刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

女王を共立した赤坂比古は?

2023-08-12 12:20:54 | 古代史
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2021-11-15 17:34:31に記事にしましたが、その後「卑弥呼の父・弟が魏志倭人伝に登場していた?」で弟赤坂比古(掖邪狗)が243年(正始四年)と卑弥呼が暗殺されたと考えている247年(正始八年)以後に二度魏に朝貢したと推理しましたので(具体的な朝貢年は魏志倭人伝には記されていない)、この記事を見直して改訂します。よろしくお願いいたします(#^.^#)

倭国王難升米については【検証22】難升米という人物は?(その1)から(その3)」で詳しく説明していますが、夕べ赤坂比古のことを寝ながら考えていると夢に出てきました。「わしはそんなところに居らんぞ」と叱られたので、目が覚めて、朝まで考えました。あ、そうだよね。詳しく説明します。どうぞお付き合いください(*^-^*)

魏志倭人伝に書かれた卑弥呼が登場する記事ですが「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國 自為王以来少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛(その国、本は亦、男子を以って王と為す。住むこと七、八十年。倭国は乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち一女子を共に立て王と為す。名は卑弥呼と曰う。鬼道に事え能く衆を惑わす。年すでに長大。夫婿なく、男弟ありて、佐(たす)けて国を治める。王と為りてより以来、見有る者少なし。婢千人を以(もち)い、おのずから侍る。ただ、男子一人有りて、飲食を給し、辞を伝え、居所に出入りす。宮室、楼観は城柵が厳設され、常に人有りて兵を持ち守衛す。)」(塚田敬章「魏志倭人伝」より引用)とあります。

奴国宮廷楽師師升がクーデターで奴国王スサノヲを殺し、倭国王に立ち107年に後漢に朝貢しました。それから七、八十年経過して倭国は乱れはじめ、狗奴国と長年お互いに攻め合って、一人の女子を王に共立したということです。その内容をここで推理します(^_-)-☆

倭国大乱は、すでに「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」で詳しく説明しましたが、半島の情勢に連動して起こり、倭国は楽浪郡との交易が廃れ、衰退気味でした。一方、半島南部の鉄資源を沖ノ島経由で先代久々遅彦(スサノヲの子孫、狗奴国の官狗古智卑狗やその父「出雲国風土記」国引きの神八束水臣津野命)が率いるムナカタ海人族によって供給された旧奴国勢は隆盛になりました。スサノヲの弟ニギハヤヒはムナカタ族の支援を受けて吉備を平定して奴国を再興しました(宋史 王年代紀第十九代王天照大神尊、楯築王墓の被葬者と推定)。先代久々遅彦は大分県大野川流域から熊本県阿蘇山麓に武器製造の鍛冶工房の集落を多数作り、さらに菊池川流域に最前線基地(方保田東原遺跡など)を置いて、そこから佐賀平野・筑紫平野の倭国側の集落を襲いました。

時には福岡平野西部や倭国王の都とした三雲遺跡まで攻撃された痕跡も見つかっていますから、師升の子孫の倭国王難升米はかなり苦しめられていました。難升米の先代は半島が乱れ始めた状況でも遼東太守に就任した公孫氏に朝貢したので、中平紀年大刀を授かったと推理しています(238年8月公孫氏が滅んだ後に、盟友の卑弥呼の一族に下賜したと推理。詳細は「中平紀年銘鉄刀は卑弥呼のものか?」参照)。

そして204年に公孫氏が半島を平定して、楽浪郡の南18県を裂いて帯方郡を設置しましたので、早速、難升米が公孫氏に救援を求めたと考えられます。軍事援助を受けた難升米が勢いを取り戻し、菊池川沿岸の狗奴国の前線基地を襲撃して、先代久々遅彦(大国主の父)を討ったと推理しました。

王を喪ったムナカタ族の族長赤坂比古(和邇氏の祖)は、倭国王難升米の懐柔され、受け入れる条件としてムナカタの姫巫女が告げる太陽神の神託によって倭国の政治を行う条件で合意したと推理しました。卑弥呼を女王に共立したと魏志倭人伝は伝えていますが、卑弥呼は人前には出ないとあります。統治権のある女王ではなく、太陽神を祀る姫巫女で、記紀神話で宗像三女神の主神とされたイチキシマヒメだったのです。ですから倭国の政治の実権を持っていたのは難升米です。景初三年六月に帯方郡に行き、帯方郡太守と談合し、十二月に洛陽で朝貢した難升米に魏の朝廷は後に黄幢(魏の正規軍の旗)を渡していますから、難升米は倭国の軍事を掌握する伊都国の男王であって、魏の朝廷の人々には女王の政治を輔佐する男弟ということにしたと推理しました(詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」参照)。

ですから女王とされた204年ごろの卑弥呼の年齢ですが、当時の女子は十五歳過ぎで嫁に行きますので、卑弥呼は二十歳代半ばだったと考えられます。卑弥呼よりも若い難升米が王として実権を振るうには二十歳にはなっているはずです。そして、卑弥呼は247年に新任の帯方郡太守のもとに使者を送り、狗奴国との戦いの模様を報告しました。その後二人目の魏使張政が派遣され、倭国に到着したときにはすでに死んでいたとあり、卑弥呼は七十歳代で亡くなったものと思われます。

卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑弥呼宗女壹與年十三為王 國中遂定 政等以檄告喩壹與卑弥呼以って死す。冢を大きく作る。径百余歩。徇葬者は奴婢百余人。更に男王を立つ。国中服さず。更に相誅殺し、当時、千余人を殺す。復(また)、卑弥呼の宗女、壱与、年十三を立てて王と為す。国中遂に定まる。政等は檄を以って壱与に告諭す。)」(塚田敬章「魏志倭人伝」より引用)とあります。

そして、卑弥呼の死後に男王が立って、国中不服で千人が殺し合う内戦になります。倭国の軍事を掌握する難升米は元々倭国王ですから、今更男王として立つまでもありませんから、別の男王だと分かります。

丁度その二年前の245年(正始四年)、倭国は狗奴国との不仲を魏に報告していますから、狗奴国が送った征討軍の大将が難升米王の倭国軍を蹴散らして、改めて倭国王に立ったと考えるのが自然です。そうすると征討軍を狗奴国の卑弥弓呼大王が直接率いていたならば、不服な者は居らず、これも内戦になりません。

ですからこの大将は狗奴国王に次ぐ有力者だったと分かります。しかも大将直属の兵だけではなく、狗奴国勢力の混成軍だったはずです。つまり、征討軍の中には狗奴国の大王を裏切ることに不服な勢力があったので内戦になったと考えられます。

狗奴国は「邪馬台国大和説は過去の学説だよ!」で指摘したとおり、吉備を平定したスサノヲの弟ニギハヤヒの子孫である卑弥弓呼大王がヤマト王権発祥地の纏向遺跡を造り、各地の旧奴国王族などを呼び寄せた国です。

纏向遺跡の250年頃と考えられる纏向3式の時期の外来土器の構成を見ると、伊勢・東海のものが約35%を占めます(全期間では約半数)。ニギハヤヒの血を引く尾張王が大王に次ぐ有力者だと分かります。次に山陰・北陸と近江が縄文系ムナカタ海人族のものですから、これらを束ねるスサノヲの子孫の久々遅彦が副将だったと推理できます。さらに河内・吉備の土器も約20%ありますから、卑弥弓呼大王に近い一族(後の物部氏配下)です。



結局、台与(注1)を女王に立てて収まったとあります。十三歳ですから自らの意思で立つはずありませんから、内戦の勝者が卑弥呼の宗女として表向き女王に立てたということです。卑弥呼は玄界灘を活動域とする族長赤坂比古(和邇氏の祖)の一族の姫巫女でしたが、台与は近江・北陸・越(こし)を拠点としていた同じムナカタ海人族息長宿禰王(記紀の神功皇后の父、大国主神話の少彦名命、吉野ヶ里遺跡謎のエリアの石棺の被葬者と推定。詳細は「【吉野ヶ里遺跡】え?日吉神社ご神体が仏像なの?」参照)の姫巫女として従軍していたと考えられます。

つまり勝者は山陰から越(こし)を拠点とするムナカタ海人族を束ねる久々遅彦だったと推理できます。久々遅彦は、卑弥呼の後に倭国王に立った狗奴国卑弥弓呼大王の親族の尾張王乎止與命(ヲトヨノミコト)を討ったので、大王が自分にどういう処分をするかも心配でしたので、魏使張政の進言を入れて、結局狗奴国を裏切り、魏を後ろ盾として倭国王に立ったと推理しました。それまでの難升米・卑弥呼の邪馬台国連合倭国の版図に加えて山陰・北陸・近江などの列島主要部のほとんどを支配したので記紀神話で、後世、大国主と呼ばれた人物だと考えられます。


では、倭国の軍勢は何故簡単に蹴散らされたのかですが、卑弥呼の死と関係すると考えられます。もしも卑弥呼が健在であったならば、一大勢力であった弟赤坂比古(和邇氏の祖日触使主、掖邪狗)も倭国勢として戦うはずですから、このように簡単には勝敗は決着しなかったでしょう。

内戦は千人が死んで収まっているとあるので、卑弥呼の死を知った弟赤坂比古(和邇氏の祖)が戦意を喪失して狗奴国軍に投降したからだと推理できます。卑弥呼の死ですが、【関連記事】で述べたましたが、山海の食材に恵まれ、毎晩温泉に浸かり、濁り酒も楽しみ、健康的な生活をしていたと考えられますのでまだ七十歳代では自然死は考えにくいと思います。

ですから、丁度247年3月24日の日没前から北部九州一帯で日食があったので、それが原因で難升米によって殺された推理しました(詳細は「卑弥呼の墓は見つかってるよ!」参照)。つまり、狗奴国の大軍が押し寄せてくるという情報を耳にした難升米は、日が欠ける不吉な前兆が起こったのは太陽神を祀る卑弥呼が不謹慎で霊力が衰えたからと判断し、部下に暗殺を命じたと考えられます。現地で殺害を手引きした犯人はきっとあの男でしょう(^_-)-☆

倭国征討軍の大将の尾張王はほとんど無傷で倭国を占領したので、魏使張政の誘いを受けた尾張王に倭国王に立ちたいという気持ちが起こったのだと思います。尾張王は狗奴国大王と同じニギハヤヒ大王の子孫ですから、その故地である北部九州一帯の奴国を取り戻したいという一族の願いを実現した自分が倭国王に立つ資格があると考えたのでしょう。しかし、その夢は儚く消え、鳥栖市付近で久々遅彦に味方した赤坂比古に討たれたと推理しました。

204年かその次の年くらいに、卑弥呼は二十代後半で女王に立てられたと見ているので、42年か43年後の247年の卑弥呼の死の後の内戦に加わったこの赤坂比古は卑弥呼よりもかなり若い弟と考えられます。というのも、この20年後くらいに(台与が西晋に朝貢した266年よりも後)、父の仇討ちで尾張王建稲種命(タケイナダネノミコト、記紀の景行天皇)におそらく80歳代で討たれて愛宕神社古墳に埋葬されたと推理しています。

そうすると卑弥呼の父の先代赤坂比古は既にどこかで亡くなり、葬られているはずです。

此処でひらめきました!卑弥呼が宮室とした三女神社(さんみょうじんじゃ)のある宇佐市安心院町三柱山台地宮ノ原遺跡にある大きな円墳のひとつでしょう。現在、きれいに整備されて安心院葡萄酒工房の展望台になっている直径約120mの円墳(奥城古墳)があります。鳥栖市の愛宕神社古墳と同じような巨大円墳ですから族長の墓だと考えられます(愛宕神社古墳は直径約140mで卑弥呼の三柱山古墳に次ぐ国内第二位で、奥城古墳は第三位。詳細は「卑弥呼の巨大円墳が日本最大だよ!」参照)。墓の副葬品などが不明ですが、243年(正始四年)に卑弥呼の使者として朝貢した正使倭大夫伊聲耆で、この時に亡くなったと推理しましたので、遺骸を宮ノ原遺跡まで運び、奥城古墳に葬られたと推理しています(詳細は「卑弥呼の父・弟が魏志倭人伝に登場していた?」参照)。


【関連記事】
卑弥呼の墓は見つかってるよ!
卑弥呼の正体?(@_@)卑弥呼の情報満載ですのでよろしければ飽きるまでどうぞ!

(注1)邪馬臺国を邪馬壹国とされたのと同じ理由で壹與は臺與(台与)です。詳細は、悲劇の女王台与のはなし(その2)をご覧ください。女王台与の情報もたくさんありますから、よろしければ、どうぞ!






最後までお付き合い、ありがとうございます。いかがでしたでしょうか?
チョット推論が飛躍し過ぎだと思われた方はそう思われた部分を教えて下さると助かります。
また夢に出るかもしれませんよ(´ω`*)
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【邪馬台国問題】なぜ歴史から消えてしまったのか?

2023-08-10 16:19:48 | 古代史
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しっかり説明されている、とてもいい動画(約10分)を見つけましたので、是非ご覧ください。例によってまたコメントしました。どうぞお付き合いください(#^.^#)



刮目天
とても分かり易く解説され、どうも有難うございます。なぜ邪馬台国が発見されないのかについては同感ですが、その中には、はっきりとわかる思い込みがあったことに気づきました。つまり、九州説にしろ畿内説にしろ、最初に自分の思う邪馬台国の場所があるので、それに合うようにつじつま合わせで主張しているということです。科学的でないのは、以下の二つの思い込みがあるのが原因です。

<思い込み その1>「魏志倭人伝」は歴史家の陳寿が編纂した歴史書だから、正しく解釈すれば邪馬台国に導いてくれるはず
<思い込み その2>古事記や日本書紀は天皇が編纂を命じたから天皇の歴史書のはずだ

権力者は不都合な史実は無視するか誤魔化さないと歴史書を編纂する意味がなくなりますね(^_-)-☆

古代史の謎は文献と考古学の成果の乖離が原因なのですから、このような問題を科学的に解明するには、これらの思い込みを排除して、事実(考古学や民俗学などの成果)から文献の信ぴょう性を議論し、歴史書を編纂した権力者の意図を推理することが必要です。つまり、対象とする時代を挟む事象群を矛盾なく説明できる仮説を立てて、その仮説から期待できることを事実で検証することによって科学的に解明する手法です。仮説構築のこのプロセスは論理学ではよく知られた演繹法・帰納法ではなく、アブダクションと呼ばれる発見的な第三の推論法です。

これによって日本の建国過程を推理し、邪馬台国も卑弥呼の正体が記紀神話で宗像三女神とされた、その主神イチキシマヒメであることも分かりました。



径百余歩(直径約150m)の日本最大の円墳も宇佐市安心院町の三柱山古墳であることも発見しました。よろしければ拙ブログ「刮目天の古代史 邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」をご参照ください。忌憚のないご意見を頂戴できれば幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

@user-pz4jw1db1q
魏志東夷伝倭人の条をキチッと読むことが出来れば、邪馬台国の所在地は、それ程難しくありません。一つだけ例を挙げれば、陳寿は、文中の何処にも、帯方郡から邪馬台国までの距離など書いていません。帯方郡から女王国までの距離を記しています。何故陳寿は、この女王国と言う地名をすぐ前の文で、邪馬台国に到る、と記しているのにあえて邪馬台国では無く、女王国としたのでしょうか。これを合理的に解釈しようとすれば、邪馬台国は女王国の中に含まれている、とするか、邪馬台国と女王国は全く別のものである、のどちらかと理解するよりありません。ただ、邪馬台国と女王国を全く別のものとしてしまうと、魏志東夷伝のこの箇所の文の意味自体が、非常に不自然なものとなってしまいます。従って、消去法でいけば、前者の意味が合理的な解釈となるはずです。その方が自然に、しっくり読めるはずです。邪馬台国に到るの文と、女王国に到る萬二千余里の、この二文の関係は、所在地の確認に対して非常に重要な意味を含んでいると、考えられます。又、邪馬台国と、女王国は、同一のものだとするのは、自分の中では、全く成立しません。もちろん、充分な根拠を挙げる事はできますが、ここでは長くなるので、省略します。


刮目天
そういう魏志倭人伝の解釈の議論を二・三百年重ねても邪馬台国にたどり着けてはいない事実を考えると、今までとは別の視点でこの問題を見つめる必要があると思います。上で述べた、<思い込み その1>に気づく必要があると思いますよ。

@user-yh3jo3bc5t
無理くり前方後円墳から卑弥呼の墓探してるからじゃないですかねえ。
大先生達はどしてもただの円墳では不都合なの?と思えるほど、前方後円墳をひたすら押しまくってますけど。


刮目天
大規模集落に卑弥呼が居たと考えているのが見当違いだと思います。なぜなら、多くの人々が出入りするような大集落は安全ではないと思います。吉野ヶ里遺跡でも多数の鉄鏃が環濠から出土しているので、敵のものだと分かります。二世紀末から三世紀初頭の卑弥呼が登場するまでの鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べましたが、倭国大乱の主戦場は佐賀平野、筑紫平野、福岡平野などです。よろしければ「刮目天の古代史 【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」をご参照ください。これによって当時の倭国の範囲や邪馬台国の場所も判明しました。卑弥呼は山間部の要害堅固な山城に住んでいました。そこに直径150mの日本最大の円墳「三柱山古墳」を発見しました(^_-)-☆古墳マップでご参照ください!https://kofun.info/kofun/6769

【関係記事】
【刮目天の古代史】古代史を推理する

古代史問題の科学的解決手法はアブダクションによる仮説構築と検証ですよ(^_-)-☆

人間とAIの違いは「ひらめき」にある?! アイデア発想の鍵を握る思考技術「アブダクション」とは
2018年09月20日に開催 安藤昭子 株式会社編集工学研究所 主任研究員

科学的な発明には、たいていアブダクションが関与している
仮説を強化し論理を前に進める“仮説的推論”の力



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【邪馬台国問題】不毛な議論からの脱出は可能か?(^_-)-☆

2023-08-07 00:32:25 | 古代史
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邪馬台国論者の東西横綱が対決する構図は、視聴者もそろそろ飽きてこないですか?何かが出れば解決するという考え方に問題があるのだと思います(詳細は「【吉野ヶ里遺跡】邪馬台国の条件とは?(^_-)-☆」、「吉野ヶ里遺跡は邪馬台国なのか?(@_@)」参照)。

しかし、これだけ長い間、数多くの考古学の成果が得られて議論を重ねても決着していないという事実を考えると、今までとは別の視点でこの問題を見つめる必要があると思います。つまり古代史に対する以下の二つの強い思い込みが解決を邪魔しているのではないかと思う訳です(^^;)

<思い込み その1>三国志 魏書第三十巻烏丸鮮卑東夷伝(うがんせんびとういでん)倭人の条通称「魏志倭人伝」は歴史家の陳寿が編纂した歴史書だから、正しく解釈すれば邪馬台国に導いてくれるはず

<思い込み その2>古事記や日本書紀は天皇が編纂を命じたから天皇の歴史書だ


魏志倭人伝や日本書紀は権力者による政治文書ですから権力者に不都合な真実は書かれてはいないということです。また、日本書紀より先に完成したとされる古事記も、実は正史のウソを暴くための暗号書として九世紀に作られた偽書だったのです(詳細は「天皇家に名字はあった?(@_@)」参照)。

「三国志」を編纂した西晋の史官陳寿の目的は、当時の皇帝と宮廷の人々のために、曹魏から帝位を禅譲された西晋の基礎を築き、宣帝と諡された司馬懿の功績を称揚することなのです。そして、司馬懿の具体的な功績は、邪馬台国を都とする倭国女王卑弥呼を朝貢させたことです。曹魏第一等の功労者なので幼い皇帝の後見役として権力を握ることができたわけです。ですから邪馬台国は、帯方郡から東南万二千里の海上の七万余戸の大国であって、魏のライバルだった孫呉を東方海上から抑え込む戦略上重要な位置にあったとしなければならなかったのです。だから、魏志倭人伝の内容はすでに宮廷の書庫にあったと思われる、司馬懿が書かせた倭国への魏使の報告書をもとに司馬懿を持ち上げるために作られたものだったのです(詳細は「考古学者が考古学を無視する?(◎◇◎)」参照)。

このことに気づくと、魏志倭人伝の行程記事の内容から邪馬台国の位置は決められないことになります。しかし、権力者の意図を推理すると考古学や民俗学などの成果から全く違う世界が見えるのです。つまり、吉野ヶ里遺跡の謎のエリアの石棺に葬られた人物が記紀神話の大国主命(オオクニヌシ)の国造りのパートナー少彦名命(スクナビコナ)で、卑弥呼の死後の内戦に勝利して日本列島主要部を版図にした大国主久々遅彦の配下のムナカタ海人族の族長息長宿禰王(おきながすくねのみこ)で、13歳で卑弥呼の後に立てられた女王台与の父だ分かります(詳細は「【吉野ヶ里遺跡】え?日吉神社ご神体が仏像なの?(@_@)?」、「【吉野ヶ里遺跡】石棺の被葬者は?(#^.^#)」参照)

二世紀末から三世紀初頭の倭国大乱において活躍した玄界灘を活動域とするムナカタ海人族の姫巫女イチキシマヒメが卑弥呼だったのです。海に近いので物騒な不弥国(ウミコク、宗像市田熊遺跡群)から安全な山間部である、三女神降臨の伝承地葦原中国宇佐嶋の野麻国(ヤマコク、宇佐市安心院町三柱山台地)に疎開していたと推理できます。そして景初三年(239年)六月に司馬懿の部下の帯方郡太守劉夏(りゅうか)と司馬懿を持ち上げるために談合したのは倭国王難升米(なしょめ)だったと推理できます。最後の奴国王スサノヲを殺して倭国を奪った宮廷楽師・司祭師升(ししょう)の一族で伊都国三雲・井原遺跡を王都としていました(詳細は「伊都国の意味がヒントだった?(@_@)」参照)。

狗奴国の官狗古智卑狗(大国主久々遅彦の父)は、大分県大野川流域から阿蘇山麓にかけて半島南部の鉄素材(板状鉄斧)を持ち込み、大量の武器を製造する鍛冶集落を造りました。さらに菊池川上流の方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡などに山陰から畿内の兵士を集め、半島の混乱で楽浪郡との交易も途絶えて衰退していた倭国の佐賀平野・筑後平野などの集落を盛んに襲撃して難升米を苦しめていました。鉄鏃・銅鏃の出土状況によって分かりました。

ところが公孫氏が半島を平定し204年に帯方郡を設置したので、倭国は息を吹き返すことができ、難升米は菊池川流域の最前線基地を襲い、狗古智卑狗を討ったと推理しました。大活躍していた倭国大乱の英雄を喪ったムナカタ族先代赤坂比古(伊殸耆、和邇氏の祖)は落胆し、途方に暮れていたところを難升米が懐柔し、イチキシマヒメ卑弥呼による太陽神の神託に従って政治を行う条件で、狗奴国を裏切って倭国側についたと推理しました。だから卑弥呼は大集落の中で千人の侍女にかしずかれる倭国の女王ではなかったのです(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」、「卑弥呼の父・弟が魏志倭人伝に登場していた?(^_-)-☆」参照)。

難升米と赤坂比古の連立政権(邪馬台国連合倭国)が成立したことで、吉備を支配していた宋史王年代紀第十九代王天照大神尊ニギハヤヒ大王(楯築王墓の被葬者、スサノヲの弟)の子孫の狗奴国王先代卑弥弓呼(ひこみこ、記紀の開化天皇)は半島南部の鉄の供給が途絶えて窮地に陥ったので、桜井市纏向遺跡を造成し、各地に散っていた旧奴国の勢力を呼び集めました。連日、祈祷を行って倭国討伐の作戦を練ったと考えられます。ようやく247年に準備が整いニギハヤヒ大王の子孫尾張王乎止与命(おとよのみこと、記紀の仲哀天皇)を討伐隊の大将とし、出雲・丹波王久々遅彦(後の大国主、記紀の武内宿禰)を副将として大軍勢を派遣しました。


その情報を知った倭国王難升米は迎え撃つ準備をしたと考えられますが、247年3月24日の日没前に日食が起こりました。卑弥呼が不謹慎であったために霊力が落ちたと考え、不吉な予兆を回避する目的で卑弥呼暗殺を命じたと推理しました。卑弥呼は径百余歩(直径約150m)の日本最大の円墳三柱山古墳に葬られ、奴婢百余名を口封じも兼ねて墓の横で殺害しそのまま殉葬しました(詳細は「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!(^_-)-☆」参照)。

その後、狗奴国軍が到着しましたが、卑弥呼の死を知った弟赤坂比古(掖邪狗、記紀の日触使主、和邇氏の祖)は戦意を喪失したので、難升米は親魏倭王の金印を持って帯方郡に向けて逃亡したと考えられます。そこで、尾張王は無傷で倭国を手に入れたので、丁度来ていた魏使張政の進言を入れて狗奴国王を裏切り倭国王に立ったと推理しました。ところが副将の久々遅彦が承服せず、千人くらいが死ぬ内戦になりました。赤坂比古が久々遅彦に助太刀して尾張王を鳥栖市に追い詰めて討ったと推理しました。九州最古級(3世紀後半築造)の全長約24mの前方後方墳の鳥栖市赤坂古墳に葬られたと考えています。久々遅彦は上述のとおり、近江・越を活動域とするムナカタ海人息長宿禰王の13歳の姫台与を女王に立てて、魏を後ろ盾にして狗奴国と対立してしまいます。半島南部の鉄も抑えて隆盛になり、狗奴国の畿内や東海を除く列島主要部を版図にしたので、前述のとおり、記紀で大国主命と呼ばれることになりました。



しかし、討たれた父の敵討ちで尾張王建稲種命(たけいなだねのみこと、熱田神宮祭神、記紀日本武尊のモデル、景行天皇、国譲り神話のタケミカズチ神)が苦難の末に大国主久々遅彦を高良山で討ち、赤坂比古を鳥栖市で、そして大国主の妃台与を伊都国で討ったと推理しています。それぞれ久留米市祇園山古墳、鳥栖市愛宕神社古墳、糸島市平原王墓に葬られたと考えています。建稲種命の活躍で狗奴国が日本を統一しますが、280年孫呉が西晋に滅ぼされ、卑弥弓呼大王(記紀の崇神天皇)は動揺し、大国主と台与の子ホムダワケ(オオタタネコ)を探し出して祭祀王としました。台与の後継者としてヤマトの大王(応神天皇)に即位させて、纏向遺跡を邪馬台国(ヤマト)と呼ぶことにしたと推理しました。記紀神話の時代の年表、ヤマト王権成立過程と建国に関わる主な人々の系譜を以下に図示します(^_-)-☆






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【吉野ヶ里遺跡】え?日吉神社ご神体が仏像なの?(@_@)?

2023-08-04 11:07:30 | 古代史
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2023-08-02 19:04:27に掲載した記事にNHKクローズアップ現代「吉野ヶ里遺跡発掘/石棺墓 “×”(バツ)の意味を最新の考古学・天文学から読み解く」から図をお借りして再度アップしましたので、よろしければNHKの記事もご覧ください(^_-)-☆

もう七年も前のことですが、ひとりで車中泊しながら卑弥呼を探しに宇佐市安心院町三女(さんみょう)神社に参拝したときに体の中に稲妻が突き抜けたような衝撃を感じました。それからネットなどで、本格的に証拠を集めて推理を重ねてきましたので、この仮説がC.S.パースのいう科学的信念にほとんどなっています(詳細は「アブダクションは科学的な信念形成の手法だ!」参照)。それでも念のために現地で二・三確認する必要があると思い、静岡から大分・熊本・佐賀・福岡へと一週間かけて行ってまいりました。順次この旅行の成果を報告する予定ですが、今回の記事は、表題の大発見の話です。お付き合いください(#^.^#)

【吉野ヶ里遺跡】石棺の被葬者は?の記事の中で紹介しましたが、今回発掘された石棺の場所が、遺跡を見渡せる高台にあり、内部に朱が塗られているので、被葬者は身分の高い人物で、さらに大きな石の蓋には、星座図と考えられる無数の記号が彫られておりシャーマン王であると見られています。さらに石棺の内寸が横幅36cmと異常に狭いことがわかりましたので、とても小柄な人物ですから日本書紀で少彦名命(すくなびこな)とされた近江・越を根拠地とするムナカタ海人族の族長息長宿禰王(おきながすくねのみこ)と推理しました。大国主の国造りのパートナーとして知られています。残念ながら遺骨は溶けているのでDNA採取も困難のようで男性であることを確認できていません。そこで、ヒントとなるのはその横に建てられた日吉神社にどなたが祀られているのか知りたくてやってきたわけです。

まず、今回の発掘のために2022年2月に移転された新築の日吉神社に向いました。到着して、真っ先に小さな小窓からお賽銭を投げ入れてお祈りしました。格子の向こうの正面に祭壇がありました。え?え?何かおかしいな?(*´Д`)ご神体は石の祠の中にあるようです。なんと仏像だったので驚きました(@_@)



ご祭神名が壁に掲げられているかよく見渡しましたがないようです。不思議な気持ちで正面階段を下りて、社殿の左右横に前後二個、計四個の石の祠があり中を撮影しました。丁度正午でしたので、非常にまぶしくて肉眼でさえよく見えませんでした。



正面左手前の石祠の中に漢字が彫ってありますが、全く読めません。その奥の石祠の中に天満宮とあり、これは読めました。祭神は菅原道真ですが、天神様と知られており、太宰府天満宮をはじめとして天満神社・菅原神社などという社名でも日本中至るところで祀られています。菅原道真の祖は出雲国造でその祖神は天穂日命(あめのほひのみこと)とされ、大国主の国譲りのために最初に高天原から派遣されましたが、任務を果たさず大国主の家来になったと記紀にあります。境内には臥牛の像があり、牛が天神様の眷属です。牛頭天王スサノヲともつながりがあります。大国主の分身と考えられるオオヤマクイを祭神とする日吉神社・日枝神社の摂社として天満宮がよく見られますので、スサノヲの子孫の大国主の一族だったことを暗示しているようです(「大山祇も大山咋も正体は大国主でした(*^▽^*)」参照)。

右側の奥の石の祠には三つの梵字と寶〇〇と漢字が彫られていました。一番上の梵字は十一面観音菩薩を表す「キャ」という文字です。日本書紀で神功皇后(気長足姫尊おきながたらしひめ)とされた女王台与の本地仏なのです(豊受大神ウカノミタマはwiki「本地垂迹」によれば、「稲荷神=十一面観音、聖観音、荼枳尼天[3]」「菊理姫=十一面観音」です。詳細は「「日本書紀」編纂の真の目的?」参照)。その右下の梵字は「キリーク」という文字で、大威徳明王つまり菅原道真を意味するものと考えられます(wiki「本地垂迹」より)。左側の梵字が釈迦如来を意味する「バク」という字のようですが、如来が観音の下に来ることはないと思いますのでよく分かりません。恐らく十一面観音菩薩を護持する明王のひとつではないかと思います。その下の漢字三文字の意味も分かりません。どなたかご存じの方はお教えください( ^)o(^ )

そして、右手前の石祠に薬師十二神将が彫られています。右手に三叉戟(さんさげき)という槍を持ち、邪鬼を踏みつけ、左手で何かを持ち上げているようです。頭にヘビの冠をかぶっているようですので、干支が「巳」の因達羅大将(いんだらたいしょう)の石像だと考えられます。ヘビは大国主の化身です。本地仏は地蔵菩薩や文殊菩薩ということです。

そうすると、wiki「スクナビコナ」によれば、

スクナビコナは、国造りの協力神、常世の神、医薬・温泉・禁厭(まじない)・穀物・知識・酒造・石の神など多様な性質を持つ。
 酒造に関しては、酒は古来薬の一つとされ、スクナビコナが酒造りの技術を広めたことと、神功皇后が角鹿(敦賀)より還った応神天皇を迎えたときの歌に「少名御神」の名で登場することから、酒造の神であるといえる。
」です。

これらのことからご神体の仏像は薬師如来と考えられます。通常、日吉神社の祭神はオオヤマクイこと大国主久々遅彦ですが、本当のご祭神であるスクナビコナを隠すために日吉神社という社名にして、薬師如来の仏像を祀っているのだと推理できます。そして、この人物は神功皇后の父息長宿禰王(オキナガスクネノミコ)だったのです。第9代開化天皇玄孫で、迦邇米雷王(かにめいかずちのみこ、生没年不詳)の王子となってはいますが、迦邇米雷王はカニが尾張、米は首長を意味するので尾張王のことです。そしてイカズチノミコとなると大国主を父の仇で討って日本を建国した尾張王建稲種命(タケイナダネノミコト、熱田神宮祭神、日本武尊のモデル、日本書紀で景行天皇、記紀神話で大国主に国譲りをさせたタケミカズチ神)を示唆していますから、これは息長宿禰王の出自を誤魔化すためのものでしょう。息長宿禰王は近江から北陸・越を根拠地とするムナカタ海人の族長で、卑弥呼の後を継いだ姫巫女台与(記紀では神功皇后)の父です。米原市日撫神社で少毘古名命・応神天皇と一緒に祀られていますので、記紀神話でスクナビコナとされた本当に小柄なシャーマン王だったと考えています。ちなみに応神天皇はその父大国主久々遅彦を隠すために祀られています。

父と娘巫女が部族を支配する形態は先代赤坂比古とムナカタ女神イチキシマヒメ卑弥呼の父・娘の関係と同じです。

ムナカタ海人族のイチキシマヒメ卑弥呼・台与は祝女(はふりめ、巫女)で、それぞれの父の先代赤坂比古・息長宿禰王がシャーマン王・祝(はふり)・巫(かんなぎ)ということです。唐古・鍵遺跡の線刻絵画土器に見られる鳥の格好をしていたと考えられます(詳細は「卑弥呼の父・弟が魏志倭人伝に登場していた?」参照)(^_-)-☆


石棺の蓋に彫られた星座図は、夜の航海に天文の知識が必要だった海人族のシャーマン王であることを示しているのです(^_-)-☆。
(NHKクローズアップ現代より) 

【参考記事】
【検証1】佐賀に近江の土器が?
なぜ、息長宿禰王が吉野ヶ里に居たのかはここに詳しく説明していますので、どうぞ( ^)o(^ )

サル・カニ合戦の元ネタは日本建国の戦いだった?
抹殺された尾張氏の謎(その1)(その2)(その3)尾張と言えばカニだ~わ!


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