1)存在論としてのヘーゲル大論理学
ヘーゲル大論理学の巻別構成は、第一巻が存在論、第二巻が本質論、第三巻が概念論になっている。当然ながら各巻が論じる中身も、それぞれ存在、本質、概念の各概念である。すなわち第一巻におけるヘーゲルの諸考察が目指すのは存在概念の擁立であり、同様に第二巻と第三巻の考察が目指すのもそれぞれ本質と概念の各概念の擁立である。そしてその第一巻の巻末でヘーゲルが示した存在概念は、充実し現実的なイメージの存在と正反対の姿、すなわち無差別で非現実な存在の抽象であった。なぜなら存在論の巻末において存在は、全ての質を本質として超出した後に残った抜け殻だからである。もともと存在論の冒頭において存在は、直接的な質として現れた。一方で本質は、量を契機にしたこの質の脱自態である。それは質の対自存在であり、かつ自己復帰した質の即自存在である。またそれだからこそ本質は、名前の通りに本当の質としての本質である。諸論において始元存在が体現していた充実した現実性は、ここではむしろ本質の側に移行している。それゆえに本質は、存在との対比で見ると非存在としての無でありながら、それでいて存在以上の実在として現れる。本質論の冒頭で見ても、存在は仮象にまで格落ちした姿に描かれている。そして存在が非存在となるこのような矛盾が、本質の彼岸に実存を超出することになる。結果的にヘーゲル大論理学の第二巻は、第一巻の完了を受けて本質概念を論じるにしても、その内実は相変わらず本質と言う名の存在の考察となる。もちろんこの本質論の存在論的実態は、第三巻に移っても変わらない。すなわちヘーゲル大論理学の第三巻も、概念を論じながら、その内実は相変わらず概念と言う名の存在の考察である。したがってヘーゲル大論理学は、巻別構成が存在論・本質論・概念論と分かれているのだが、ハイデガーが理解したように、その全体は一貫して存在の名前を出世魚のごとく変えて存在概念の擁立を繰り返す壮大な存在論になっている。以下に大論理学第一巻で現れた存在の諸形態を整理する。
2)第一巻における存在の諸形態
2a)純粋存在
無差別で非現実な抽象としての存在は、反省において現れる最大の類概念としての存在を表現する。それは、単なる「ある」としての純粋存在である。この純粋存在は、第一巻の巻末では全ての質を剥ぎ取られた存在者の残滓として現れた。もちろんこの純粋存在が言い表すのは、文章の中で存在者の余計な質の如くいちいち示されるところの「ある」である。この「ある」は、例え無を対象に捉えても「~ないのである。」との形でしつこく現れる。しかしそのしつこさのゆえに、概念としての純粋存在は、これらの文章中の存在表現に適合している。この純粋存在は、第一巻の巻頭でも哲学的始元存在として、存在の最初の姿として登場している。ただしこの始元としての純粋存在は、自らを表現する質に差別を持たない存在の直接態であった。またこの無差別のゆえにその純粋存在は純粋無とも差異を持ち得なかった。それと言うのも第一巻の巻頭での純粋存在は、哲学の論理的要請として現れたものだからである。もちろんその哲学的要請とは、論理における無前提を指す。ところがこの要請に対して純粋存在は、本来的に反省を契機にして現れる抽象にすぎない。すなわちそれは、第一巻の巻末に現れるべき存在の間接態である。それゆえに巻頭でヘーゲルが存在の始元として語る純粋存在は、実際には巻末に現れる純粋存在と異なる。それは、純粋存在を純粋無ともども包括するような存在の始元である。
2b)始元存在
ヘーゲルが第一巻の巻頭に示す純粋存在は、存在の直接態としての始元存在である。したがってそれは、実際には抽象としての純粋存在とも異なる充実した無限定な質である。すなわちそれは無限定の限定とも言える矛盾存在である。それゆえにこの始元存在は、単なる「ある」ではない。それは、自らの内に純粋無を包括するような現実的な存在である。それは線分の端点のように始まりにおいて存在し、終わりにおいて無である。それゆえにヘーゲルはそれを純粋存在ではなく「成」として捉える。それは時間的に現れる存在と無の反転ではなく、無時間的に現れる存在と無の反転である。成において存在と無は区別されない。存在と無は、成の二面を言い表すだけである。ただし成において存在と無の差異は、差異として現れ得ない。それだからこそ存在と無の両者は一体である。止揚とは、このような区別の自然死を言う。一方で始元存在における無限定は、それ自身が始元存在の質である。すなわち始元存在は、自らを無限定として限定することにより自らを限定存在に変える。当然ながら限定存在となった始元存在は、既に純粋存在ではない。このことは自由が自らを自由だと限定することにおいて、自らを既に不自由にするのと同じである。自由が純粋に自由なのは、自由として自らを限定する前の無垢な自由の姿においてだけである。ただしヘーゲルの場合、概念として自己復帰した自由こそが、真の自由にみなされる。もちろんこの観念に閉じた解釈的自由は、実存主義と共産主義の反発を生むことになる。それぞれの思想が目指したのは、一方は小乗式の宗教的決意における本来的自由の確立であり、他方は大乗式の自由の自然死による無垢な純粋自由の復活であった。
2c)限定存在(=定在)
文章における限定は、もっぱら「これ」「ここ」「今」「我」などの一連の指示的代名詞として現れる。ただしこれらの代名詞は、既に指示対象の意味的分化が確定しており、限定存在の原型を留めていない。なにしろ始元存在では自他区別や時空形式どころか区別一般が無いからである。しかもここで求められているのは、限定それ自体の表現である。そして限定それ自体が表現するのは、煎じ詰めて言えば存在者の質である。その意味で限定存在は代名詞で現れない。なぜなら質は「である」で表現されるからである。とは言え限定それ自体は、まず場的限定で現れると考えられる。なにしろ限定それ自体の必要は、連続して現れる場の印付けにあるからである。それゆえに限定それ自体は、まず「これ」や「ここ」である。そしてヘーゲルが示す限定もDaである。このDaは指示代名詞の「そこ」である。したがって「そこ」と「である」は、一体において限定存在を表現する。それゆえにヘーゲルの限定存在の表現も「そこである」としての「そこ存在Dasein」に落ち着いている。ちなみにヘーゲルを離れて言えば、「だぁ」「あぁ」「やぁ」などのア音系列の口語が言語における対象限定表現の原型であろうと筆者は考えている。日本語や朝鮮語であれば、「だぁ」は「だ」であり、日本語ならさらにそれは「である」や「です」に連携する。そして「だ」「である」「です」はいずれも、限定内容が何かが不明でも、限定それ自体を表現する。ただし独語で同様の表現連携を見出そうとしても、sein動詞のbin・bist・ist・sind・seidはいずれもア音系列の口語ではない。せいぜいseinが「ざぁ」に近いくらいである。この点で筆者の想定は残念ながら既に成立していないのかもしれない。このことについて言語成立の差異が限定それ自体の表現にどのように現れるのかを追求することは、筆者の能力とこの記事の範囲を超える話題に留まる。
2d)無限定存在
成において存在と無は、相互の反転において止揚する。すなわち存在と無のそれぞれは、止揚において消滅する。しかしこの消滅が存在と無のそれぞれを限定し、それぞれを質として露わにする。とは言えこの限定において当の存在と無は消滅する。したがって当の存在と無にとって質は、自らの否定である。この否定はその非存在において観念Ideeとして現れる。要するに質とは、空虚な観念である。ただしそれは思惟ではなく、空虚な形式にすぎない。この観念としての質は、その無の否定性において存在と無を限定する。そしてこの限定が存在と無に実在性を与える。すなわち観念としての質が、存在と無を実在にする。一方でこの質それ自身も、無限定において消滅する。無限定は質の欠落した漠然とした全体だからである。したがって質にとって無限定は、自らを否定する無である。しかし質に対するこの無限定も、その非存在においてやはり観念である。ところがこの無限定が否定するのは、もともと空虚な非存在としての質である。無限定による質の否定は、非存在の否定、すなわち否定の否定として現れる。それゆえにこの二重否定は、観念の空虚を否定し、無限定を実在に変える。この無限定における否定は、その実在において物Etwasとして現れる。質としての限定存在が「である」の限定された存在を表現したのに対し、ここでの質の欠落した無限定存在は「がある」の無限定な存在表現として現れる。
2e)対他存在(他者との関わり)
存在と無にとって成の終端に現れる限定存在は自らの他者である。そしてその限定の外に擁立される物は他在である。そして存在と無に対する限定は、その都度偶然に現れる「これ」である。したがって存在と無の限定存在も、その都度の「これ」と限定された「この物」として現れる。ここでの限定されたこの物の質は、さしあたり「これ」だけである。ただしこの「これ」は単独で現れることはできない。すなわち「これ」は既に他在との関係を表現している。言うなれば「これ」は既にこの物が持つ他在に対する顔としての質である。ヘーゲルは、ここでのこの物における他在に対する質を対他存在と呼ぶ。見ようによれば、対他存在はこの物の固有の質に見えなくもない。しかし「これ」は他在の限定にも使われ得る。その場合に「これ」は他在の質になり、この物の質として現れることは無い。したがって対他存在はこの物の属性ではなく、他在との相関で現れるだけのこの物の偶然な質である。このような他在との相関でのみ現れる質のさらに詳細な表現は、例えば遠いとか近いとか熱いとか冷たいなどで現れる。
2f)即自存在(自らとの関わり)
この物の質、すなわち物質の全ては、他在との相関でのみ現れるとは限らない。例えば伸び縮みの比較対象は他在である必要はなく、この物自身が比較対象である。ここでの伸び縮みは、他在に対する質ではなく、自らに対する質として現れる。このような対他存在は、ヘーゲルにおいて即自存在と呼ばれる。とは言え比較されるこの物自身は、この物にとってやはり他在である。対他存在と即自存在の違いは、たまたま比較対象が明確な他在であるか、そうでなく自己自身であったかの違いでしかない。したがって即自存在は、とどのつまり対他存在の一種である。しかし即自存在が対他存在を媒介にして現れることは、この物それ自体がいかなる固有の質なのかを、この物の対他存在から抽出するで知り得る可能性を表現する。すなわちヘーゲルにおいて即自存在は、不可知なカント式物自体ではない。したがってここで示される質の偶然性も、少なくとも相関する他在の外面的偶然性と自己自身の内面的偶然性として区別されている。そしてその内面的偶然性がさらに必然性として確立するなら、それはこの物自体の質としての特性であり、さらに言えばこの物自体である。そうではない内面的質は対他存在としての性状に留まる。したがって即自存在とは、この物の直接態である。しかしその現れは対他存在と区別されない。即自存在は対自存在としてのみ自らを現す。
2g)対自存在(自己自身に対する自己)
この物と他者は、限界において結合しており、同時に分離している。ただしその限界自身も限定存在なので、限界自身にも限界がある。したがってこの物と他者にとって、限界は超越可能である。それゆえに限定存在には、もともと限界超越の可能性、すなわち自由の可能性がある。言い換えれば、限定存在にはもともと無限定性が内在している。さしあたりこの物の限界超越は、この物と限界の相関として現れる。限界はこの物自身の他者であり、同時にこの物自身の質でもある。それゆえに限界との相関は、この物において限界を媒介にしたこの物の自己認識に等しい。この原初的反省としての反射は、この物を自らの限界の外に引き出す。それはこの物における神の視点の顕在化である。このときにこの物は、既に自己自身を超越している。自己自身を超越したこの物は、自らの即自存在に対峙しており、即自存在の無としての対自存在として現れる。結果的に対自存在は、物との対比で意識として現れるようになる。したがってこの物の即自存在にとって超越は自らの対自存在の超出であり、この物の対自存在にとって超越は自らの即自存在からの脱自になっている。限界に捉われた即自存在は対自存在にとって有限者であり、限界を超越した対自存在は即自存在にとって無限者である。このときにこの物の即自存在の実在性は虚偽的となり、対自存在へとその実在性は転移する。このことからこの物の即自存在はその物の現実と逆に観念性となり、対自存在の実在性が理念性として現れることになる。対自存在は限定存在としての自己自身を廃棄したその無限定性において量として現れる。
3)抜け殻となった存在
ヘーゲル存在論では、質として現れた始元存在は量としての対自存在に転じるが、その対自存在は量としての自己自身をさらに廃棄して本質へと復帰する。結果的に本質に対する存在は、脱自した自己の抜け殻となる。しかし本質は存在との関係で見れば始元存在の対自存在であり、抜け殻となった存在が始元存在の即自存在である。本質は無としての自己を廃棄して始元存在に復帰しなければならない。しかしヘーゲルの場合、この復帰は本質の概念への脱自として現れる。すなわち概念として充実することが、虚無的本質の実在化だとみなされている。ヘーゲル以後に問題視されたのは、この実在の終着点を概念に扱うヘーゲルの姿勢である。もちろんその姿勢に対する疑問は、現実的思惟が向き合う疎外の現実と直結している。当然ながらその疑問は、抜け殻とされた存在が概念に復帰しただけで充実を回復するのかどうかへと向かう。つまりその疑問は、存在の実在性についての問いに等しい。ヘーゲルの場合、その実在性は単純に真性に等しかった。しかしヘーゲル以後では、その真性が観念的であり非現実だと考えられるようになる。その観念的真理は、多くの観念的真理の社会契約的な妥協の産物にすぎなかったからである。このようなヘーゲル批判の方向は、いずれも次の点で一致した。それは、ヘーゲルの真理が現実的思惟から遊離した非現実な観念論的真理だとの理解である。そしてその理解は、ヘーゲル的真理を観念に閉じた抽象にすぎないと捉えるものでもあった。このようなヘーゲル論理学の理解は、一方に生の哲学や実存主義および現象学の台頭、他方に共産主義の台頭を必然化した。前者は抜け殻となった存在を普遍に対して空疎にされた実存として捉え、後者はさらにそれを貧困の中で間化された労働者として捉えるものであった。
4)ヘーゲル式媒介の否定
もともとヘーゲル式媒介が自らの対局に認めるのは、シェリング式直観主義である。当然ながらヘーゲル論理学に対する反発の一方は、同じ直観主義への回帰として進行する。ヘーゲル以後でその直観主義は、ヘーゲル的普遍に反発するショーペンハウアーやキェルケゴール、またはディルタイの思想として現れた。そしてその直観主義は、ヘーゲルとの対立を共産主義との対立に代置し、さらにフッサールやハイデガーの現象学へと連携を進めた。直観主義の基本的特徴は、直観における真理の保持の是認にある。そのような直観主義にとって直観の本質や概念への転化は、むしろ本来的真理の忘却に等しい。それゆえにそれらの思想は、ヘーゲル的真理の観念性を、思惟が存在の実在性についての問いから離れたことに見出す。フッサールは、直観に現れる道具性に存在の原初的真理を見出す。すなわち道具における存在の本来的充実が、存在の本来的真理の露呈であった。そしてこのような存在の本来的真理の露呈を可能にするのは、彼において判断停止であり、現象学的還元であった。しかしそのような意識操作がもたらすのは、単なる断片的直観の是認にすぎない。彼においてその断片的意識の統合を可能にするのは、デカルト式コギトである。ただし彼のコギトは、反省において現れながら、反省からの遊離を自覚しない単純化された自己意識である。またそれだからこそフッサールは、ドイツ観念論が問題にした個人における神の視点を、間主観と言う平板な言葉に簡略化できた。また彼はキェルケゴールやマルクスが向き合った人間の実存に対する危機意識に無頓着であり、それを客観が主観を押しつぶすような社会に対する反発へと戯画的に単純化する。彼においてこのような戯画化が可能だったのは、彼の直観主義が、簡単に言えば、断片的意識の真理整合を図るだけの独我論だったからである。しかし断片的直観が自らの断片性を超え出て真理整合を図ると言うことは、断片的意識自らが自らの断片性を飛び出して神の視点に立つことである。逆に言えば断片的意識が神の視点に通じるためには、自らの断片性を超越しなければならない。そしてそのように超え出るためには、断片的意識は自らの限界を知らなければならない。とは言え限界の自覚は、それ自体がすでに断片的意識による自己自身の超越である。その超越を可能にするのは、断片的意識の自己自身からの脱自である。このようなヘーゲルの思索の後追いは、ハイデガーでは死の先駆として現れた。すなわち断片的意識における神の視点を可能にするのは、死の先取りとして現れる自己意識による自己の全体把握である。それゆえに同じ現象学でもハイデガーの場合では、存在の本来的真理の露呈を可能にするのは、判断停止ではなく、先駆的決意となった。ただしその先駆的決意は、断片的意識の実存を露呈する直観であり、思惟的反省ではない。したがって判断停止であろうが、先駆的決意であろうが、そこには媒介の拒否があり、ヘーゲル式弁証法は意図的に排除されている。もちろんヘーゲルからすればそれらは、真理到達のために自然と一体化するシェリング式密儀の変種にすぎない。
5)ヘーゲル式弁証法の唯物論への変様
ヘーゲルは、概念を実在的な無から復帰した真の実在に扱う。ここで言う実在的な無とは、本質である。そして概念における実在の復帰とは、始元存在の充実の回復を言う。ヘーゲル弁証法の観念性は、本質の概念への転化をもって、観念にすぎない概念に実在を付与することにある。それゆえにその観念性の打破は、本質を媒介にした単なる概念の成立ではなく、概念の現実化により弁証法を完了させることで実現可能に見える。この場合に概念に対する実在付与は、例えば自動車の図面を描くことではなく、実物の自動車を組み立てることで完了する。ところが概念の現実化だけが問題であるなら、それはまだ裏返しのヘーゲル主義にすぎない。概念はその成立において既に現実化の過程に入っているからである。少なくともそれは言葉において語られたなら、既に現実と化している。そして図面が正当であるなら、そして組み立てるための条件が揃っているなら、図面の自動車は組み立てるまでもなく既に実在となり得ている。この場合に概念の物理的な現実化は、単なるおまけである。ただしもし成立した概念がそのまま単なる言葉を超えて現実化しないのであれば、そのことはその概念がまだ概念として未熟であるか、あるいは全くの虚妄であるかのどちらかであろう。ヘーゲルに倣って言えば、現実は合理的であり、合理的なら現実になるからである。それゆえに現実化しない概念は、それが未熟であるか虚妄であるかに関わらず、現実離れの空想である。しかしこの現実離れと言う表現は、空想が現実に根拠を持たないことを表す。それならヘーゲルにおける精神の運動、すなわち始元存在が本質を媒介にして概念に転化する精神の運動は、現実が思惟を媒介にして新たな現実に転化する姿が正しいはずである。そうであるなら概念は、現実を根拠にした実在となるであろう。もちろんこのような精神の運動は、既に精神の運動ではなく物理である。そしてこのことが、唯物論においてヘーゲル弁証法が唯物弁証法へと変容すべき理由を成す。唯物論にとってヘーゲル弁証法は、実在的思惟が本質的思惟を媒介にして概念的思惟に転化するだけの単なる意識の運動である。したがってヘーゲル弁証法が観念的であるのは、怪訝に思うような出来事ではない。むしろそれは当たり前の話である。
ヘーゲル的真理の観念性を単純にその浮世離れの非現実性に求めるなら、その観念的真理の現実化も、思惟の出発点に抽象的概念ではなく、具体的現実を措くことから始められなければいけない。またそれがヘーゲル主義のあるべき貫徹の姿である。それゆえに共産主義においてヘーゲル式精神の弁証法は、唯物論に取って代わられた。ヘーゲル論理学が示したのは、直観として思惟が始まり、それが本質を経て概念に至る思惟の閉じた運動であった。これに対して唯物論は、物として思惟が始まり、それが概念を経て再び物に結晶化する運動を示す。もちろんそこで結晶化される物とは、真に人間的な現実生活を表現する。とは言え当の共産主義は、その言葉と裏腹に、もっぱらそのような現実直視の思想にならなかった。自称共産主義陣営には哲学の貧困が蔓延しており、そのことが共産主義を単なる貧困の哲学へと陥没させたからである。ひとまずそのようなことはさておき、とりあえず思想としての共産主義はこのような現実主義として登場した。
(2020/01/10)
ヘーゲル大論理学 存在論 解題
1.抜け殻となった存在
2.弁証法と商品価値論
(1)直観主義の商品価値論
(2)使用価値の大きさとしての効用
(3)効用理論の一般的講評
(4)需給曲線と限界効用曲線
(5)価格主導の市場価格決定
(6)需給量主導の市場価格決定
(7)限界効用逓減法則
(8)限界効用の眩惑
ヘーゲル大論理学 存在論 要約 ・・・ 存在論の論理展開全体
緒論 ・・・ 始元存在
1編 質 1章 ・・・ 存在
2章 ・・・ 限定存在
3章 ・・・ 無限定存在
2編 量 1章・2章A/B・・・ 限定量・数・単位・外延量・内包量・目盛り
2章C ・・・ 量的無限定性
2章Ca ・・・ 注釈:微分法の成立1
2章Cb(1) ・・・ 注釈:微分法の成立2a
2章Cb(2) ・・・ 注釈:微分法の成立2b
2章Cc ・・・ 注釈:微分法の成立3
3章 ・・・ 量的比例
3編 度量 1章 ・・・ 比率的量
2章 ・・・ 現実的度量
3章 ・・・ 本質の生成
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