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すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

なぜ邪馬台国問題が解決しないのか?( ゚Д゚)

2024-03-21 19:19:59 | 古代史
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#2022-10-30 01:39:18に記事にしましたが、前回の記事「邪馬台国論争終了のお知らせ?」で述べたように邪馬台国畿内説(纏向遺跡説が有力)は、実は事実を説明できない部分があるので、明快な反論がない限り、棄却されるべき仮説なのです。それにもかかわらず反論なしで、NHKという公共放送・マスメディアを利用して定説化しようと努力しているようです。これは真実を科学的に探求しようとする立場からみると、到底受け入れられない話ですので、今回この記事を見直しました。

畿内説の研究者は以下に説明した「信念の固着」のうちの「3.先天的方法(a priori method)」に該当する話なので、九州説の研究者の反論は承知の上で、畿内説を主張しているようです。しかし、C.S.パースが指摘するように、畿内説は「個人の好み」のレベルでしかないのです。

実は、それに対抗する、有力とされる九州説(吉野ヶ里遺跡説や筑紫平野説など)も、事実、つまり考古学や民俗学などの成果に基づく妥当な演繹的推論によって構築された仮説にはなっていないのです。

「4.科学の方法(scientific method)」でないと真実を探求するという意味で学術的な定説にはならないのです。ということで、一部、切れていた画像のリンクを修正して再度掲載します。よろしければお付き合いください(;^ω^)


標記の件に関して、研究者や関心のある人々のこの問題に関する考えが人によって異なる信念となっているので、解の一致があまり期待できないのですが、C.S.パース(Charles Sanders Peirce)が論文「信念の固着」(The Fixation of Belief 1877)で述べた考えの中にヒントがあります。といってもこの論文に書かれた内容は、勿論パースの言葉ですので、日本人の素人には馴染みがないので難解です。そこで、赤川元昭「仮説構築の論理」(白桃書房2021年2月26日, pp.91-99)の中で分かりやすくまとめられていますので、これを参考にして考えてみたいと思います。

C.S.パースによれば、人間はいつも疑念(Doubt)を持った場合には探求(Inquiry)をする生き物のようです。パースの言う探求とは、日常生活の一場面で頻繁に行われるものから、最先端の科学研究まで、幅の広い精神活動だとしています。そして、多くの場合、最初の疑念を持った事象を説明付けるものを論理的に推論(Reasoning)するのが探求ですが、最終的に信念(Belief)が生まれることによって探求は終わります。その信念は次の四つの方法で生まれるとしています。

1.固執の方法(method of tenacity) 自己中心的であり、自己の願望にかなえばよいといった基準によって信念が決定され、それに固執する。・・・自己中心的な信念は、本来、個人的なものであるがゆえに多様であり、その信念に固執する限り、時には憎悪や侮蔑といった信念同士の衝突が避けられない。したがって、・・・社会の場で共通の信念を作り上げる必要がある場合であれば、固執の方法とは全く別の方法に頼らざる得ない。

2.権威の方法(method of authority) 集団中心的であり、集団の目的にかなうような信念が作り上げられる。・・・神学的な教義や政治的なイデオロギーといった社会で共通に保持される信念は、・・・集団的な判断にゆだねられる。このため、しばしば、国家のような集団は正しい公認のイデオロギーを国民に繰り返し説くだけではなく、公認のイデオロギーに反対する説が流れたり、それが支持されたりする場合、それを阻止するような権力が与えられていることも少なくない。パースによれば、・・・・固執の方法に比べると知的ならびに道徳的な点ではるかに優れているのだという。ただし、・・・不完全さをもっている。・・・また、「権威の方法」とは、いわば信念の押し付けに過ぎない。もし、幅広い見識を人々が持つならば、国家公認の見解が他の見解よりも優れているとは限らないという疑念が生じることもあるだろう。したがって、人々が互いに意見を交流して、そこから新たな意見を導き出すことができるようになるならば、権威の方法のもつ不完全さは、ますます明白なものになっていく。(注1)

3.先天的方法(a priori method) その方法の特徴を一言でまとめるのであれば、思弁的な普遍性であり、信念が形成される基準とは、その信念が理性にかなうものかどうかということである。この方法では、どのような信念が信じるに値するかが考察され、議論され、そして決定されることになる。・・・個人の好みに固執することはない。・・・理性の働きによって、人々がお互いに話し合ったり、様々な視点から物事を考察したりしながら、各人の信念が自然の道にさからわずに徐々に発展していくようになるからである。・・・だが、明らかな欠陥があることをパースは指摘する。それは、理性というものが人間の普遍的な判断基準であるとは想定しずらいことにある。実際のところ、この方法は個人の好みの発展のようなものにしか過ぎず、確固とした意見の一致に到達するかどうかは定かではない。

4.科学の方法(scientific method) この方法の特徴を一言でまとめるならば、経験的普遍性であり、信念を決定付けるのは、その信念が観察事実や実験結果と一致するかどうかという基準によって判断される。・・・すべての人の結論が究極的には同一のものになるという可能性が開かれている。・・・それは、「先天的方法」と同様、人間が持つ自然な探求心によって生み出されたものであり、また、客観的な事実と合致するという点で、人々によって共通に認められたものでもある。

権威の方法は、例えば邪馬台国大和説や九州説などを唱える大学の指導教官やその上の師匠の説を受け入れることになりますが、その研究室の人々は探求を進めるのが仕事なので、矛盾などが生じれば、当然、権威の方法で押し付けられた信念の部分まで見直されなければならなくなります。

そこで、偉大な師匠の説を完全否定はできないので、何とか部分的にでも、あるいは大枠で踏襲しながら、その立場から些細な矛盾は不確実な解釈の一つとして無視し、先天的な方法によって信念をまとめるとそれぞれの学派が維持できるわけです。各学派は、互いに欠陥があることは理解しながらも、それらは不確定な解釈の一つと考えるので、結局、邪馬台国問題が解決しないのが現状だと思います。

当然、このような各学派の主張は互いに一致しませんから、従来の研究はパースの言う「科学的方法」ではなかったのだと分かります。

パースの科学的な方法は、仮説には間違いがあるという立場です。もしも仮説が正しいとすると、どういう結果が予測できるかを考えて、その予測に関する事実を探して、予測が正しいかを検証します。

もしも事実が予測と異なるものであれば、その仮説が反証されたということで、仮説の修正が必要です。全てを見直すか、部分的なもので済むかは分かりません。しかし、一定程度の検証を進めている段階では部分的な修正で済むと考えられます。

予測結果が仮説から妥当な演繹的推論として事実と一致したとしても、論理学でいう後件肯定ですので、前件部である仮説が真実であるという保証はありません。その事実を説明できる別の仮説が存在する可能性があるからです。ですから、仮説から予測される別の事実を探して同様に検証を繰り返します。そのような網羅的な帰納的推論によってその仮説が検証されたならば、その仮説は真実に近い、あるいは真実である可能性があると判断できるのです。その仮説が信念になります。これを科学的信念と呼びます。

アブダクションは科学的な信念形成の手法だ!

ただし、古代史研究の場合には一つの大きな問題があります。それは、考古学資料の絶対年代が確定していないことが多いので、事実といっても仮説と事実の年代が一致するのかが問題になると思います(注2)。しかし、繰り返し検証を行うことにより、年代的な順序の整合性が取れますので、仮説の中で決定した年代が考古学資料の年代の可能性があると考えることができます。

このような科学的な探求の手続きによる検証が、多くの研究者の批判に耐えられれば、その仮説は有望なものであるといえます。しかし、上で述べた事情から、そのような仮説が唯一存在するとは限らず、複数の有望な仮説があった場合には、その優劣は、それまで謎であった歴史上の事柄がどれだけ精密に解明できたかで評価できるのです。

【参考文献】
赤川元昭「パースと科学の方法」流通科学大学論集ー流通・経営編ー23巻2号,75-90(2011)この論文の中に詳しく解説されていましたのでぜひご一読ください(#^.^#)。


【関連記事】
【刮目天の古代史】古代史を推理する


(注1)すべての問題について人々の考えを統制することはできないという意味で不完全といっている。

(注2)C14年代法が絶対年代測定に使われますが、通常測定誤差は±「30~50年」といわれています。しかし、今問題としている古墳時代初頭(三世紀後半から四世紀初頭)はもっと誤差が大きいことが知られています。奈良県桜井市のホケノ山古墳の炭化木材の5点を測定した結果、「紀元前30~後245年の275年間に広く分布した(表1)」とあります。
【参考資料】鷲崎弘朋「炭素14年代法と邪馬台国論争―年輪年代法との連動を通して」
                                


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邪馬台国論争終了のお知らせ?(@_@)?

2024-03-17 23:23:34 | 古代史
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古代史ミステリー 第1集 邪馬台国の謎に迫る

初回放送日: 2024年3月17日

私たちの国のルーツを解き明かす壮大なミステリー!古代史の空白に迫るシリーズ第1弾。謎の女王・卑弥呼の邪馬台国はどこにあった?発掘調査と最新科学が突き止めた新事実を紹介。人骨やDNA分析から見えてきた激動の東アジア。「三国志」に秘められた卑弥呼のグローバル戦略とは?最強の宿敵・狗奴国とのし烈な争いの結末は?未知の古墳のAI調査や大規模実験で徹底検証!日本の歴史を変えた卑弥呼の波乱万丈のドラマを描く!

日本国民に告ぐ!

天下の公共放送NHK様の番組を見なさいや!

卑弥呼は箸墓に眠っていると確定したぞ!

1年単位で遺跡の年代を決めることができる最新の技術で、

邪馬台国は纏向遺跡と決定したから、今後は畿内説以外は妄説として排除する!

AIに教えておくから、ブロガーやYouTuberのコンテンツは自動的に削除するからな!

わかったか!


ちょ、ちょっと待ってんか?

なにを、ごちゃごちゃ言ってんねん!

著名な考古学者などの一線級の研究者がみんな言ってるやないか!

纏向で決まりや!分かったな!


すんません、ひとつだけ、いいですか?

うるさいやつだな、今頃言っても、もう遅いけど、言ってみろ!

番組の中で、東国の前方後方墳が狗奴国だとおっしゃってますが、

纏向遺跡には最古級の前方後方墳のある東海の人々や関東の人々が来てますよ~!

纏向遺跡の外来土器の中に、特に東海の土器が沢山あるんです~(;´Д`)

邪馬台国が纏向遺跡なら、邪馬台国と狗奴国は仲良しとちゃいますの?


う!それは、何かの間違いだ!ネットの記事は無視しろ!

でも~、当時の纏向遺跡に戦争の痕跡も見当たらないんですが~(^_-)-☆

そんなこと、些細なことだ!番組見たら分かるやろ!

ちゃんと戦争やってたのをしっかり見たやろ!


でも~、番組に出演されてた有名な考古学者の最近の本にも図が載ってますよ~( ^)o(^ )


う!気にすんな!って言ったやろ!

そ、そんな~(;´Д`)

え~か!よう聞け!この国の言論はNHK様が仕切るから!

これから受信料をネットからも取るゾ!

文句がある奴からは受信料を100倍取るから、覚悟せ~よ!


こんな妄想が本当になりそうな感じやね!もう、この国も終わりかな!

いやいや、ここで負けたらおしまいだ!

今度の選挙で、NHKを民放化してくれる候補者に投票しよ~!

NHK~、国民からカネ盗って、なんて番組作るんや~!

受信料返せ~

【関連記事】
古代史まで大手メディアに操られてる?!( `ー´)ノ

【検証11】定説の根拠を疑え(^_-)-☆

卑弥呼の時代(三世紀前半)の纏向遺跡には倭国の玄関口の北部九州の人々がやって来た痕跡がないんですよ!

纏向遺跡の前方後円墳で行っていた大事な儀式に、東海や山陰など九州以外の人々が参加しているのに、
九州の人がおらんというのが事実です。

九州の倭国と纏向遺跡は対立関係だと容易に分かりますよ(^_-)-☆

三世紀後半の纏向遺跡でヤマト王権が成立するので、九州にあった邪馬台国連合倭国が纏向遺跡の狗奴国に滅ぼされて、日本が建国されたと見るのが常識でしょう!




王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆





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【邪馬台国論争】伊都国東遷説とは?(@_@)

2024-03-16 02:40:26 | 古代史

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#いつも勉強させていただいている岡上佑さんからまたまた好い話題の動画が出ましたので、早速以下のコメントしました。長文になったので残りを記事にしました。よろしければお付き合いください(;^ω^)


いつも興味深い話題を提供いただき有難うございます。
伊都国東遷説の考え方を整理していただいたのでとても助かります。
纏向遺跡は交易都市ではない、日本が建国された特別な大集落ですので、その外来土器は、政治色の強いものだと思います。
少し長くなったので、拙ブログ「刮目天の古代史 【邪馬台国論争】伊都国東遷説とは?」にアップしました。
よろしければご参照いただき、ご意見をください。 


岡上さんが上の図に示された①~④の論点に沿って以下に述べます(;^ω^)

①古墳時代のヤマトを成立させた力の源泉は九州伊都国であるというのは近いですが、少し異論があります。
ヤマト王権は初期の纏向型前方後円墳に特徴が表れています。一番大きな影響は特殊器台や弧文円板から吉備(瀬戸内)からだと分かります(詳細は「弧帯文は龍蛇神(ナーガ)の文様だった!」参照)。また、吉備の楯築王墓の棺の底に大量に敷き詰められた水銀朱は北部九州の首長霊祭祀の影響を受けていますので、北部九州の中に伊都国もありますが、奴国の方が歴史が古いのです。

初代奴国王は新唐書・宋史王年代紀に記載された天御中主です。これは江南出身の奴(ナーガ=龍蛇神)を信奉する海人族(江南系倭人アズミ族)の王という意味の名前です。地名も那珂、那賀、長柄、中山などがあり、これらはアズミ族が入植した土地につけられています。弧文はナーガを象ったものと考えられます。紀元前473年に呉が滅ぼされ王族が半島南部の倭人に助けられて生活していましたが、恐らく寒冷化の影響で紀元前4世紀ごろ福岡市吉武・高木遺跡に南下したと推理しています。列島最古の王墓が発見されています。三代の王と王族が埋葬されています。その後4代目の天彌聞尊(アメノニニギノミコト)から糸島平野と福岡平野を平定して春日市須玖岡本遺跡に王宮を遷したと考えています(詳細は「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?」参照)。従って「日本は古の倭の奴国」という新唐書・宋史の記述が正しいと考えています。

②魏志倭人伝の時代、つまり卑弥呼の女王共立によって倭国大乱が終わったころに吉備を中心とする旧奴国勢力が纏向遺跡を造ったと考えています。つまり、107年に後漢安帝に160人もの生口を献上して朝貢した倭国王帥升(倭の伊都国王師升)によって奴国王が殺された事件があったと推理しています。最後の奴国王が宋史王年代紀第18代王素戔嗚尊(記紀神話の高天原を追放された暴れん坊の神スサノヲ)です。師升は奴国宮廷祭祀の司祭で楽師と推理しています。物証のひとつが日本で最初に作られた金石文「室見川銘板」です(詳細は「【わかった!】室見川銘板のなぞ」参照)。スサノヲの弟ニギハヤヒが奴国を脱出し、ムナカタ族の支援を受けて吉備を平定し、隆盛となり奴国を再興したと考えています(詳細は「【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?」参照)

③伊都国の平原王墓出土の内行花文鏡などは卑弥呼が魏から贈られた鏡の可能性があると考えています。しかしその被葬者は卑弥呼の宗女台与と考えています。

二世紀末の倭国大乱は師升王の子孫の倭国と狗奴国(旧奴国)の戦争です。主戦場は弥生後期後半の鉄鏃・銅族の出土状況の調査結果から分かりました佐賀平野・筑紫平野です(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。

本当の倭国王難(儺)升米が、三世紀初頭に日本海沿岸を根拠地とする縄文海人族ムナカタ族を束ねる王の日高彦を討ちました(狗奴国の官狗古智卑狗です。豊岡市久久比神社の祭神で木霊、久々遅彦は王の襲名、奴国を脱出した五十猛命の子孫)。日高彦の右腕で、玄界灘を支配するムナカタ族の赤坂比古(和邇氏の祖、倭大夫伊聲耆)を懐柔して、その娘卑弥呼(宗像女神イチキシマヒメ)を外交上女王に立てたと推理しています。難升米が政治を補佐する男弟とした伊都国男王で帥升の子孫です(詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」参照)。

247年頃の卑弥呼の死後に卑弥弓呼大王が送った倭国征討軍が北部九州に押し寄せてきました。卑弥呼の死を知った弟赤坂比古(記紀の日触使主)が戦意喪失したので難升米は半島に逃亡したと見ています。そこで男王に立ったのが狗奴国軍の大将の尾張王乎止与命(をとよのみこと)で、卑弥弓呼大王と同じニギハヤヒの子孫です。これは纏向遺跡の外来土器の中で東海の者が約半数を占めることから推理しました。


(左クリックで拡大)

岡上さんは土器を政治と切り離して考えられていますが、交易都市ではない宗教色の強い纏向遺跡の外来土器は、狗奴国王卑弥弓呼が倭国の裏切り者たちに復讐するために各地に散った旧奴国勢を呼び寄せたそれぞれの国の土器ですから、政治色が強いものだと思います。纏向遺跡で重要な祭祀を行っているので、各地の特産品も持参したと思われますが、祭祀に使う高坏や壺などが出土していることからも分かります。

大和の考古学の第一人者石野博信先生が「邪馬台国時代の王国群と纏向王宮」(新泉社2019年pp.129-130)で「邪馬台国はどこにあるかは、外来系の土器、よそから来た土器がたくさん落ちている所を探せばいい」と述べています。

ところが纏向遺跡の外来土器の中には九州のものは1%以下なのです。石野先生が主張される九州の土器は勝山古墳で出土した高温鍛冶の羽口の一部などですが、卑弥呼の死後のものと考えています(詳細は「【検証11】定説の根拠を疑え(^_-)-☆」参照)。

纏向遺跡で行われた重要な祭祀に列島の数多くの地域の人々(しかも首長クラス)が参加していますが、北部九州の倭国の人々が参加していないので、纏向遺跡は倭国と敵対する狗奴国だと分かります。狗奴国という名称は、難升米が景初三年に帯方郡太守劉夏に書いて教えた旧奴国の蔑称「狗コロの奴国」と推理しました。

尾張王が男王に立ったことを不服として千人が殺し合ったと魏志倭人伝にありますが、その勝者が久久遅彦(戦死した日高彦の子高野御子)です。13歳の台与を卑弥呼の宗女として魏を後ろ盾にして狗奴国王を裏切って対立しました。半島南部はスサノヲの支配地だったので倭国へ供給する鉄のネットワークを再構築し、高温鍛冶技術を傘下に気前よく渡したようです。畿内と東海を除く大半の地域が久久遅彦の傘下になったので、記紀で大国主命と呼ばれたと考えています。狗奴国が大国主を討ってヤマト王権を成立させましたので、大国主の祟りを最も畏れています。


 
④銅鐸は元々奴国の祭祀で使われた楽師が音を鳴らす祭器です。福岡市で高さ10cm程度の小銅鐸が8個出土しています。いわゆる「聞く銅鐸」です。山陰や畿内で見られるものはそれよりも大型のものですが、銅鐸の表面や土器に描かれた絵画から縄文系人々の祖霊・穀霊などの祭祀に使われたと考えられます。しかし、二世紀後半に縄文系の人々は首長霊信仰に変えますので、銅鐸文化は東に移りながら衰退します。鉄の元締めの出雲・丹波王久久遅彦を頂点とした鉄のネットワークに参加する各地の部族長が、部族内で大きな権力を持つようになったと考えられます。それは大型四隅突出型墳丘墓の出現から分かります。二世紀末の倭国大乱という列島が初めて経験した大掛かりな戦争への準備過程であると考えられます(詳細は「弥生時代の戦争は倭国大乱から!」参照)。

【関連記事】

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆





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2024-03-15 11:59:23 | 古代史
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#2024-03-15 00:00:09に記事にしましたが、先ほど奈良テレビの動画をチェックしたら、やっぱりコメントが消されていました。さらにMBS NEWSの動画『「副葬品が女性的な感じが…」富雄丸山古墳に埋葬されたのは「一帯支配の男性」ではなく「男性の親族」の可能性 奈良市(2024年3月13日)』を見つけましたので、消されることを覚悟でまた、懲りずにコメントしました。下に追加しましたので、よろしければまた、お付き合いください。

富雄丸山古墳はこの時代(4世紀後半)の他の古墳と比べて全く異様です。
巨大円墳に造り出しがあり、墳頂はすでに盗掘にあっているようですが、造り出しに被葬者があったために空前絶後の超豪華な副葬品二点が出土し、さらに今回青銅鏡が3面出てきました。卑弥呼の鏡といううわさもあります。
また竪櫛がでてきて動画のタイトルのような意見が解説した考古学者から出ました。しかし、この時代の古墳に副葬された竪櫛は女性の持ちモノとは限らず、男性の頭部に副えられた例もあり、葬儀に使ったものかも知れません。もしも被葬者が女性であれば耳飾りや首飾りの玉類が大量に出るはずですから、被葬者は男性と見られます。
墳頂の主体部に遺骸の痕跡が無ければ、最初から遺骸はなかったと考えられます。つまり、本当の被葬者を隠すために造り出しが作られたと考えられます。被葬者は大王クラスの人物で、何らかの理由で造り出しに隠されて埋葬されたと考えられます。この被葬者について推理しましたので、よろしければ「富雄丸山古墳からまた出てくるか?(@_@)? 」をご参照ください!



#今話題の富雄丸山古墳の造り出しで見つかった木棺から新たに、3枚の青銅鏡が出てきたので興奮しました!被葬者を確信したので例によって以下のようなコメントしましたが、奇妙な現象が起こっています。よろしければ、お付き合いください(;^ω^)



前代未聞の超豪華な副葬品が二点も造り出しから出土していますので、本当の被葬者は墳頂ではない造り出しのはずです。本当の被葬者を造り出しに隠さねばならない理由がありますね!やはり推理したとおり、オオサザキ(仁徳天皇)に暗殺された宇治天皇(うじのわきのいらつこ)だと思いますよ!詳しくは【刮目天の古代史】 富雄丸山古墳からまた出てくるか? をご参照下さい^_^

最初、以前にコメントしたことのある奈良市の動画チャンネルの速報にコメントしたら直ぐに削除されていました。ブラックリストに入れられているのかな?(注1)

次に、読売テレビの「【速報】「どうなっとんじゃ」また大発見か 富雄丸山古墳から出土した棺から“銅鏡”発見 埋葬者は?」を見つけて、これはどうかな?と同じコメントしたら、これも直ぐに消されました。

さらにしつこくANNニュースの動画にも同じようにコメントすると、すべて直ぐに消されています。

今のところ上に揚げた奈良テレビNEWS【公式】ならどっとこむ「富雄丸山古墳の被葬者はだれ?」は消されていませんが(#^.^#)

大手メディアや自治体の公式チャンネルは、権威の発言と違うものは「不都合なコメント」と見るのでしょうか?

視聴者のコメントが嫌なら全部受け付けなければいいのですが、

一部のコメントだけを排除するのは言論統制ですね!

それで思い出しました。先日、ニュースでNHKがまた邪馬台国の番組を放送予定という記事です。

NHK、邪馬台国はどこにあったのか? 卑弥呼の謎に迫る「古代史ミステリー」17日から 阿部邦弘2024年3月12日 14:00
NHKは、日本の黎明期に活躍した邪馬台国の女王・卑弥呼や、ヤマト王権の支配者・倭の五王らの謎に迫ったNHKスペシャル「古代史ミステリー」を、3月17日・24日の2週に渡って放送する。

17日・24日ともに、放送時間は午後9時から9時49分まで。スタジオ出演は、シシド・カフカ、前川泰之、原菜乃華。


とありますので、相当カネかけて番組を作ったようです。

17日放送の第1集は「邪馬台国の謎に迫る」。邪馬台国はどこにあったのか、有力候補といわれる佐賀・吉野ヶ里遺跡と、奈良・纏向(まきむく)遺跡の研究最前線を取材。一年単位で遺跡の年代を探る研究方法から見えてきた新事実も紹介する。


とあるので、え?1年単位で遺跡の年代がわかるのか?(@_@) フェイク・ニュースやろ?

まだ畿内説・九州説という構図のようです。そういえば昔も「クローズアップ現代」でやっていましたが、纏向遺跡に九州の土器が来ているように見せかけたインチキなテロップを作ってました。このインチキが無ければ、倭国の玄関口の北部九州の人々が頻繁に来ていない地域は邪馬台国ではない!と多くの国民がとっくに気づきますのでね( `ー´)ノ

【刮目天の古代史】事実だけが真相に導く?(^_-)-☆に詳しく述べましたよ。当時、こんな間違った誘導を平気でやるのが公共放送なのか?とがっかりしました。だからその後の選挙ではN党の候補に投票しましたよ(#^.^#)

もう、大手メディアに情報や知識を頼るのは止めましょう!

国民の支持がなくても権力に固執?冗談じゃない!( `ー´)ノで記事にしましたが、怖ろしい状況ですよ!

多くの国民を貧乏にし、不幸にした政府の「国の借金詐欺」もあります。能登半島地震の被災者は大丈夫か?超過死亡が突然増えている怖い現象もワクチン接種を大々的に始めた2022年から続いています。紙の保険証廃止して自ら社会混乱を起こしているマイナ・カード問題も政府の本当の目的を考えると、決して国民のためにならない利権の話だと気づきます。日本を破壊する移民政策で川口市ではクルド人が日本人〇ね!そして色ボケ・金権・詐欺政党は堕ちるところまで落ちています。総理自らが政治資金規正法の脱法パーティーで資金集めして、国民から刑事告訴されています。戦後最低・最悪の内閣です。政治とカネの改革など自らできるはずありません。このまま、自民党に任せ続けたら確実に日本は消えますよ。

こんな内閣の支持率が20%?大手メディアのフェイクニュースじゃないのか?

今度の選挙で国民が全員投票所に行き、自民党にノーを叩き付けましょう( `ー´)ノ

【関連記事】
国民貧困化の犯人は消費税だった!(;一_一)

アホ丸出し厚労省の「飲酒ガイドライン」を京大教授が完全論破。酒豪も下戸も“コロナ以来の真っ赤な大嘘”に警戒せよ
2024.03.14 by 『藤井聡・クライテリオン編集長日記 ~日常風景から語る政治・経済・社会・文化論~』

国民の自由を縛って金儲けしたいデタラメな政治家を国会から追放して、官僚・大手メディア・財界(商人)の悪いトップらも蹴とばしてもらえば、日本はまだまだ大丈夫でしょう!(^_-)-☆

(注1)以前コメントした奈良市の動画チャンネルを確認すると、記事にした「卑弥呼の巨大円墳が日本最大だよ!」に以前のコメント内容が残っていたので、さっきの消されたコメントを再度投稿しました。まだ消されずに、残っています。そしてこの動画へのわたしのコメントのひとつ「@tonton4880 さん 事実に基づいて科学的に妥当な推論を重ねると真実に近づけますよ。しかし真実を知っているのは神だけです。それ以外に真実に近づく方法は宗教と権威への信仰ですが、万人が理解できないところが辛いところです。科学的な推論ならば多くの人が理解できるはずですね(^_-)-☆。」だけが消されていることに気付きました。何か気に障ったのかな?このコメントの後に揶揄するコメントが来たので、こちらもふざけたコメントしましたが、それがよくなかったのかな?( ^)o(^ )


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【邪馬台国問題】宇佐説が出てました~(;^ω^)

2024-03-13 00:00:07 | 古代史
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#まぬけなはなしで笑われそうですが、3ケ月前の下の動画に既にコメントしていましたので驚きました。従ってタイトルを変更しますネ(;^ω^)(2024.3.13)

#2024/03/12 22:23にアップしましたが、不躾な長文のコメントでしたが、Up主様よりいつものように暖かいお返事を頂きましたので、早速本文の末尾に青字で追加させていただきました。どうも有難うございました。(^^;)

#いつもとてもいい動画を発信されているので、今回もついコメントしてしまいました。よろしければお付き合いください(#^.^#)




すばらしい!人気沸騰ですね、うらやましい( ^)o(^ )
そして宇佐説、有難うございます!正解だと思います(^_-)-☆

九州説の中で魏志倭人伝にある「自女王国東度海千余里、復有国、皆倭種」の記述を無視しない解です。他の場所だと何故無視しなければならないのかを説明する必要があります。最初に宇佐説を学説にした富来隆先生もこの一文を決め手としました。また、投馬国は関門海峡付近の「鞆の浦」からとして、北九州から周防灘に面した豊前地域の大集落群を考えたようですからピッタリです。

そして多くの方は、狗奴国の官狗古智卑狗に因む地名である菊池辺りが狗奴国と見ています。実際、倭国大乱時に北部九州の倭国と山鹿市方保田東原遺跡や菊池市うてな遺跡などの狗奴国の軍勢と戦ったと考えられます。

そこで熊本に居た狗奴国勢との共立であれば、狗奴国王卑弥弓呼は247年頃の卑弥呼の死の直前も邪馬台国連合倭国と敵対関係だったのですから、狗古智卑狗の配下の熊本勢が何らかの理由で狗奴国王を裏切って倭国側についたと考えることができます。

それでは狗奴国王はどこにいるのかですが、宇佐の邪馬台国から東の纏向遺跡を狗奴国王の王都と考えると、その後のヤマト王権の成立を比較的楽に説明できます。

纏向遺跡は三世紀初頭から造られていますが、卑弥呼が女王に立てられた時期と一致します。そして三世紀半ばまで各地から首長レベルの人々が多数集まって最初の前方後円墳である石塚古墳からいくつも前方後円墳などが造られて祭祀を行っています。この重要な祭祀儀礼に九州の人々が参加していないのです。それは三世紀半ばまでの外来系土器に九州の土器が無いことから分かります。畿内説の最有力候補の纏向遺跡は邪馬台国ではあり得ない、最も分かり易い証拠なのです。伊都国の一大率は女王への贈り物を検査して間違いなく女王に届ける役目ですから、その部下が来ていないような場所は邪馬台国ではないでしょう。そうでないというのなら理由を説明すべきです。

また、倭国の玄関口である北部九州の人々が重要な祭祀に参加していないということですから纏向遺跡の勢力と倭国が敵対していたと分かります。二世紀末弥生後期後葉の倭国大乱期の方保田東原遺跡では山陰や畿内の土器が出土していますので、狗奴国側の兵士を呼び寄せて倭国と戦争していたということで、つじつまが合います。

ということで、狗奴国の勢力の一部は当初は女王国の南でしたが、狗奴国の王都は女王国の東の纏向遺跡だと推理しています(詳細は「【邪馬台国問題】景初二年か景初三年か?」参照)。



もしも、卑弥呼が共立された後も熊本に狗奴国勢が居たのならば、伊都国に居た倭国王がいったい誰と卑弥呼を共立したのか全く説明できないと思います。さらに、三世紀末に纏向遺跡でヤマト王権が成立したことも容易に説明できないと思いますが、いかがでしょうか?長くなって申し訳ありませんでした(;^ω^)

三国志の原資料を探ろうとした動画ですが、思った以上に人気がありました。みんな、こういうところに関心があるようです。(^^)  宇佐説もいろいろな意味で合点が行く説だと思います。方保田東原遺跡。いつか実際に訪問して勉強したいです。

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