観念論は迷信を出発点にする理論であり、唯物論は事実を出発点にする理論である。つまり観念論とは、虚偽の別称である。虚偽に耐えられない人間は唯物論者になるべきである。
観念論とは、論理の基礎を意識に置く思想であり、それに対し論理の基礎を物質に置く思想が唯物論となる。ここでいう基礎とは、論理の出発点であるだけでなく、論理自体を含む論理の対象の出発点でもある。また論理や論理対象の出発点とは、論理や論理対象の根拠であるだけでなく、論理や論理対象の原因でもある。
現代社会で唯物論は、神を冒涜する悪魔的な危険思想に扱われる。これは共産主義が唯物論であるためである。しかし科学が巷の迷信を打破した結果、科学が神の代わりに全てを権威づけており、実際には唯物論が観念論を凌駕しているように見える。むしろ科学を信頼するなら、なぜ旧時代に観念論が有効と見られていたのかの方が不思議である。
現代における科学への信頼とは、社会成員間での事実認識の共有が可能にするような情報の通信/蓄積/解析などの技術の確立に従っている。つまり瞬時に現実映像を世界に配信し、隠蔽や偽造などの情報工作の余地も日進月歩で狭くしたことが、意識から独立した事実が存在するのを、社会成員全体に認知させたのである。
しかし現代においても科学は万能ではなく、とくに情報インフラの確立していない分野や地域では、意識から独立した事実と称されるものでも虚偽、つまり事実ではなく作り上げられた意識にすぎないものが、情報に混入してくる。なおのこと情報インフラの無かった旧時代では、社会成員間での事実認識の共有が不可能に近い。そのためにそもそも共有可能な事実自体が存在しないとか、それが存在していても事実認識自体が不可能であると宣言された。これらの不可知論に対し、事実自体の存在とその認識可能性の存在を信じることが、粘り強く事実へと接近するための条件となった。つまり事実は存在し認識可能だという信仰、すなわち唯物論が、科学を可能にしたのである。
不可知論は独我論である。不可知の対象は他者存在にいたるためである。しかしそれでは社会成員間での認識共有も不可能となる。また不可知論者も、そもそも自らの論理を他者に伝達する理由と伝達可能性の両方を失ってしまう。この独我論を回避するために観念論で扱う理屈に、自意識と他者意識の両者を包摂する共通意識の理論がある。
ここで言う共通意識とは、自他の意識間の橋渡しを行うために、観念論が物質世界と別に構築した意識の場を指す。プラトンのイデア、カントの物自体、ヘーゲルのロゴス、ハイデガーの共存在、これらは全て自意識と他者意識の橋渡しを可能にするために考案された同じものである。いずれの理屈も、自他をともに共通意識の一部にすることで、独我論によって生まれた自他の意識間の断絶の克服を目指している。
ところがすぐわかることだが、それらの共通意識もまた不可知論の餌食になるしかない。共通意識と自意識は、共通意識が自意識を包摂する関係にあり、その逆ではない。つまり共通意識は自意識の一部ではない。したがって共通意識のうちで自意識に含まれない部分は、相変わらず自意識にとって外部にある。自意識が自らの外部にある物質を認識できないとすれば、同じ理屈で自意識は共通意識も認識できないことになる。
とはいえ共通意識の理屈は独我論より格段に優れている。共通意識の理論は、社会成員間での認識共有の土台が意識から独立して存在するのを承認しているためである。しかし共通意識を持ち出さなくても、自他の意識をともに物質世界の一部にするだけで、独我論によって不可能と宣言された自他意識間の橋渡しも可能になる。つまり自他ともに同じものを見ているので、自他の意識間の断絶も論理的に克服可能となる。むしろ物質世界を共通意識に言い換える無駄を省く方が、冗長化した論理の単純化になるはずである。
(2011/01/04)