意識とは、狭義で示せば、人間による自らを問う形の反射である。したがって人間以外の存在が行うような自らを問う形の反射を、そもそも意識として扱わない。この区別を省くと、恐竜時代に人間的意識が存在するとレーニンに馬鹿にされたマッハ主義が復活することになる。
ひとまずキェルケゴールにならえば、意識とは自らを問う形の反射である。他者を問う形の反射は単なる反射であり、端的に言えば鏡と同じであり、物質にすぎない。したがって西田幾多郎が主客未分と捉えた状態であっても、そこでの意識は物質に固着したままであり、それを意識と呼ぶのはふさわしくないことになる。このことは、他者を問う反射の仕方が複雑であっても同じである。ハイデガーに到っては、とりとめのない世間話をするような人間を物質と同列に扱っている。自らを問うという表現は、実存主義では存在論に取り組むことであり、簡単に言えば哲学者だけが意識をもつという間抜けな結論になる。これは学問構築のために宇宙が存在するというヘーゲルと同程度の間抜けぶりである。しかし自らを問うことを自己防衛行動になぞらえると、それなりに立派な見解に近づく。
ブレードランナーという映画がある。この映画は、アンドロイドが自分と仲間の延命方法を求めて地球に侵入し、アンドロイドたちを追跡する主人公とバトルを演じる物語である。自己防衛行動を意識の表出とみなす観点で見ると、この映画に登場するアンドロイドは機械人形ではなく、意識をもった存在になる。それでは自己防衛機能をもつ存在は意識なのか? または意識をもつ存在とみなせるのか? という疑問が生まれる。
人間はもちろん、生物は一般的に自己防衛機能をもつ。さらに生物に限らず、素粒子であっても、自らの形状を維持しており、そのことは一般に慣性とかエネルギー保存則として理解されている。唯物論者スピノザは、物質が自律性をもっていると考えた。スピノザの観点では、人間が遵守する社会法規と、物体が遵守する物理法則とは大差が無いことになる。それでは物質も意識なのか? あるいは意識も物質なのか? という疑問が生まれる。
上記の展開は、最初に示したキェルケゴールにならった意識の定義の欠落部分を露呈させており、それは次のような限定を要請する。
意識とは、人間の意識に限定される。
物質の自律的運動は、確率に応じた不確定性に従う。一般にそれをもって物質を意識にみなしたり、物質が意識をもつとみなしたりしない。例えばサイコロが6の目を出しても、それをサイコロの意思とみなさない。また物質がエネルギーや空間に姿を変えたとしても、それは物質であるのに変わりない。素粒子には、人間的な目標は無関係であり、またそのような目標をもっていたとしても、それを実現する手段をもたない。素粒子には、手足のような移動手段も無ければ、脳はもちろん、感覚器官も無い。このために素粒子が意識をもつためには、可能性を言えば、素粒子自体が感覚器であり、意識である必要がある。その場合でも、素粒子に唯一可能な目標は、自らの存在の維持と消滅だけである。したがって素粒子がそのような考えをもったとしても、あるいは素粒子自体が意識であったとしても、それを意識と呼ぶべきではない。素粒子がもち得る唯一の目標は、素粒子が物質であるのを示すだけだからである。物質と意識の同一化は、単なる言葉の誤用である。
物質と意識の区別は、人間論の必要だけを残す。
なお意識の狭義では人間だけが意識をもつのだが、よほど広義にとらなければ、人間以外の存在者も意識をもつのは間違い無い話である。しかしすでに見たように、素粒子の意識まで配慮するような意識の広義は無意味である。意識の広義は、動物愛護法などで必要に応じた定義になるはずである。
今の人類には関係ない話だが、そのうちに牛や豚、さらには蟻やアメーバやプリオンの意識を尊重する時代が来るかもしれない。
(2011/01/05)