刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

本当の古代史はどこに?(^_-)-☆

2023-06-11 10:57:35 | 古代史
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刮目天
ほとんどの日本人は、記紀神話が太古から日本人が伝えてきた史実に基づく話だとなんとなく思っていますが、神話や歴史書が真実に基づいて作られているのならば、考古学や民俗学などの成果と合致し、謎は存在しません。古代史が謎だらけなのはそういう誤った思い込みで歴史を見ているから起こるのですよ。

現存する最古の正史「日本書紀」は天武天皇が編纂を命じたので天皇のための歴史書だと学校でも習っています。しかし崩御から34年も経って、時の権力者藤原不比等によって完成されています。

先に完成されたという古事記ですが、日本書紀を講義していた9世紀の学者が突然、その存在を明かしたもので、それ以前の正史にそれが存在する記録は全くありません。日本書紀も古事記を引用したと分かるものはないのです。古事記はその学者が作った歴史書なのです。

一部の卜占を担当する氏族が細々と伝えていたのですが、江戸時代に本居宣長が古事記を発掘し、高い評価を与えました。その影響を受けた平田篤胤が復古神道を提唱し、幕末の志士に人気となりました。

明治政府は、西欧列強に対抗して国民をまとめるために復古神道に基づく国家神道を創設しました。それまでの日本人が伝えてきた神仏習合、山岳信仰の修験道、道教などの影響を受けた、記紀とは異なる神話が語られていたのを、神仏分離令によって破壊しました。新たに作られた記紀神話に基づいて国史が教育されましたので、戦後は学術的な研究が自由になりましたが、記紀神話は国民に定着しています。

つまり、記紀神話は藤原氏が政権を正統化・正当化するための政治文書だったのです。

これは、考古学・民俗学などの成果に基づいて仮説を検証して得られた結論です。

また、古事記は日本書紀に添いながら所どころで違えることにより、隠された真相に導く暗号書だったのです。空白の4世紀や倭の五王を調べて分かりました。

不比等が隠した歴史で最もやばい話は現実には存在しなかった女性天皇の存在です。藤原氏が政権を維持するために作られたフェイクなのですが、今の日本人の8割が女性天皇を待望し、女系天皇まで容認していることです。これによって易姓革命が起こるかも知れませんので、伝統国家が崩壊する危機的状況です。詳しくは拙ブログ「刮目天の古代史」をご参照ください。長々とお邪魔しました。



“小柄”で“高貴”な人の可能性 吉野ケ里遺跡 棺を初公開(2023年6月9日)
ANNnewsCH@YouTube 2023/6/10

刮目天
この墓の被葬者ですが、男王ならば大国主の国造りのパートナーのスクナヒコナこと息長宿禰王でしょう。近江・越(コシ)を根拠地とするムナカタ海人族の王です。大国主は巨漢でしたので、小柄な人物だったようで日本神話でスクナビコナとされたわけです。

神功皇后台与のお父さんですよ。

台与は卑弥呼の死後の内戦で勝利した大国主久々遅彦(豊岡市久久比神社の祭神・上棟式の木の霊、ムナカタ海人族を束ねる王で、最後の奴国王スサノヲの子孫)によって、たった13歳で女王に立てられて、魏を後ろ盾にして狗奴国(纏向遺跡の旧奴国)と対立します。最終的に、狗奴国軍に大国主も台与も討たれて、日本が纏向で建国されます。初代天皇は応神天皇です。二人の子ですが、大国主の祟りがあって最初の祭祀王とされました。詳しくは【刮目天の古代史】をご参照ください!(^_-)-☆

【関連記事】
【吉野ヶ里遺跡】石棺の被葬者は?

邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!


【刮目天の古代史】古代史を推理する
藤原不比等によって隠された日本の古代史を復元するための科学的な方法を解説しています(^_-)-☆



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【吉野ヶ里遺跡】石棺の被葬者は?(#^.^#)

2023-06-09 20:31:28 | 古代史
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本日、佐賀は雨だったようで中止かと思っていましたが、晴れたようで発掘の状況が報道されました。

なんと、墓の寸法が分かりましたので、ちょっと興奮気味です(#^.^#)

とりあえず、下の短い動画をご覧ください!ノーカット・バージョンもありますよ(^_-)-☆


石棺の内寸は、横幅36cm、長さ約180cmです。長さ方向は副葬品を入れるので長くなるのですが、普通よりも短いようです。しかし、この幅は子供か小柄な女性のサイズでしょう!男性ならば相当小柄ですね。身長は150cm以下ではないでしょうか?このような小さい墓に不釣り合いの重しとなる厚い石板で蓋しているわけですから、発掘責任者の方も違和感があるとおっしゃっていました。墓の場所は小高い丘の上で遺跡を見渡せますから、この遺跡の支配者、つまり王か女王でいいのだと思います。

被葬者のヒントは日吉神社にあると思います。本殿の左側に石祠が二つ見えました。



前回の記事「吉野ヶ里遺跡は邪馬台国なのか?」で述べましたが、スクナビコナ(息長宿禰王)と與止日女(台与)がこれらの祠に祀られているのではないかと考えています。台与は平原王墓に葬られていると推理していますので(詳細は「【検証4】平原王墓の被葬者は誰だ?」参照)、今回の石棺墓はやっぱりスクナビコナだと考えていますが、どうなのかな?!来週くらいには調査が完了するそうですので、ホント~に楽しみです。

どなたか近くにお住まいの方は日吉神社に行って教えて頂けると嬉しいです。祠の中まで見えないかもしれないので宮司さんか氏子の方にお伺いしていただけると分かるのではないかと思います。

あるいは今回の発掘調査に先立ち新社殿に移転したとありましたので、そこに摂社などの情報があるのかも知れません。

日吉神社ご神体のお引越し、吉野ヶ里遺跡調査で移転(2022年2月24日)
佐賀新聞[SagaShimbun 2022/02/04


お手数ですが、どうぞよろしくお願いいたします。(;^ω^)

【関連記事】
【検証1】佐賀に近江の土器が?


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古代史を科学するには?(^_-)-☆

2023-06-07 19:25:43 | 古代史
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今回の記事は2019-07-31 17:57:48にアップしたものに基づき作成したのだが、その後、ここで例として挙げた考古学者の論説記事のリンクが切れていたことに気づき、そのまま議論するのも妥当ではないとのご意見もあろうかと思い、この記事を非公開にしていた。今回邪馬台国論争決着か 吉野ヶ里遺跡の墓の発掘調査で新たな謎も(FBSニュース 福岡 2023/06/05 18:50)など、多数報道されて、吉野ヶ里遺跡の発掘に大きな期待が寄せられているので、科学的にこの問題を議論するために、この方の記事を一部引用させていただくことにする。多くの方の折角の期待に水を差すような話で恐縮なのだが、お付き合いください(#^.^#)

吉野ヶ里遺跡については1980年代に弥生時代の大規模な遺構や目を引く遺物が数多く発掘されて、当初邪馬台国ではないかということで全国から古代史ファンが集まって大賑わいした日本国民なら誰でも思い浮かぶ弥生時代の代表的な遺跡だ。しかし、吉野ヶ里は邪馬台国ではないという意見の考古学者が多く、夢は膨らむことなく、いつの間にか三世紀に造られた大規模集落である纏向遺跡が邪馬台国とする纏向説が候補の筆頭になっていた。しかし、最近では纏向遺跡が邪馬台国でない決定的と思われる説が出てきても、纏向遺跡で桃のタネやベニバナが見つかった、などとマスメディアが決定的な証拠でもあるかのように取り上げて、主に九州説と畿内説の二大対立を煽って、時間だけが経過した感じがしていた(注1)。

この学者の方は邪馬台国に関するシンポジウムや著作物などで、考古学的に吉野ヶ里遺跡以外に邪馬台国ではあり得ないという説を打ち出して、再び、少し注目されるようになった感じだった。

邪馬台国は倭国の中で七万戸余りと書かれた巨大集落であり、今のところそのようなものは見つかっていないのだが、その戸数は政治的な理由で過大に誇張されて書かれたとしても、邪馬台国であるための重要な条件の一つとして、大集落であるはずだと多くの方が考えている(注2)。

さらにこの方は以下の具体的な特徴を持つ大規模集落だから吉野ヶ里遺跡ということになると主張されている。「倭国の都が置かれた邪馬台国には、卑弥呼が居住し祭事の場であり、極めて閉鎖的な倭国の宮殿空間と、伊支馬など邪馬台国の長官や次官が居住し、政事を行う邪馬台国の宮殿空間の二つの特別区画が近接して存在していたと考えられるのである。奈良時代の大和国の中に平城宮と大和国の国庁とが共存することと同様である。」

畿内説にも共通するが、大規模な集落の中に女王の宮殿と長官らの居住域と政庁が同居するものと考えているが、そうすると卑弥呼の倭国全体の政(まつりごと)を補佐する男弟と邪馬台国の長官らとの関係はどうなるのか、この男弟の存在がよく見えなくなる。

そこで、「すなわち一女子を共立して王となす。名を卑弥呼と曰う。鬼道(きどう)を事とし、よく衆を惑わす。…王となりてより以来、見ることある者少なし」という「魏志倭人伝」の文章に注目すると、一か所の超大規模な拠点集落にすべての人々が集中していると考えるよりも、広域の邪馬台国内部に多数の中規模集落が点在し、人口密集地から少し外れた最も堅固な防衛施設を伴う場所に女王が居たと考える方が自然かも知れない。

その場合、邪馬台国の長官は点在する集落群を統治をし、徴税や市場での交易の監督官の護衛、治安維持と共に女王に属さない国々の攻撃から女王の居城と邪馬台国内の拠点集落を防衛するなどの任務があるものと考え、男弟は外交の拠点である伊都国に居るとする方が魏志倭人伝の記述に合致するようだ。

つまり、戦乱の時代の女王の宮室は大規模集落などから少し離れた別の堅固な城塞に在ると考えるのが自然だ(注3)。だが、魏志倭人伝に書かれるような居城も卑弥呼の径百余歩(直径約150m)の巨大円墳も吉野ヶ里遺跡付近に見当たらないので、吉野ヶ里遺跡は邪馬台国ではないと言える。

こういう視点でその他の九州説や畿内説を見つめても、多くの人が一致して邪馬台国の場所を確定できないのだ(注4)。

そして、この論文を読んでいて、邪馬台国問題が解決しない科学的でない理由がそこに在ることに気付いた。

副題で「この仮説を覆す発掘成果はあるか」とアピールしているのだが、その仮説を上で述べたように十分に検討し、検証することなく、そのまま結論としている。これはこの論文に限らず、従来の古代史研究が全く同様の科学的とは言えないスタイルのようだ。

そのために、この仮説のままの結論によって更なる謎の事象の解明に繋がりようがなく、停滞してしまい、後は、いつになったら出るのか分からない自説に合致する決定的な証拠を待つだけであって、それが出るまで問題が決着つかないと考えているようだ(詳細は「なぜ邪馬台国問題が解決しないのか?」参照)。

決定的な証拠として親魏倭王の金印をあげる方がいるが、簡単に持ち運べる貴重なものなので、発見場所が邪馬台国で決定という訳にはいかない。また、封泥と呼ばれる女王が正式に他国へ贈る品物を入れた行李にかけた紐の結び目に金印で捺印した粘土板が見つかった場所だという意見もあるが、伊都国に居る一大率が荷物を最終チェックすると魏志倭人伝に記されているので、封泥をするための金印も一大率が伊都国で厳重に保管していると考えられる。

だから、持ち運びが不可能な構築物として卑弥呼の巨大円墳が決定的な証拠となるはずだ。直径150mクラスの円墳の存在する場所が邪馬台国の有力な候補になるはずだ!その場所を取り巻く当時の地政学的状況などの仮説を立てて考古学などの成果で推論することになるはずだ。

およそ科学的と言うのであれば、その論証過程が論理的であることは当然だが、仮説が設定されたら、いくつもの事実によって検証を行った結果、最終的にその仮説が多くの研究者に認められて一般化理論、つまり定説に格上げされるのだ。自然科学系の分野では常識なのだが、上で述べたことが関係し、邪馬台国問題ではそのまま適用しにくい面もあるかも知れない。科学的な問題解決手法が定着しにくい環境ではあるが、今回古代史研究に以下のような科学的手法を適用する試みをして、蓋然性の高い仮説が得られたので、仮説構築の考え方と手法を示した以下の記事をご参照いただきたい。

【刮目天の古代史】古代史を推理する

そしてこのような手法で得られた結論は「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」をご参照ください(^_-)-☆

(注1)畿内説では纏向遺跡がヤマトと呼ばれ、このような大規模集落は邪馬台(ヤマト)国であるはずだから、方角は南を東と読み替えると説明がつく。墳丘長278m; 高さ30mの箸墓は前方後円墳であるので、魏志倭人伝にそのようには書かれていないが、後円部分が直径約150mだから、卑弥呼の墓と考える。しかし、箸墓の築造は三世紀末か四世紀初頭と考えられるので、卑弥呼が亡くなった247年頃よりもかなり後なのだ。箸墓の伝承も卑弥呼とは関係ない話だ。

また、ヤマトの古墳で発見される三角縁神獣鏡が卑弥呼が魏から賜った銅鏡百面だという説も、実際は三百面以上出土しており、さらに魏で全く出土していない。銅は日本産で、日本で製作されたものと分かっているなど、卑弥呼の鏡とは言えない。

そして決定的なのは、当時の倭国の外交の窓口である伊都国や北部九州の土器が畿内からほとんど出土していないのだ。北部九州と交流がない纏向遺跡は邪馬台国ではないのは明らかなのだ。その他にも、環濠や城柵などもない無防備な宗教都市であり、墓は棺あって郭なしなどの魏志倭人伝の記述にも当てはまらないのだが、このような否定的な根拠をすべて無視する考古学者が唱え、マスメディアが後押ししているために多くの一般の方は畿内説と九州説が対立しているように思わされている(詳細は「考古学者が考古学を無視する?」参照)。

(注2)1戸当り5人とすると人口35万人ということになる。当時戦乱で人口が10万戸にまで激減した魏の洛陽と比べてもあまり違わないのは、邪馬台国を大国と見せかけたいための魏志倭人伝の潤色あるいはデマと考える方がよい。ではなぜ大げさに言う必要があるのかを追求すると、真相が見えてくるのだ。詳細は「景初三年問題が謎を解く鍵でした!」を参照されたい(^_-)-☆

(注3)魏志倭人伝に女王の奴婢など千人とあるが、殉葬は百人程度なので、千人は大袈裟な数字でしょう!魏志倭人伝で女王の居城のあるヤマ国という意味の邪馬台国への行程を記述した後、以下のように女王国(邪馬台国)の北にある国々は戸数や道里などの概略を示せるが、その他の女王に帰属する21国は遠方にあるので詳しくは分からないとして国名だけ列挙されている。そして女王国(この場合、女王が支配する倭国全体)の境界となる奴国は二度登場するのだが、それぞれ別の国と考えて、その南に狗奴国があり、男子を王としている。その官に狗古智卑狗が居り、女王に属さないとある。帯方郡から女王国、つまり邪馬台国まで万二千余里ということなのだ。

  自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
  次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國
  次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國
  次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國
  次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡
  其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 自郡至女王國 萬二千餘里


(注4)「中国の一里は三〇〇歩。一歩は左右の足を一回ずつ前に出して歩く距離、つまり一複歩。」(岡田英弘「日本史の誕生」(弓立社 1994, p.66)。一歩は、時代によって多少異なるが、だいたい1.5m。したがって卑弥呼の墓は径百余歩だから直径約150mの円墳と考えられる。また、一里は約450mなので、帯方郡から狗邪韓国(釜山とされる)まで七千余里、約3、150kmは小笠原諸島くらいの位置、万二千里、5,400kmはグアム島辺りまで行ってしまう。明らかに誇大に記述されているのだ。

そこで、それぞれの国と国の各区間の里数は正しく書かれていると考えて、一里を魏国内で使われる1里約434mから1里約77mに変更すると、およそ960kmとなり邪馬台国はほぼ九州島に存在することになる。ところがその場合、途中の区間の1里あたりの距離が1里77mで一定にならないので矛盾する。そこで、途中の里数は正しく書かれているはずだから、途中の国々の比定地を変えればいいという発想になる。しかし、考古学などの成果から比定された国々の中心地を全く無視することになるので、科学的な発想ではない単なる一面的なつじつま合わせとなり、この方法では誰もが納得する結論は得られない。

結論は、岡田上掲書(pp.48-72)で述べられたように、魏志倭人伝に書かれた邪馬台国への行程記事などが政治的な理由で、里数や戸数を大げさに記したものと考えるのが最も合理的なのだ。しかし、そのことを認めると、多くの研究者が聖典のように考えている魏志倭人伝からは邪馬台国の位置が決められない。そして現存する最古の歴史書「日本書紀」「古事記」には邪馬台国も卑弥呼も登場しないというジレンマがあるので、デッドロック状態になっていたのだ。

しかし、これから分かるように、記紀も政治文書なのだ。だから、歴史書の編纂者の政治的な意図を推理して、日本の建国過程の仮説を構築し、考古学や民俗学の成果などによって仮説を検証すれば、邪馬台国の位置も建国過程も科学的に推定することが可能となるのだ。


面倒な話を最後までお付き合いいただき、感謝します。
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吉野ヶ里遺跡は邪馬台国なのか?(@_@)

2023-06-05 19:13:38 | 古代史
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今、話題沸騰の吉野ヶ里遺跡!あらたに石棺が発見されたようですので、詳しい内容を知りたいですね( ^)o(^ )でも、邪馬台国時代の墓だというだけで、吉野ヶ里遺跡が邪馬台国だという話が先行してフィーバーし過ぎているようです。いくつもの動画が登場していますが、よくまとまっている以下の動画に、例によってコメントしました。お付き合いください(#^.^#)



日本歴史ちゃんねる@YouTube


刮目天
興味のある話題をありがとうございます。吉野ヶ里遺跡が邪馬台国だと言っていた考古学者がいましたね。しかし、魏志倭人伝の行程記事を素直に読んでも吉野ヶ里遺跡に到達しません。邪馬台国への行程を説明するなら順序通り説明するはずだから、伊都国から急に放射状に記述する理由がありません。放射状で列挙されたとしたら、奴国、不弥国や投馬国も女王国の南の21国などと同様、国名だけでよかったのでは?この三国だけ戸数・長官名などを説明する理由が不明です。
卑弥呼の墓といえる根拠となる径百余歩(直径約150m)の巨大円墳はあったのでしょうか?
ちなみに邪馬台国の場所も卑弥呼の墓も別の場所で発見しています。よろしければ拙ブログ「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」をご参照ください。お邪魔しました( ^)o(^ )

日本歴史ちゃんねる
宇佐は怪しいですよね。まだ明確に証拠を挙げたりすることは出来ないのですが、卑弥呼のお墓が宇佐神宮で、その周辺に邪馬台国があったのかなって思っています。広い意味では同じ考えでしょうか?
もちろん今回の吉野ヶ里遺跡の発掘でなにか見つかったら意見を変える程度の考えですが(笑)

刮目天
@日本歴史ちゃんねる さん 不躾なコメントにいいお返事いただき、有難うございます。なぜ日本の古代史が謎だらけなのかを追求すると、結論は日本史の根本史料「日本書紀」などが政治的な理由でウソでごまかされているということに気づき、当時の権力者の意図を推理すると、真相が見えてきました。その仮説を考古学や民俗学などの成果を使って検証して、解明しました。基本的な考え方は、拙ブログ「【刮目天の古代史】古代史を推理する」にありますのでよろしければご参照ください。

刮目天
もちろん、魏志倭人伝も行程記事は政治的な理由で作られたものですが、これはある倭人が書いて教えたものだったのです。その証拠も見つかり、同時に日本書紀の編纂者も史実を知っていながら高天原神話を創作したことが判明しています。詳しくは、拙ブログ「伊都国の意味がヒントだった?」をご参照ください(^_-)-☆

皆さんお気づきでないですが、伊都国というのはとても深い意味のある国名で、魏の役人がそれを知って書いたものではないことは明らかなのです。

Wiktionary「伊」にその語源が以下のとおり説明されています(注)(2023.10.20 赤字追加)

「人」+音符「尹」。「尹」は、手で神杖を持った様を表わす象形文字。伊は神の意志を伝える聖職者。治める人の意を表す。調和をさせる様、殷初期の伝説の宰相伊尹(いいん)に因み嘉字とされ、人名、地名に用いられる。




すでにいままでの考古学の成果から邪馬台国の場所も日本建国の真相も推理できます。しかし、研究者も含めて多くの方は、考古学よりも先に、魏志倭人伝や記紀の内容を正しく解釈すれば解明できるという誤った考え方に嵌っています。まず、このことに気づく必要があります。

歴史書は政治文書だ!」という事実に気づけばいいだけなのです(^_-)-☆

吉野ヶ里遺跡は、女王国に属する21国のひとつ「華奴蘇奴国(カヌサナコク)」と考えています。


卑弥呼の死後に、大国主久々遅彦が、卑弥呼の宗女台与13歳を女王に立てて、魏を後ろ盾にして狗奴国(旧奴国)と対立します。大国主の国造りのパートナーはスクナビコナです。米原市日撫神社で息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)とともに祀られています。神功皇后息長足姫尊(おきながたらしひめ)の父ですが、実在人物台与の父です。大国主は巨漢だったようですので、いつも一緒にいた息長宿禰王が小柄だったので、大国主神話でスクナビコナとされたのではないかと見ています。「スクナビコナはのちに常世国へと渡り去るが、これは草に弾かれて常世へ渡った、川で溺れて神去りしたなど様々な説話が存在する。」とwikiにあります。

日本建国時代に活躍した実在人物ですが、九州では粟嶋神社(熊本県宇土市新開町)で医薬などの神として祀られています。しかし、この人物の墓が見つかっていませんので、吉野ヶ里で葬られているのではないかと見ています。日吉神社の祭神オオヤマクイは大国主の別名か分身ですので(詳細は「大山祇も大山咋も正体は大国主でした」参照))、そのパートナーであるスクナビコナが近くに祀られているのではないかと現在考えています。吉野ヶ里遺跡で近江の武将が使う手炙り土器も発見されています(詳細は「【検証1】佐賀に近江の土器が?」参照)。調査結果が楽しみです。

弥生終末期の動乱に迫る「外来系土器」より

(注)当初、「Wiktionary「伊」にその語源が以下のとおり説明されています。」としましたが、本日(2023.10.20)確認したところ該当する説明が削除されていました。そこで、他の漢字辞書を調べると「楽しいJapanese」の「Kanji Details for 伊」引用元は示されていませんでしたが、本記事と全く同じ説明を見つけました。


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