朝から積もってました
10か月たちました
震災直後は、「もう日本も終わりだな」ってな勢いで凹みまくっていたかも
私の中では(世間から忘れ去られているんじゃないか)という思いでいっぱいだった
浸水しなかった旦那の実家に行ったのはいいが、情報に乏しく。。。
もし、もし次こういう震災があったら、絶対旦那の実家には行かない
絶対逃げるし、車助けるし、津波にあってもすぐに生活できるように備えておく
500年・1000年に1度って言われてるけど、1度受けてしまった津波に2度やられる訳にはいかない
次、津波警報が出たら子供たちが学校に居る時間だったら学校からは出れない
迎えに行くときは自転車で行くと伝えてある
食料品を詰め込んだリュックを背負って
非常食、見直してみたら賞味期限ギリギリも何点か・・・
消費して補充しておかなきゃ
今日、震度3の余震があった
10か月たって「余震」。。。か
何年続くのか
震度3位では少しも動じなくなってきたこの頃
震度6までは冷静に対処できるだろう
問題はその後の町の混乱・渋滞
この10か月、常に避難路を無意識に探している
それが、被災者があの日心に刻み付けたものの一つかもしれない
3日ほど電話 使えませんでした
光回線にしてまだ2週間ちょっと
そんなに早く故障するもの
最初、パソコンが壊れた・・・と思いサポートセンターへ
電話通じないし
から再度電話して数分後・・・・・・・
「外の回線の故障かもしれませんね」
サポートセンターから故障の係りに電話回され
「1~2か以内に(修理に)行きます」と。。。
「明日必ず来てください」
と私が決定し 翌日、朝一に修理部隊登場
しかし直らず
のせいで他の修理部隊も来られず。。。。。
今日来た修理部隊は優秀で昨日と同じ場所を見ただけで直りました
昨日この人たちが来てくれればよかったのに
まっ、とりあえず直ったのでいいか
一昨日、従姉妹の旦那さんが見つかりました
4月初旬に自衛隊によって見つけてもらっていたらしいです
写真も見せてもらったそうで、服を着ていたから体はきれいだったそう。。。
震災から1か月以内に見つけてもらっていたのに、10か月近く家に帰れなかったなんて。。。
混乱していたからなぁ~ 警察も、遺体安置所も
私、3月下旬に発見された近く車で通ったなぁ~
あの時、まだあそこに居たんだね
今は仙台のほうに居るらしく、来週には戻ってくるらしい
お葬式はもう終わっちゃったけどね
これで本当の「けじめ」(踏ん切り)がつくんじゃないかな
従姉妹の息子は父の面影を通りすがりの人に重ねる時もあるみたい
4歳にはなんて説明しようか。。。
見てますか?
なんで逃げなかったの?
どうして大事な二人のもとに戻ってこなかった
あえて言わせてもらうけど、馬鹿だよあんたは
絶対帰ってこなきゃなかったのに、逃げる時間はたくさんあったのに
もう、今さら。。。。。だけどね
あなたの息子は来月5歳になりますよ
あなたがこの先、育てられない分 ず~と見守っていてくださいね
こちらはできる限り2人を助けて暮らしていきます
今年は早めに松の内から学校始まりました
早く始まるのはいいけど。。。。。やっぱり正月気分が抜けていない内の登校は辛いです
朝起きるのが
今年はいつも通りに過ごしているつもりでも、なんかちょっと違うかな
春には兄の卒業式&中学入学
何かと忙しいを迎えそうです
休日当番医のお世話になりました
朝から調子悪く
午後一で病院に行ったら「午前の分の診察終わってないの~」と言われ
2時間半待ちました
結果、熱も高くなくインフルではなかったらしく薬で回復しました
元旦から子供たちにはコンビニおにぎりでゴメンナサイ
まっ、今日も に じゃあ、かわり映えしないけどね
午後から友達と少し遊べて、お年玉でカードも買えたから良しとしてください
母はやっと年賀状作成に着手しました
松の内中には届くでしょう