身近な自然となかよくblog (旧「菊名エコクラブblog」)

自然環境と調和した持続可能な社会を!

by NACS-J認定 自然観察指導員 松田 照之

環境問題の本当の原因

2024年01月28日 21時12分12秒 | 自然環境との共存について

地球の危機であるとか、地球規模環境問題が起こっているといった話を時々見たり聞いたりしますね。

そう言われ始めたのは、1980年に「西暦2000年の地球」という本が、アメリカ合衆国政府報告書として出版されてからのことだったというふうに記憶しています。そのころから地球温暖化や食糧危機がされ予測されていたのです。

今の子どもたちのように、私も子供のころはウルトラマンや仮面ライダーが好きでした。特にウルトラマンは悪い宇宙人が地球を侵略にやってきて、ウルトラマンが地球を守るために戦うという展開があります。

私の中に自然環境保全の意識が目ざめたのは中学生のころでした。

「自然は大切なもののはずなのに壊されてばかり。だから守っていかなくてはならない。」

とはっきりと考えるようになったのが、中学生の時だったのです。それでも、このころはまだ自然は大切なもので守っていくべきだと考えている人が多いものと思っていました。

実際に私の幼少期は、自然や身近な生きものたちを大切にする気持ちを持った大人たちがいて、そうした大人たちから自然や身近な生きものたちを大切にするようにと教えてもらいました。

けれども「今は何か違う。」いや「昔とは明らかに変わってしまった。」と感じるようになったのは、令和になってからのことです。

水と緑と生命の星、地球。この地球の地球らしい環境、自然環境を壊しているのは悪い宇宙人などではなく、なんと人間自身ではありませんか!

人間も地球上の生命の一つですから、地球上の空気を吸って呼吸をし、水を飲み、食べ物を食べなくては生きていけるはずがありません。この食べ物というのも、元は全て陽の光や雨を受けて育った植物の葉や根や実である農作物であったり、海で獲れた魚介類、また家畜などの生き物です。元をたどっていけば全て自然の産物。こんなことは分かり切ったことなのに、自分たちが生きるための基盤である自然環境を壊してしまっているのです。

地球の環境が危機的な状態になっているのは、地球の自然環境が持っている生産力や回復力以上に資源を採ったり、廃棄物や汚染物を排出したり、都市開発や再開発のために自然を壊しているためです。

地球の危機が警告され始めてから40年も50年も経っているのに、まだ危機だと言われているのは、経済や都市の発展を優先して、自然環境を大切することの優先順位を非常に低く扱っているためです。

本当は社会全体が本気を出して取り組んでくれれば良いのですが、人間とは欲深い生きもので、強欲さを制御できずにいるんですね。そして、昔のような自然と調和した暮らしをしようとする姿勢も失ってしまいました。

でも、心ある人は何か行動しています。これから何かしようと考えている人もいるかもしれません。私はそういう人を応援するためにも、これからも自然観察会などを開いていこうと思います。また、自分自身もやっていることを深めたり、できることを増やしたりしていこうと思っています。

 

 

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Renewal New Beginning

2024年01月16日 21時43分51秒 | 自然環境との共存について

今まで自然や自然の生きものたちのことを中心に扱ってきましたが、もう少し広い範囲で自然環境との調和に関して扱っていきたいと考え、blogのタイトルを変更しました。

以前のように身近な自然環境についてもお話ししていきますが、今後は自然環境と調和したライフスタイルをテーマとして全般的にお話ししていきます。

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1月7日は七草がゆの日でした

2024年01月09日 06時08分10秒 | 自然環境との共存について

1月7日は七草がゆの日でした。

日本の行事には、日付で決まる行事と、日の長さや太陽の位置で決まる行事とがあります。

七草がゆの行事は日付で決まる行事なので、個人の生活の中で旧暦を重んじたい場合は旧暦の1月7日に行なうというのも良いかもしれません。

ちなみに今日、1月9日は霜月(11月)の28日に当たるそうです。新年を迎えるのは、まだ1か月ほど先になります。

写真は活動仲間が提供してくれたもので、実は七草ではなく3草がゆ。元々七草がゆの七草は店頭に並んでいるのを代金を支払って入手していたのではなく、身近なところから自分で採取して使用したいましたし、本来そこにも意味があります。身近なところで全て採取できなければ、採取できたものだけで楽しむのもありだと思います。だけども、七草全て集められたらラッキーですね!

ダイコン、カブ、小松菜の葉を調理した後、残った根元をプランターに植えておくだけでも、再利用できるとのこと。

 

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今日は新暦の七草がゆの日

2024年01月07日 19時44分51秒 | 自然環境との共存について

 今日1月7日は七草がゆの日です。

 春の七草には①セリ、②ナズナ、③ハハコグサ(ごぎょう)、④ハコベ(はこべら)、⑤コオニタビラコ(ほとけのざ)、 ⑥カブ(すずな)、⑦ダイコン(すずしろ)があります。カタカナは現代の標準和名、ひらがなは昔の名前です。

 ダイコンやカブは、品種によっても違いがあるかもしれませんが、秋から冬にかけて収穫される農作物です。

 セリは店頭では野菜として扱われてはいますが、元来田んぼの水路や畔に生育する野草。

 残りの4種類も田んぼの畔や畑などに生育する野草です。

 農作物であるダイコンとカブを除き、現代ではこうした野草たちを雑草として、汚らしく好ましくないものとして扱う事例が頻繁に見られます。

 しかしながら里山で自然環境と調和した生活をしていた昔の人々は、そんな扱いはしていなかったとだろうということが、七草がゆの行事から察せられます。もしそんな扱いをしていたら、春の七草として愛おしんだり食べたりすることなどしなかったはずだからです。

 草の中には冬になっても地上部が枯死せずに、姿を変えて寒さを耐え忍びながら冬を越すものがあります。その姿は葉が密集してバラの花のように多重円形となるためロゼットと呼ばれます。

 七草がゆの節句は、春の訪れを祝い、健康と幸福を願う行事。寒い冬を耐え忍ぶ野草から、その生命力をあやかりたいという願いもあったのではないでしょうか。

 

 私たち日本人はもともと農耕民族です。里山と呼ばれる、人が暮らすのに適した自然環境の中で、それらの自然と調和を保ちながら持続可能な生活をししてきたのです。

 こうした里山での生活のしかた、生活の技術、慣習、田畑や雑木林、萱場や池の管理、行事や芸術、文学などを里山文化といいます。

 七草がゆもそうした里山文化の一つ。自然環境と共存した持続可能な生活形態の一部だったならわしです。

 地球環境問題が酷くなっていると言われ、持続可能なライフスタイルが求められている今日、里山環境と里山文化を見直し、少しでもそれらを保全しようと考えることは大事なことです。七草がゆの節句がそのひとつの機会となりますように。

写真は冬の森の写真で、草本層はススキ草地となっています。ススキは秋の七草の一つ。穂が動物の尾のようなので尾花とも呼ばれ、昔はかやぶき屋根の材用にされてきました。

このブログ「菊名エコクラブblog」の次回の更新予定日は明日1月8日(月)です。もう少し里山環境のことについてふれていきたいと思います。

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持続可能な社会づくりと自然観察

2022年06月16日 20時37分27秒 | 自然環境との共存について

生きものたちが生きるための地球上の環境が傷め付けられています。私たち人間も地球上の生きもの。影響がないわけがありません。今の社会では持続困難といわれており、そのためにSDGs(持続可能は開発目標)ということがよく聞かれるようになりました。

ですが、これらの目標を掲げているだけで大丈夫とは私には考えられません。なぜなら持続可能な社会となるためには、自然環境との共存が不可欠だからです。里山環境とその環境での暮らしが、自然環境と共存した生活のしかたです。昔はそれが当たり前だったので、自然環境や生きものたちに対し、皆が一定レベルの理解と親しみを持っていました。

この横浜でも昭和末期までは、そのような環境が街にも残っていたのですが、令和となった今では風前の灯と言って良いほど、極端に少なくなってしまいました。それに伴い、人々の自然や生きものたちに対する意識も変わってしまい、昔は当たり前だったそれらへの理解や親しみも失ってしまったようです。具体的には「昆虫気持ち悪い」「雑草汚らしい」「木は葉が落ち、鳥がフンをする」といって、昆虫を殺したり除草したり、木々を切ってしまうようになってしまいました。

もちろん昔も草を刈ったり木を切ったり虫も殺したりしました。でも今のように二度と木や草が生えないようにしてしまったり、虫たちも今ほど嫌われたりしていませんでした。特に地面をなくしてしまうのは自然環境にとって致命的です。昔は自然の土や地面は大切にされていました。

自然観察は決して、自然が好きな人たちだけの楽しみといったものではありません。私たちが都市の便利な生活と引き換えに失ってしまった自然環境や生きものたちに対する理解や親しみを保ったり取り戻したりするための確かな手段であり、環境学習または自然環境体験学習とも言えるものです。

これらの理解や親しみなくして、自然環境と共存した持続可能な社会を目指すのは無理です。だから私は、自然観察会を行なうことはとても重要な活動だと考えて継続しています。そのために自然観察のできる環境を残しておいてもらう必要もあるため、その努力もしています。

侵略的外来種(生物)という言葉があります。外来種の中でも特に自然環境に大きな影響を与え、生物多様性を脅かす恐れのあるもののことを指します。けれども地球上の生命でありながら、地球上の自然環境、生きものたちの地球に対して、最も侵略的な振る舞いをしているのは人間ではないでしょうか。私たちはこのような振る舞いをやめていかなければならないと思います。

 

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高尾山のシモバシラ生育地から

2022年01月20日 18時15分56秒 | 自然環境との共存について

高尾山シモバシラの生育する土手にはロープが張られ、植生を大切にするよう呼びかける掲示がされています。土手には野草たちが生育しており、シモバシラもその一つです。

こうした土手に踏み込んでしまうと野草たちがダメージを受け、何人もの人が踏み込むとついに野草たちが死滅していきます。その時は自分一人でも、その前に誰かが踏み込んでいるかもしれませんし、その後も誰かが踏み込むかもしれません。自分一人だけのつもりが実はそうではなかったりします。

自然を楽しむには、まずその自然がなくてはなりません。今自然が残されているのは、昔の人たちが大切にしてきたからです。今の私たちが大切にしないと、未来の人たちににその自然を残せなくなってしまいます。

一度消失した自然はもう二度と戻ってこないことが多いです。回復したとしても何か月も何年もかかります。

このように自然を大切にして楽しんだり恩恵を受けようとする心がけるのは、高尾山以外の場所でもとても大切なことです。

 

エコ(eco)とはエコロジカル(ecological)の略で、生きものたちの繋がりを科学するエコロジーエコロジー(ecology)の形容詞型。

日本語では「生態学的な」ということになりますが、多くの場合「生態学的な配慮」という意味で用いられる言葉です。

色々なところでエコという言葉を見聞きしますが、ほとんど生きものが出てこないので、どう生きものたちやそのの繋がりに配慮されているのかわかりません。

そういう意味では、このような高尾山の事例の方が本当に生態学的配慮(エコ)だと言えると思います。

 

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自然を大切にするために私たちが個人個人でできること その2

2021年08月04日 11時24分26秒 | 自然環境との共存について

「自然を大切にするために私たち個人個人にできること」の記事が、時折多くの人に読まれてるようですので、繰り返し言葉を変えてお話ししていこうと思います。

環境を守るためにアイドリングストップしCO²排出削減をする。海洋生物に被害を与えないためにレジ袋を使用しないようにする。近年世間で一般的に言われている環境活動は主にこのようなものです。もちろんこれは温暖化防止や海洋汚染を軽減していくために大必要なことではありますが、少なくとも私は、このような活動では自然を大切にしているという実感はありません。

それはこのような活動をしても、身近な自然は大切にされることなく壊されているし、昔は普通に身近でも見られた野草や昆虫たちが見られなくなっているまま放置されているからです。

私たち人間も地球上の生命の一つです。人間の生命現象も地球の空気や水、そして色々な生きものたちと連動していて、単独で生命活動を行なうことは不可能。自然との共存が必要です。

自然との共存とは私たちの生活圏の中にも自然環境があるということで、どこか遠くにあれば身近になくて良いということではありません。遠くにあっても、そこから食物や水が輸送されて生きているので生活はできますが、実感が伴うものではありませんね。

やはり都市部でも適度に自然の緑や水辺(特に湧き水や小川)、また田畑を残して行ったり回復させていったりすことが大切なのではないかと思います。本当は行政が政策として、私のような人間とも連携して行ってくれれば良いとは思いますが、今はそれは期待できません。

そこで、こうしたことを個人個人で行なったら良いのではないかというのが、私の提案です。具体的には自然の生きものたちに来てもらうことができるような環境をお家に作ること。例えば小さなたらいのビオトープを作ったり、どんぐりを拾って種として用い育てるなどといったことです。今の季節から秋にかけて行なうことができますので、やってみたいという方がいらっしゃいましたら連絡ください。機会を設けたいと思います。

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自然環境との共存、問われる私たち個人個人の姿勢

2021年07月16日 12時38分11秒 | 自然環境との共存について

「地球に優しい」という言葉はよく聞かれますが、地球に優しくなくたって地球という星は壊れたりしません。壊されているのは地球の上に乗っかっている、生きものたちの生息・生育する自然環境であり、同時にその中で多くの生きものたちが生息地もろとも殺されているのです。

「地球に優しい」と言われるものを買わないよりは、そうでないものを買うよりはもちろん良いでしょう。けれども、それで自然環境や生きものたちが直接守られたり、そうした自然破壊が食い止められるわけではありません。

私たち一人一人に自然環境と共存する姿勢がなければ、私たちはこのまま自然をどんどん壊していくばかりです。自然がなくなってしまえば、私たち人間自身も困るのでないでしょうか。人間だって地球の生命の一つですし、ほかの生きものたちとともに生物圏に生存しているのですから。呼吸したり食物を食べたりすることで維持される人間の生命現象もまた、ほかの生きものたちと同様に、自然環境と連動しています。地球から自然環境がなくなったら私たち人間も未来もないかもしれません。だから、環境問題が騒がれているのではないですか。

問われるのは私たち一人一人の姿勢。自然環境と共存する姿勢を持とうとするかどうかです。自然環境を大切にするために私たち個人個人にできることは、まずそこから始まります。そして私は、そういう機会をみなさんに提供したくて活動しています。自然環境や様々な自然の生きものたちとふれて親しみを持っていただき、その良さを知ってほしいのです。

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地球に優しくしなくたって地球は壊れはしません

2021年07月15日 22時35分39秒 | 自然環境との共存について

「地球に優しく」という言葉がよく聞かれます。でも、たいていの場合、そこには生きものや野生生物、自然環境のことは出てきません。

はっきり言います。地球に優しくしなくたって、地球という星は壊れたりしません。私たち人間がダメージを与えていて危機的状況にあるのは、人間以外の地球上の生命やその生息環境、それらの集合体である自然環境です。

地球の上に乗っかっている生きものたちの生息生育している範囲の環境を「生物圏」といいます。「地球に優しく」という言葉は「生物圏に優しく」と言い換えた方が良いと思うくらいです。少なくとも私は「地球に優しく」などという言葉は使いません。

「地球に優しく」という言葉は「従来のものより環境に負荷を与えない製品ですよ。」という意味で用いられますが、そういった製品をたくさん買って使用したからといって野生生物やその生息地、自然環境が守られるわけではないのです。

もちろん、そうした製品を使わないよりは使った方が環境に負荷をかけずに良いでしょう。ただ、だからといって、それで自然や野生の生きものたちを大切にしているわけではないということです。

問題は私たち一人一の自然の生きものたちに対する姿勢です。たとえばこのブログの「横浜市のカエルの現状」という記事も時々、最近アクセスのあった記事のトップに来ることがあります。それだけ横浜市に生息するカエルに関心をお持ちの方がいらっしゃるのでしょう。私も幼少期に知人のお宅に呼ばれて、お庭にある小さな池でおたまじゃくしを採らせてもらった思い出があります。私の家の庭にもヒキガエルが棲んでいて、たまに姿を現しました。「お前、まだいてくれたのか。元気だったのか!」と喜ばしく思ったものです。

ヒキガエルは陸生のカエルで人家の庭にも棲んで、庭の主などと親しみを持って呼ばれます。そんな風景や経験、当たり前でした。なのに、おたまじゃくしが子ガエルになって庭に入ってくると気味が悪いので、おたまじゃくしのうちに駆除してくれという話があるそうです。このため自然共生型ということを唱えたマンションの流れや池にも塩素が注入されて、トンボ(やご)やカエル(おたまじゃくし)も棲むことができないのです。こうした人間以外の自然の生きものがたちに対する非情なまでの姿勢が、どれだけ身近な自然や生きものたちを消滅させているかということです。

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自然環境を大切にするために・・・

2021年07月15日 12時57分55秒 | 自然環境との共存について

以前「自然環境を大切にするために私たちが個人個人でできること」という記事を掲載しました。これが今でも時々、最近アクセスのあった記事のトップに来ます。

このタイトルで記事を書いた理由は、自然環境を大切にすることは本来であれば世界規模、国家規模、また市町村の行政ででもっと力を入れて行なわれるべきことだと思うのですが、現実にはそうではないからで、個人個人でやっていくほかないと感じているからです。

国や市がそんなに力を入れていないから、重要事項でないということはありませんし、だからといって自分も自然を大切にする行動をしなくて良いということでは決してありません。自然環境は大切なもののはずなのにと気づいている人、気づいた人が個人個人でできることを行なうことは大切なことだと思います。

さて、具体的にはどんなことがあるでしょうか。それはまず、自然と共存しようとする姿勢を持とうとすることです。そして関心、興味を持つこと。行動を起こしてみることです。私は、自然観察会に参加してみること。お家でドングリを育ててみること。ビオトープを作ってみることなどをオススメします。

今はコロナパンデミックで、そうした催しがしにくい状況ですが、おととしまで私は三ツ池公園で、ドングリの自然観察会、秋の野草の自然観察会、野生種の水生植物を使ったたらいのビオトープづくり教室を行なっていました。昨年に引き続き今年も行なわれない予定ですが、ご興味のある方はご連絡ください。来年の「プールのヤゴ救出」に向けて、ビオトープづくりをやってみませんか?秋になったらドングリを種子として蒔いて育てるということもやってみましょう。

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自然環境との共存について その3

2021年07月13日 00時57分02秒 | 自然環境との共存について

コロナ禍で文化が失われる危機があるといいます。自粛要請で様々なコンサートや演芸、展覧会などが中止となり、そうした文化が途絶えてしまうというのです。加えて、そうした芸術家はそれで生計を立てているので生活できなくなってしまうし、それを楽しみにしているお客さん側も、それがなくては死んでしまうという人も多いというのです。

それはそれで確かに問題ではありますね。けれども、コロナとは関係なしに、それ以前から途絶えてしまう危機に陥っている文化があるのです。それが自然環境と共存する文化です。「自然環境との共存について その2」でもお話ししたように植物はただお花を見るだけではありません。食べたり薬草にしたり、何かの材料にしたりするということ。それは食文化など生活の中の文化なのですが、社会が便利になるにつれて人々はそれをしなくなってしまったのです。

その原因として、自然の植物を採取して利用するのが公園などで禁止されているということもありますが、「汚らしいから植えられた木々だけ生えていれば公園に草なんか生えてなくて良い。」と言って除草してしまうということが大きいと言えます。

「地球に優しい」という言葉があります。でも地球という星自体は環境問題が起きても壊れてしまったり傷付いたりしまったりするようなものではありません。人間からたくさんのダメージを受けて傷付いているのは、地球の上に乗っかっている生きものの生息している環境なのです。

生きものたちによって形作られているこうした自然環境を大切にするには、まず、それが大切であることを認識できている必要があります。そのためには自然にふれて、その良さ、必要性、素晴らしさを実感することです。このような自然と共存する文化を途絶えさせてはならないと私は考えています。

雑草という名の植物はありません。みな名前があって、ほかの生きものたちとも関係を持ちながら生きていて、私たち人間も様々に利用し親しんできた植物ばかりです。そうしたことを子供たちに伝えていけるようにしてもらうためにも、見た目が汚らしいと理由で除草してしまうのは私は止めてほしいです。

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自然環境との共存について その2

2021年07月13日 00時03分20秒 | 自然環境との共存について

アメリカ先住民に言い伝えられてきた言葉に、以下のようなものがあるそうです。

「最後の木が切られたとき、最後の川が毒されたとき、最後の魚が釣られたとき、ようやくあなたはお金がたべられないことを悟るだろう。」

まだいるからだいじょうぶ。ほかのところにいるからだいじょうぶ。どこかに逃げてるからだいじょうぶ。こんな草どこでも生えている。・・・こんな無責任なことを言われて、とうとう絶滅してしまったり、絶滅危惧種になってしまった生きものたちはたくさんいます。

植物あお花を見て楽しむだけのものではありません。食べたり、衣服にしたり、紙にしたり、建材にしたり、薬草にしたり、するものです。そしてこれらの植物の多くはハチやチョウなどの昆虫類によって受粉したり、実が小鳥たちに食べられ消化されずに糞とともに地面に落ちた種子が芽生えて増えたりします。

人間も植物は色々なことに利用しますが、小鳥や昆虫たちも利用しながら植物が増えるのを手助けすることで、これらの植物たちは子孫を絶やさずにいられるのです。こうした生きものたちどうしの繋がりを断ち切ってはなりません。そして人間も自然から搾取ばかりせずに、この先もずっと利用し続けられるように大事に利用していく必要があります。

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自然環境との共存について その1

2021年07月12日 23時17分51秒 | 自然環境との共存について

自然と共存することは本当はとても大事なことです。それは人間も地球上の生命の一つだからです。

ある一つの生きものは、その生きもの単独で生きているわけではありません。他の生きものたちとも関わり合いながら繋がりを持って生きています。それが生態系というものです。

人間も人間単独だけで生きているわけではありません。人間もまた自然の恵みを失くしては生きていけません。だから自然との共存はとても大事なことなのです。

しかしながら非常に残念なことに、私たちは自然と共存しようとする姿勢を持とうとしなくなってしまいました。このブログを見てくださったり自然観察会に参加してくださるみなさんは、そのようなことはないことを知っています。ただ、都市がより都市らしく整備されるのに並行して、自然の草原や木々をまるでゴミでも見るかのように汚いもの扱いし、私から見ると異常なまでに綺麗に綺麗にと言って一掃してしまった方が良いと考えるような人々が増えたというとです。

地球温暖化やプラスチックゴミも大きな環境問題ですが、このように自然と共存しようとする気持ちを人々が持とうとしなくなってしまったことは深刻な問題で、こうしたことが身の回りの自然環境を消滅させたり、生きものたちを絶滅へと追いやっているということに、いい加減気づいても良いのになと思います。

本当に、温暖化やプラスチックゴミにばかりに問題をすり替えないでいただきたい。この点、行政がしっかり環境教育などの形で力を入れていくべきだと考えますが、その行政の人々までもが自然と共存する姿勢を持とうとはしておらず、このことを全く問題視していないように私は感じています。

私は個人レベルでできることをお思い活動していますが、もうちょっと行政なんとかしてもらえないですかねぇ、といった感じです。

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