自分の中でことあるごとに思い返す一番好きな言葉は、次のフレーズである。
「喜劇は隠されていた一般性の露呈であり、悲劇は隠されていた個別性の露呈である。」
これはアリストテレスの言葉である。この言葉を見かけたのは、ルカーチの美学の本の中での一般/特殊/個別の相関の考察の中である。この言葉は、笑いとは何か、悲しみとは何か、を短い一文で全て表現している。
言い出しにくい共通認識を交通標語にのせて笑いの世界を一世風靡したのはビートたけしだが、原爆や南京虐殺は、ふれることさえはばかれる個人の暗闇である。そのような個人の暗闇は、他者の洞察さえも拒否し、被害者はもちろん加害者にも地獄の責め苦をもたらす。一方で悲劇は個別性そのものであり、それを離れて個人は存在しない。つまり個人的意識は、自らを問う限り、自らの悲劇から離れることができない。むしろ悲劇は、自己同一性の基準になっており、それゆえに他者の同情などという介入を許すこともできない。場合によっては、悲劇そのものが個人の誇りでさえある。同情するなら金をくれ!は、とあるテレビドラマのセリフである。悲劇がもたらす苦悩は、個人を他者から引き離し、ときにその個人を悪魔に変える。もし悲劇が金で解決できるなら、まだ救いがある。その程度の悲劇なら、その程度の個人だということである。
悲劇は個人の死とともに、忘却のかなたに消える運命にある。それは苦悩の終焉であり、一種の救いである。また同じ悲劇を共有する個人との遭遇も、悲劇を意識的に緩和する方法である。うまくすればそのような共時性が、個人を悲劇の暗闇から救い、至福の瞬間に連れ出してくれるかもしれない。
寺山修二はスタンダールの幸福論を、思い込みで全てを幸福に見させる詐欺と失望した。アウシュビッツやベトナム戦争は、どのように見方を変えたとしても、悲劇である。余命の無い癌患者には、麻薬も有効だという話がある。しかしそのような場合を除いて一般論を言えば、麻薬による至福は虚偽である、というのは誰でもわかる結論である。人間が人間であろうとする限り、苦悩からの離脱は不可能のようである。
冒頭に述べたアリストテレスの言葉は、それら全てを許容し、慈しむような響きをもっている。まるで悲劇に沈む一人一人から、全ての必然を解き放ち、苦悩の呪縛を解くようなやさしさがこの言葉に隠れている。だからこそ、この言葉は美しいと思う。
(2011/01/11)