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#時々拝見している世界の様々な興味深い話を分かり易く発信してくださっている方のYouTube動画に邪馬台国が出て来たのでコメントしました。よろしければお付き合いください(#^.^#)
邪馬台国に繋がる証拠を発見か!?『シドマイヤーズ シヴィライゼーション VII』先行プレイ
世界ミステリーch@YouTube
古代史を研究している素人ですが、辰砂の採鉱技術は最先端ということで驚きました。なぜなら畿内やその圏内の四国西部や東国には北部九州や半島南部、そして楽浪郡の土器がほとんど出土していないのです。ということは高度の技術は阿波の人が留学したか、独自に身に着けたのではないかということです。鉄の技術ですが、列島内で鉄鉱石を製錬する技術は6世紀ごろ日本に来たのですから、辰砂の高度技術だけが何故、3世紀に既に日本に来ていたのか?不思議ですね。
それから邪馬台国問題が解決しない理由は明らかです。多くの皆さんは魏志倭人伝の内容は当時の倭について正しく書かれているはずだから正しく解釈すれば分かるという、単なる思い込みだったことが、江戸時代から三百年研究していまだに見つからないことから分かります。つまり、邪馬台国への行程記事は政治的な理由で曖昧に記述されているのです(詳細は「【刮目天の古代史】邪馬台国の謎」参照)。自分で思いついた場所になるように、いか様にも解釈できるので、間違った空想が固着しているので古代妄想だと分かりました。
だから、魏志倭人伝の行程記事の内容は一旦横に置いて、その他の邪馬台国を記述した箇所に基づき候補地を探して、事実、つまり考古学や民俗学などの成果から推定するのが正しい方法だと分かります。
ですから、北部九州と緊密な交流のない畿内説や四国説などは邪馬台国ではないと結論付けられます。
そして、九州説が有力なのですが、魏志倭人伝には邪馬台国の地理的な情報として、「東に海を千余里渡ると、別の倭人の国が在る」とあり、5世紀の倭の五王が使節を送ってきた時代に書かれた范曄「後漢書」には別の倭人の国を狗奴国と明記しているので、倭の使節からの情報だと分かるのです。そして、九州説でこの条件に合う場所は周防灘に面した豊前地方、そして皇室の宗廟のある宇佐神宮あたりが有力な候補なのです。
実際、現代になって神宮の修復工事に際して、本殿下の亀山に石棺が見つかった情報があり祭神の比売大神である宗像女神卑弥呼の墓と言う伝承があります。しかし、宇佐神宮あたりは吉野ヶ里遺跡に匹敵する60ha規模の大集落があったので、「卑弥呼は女王になってから人前に現れず、城柵で囲われた居城に兵士に厳重に護られている」と記述されているので、宇佐神宮から山間部の要害堅固な山城に居住していたのではないかと弥生後期の集落を探しました。
宇佐市安心院町下毛に宮ノ原遺跡があり、日本書紀が宗像三女神が降臨した伝承地のひとつと記述した三女神社を発見しました。神社の西側にV字溝があり、そこから青銅製の矢じりが見つかっていますので、兵士に護られた卑弥呼の宮室かも知れないと考えていたのです。
そしてさらに西側500mほどの場所に、卑弥呼の墓「径百余歩の冢(ちょう)」つまり直径約150mの円形墳墓「三柱山古墳」を発見しました。その西側の原野の地名が「血野(現在は知野)」なのです。奴婢百余人を惨殺して殉葬した場所を示唆しています。
さらに南約400mの河原に同名の三女神社があり、墓の遥拝所になっていました。墓との間に土が高く盛られて直接、墓を目視できないようにされていますが、そこに横穴が掘られ、入り口に馬頭観音の石像が置かれていました。何とその地名が「ヒカケ」とあり「日欠け」つまり日食を示唆し、そこの横穴が後世になって神話の天岩戸をイメージして彫られたようなのです。
その他にも面白い話がありますが、卑弥呼はムナカタ海人族の姫巫女で、宮室で卑弥呼に太陽神が憑依し、口寄せされた神託を人々に伝えて政治を行うシャーマン王が卑弥呼の父赤坂比古(和邇氏の祖)だということが、当時の縄文系の人々の大集落の唐古・鍵遺跡で出土した鳥の格好をした巫(かんなぎ)と巫女が描かれた絵画土器片と天理市和邇坐赤阪比古神社の祭神が宗像女神市杵島姫命であることから分かりました。
その他にも近江八幡市の日牟礼八幡宮に不比等が訪れて、強権で社名を「日群社」に変更させた歌が残っており、もとは日食に因む「日蝕社(ひはえのもり)」だったと推理できる話もあります。
もしもご興味がわけば卑弥呼の情報満載の「【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!」をご参照ください。長々とお邪魔しました(#^.^#)
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