唯物論者

唯物論の再構築

俗物

2011-01-13 22:09:16 | 思想断片

 世間的には、時代遅れで目障りな知的凡人を指して俗物と呼ぶように見える。しかし以下では、特にその有害性に着目した俗物定義を行う。基本的に俗物は、自らを俗物と理解する能力をもっていない。ただし後日に自らを振り返って、自らの俗物性に気付く俗物は存在する。筆者もその一員である。以下の記述は巷の俗物の観察だけではなく、自らの反省も併せてまとめたものである。

 筆者は人間を以下の4種類に分類する。
  ・常識的なことを、常識的な形で表現する人間
  ・常識的なことを、常識破りな形で表現する人間
  ・常識破りなことを、常識的な形で表現する人間
  ・常識破りなことを、常識破りな形で表現する人間

 俗物は上記の1番目の、常識的なことを常識的な形で表現する人間、となる。ほかの分類に該当する人間は、俗物ではない。ただし4番目の分類には、基礎が崩壊しているような単なる未熟者が混入する可能性がある。どのみち4番目の該当者は、周囲が自分のことを理解してくれないので、長期的に見れば1~3番目の枠に自ら転進するはずである。また転進せざるを得ない。したがって筆者は、4番目タイプを胡散臭い人間として、基本的に無視している。例えばニーチェをそのように扱っている。もちろん可能性を言うと、最後まで4番目に該当した人間は、先進的すぎただけの可能性もある。例えばゴッホのような人間である。しかしそのような人間は、せいぜい芸術分野に限られた話である。スピノザやコペルニクスのように死ぬまで無視された人間であっても、同時代に彼らを評価した少数派は存在した。そもそも彼らが同時代に無視された理由は、彼らの主張が体制に逆らうものだったことにある。

 俗物は、知的水準が高そうに見えて、実は知的水準が高くない人間を指す蔑称である。したがって単なる知的障害者は、俗物ではない。また単に事実関係を知らない人間に対しても、俗物という表現を使用するべきではない。ここで言う俗物に関わる知的水準とは、その知的水準の絶対的高さと関係が無い。俗物に関わる知的水準とは、会話相手との比較で見た場合の、その知的水準の相対的位置である。さらに言えば、会話相手に即した論理展開力の有無を指す。
 例えば会話関係にある人たちの中で、すでに了解事項にある事柄を繰り返すだけの人間は、俗物である。それが単なる脳の劣化による同義表現の反復行動にすぎなければ、年寄りの一般的行動と周囲は諦めるかもしれない。会話内容がすでに了解事項を踏まえた次元にある場合、解決済み事項を繰り返すのは時間の無駄である。また了解事項を繰り返すのは、会話相手を馬鹿扱いにしており、失礼な行為でもある。解決済み事項を蒸し返す必要があるのは、再審請求と同様に、それを覆すような新事実などの発見があった場合に限られる。なお蒸し返す必要のある事実が発覚した場合、逆に会話関係にある人間全員が、その解決済み事項の論議を蒸し返す義務を負う。
 別の例えだと、会話関係にある人たちの中で、まだ了解事項ではない事柄を了解済みに扱う人間も、俗物である。会話内容をまだ了解していない場合、未解決事項を踏まえた次の次元へと先に話を進めるのは、時間の無駄である。また未解決事項を無視するのは、会話相手の無視と同じであり、失礼な行為でもある。未解決事項を無視する必要があるのは、時間的制約の都合などで、会話関係にある人たち全員がその無視を了解した場合に限られる。なおその場合でも疑問者は、会話関係にある人間全員に対し、その未解決事項を蒸し返す権利をもつ。ただし会話関係の基本は二者間で行うものであり、会話相手は俗物による未解決事項の無視を許すべきではない。
 上記の二例に登場する俗物に共通するのは、会話相手に即した論理展開力の欠如である。このような俗物の俗物たる所以は、了解事項についての状況認識力および判断力の欠如に起因する。この欠如を今風に言えば、空気を読めないKY、と表現された人間的素養になる。つまりいくら博識であっても、そのような状況認識力および判断力が欠如する人間は、俗物なのである。逆に無知であっても、ドストエフスキーの小説の主人公のように、会話相手の論理整合性を指摘できる人は、俗物ではない。

 俗物は常識人であると同時に凡人である。悪く言えば、俗物は人の形をしたオウムであり、歩く電子辞書でしかない。俗物をその常識性に注視して見ると、常識をまだ知らない子供にとって、彼らは良い大人に見えなくもない。しかし子供が重大な疑問を抱えている場合、俗物をその子供から遠ざける必要がある。なぜなら了解事項についての状況認識力および判断力の欠如は、会話関係にいる相手が子供でも、同様に作用するためである。子供が理解できたのかそうではないのか、子供が理解できない理由は何か、理解できた子供が今抱えている疑問は何か、理解できたはずの子供がなぜ理解内容を否定するのか、などこれら全ての把握に、了解事項についての状況認識力および判断力が必要である。了解しているのに話を繰り返す場合、了解してもいないのに話を進められた場合、いずれの場合でも発信者は受信者の尊厳を傷つける。それは受信者が子供でも同じである。大人は判ってくれない、という言い方があるが、俗物は判る能力をもたない、と言うべきである。心無い仕打ちに我慢できない子供は、俗物が教師なら学校教育から離脱するし、俗物が親なら家庭から離脱する。

 気をつけておきたいのは、誰しもが気付かないうちに俗物に成り下がる可能性がある、ということである。これは筆者の自戒でもある。
(2011/01/13)

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