月氏よりも多い大国とした(邪馬台国七万余戸、投馬国五万余戸、奴国二万余戸など)。
(3)倭国のことを知らない朝廷の人々の興味を惹くために、倭国が女王に統治される、大月氏国よりもエキゾチックな東夷の大国で、戦略的にも魏の最大のライバルの呉を東の海上から圧迫して抑え込めるとした。

ですから行程記事をいくら真面目に読んでも万人が納得できる場所にたどり着けないのです。
行程記事はフェイクだからです。

なぜそこまで言えるかですが、その根拠は以下のとおりです。ちょっと長くなって恐縮ですが、最後までよろしくお願いします。

〇当時の中国で使われていた里程は1里約450メートルですので、帯方郡から東南方向に万二千余里は約五千キロとなります。これでは日本列島を通り過ぎてニューギニアくらいまで行くことになってしまいます。そこで多くの研究者は1里約70メートルとする倭韓地短里説を主張しますが、各地点の1里当たりの距離はバラバラですので、つじつま合わせの説でしかありません。

〇当時の倭国では奴国(那珂・比恵遺跡群約164ヘクタール)に列島最大の交易センターが置かれ、その人口が最大の大都市であることが知られています。それに匹敵するような列島内の大都市と考えられる吉野ヶ里遺跡(約117ヘクタール)や纏向遺跡を邪馬台国と考える説がありますが、前者は奴国の2/3程度です。後者も大型建物のある南北1.5キロ・東西2キロ(約300ヘクタール)と広大な弥生遺跡ですが、主として巨大な前方後円墳を含む墳墓群などの祭祀施設や東国などの王・高官が居住したり祭祀などで使用する掘立柱の建物が多く、周囲に大きな水田もなく、主として祭祀目的の政治都市です。吉野ヶ里の面積の約3倍、奴国の約1.5倍ほどの面積があるようですが、それほど大きな人口を抱える大都市ではなかったようです。

さらに、纏向遺跡が邪馬台国ではない決定的な証拠は、ヤマト王権が成立する三世紀初頭から後半にかけて北部九州の人々との交流の痕跡がないことです。福岡県糸島市の伊都国に置いた一大率は女王に贈られる貢物をチェックして間違いなく届ける役目もありますので、その部下たちが行き来した痕跡のない纏向遺跡は女王の都ではあり得ないのです。

〇倭国大乱と呼ばれる争乱を収めるために女王に共立されたとされます。しかしそのような倭国を統治する巫女の女王が、本当に存在したとは考えられません。当時の巫女は、奈良県唐古・鍵遺跡の絵画土器に見られるように鳥の羽を着けて下半身を露わにして、記紀に依れば男性の祝(はふり)が奏でる琴の音に合わせて踊ります。トランス状態となって神が憑依し、神託を男王に告げることが巫女の役割です。卑弥呼以前に女王が存在したことを示唆する天照大御神の神話はありますが、考古学的証拠はありません。(注1)

むしろ、卑弥呼の死後に男王が立ったので内戦となったと記録されており、そこで卑弥呼の宗女で13歳の台与が女王に立てられています。つまりこの争乱の勝者である人物によって形式的に卑弥呼の跡継ぎにされただけで、卑弥呼と同様の姫巫女で、自らの意思で女王に立った訳ではないと推理できます。卑弥呼も台与も同じ部族(縄文系ムナカタ海人族)の王家の子女と推理しています。琉球神道が卑弥呼らと同じ縄文時代の伝統をかなり引き継いでいるようです。

そして丁度、二人目の魏使張政が難升米に黄幢(魏の正規軍の黄色い旗)を与えるために倭国に来ていて、事件を目撃しています。難升米は軍事を統括する倭国の男王だったと推理できます(孫栄健「決定版 邪馬台国の全解決」言視舎 2018,pp.227-302)。魏志倭人伝では卑弥呼の政治を補佐する男弟となりますが、刺史の役割の一大率でもあり、唯一伊都国に男王が居たと記録されていますので、伊都国に住む倭王だと推理できます。

〇下級役人だった張政が266年の台与の西晋への初朝貢と合わせて帯方郡に帰還していますので、約20年間倭国に滞在して台与の政権を魏が後ろ盾したことを意味します。そして平壌から南へ50kmで帯方太守張撫夷の墓が見つかっていますので、張政こそ倭国を手なずけた功績で太守に出世した人物だと考えることが出来ます。

もしも、難升米王が男王に立とうとしても元々倭王ですから内戦になるはずありません。難升米王はすでにどこかに消えたことを意味します。丁度、狗奴国との抗争が激しくなった時期だと記録されていますので、狗奴国が倭国に押し寄せたので、倭国から王が帯方郡に逃亡し、その後に狗奴国の軍勢の中で誰かが倭国王に立とうとしたために内戦が起こったと考えるのが自然です。

大夫と自称した難升米の正体こそ、師升の子孫の倭国王でムナカタ海人族を懐柔して姫巫女卑弥呼を女王に共立した人物だったと考えられます。

ですから、公孫氏滅亡後に難升米が直接帯方郡に足を運び、太守劉夏と談合して邪馬台国への行程や風俗を教え、劉夏が記録したと推理できるのです。

従来は「日本書紀」に倭国に漢字が伝わったのは四世紀の百済からとされていましたが、近年、当時の北部九州の弥生後期の遺跡から硯や木製組机などが発見されており、難升米らが漢字などを読み書きできるし、孟子も読む教養人であったことが分かりました。ですから、倭国内の地名や官職名・人名なども難升米が漢字を書いて伝えたと考えられます。伊都国だけが良い意味で殷王朝成立に貢献した政治家伊尹(イイン)に因む国名ですが、それ以外のほとんどのものが貶めるような卑字を多用しています。

さらに延光四年(125年)と書かれた文鎮様の銅片「室見川銘板」が伊都国の東側のこの河口付近で発見されています。師升王の出自は奴国の宮廷楽師・司祭で、クーデターにより倭国を乗っ取ったと推理したことを裏付けるものです。伊尹は「後世、伊尹は名臣として評価されているが、太甲の追放の一事に関しては、臣下でありながら主君を押し込めたこと、簒奪ではないかということが議論されることになる(孟子・尽心上篇)。有力な臣下が仲の悪い主君を追放したとする見方もある。」とあり、奴国王を廃した師升と重なります。(2021.7.5 赤字訂正)

難升米が師升王の子孫であることは、その姓が示しています。倭を金印には委と書かれたように、難は儺のニンベンを省略した字と見ると、儺は鬼やらいを意味します。鬼のようなスサノヲ大王を追放した(実際は殺した)師升王の故事に因み、儺升(難升)を王の姓としたと分かります。奴国を後世に儺県(なのあがた)と書いたのも故事に因むものでしょう。

奴国最後の王は「新唐書」・「宋史」に記された天御中主を初代王とする「王年代紀」第18代王素戔嗚尊であることも記紀神話から分かります。乱暴者のスサノヲが高天原の神々から手足の爪を剥がされて、財産もすべて没収されて追放されたとありますが、師升らに捕らえられて、拷問を受けて殺されたと推理しています。奴国王の金印の在りかを白状させるためでしょう。それが出来なかったために大人数の奴隷を献じて倭王に認めてもらうために朝貢したと考えられます。これによって神話のこの部分は史実に基づく話であって、高天原が筑紫の日向の宮を王宮とする奴国であったとシナ人に認識され、これらの史書に「日本は古の倭の奴国」であると正しく記載されましたから分かります。

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆日本神話は不比等が創作したことが分かります。江戸時代まで多くの人は伊勢の神と三輪の神は同じヘビの化身(天照皇大神大国主命)と信じていました。神仏習合、修験道や道教の影響を受けた記紀神話と全く違う神話が語られていたのですよ(^_-)-☆。


また、アマテラスというのは「日本書紀」で持統天皇の皇位簒奪を正当化するために藤原不比等によって創作された女神です。本当の天照大神尊は王年代紀でスサノヲ大王の後を継いだ第19代王です。奴国を脱出したスサノヲの弟ニギハヤヒが吉備を平定してヤマト王権の基礎を築いた人物と推理しています。

神武天皇の東征神話では、即位する前にすでにヤマトに降臨していた饒速日尊(ニギハヤヒ)が登美長髄彦(ナガスネヒコ)を斬った神話は、最初のヤマトの祭祀王(初代天皇)がニギハヤヒの直系の王によって擁立された史実を意味しています。神武東征神話は神功皇后が仲哀天皇の皇子たちを滅ぼして第15代応神天皇を即位させた話とも似ていますが、同様に初代天皇の即位の経緯を誤魔化すために創作されたものです。神功皇后紀の左注に卑弥呼と台与の魏志倭人伝や西晋の起居注を引用していますので、日本書紀の編者は日本建国の史実を知っていました。その上で史実を神話に閉じ込めたわけです。ニギハヤヒはこの文書の最後で分かりますが、日本書記で吉備津彦と云うことにされて史実が隠されました。(注2)

つまり、日本建国の史実は、編纂当時の権力者不比等にとって不都合だったというわけです。彼は藤原氏の権力を末長く保たせるために、娘の宮子を文武天皇に嫁がせ、701年に首(おびと)皇子(後の聖武天皇)を出産して、外戚の地位を得ました。同年大宝律令を制定し、708年に義兄の中臣意美麻呂を朝廷の祭祀を司る長官神祇伯に除し、建国時代に活躍した地方豪族の神社も管轄させて国家祭祀に倣うように社名や祭神の変更などを強権で行って、720年に「日本書紀」の完成を見て亡くなっています。(注3)

史実に最も近い話が、崇神天皇が大物主(大国主)の祟りを抑えてもらうために神託に従って子のオオタタネコを呼んで祀らせた話です。崇神天皇がニギハヤヒの子孫狗奴国王卑弥弓呼だということです(代々襲名したようです。初代卑弥弓呼が纏向に旧奴国王族を呼び寄せ、都を建設した王で210年頃築造された纏向最初の前方後円墳石塚古墳の被葬者だと推理しました)。

天照大神尊ニギハヤヒ大王の直系の王が、纏向に旧奴国王族を集めて恨みのある師升王一族とニギハヤヒを裏切って倭国側についた卑弥呼のムナカタ族らを追討するために、倭国追討軍を送りました。丁度その時期に日食が起こり(北九州で皆既日食、伊都国で海に沈む珍しい日没帯食)、卑弥呼の霊力が衰えたとして難升米王に暗殺されましたから、倭国の結束が乱れ、難升王は恐らく親魏倭王の金印を持って半島に逃亡したと思われます。そして、追討軍の主将だった旧奴国の有力者尾張王が倭国王に立とうとしたと推理しました(纏向遺跡の外来土器の半数が東海のもの)。そこで追討軍に参戦していた山陰から北陸までを支配地とするムナカタ海人族を束ねたスサノヲ直系の子孫狗古智卑狗(久々遅彦、豊岡市久々比神社の祭神、スサノヲの子イタケルと同じ木霊で上棟式の祭神)が尾張王と対立し、千人ほどが死んだと記録された内戦になります。結局、尾張王は殺され、上述のとおり、台与を女王に立てて魏を後ろ盾とする倭国王となり、纏向の狗奴国を裏切って対立します。卑弥呼の倭国に加えて日本海側も版図にしたので、久々遅彦は後世に大国主と呼ばれた人物です。記紀神話では武内宿禰(住吉大神、サルタヒコなどなど)、台与が神功皇后、尾張王が神託を疑って直ぐに崩御した仲哀天皇、という具合にそれぞれの実在人物をモデルにして神話が作られています。

そこで、殺された尾張王の仇討のために後を継いだ人物が大国主と台与の倭国を攻め滅ぼします。神話では大国主の国譲りです。タケミカズチが尾張王で、景行天皇の熊襲征伐の話の遠征ルートが鉄鏃・銅鏃の出土と一致することから分かりました。つまり孫の仲哀天皇の敵を死んだはずの祖父景行天皇が討った話なのです。

尾張王はニギハヤヒの子孫です。そしてニギハヤヒに殺されたナガスネヒコこそ大国主のことだったのです。大国主が死んだ後に祟りが起こったというのは、魏の後を継いだ西晋がライバルの呉を滅ぼして三国を統一したので、西晋に朝貢していた倭国を亡ぼしてしまった纏向狗奴国が西晋から追討されることを怖れて、大国主と台与の子ホムダワケをヤマトの祭祀王とした史実のことだったのです。

登美はトビ、つまりヘビを指します。神話のナガスネヒコが龍蛇神(奴国大王)の大国主のことだったのです。大国主ほど別名を多く持った神は居ません。何故ならば、日本建国の歴史を消した大和朝廷が最も畏れる神だからでした。狗古智卑狗は魏志倭人伝では狗奴国の官として、王よりも先に紹介された人物であり、日本建国の謎を知る張政の相棒のような存在の倭国王になった重要人物だったから先に登場させたのだと推理できます。

だから、朝廷は天変地異などが起これば、大国主を筆頭に、建国時代に不幸な死に方をした女王台与と卑弥呼を祀る神社に勅使を送り、神階と食封を捧げて鎮魂の儀礼を行うようにしていることからも分かります。四柱の神だけが皇族に与える位階と同じ品位が贈られています。

一品 伊佐奈岐命 (淡路国 伊弉諾神宮)
   八幡大神、八幡比咩神 (豊前国 宇佐神宮)
二品 吉備都彦命 (備中国 吉備津神社)


伊弉諾尊は国生みをした皇祖神ですが、呉王族と縄文海人王族イザナミ姫との子孫に皇位が継がれることになっているので、特別なご存在なのです。

八幡大神は通説では、第15代応神天皇とされていますが、その父大国主が正体です。宇佐神宮寺弥勒寺の本尊がその名のとおり弥勒菩薩であり大国主の本地仏なのです。首長霊信仰から首長と祖霊は一体化されると信じられています。神と名前を交換することも襲名も同じ考え方です。

八幡比咩神が宗像三女神の主神イチキシマヒメ卑弥呼と、大国主との神婚神話のあるタギリヒメとタギツヒメが応神天皇の母台与のことなのです。卑弥呼神社がないと言っている方は、誰がこのような名前を付けたのか気付いていません。縄文海人ムナカタ族のイザナミ姫と同じ母系の姫巫女のことを難升米が劉夏に書いて教えたからです。旧奴国を狗コロの奴国とした犯人も難升米です。漢字の分からない無教養の倭人をバカにしたので罰が当たったようです。多分、張政は帯方郡に手を回してもう用済みとなった難升米はどこかで人知れず消されているはずです。

細かい話は置いといて、雰囲気はお分かりになったでしょうか?

日本の建国が謎なのは魏志倭人伝も日本書紀も古事記も

肝心なところがフェイクだったからです。

ですから、従来のやり方では真相にたどり着けなかったのです。

しかし真相にたどり着くヒントはあります。科学的な手法でフェイクから真相を導く仮説推論(アブダクション)が有効ですよ。

推理作家か探偵になるつもりでやってみてください。楽しいですよ。

でも、多くの方は仮説で留まってしまいますから、
考古学などの成果を使って検証しないと、
仮説は事実に基づかないものでしかなく、
単なる古代妄想でしかないですよ。
いや、浪漫あふれる妄想ですから楽しいのですが、
妄想には必ず弊害があることをお忘れなく!(注4)

検証を繰り返すと今まで見えなかったことが、どんどん分かってきますよ!
余りやり過ぎると纏めるのが大変ですけど!
纏める必要もないかも知れませんが(*^-^*)



【関連記事】古代史の謎を推理する


(注1)平原王墓を卑弥呼の墓とみる説がありますが、魏志倭人伝の記述とは大きく異なる墓の形をしています。女王台与の墓だと推理しています。
【検証4】平原王墓の被葬者は誰だ?

(注2)【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?

(注3)不比等は、日食が原因で殺された卑弥呼を祀る和邇氏の神社の名を日群れの社に変えるようにしています。また本来八幡神として祀られた卑弥呼の存在を消すために、712年、宇佐神宮の前身である鷹居社を造り、八幡大神という名で応神天皇を祀らせました。原八幡神卑弥呼を比売大神(宗像女神)と呼ぶことにして、新たな八幡大神として大国主を主神として宇佐地方で祀らせて主位の座を奪わせ、さらに大国主から子の応神天皇にすり変えて、卑弥呼の記憶を徐々に葬ることを構想したのだと考えられます。応神天皇の伝承は後で作ったもので、元々宇佐にゆかりがあったわけではないので分かります。

(注4)日本書紀が行った最大のフェイクは、女性天皇の存在です。原理的に女性は巫女(神の妻)でしかなく天皇にはなれないからです。日本を滅ぼしかねない不比等の悪ふざけです。江戸時代までは伊勢神宮の祭神が誰だか知っていました。謡曲「三輪」が「今さら何を磐座や!」と伊勢の神と三輪の神(大国主)は同じ神とばらしていました。明治維新で平田 篤胤の復古神道を国学に入れて国民教育したので、不比等のフェイクで国民が洗脳されたのです。この話題はいくつか書いていますので、女性天皇で拙ブログを検索してみてください!

【参考】
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和三年(2021)7月2日(金曜日)
通巻第6970号
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  書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIEW 
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 かくもフェイクだらけが「現代史の『真実』」だ
  諜報工作とは攪乱、陽動、恐喝、誇大宣伝、偽情報が氾濫するプロの世界

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有馬哲夫『一次資料で正す現代史のフェイク』(扶桑社新書)
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 嘘を信じ込まされてきた。現代史は嘘に満ちているのだ。
 例えばチャーチルは真珠湾攻撃を事前に知っていた。戦後、世界史シリーズや、大森実らの所謂「偉人伝」を読んでも、こうした真実は出てこない。これまでの通説では、ルーズベルトから真珠湾攻撃を知らされ、狂喜したチャーチルが「これでわれわれは同じ穴の狢(むじな」だ」と言ったとされた。
大東亜戦争を長引かせたのはアメリカの無条件降伏という原則だったのであり、日本軍の頑迷さの所為ではなかった。日本の決断ののろさを指摘する史家が多いが、そうした分析もGHQの洗脳の結果かも知れない。
 目から鱗が落ちる現代史の真実を、著者は欧米のアーカイブを訪問し、資料を精査して、多くの裏付けを取った。
じつに時間とエネルギーのかかる作業である。
 その結果、ヤルタ協定の内容はヤルタで決められたのではなかったこと、小野寺信は英国諜報部の欺瞞工作のカモだったことなどが分かった。
 通説では日本の真珠湾攻撃を米軍は事前に暗号解読で掴んでいたが、海軍の暗号が察知できなかったことになっていた。ところが、これも米国はちゃんと知っていたことが、公文書館の文献やその他の証言から分かった。

 小野寺信がヤルタ至急電を大本営参謀次長に打電していたというのは「神話」であり、史実ではなく、英国情報機関の欺瞞工作にひっかかったというのが欧米の共通認識であるという。
 フェイク情報は「日本軍およびドイツ軍を攪乱するための偽情報だった」(中略)「背後で繰っていたのは、イギリス諜報部IM6」だった。諜報活動というのは、一種インテリジェンス戦争であり、敵の裏の裏をかく、その裏の裏をかくというのがゲームの鉄則である。
そして著者はこういう。
「事実として、小野寺が打電したというヤルタ会議に関する暗合電報は、イギリス国立公文書館からもアメリカ国立第二公文書館からも出てこない」(66p) 
 以下、本書はフェイクの羅列があって、「日本はソ連の参戦を知らなかったという嘘」、「アメリカが原爆投下を事前警告したという嘘」、「ソ連が原爆投下と無関係というのも嘘」、「中国の尖閣諸島に関する主張はフェイクだらけ」となる。
 最後に「クマラスワミ報告書は最悪のフェイク文書」ということなる。
 こうした騙し合いは、孫子の昔から戦争の鉄則だったと言っても良いが、お人好し日本人はその発想が希薄なのである。
かくて本書を読みながら評者(宮崎)の論理的推理の結果は、「やっぱり『魏志倭人伝』はフェイクだ」。
       ☆◎☆☆◎□☆□▽◎☆▽◎□☆◎☆◎▽
 


難升米が持参した金印が平壌辺りで発見されるといいな(^_-)-☆
最期までお付き合い、感謝します。ちょっと自分で書いていてこんがらがっていますし、
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
応援をしていただき、感謝します。
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