16日の土曜日、篠原園地で秋の自然観察会を行ないました。
私はここ2週間ほどカゼ気味だったのですが急にひどくなり、前日の夜は
とうとう38.5度の熱が出てしまいまた。でも四季に1回、年に4回しかない
篠原園地での自然観察会。この時間だけはだいじょうぶなように、なんとか
体調を整えて臨みました。
今年は篠原園地内に道路が新設された関係で、緑にかなりダメージがある
ように感じられます。
それに加え、隣接地の売却・宅地化や同様に県の公園等を手放したがって
いる神奈川県(行政)の状況もあり、篠原園地も将来が心配されます。
そんな中での自然観察会でしたので、篠原園地全体の話や森についての話を
しながら自然観察会を進めていきました。
この時にしたお話を以下に要約します。
●篠原園地は雑木林でもないし鎮守の森でもないが、様々な在来の野草が生育
している。
●市街地の中で篠原園地のような一定の面積の緑は貴重である。
●イングリッシュ・ガーデンは日本元来の自然観に合わないと思う。
・日本人は元来四季の移り変わりを大事にしてきて、枯れ草さえもありの
ままの姿で受け入れ、冬という季節を感じてきた。
・イングリッシュ・ガーデンは冬さえも花いっぱいにしようとするが、本来
冬は花のない季節である。
●日本人はそうしたさびしい様子さえも「あはれ」「さびし」という表現で
詩を残してきた。
・夏にあれだけたくさん鳴いていたセミたちも秋には死に絶えてしまう。
・夏の自然観察会ではセミの羽化を見たが、参加した少年の一人が「思わず
『がんばれ』と声を出した。セミがもっと生きてくれればいいなと思った」
と感想を送ってきてくれた。自然とふれあうことで、そういう気持ちが生
まれる。そういう環境というのがとても大切だ。
●日本にはこうした自然と共存する文化・慣習がある(あった)。そういう
ことを感じさせてくれる環境を身近なところからなくすのは、その文化・
慣習をなくすのと同じことだと思う。
日本人が日本の誇るべき良い文化・慣習(身近な自然に親しみを感じ共存
するという慣習)を失ってはならない。
さて、こうしたお話をした観察会の後日のことです。
NHK俳句で「冬の蜂」がテーマとなっていました。
冬の季語となっている「冬の蜂・冬蜂」とはアシナガバチだろうとのこと。
1年限りの巣から離れたハチたちは、巣の外で冬を越すこととなります。
栄養状態の良い新女王バチは冬を越しますが、雄バチや働きバチは冬の間に
弱りながら死んでいきます。
その弱りながら死んでいくアシナガバチが冬蜂なのだということでした。
冬に弱っていくハチの姿でさえも詩に残すというのが、日本人が大切にして
きた命あるものに対するまなざし、感性なのではないでしょうか。
また、別のテレビ局のある番組では、松任谷由美さんがニュー・アルバムを
発売するということでインタビューの様子が放映されていました。
それによると、松任谷由美さんは「死」を感じるから「生」感じる。どこか
すっと遠くへ行って二度と会えなくなってしまう…。だからこそありふれた
日常が奇跡に思える。それが私の歌のテーマになっている。
・・・というような内容のお話をされていました。
これもまた元来の日本人らしい感性なのではないかと感じました。
草花たちの死や老いを否定して取り除いてしまい、綺麗な生き生きとした
ものだけを見せるようにするのがイングリッシュ・ガーデン的な文化だと
するならば、死や老いさえも受け入れて、そこから何か大切なものを感じる。
・・・これが日本元来の良い文化・慣習だったのではないでしょうか。
自然観察会で私がお話した内容とも重なり、改めてこうした文化・慣習を
日本人として大切にしていく必要があるのだなぁと感じた次第です。
そのためにも、身近な自然はあってもらわないと困るのです。
私はここ2週間ほどカゼ気味だったのですが急にひどくなり、前日の夜は
とうとう38.5度の熱が出てしまいまた。でも四季に1回、年に4回しかない
篠原園地での自然観察会。この時間だけはだいじょうぶなように、なんとか
体調を整えて臨みました。
今年は篠原園地内に道路が新設された関係で、緑にかなりダメージがある
ように感じられます。
それに加え、隣接地の売却・宅地化や同様に県の公園等を手放したがって
いる神奈川県(行政)の状況もあり、篠原園地も将来が心配されます。
そんな中での自然観察会でしたので、篠原園地全体の話や森についての話を
しながら自然観察会を進めていきました。
この時にしたお話を以下に要約します。
●篠原園地は雑木林でもないし鎮守の森でもないが、様々な在来の野草が生育
している。
●市街地の中で篠原園地のような一定の面積の緑は貴重である。
●イングリッシュ・ガーデンは日本元来の自然観に合わないと思う。
・日本人は元来四季の移り変わりを大事にしてきて、枯れ草さえもありの
ままの姿で受け入れ、冬という季節を感じてきた。
・イングリッシュ・ガーデンは冬さえも花いっぱいにしようとするが、本来
冬は花のない季節である。
●日本人はそうしたさびしい様子さえも「あはれ」「さびし」という表現で
詩を残してきた。
・夏にあれだけたくさん鳴いていたセミたちも秋には死に絶えてしまう。
・夏の自然観察会ではセミの羽化を見たが、参加した少年の一人が「思わず
『がんばれ』と声を出した。セミがもっと生きてくれればいいなと思った」
と感想を送ってきてくれた。自然とふれあうことで、そういう気持ちが生
まれる。そういう環境というのがとても大切だ。
●日本にはこうした自然と共存する文化・慣習がある(あった)。そういう
ことを感じさせてくれる環境を身近なところからなくすのは、その文化・
慣習をなくすのと同じことだと思う。
日本人が日本の誇るべき良い文化・慣習(身近な自然に親しみを感じ共存
するという慣習)を失ってはならない。
さて、こうしたお話をした観察会の後日のことです。
NHK俳句で「冬の蜂」がテーマとなっていました。
冬の季語となっている「冬の蜂・冬蜂」とはアシナガバチだろうとのこと。
1年限りの巣から離れたハチたちは、巣の外で冬を越すこととなります。
栄養状態の良い新女王バチは冬を越しますが、雄バチや働きバチは冬の間に
弱りながら死んでいきます。
その弱りながら死んでいくアシナガバチが冬蜂なのだということでした。
冬に弱っていくハチの姿でさえも詩に残すというのが、日本人が大切にして
きた命あるものに対するまなざし、感性なのではないでしょうか。
また、別のテレビ局のある番組では、松任谷由美さんがニュー・アルバムを
発売するということでインタビューの様子が放映されていました。
それによると、松任谷由美さんは「死」を感じるから「生」感じる。どこか
すっと遠くへ行って二度と会えなくなってしまう…。だからこそありふれた
日常が奇跡に思える。それが私の歌のテーマになっている。
・・・というような内容のお話をされていました。
これもまた元来の日本人らしい感性なのではないかと感じました。
草花たちの死や老いを否定して取り除いてしまい、綺麗な生き生きとした
ものだけを見せるようにするのがイングリッシュ・ガーデン的な文化だと
するならば、死や老いさえも受け入れて、そこから何か大切なものを感じる。
・・・これが日本元来の良い文化・慣習だったのではないでしょうか。
自然観察会で私がお話した内容とも重なり、改めてこうした文化・慣習を
日本人として大切にしていく必要があるのだなぁと感じた次第です。
そのためにも、身近な自然はあってもらわないと困るのです。