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唯物論の再構築

ヘーゲル大論理学本質論 解題(第一篇 第二章 反省された限定) 

2020-11-08 12:19:20 | ヘーゲル大論理学存在論

 存在と無で始めた存在論と違い、本質論において存在と無はそれぞれ存在する同一性と区別である。個物の本質は同一性であり、非本質はその同一を否定する区別だからである。また存在論において即自存在ならびに対他存在として現れた規定と性状は、ここでは差異と対立として現れる。しかし対立が含む同一性は、対立を止揚して形式化させる。そして形式は自らの前提として同一性を必要とし、それを自らの質とする。この対立の自己調停により最初に既に質と量である同一性と区別は、すぐに質料と形式に転じ、さらに制約と根拠(理由)となる。したがって存在論において存在と無の対立を止揚して現れた限定存在は、ここでは同一性と区別の対立を止揚した根拠として現れる。その即自存在は実存であり、対自存在は現象である。以下では存在論から概念論への橋頭保として、存在論の抽出的概括を行ったヘーゲル本質論の冒頭部分を概観する。

[第二巻本質論 第一篇「自己自身における反省としての本質」の第二章「本質性または反省された限定」の概要]

 反省の諸契機と根拠についての論述部位
・反省     …無の同一性において空無な印象が持つ否定を否定する印象。以下の3形態。
 -擁立する反省…自己の前提に自己自身を擁立し、擁立された自己自身を廃棄することで自己に復帰する前提擁立行為。
 -外的反省  …自己と自己自身をそれぞれ排他的自己関係と直接的存在として擁立し、自己の前提に他者を擁立する推論に転じた擁立反省。
 -限定する反省…二つの反省の反省において外的反省を擁立反省に復帰し、それらの反省を内的に限定する反省。
・反省された限定…他者として擁立された自己自身が、その空無と自己同等性において本質とも限定存在とも区別され、自由な本質性として現れた本質の映像。
・本質の自己限定…本質は直接的単純性ではなく、運動する排他的単純性である。その運動の諸契機は以下の3形態。
 -同一性   …自己自身を否定する絶対無の存在。矛盾の諸契機を捨象して得られた同一律。
 -区別    …同一性に対して擁立された自己自身の存在。同一律を自己に含み、矛盾の諸契機を捨象して得られた矛盾律。
 -・差異   …同一性と区別自身の存在を擁立し、同一性と区別がそれぞれ反省において対自するような区別。自己外的な二者の同等性と不等性。
 -・対立   …同等性と不等性の相補性の反省において、それらが一つの全体に内在する積極者と受動者として相関するような区別。
         同等性と不等性の両者の同等性の矛盾を捨象して得られた排中律。
 -・矛盾   …同等性と不等性の両者の同等性の矛盾の反省において限定された区別本来の姿、すなわち排他的自己否定。
・根拠(理由) …矛盾する積極者と受動者の自己否定がもたらす対立の没落において偶有を必然として擁立する推論。対立する二者の同一性として現れる本質。


1)反省

 自己媒介的に現れた直接性は、存在する無としての反省する自己である。その直接性は運動の直接性であり、媒介された直接性にすぎない。また反省は、自己関係する無の存在である。しかしこの反省の成は、存在論において対他存在の無として現れた成と異なる。反省の成は存在から無に移行せず、無から存在に移行する。しかも無としての本質に現れる存在は、空無な印象である。したがって反省の成は、無から無の自己復帰である。そしてこの否定の否定が存在を擁立する。このような反省は、まず擁立する反省、次に外的反省、そして両反省の統一として反省された限定に至る。


1a)擁立する反省

 印象の自己は、自己関係において自己自身を否定し、その否定の自己同等性において存在する。それゆえに自己の直接性は、直接性ではない直接性である。その存在は自己復帰において擁立される。反省はそのように擁立される自己自身であり、なおかつ擁立する自己としての運動である。反省は自己自身を否定し、その否定を否定して自己に復帰する。ここでの反省は自己自身と自己を擁立し、その自己自身を自己との統一において廃棄する。自己と自己自身のいずれにとっても双方は双方の前提である。またはむしろ反省自身が前提であり、前提を擁立する行為である。したがって前提は、自己関係的な否定性である。そしてこのような前提擁立行為が本質の最初の自己同等である。反省は自己自身を直接に見出す。ただしそれは、廃棄される直接性である。しかしこの廃棄は、反省にとって自己自身の自己復帰に等しい。すなわちその廃棄は、自己自身の自己への到達であり、自己による自己自身の超越である。したがって反省は自己自身であり、かつ自己自身の無である。言い換えれば反省は、自己自身を否定する限りで自己である。


1b)外的反省

 擁立する反省は自己と自己自身を擁立し、自己自身を自己の他在とする。しかしその自己の存在は、同じく擁立された自己の他在と対立する。そしてこの対立が、自己自身を他者として限定する。このように自己が前提する自己自身を他者として擁立するのが、自己関係に対して第三者的に現れる外的反省である。この外的反省が前提するのは、廃棄された自己自身である。端的に言えば、この自己自身は物体として擁立される。そしてそのような自己自身は、もちろん自己ではない。しかしこの前提擁立の推移から言えば、反省はやはり自己自身と自己の分裂である。それは直接的存在と排他的自己関係の分裂である。この反省が直接的存在に与える限定は、直接的存在にとって外的である。それゆえに外的反省は、直接的存在と排他的自己関係、すなわち物体と自己の二つの直接性の間に推論として現れる。その推論が前提するのは、物体と自己の分断された二者関係である。そしてそのように二者関係の限定存在を擁立するのが、外的反省である。


1c)限定する反省

 もともと直接的存在は、反省が前提として擁立した自己自身である。一方で外的反省は、この同じ直接的存在を廃棄して他者とする。しかしこの反省を反省して言えば、外的反省が廃棄において他者として否定した自己自身は、前提として自ら擁立した自己自身である。それゆえに外的反省の否定は否定される。この否定の否定は、直接的存在の直接性を復帰させる。この復帰は、外面的な直接性を否定した本質の直接性の擁立である。したがってそれは物体として擁立した前提を否定し、それを観念に置き換える。この置き換えは、前提を物体ではなく自己自身として限定する反省である。そしてこの限定する反省において現れる直接的存在が本質である。
 カントは判断力を、普遍に特殊を包摂する限定的判断力、特殊が普遍と結合する反省的判断力の二種類で捉える。限定的判断力が従属するのは、普遍と特殊を分断した外的反省である。しかしそのことを当然としても、カントの言う反省的判断力も、やはり外的反省に従属する。反省が抽出するのは、特殊に内在する普遍である。その居場所は、直接的存在の外ではない。それは直接的存在の内で、直接的存在の変化に抗う自己同一な本質として現れる。


2)反省された限定

 反省は、直接的存在の復帰すべき自己自身を無前提に他者として擁立し、それを本質と成す。しかしこのような本質における限定存在は、単なる擁立された恣意的存在である。ところがここで擁立された恣意的存在は、空無な他者であるとともに自己である。それゆえにこの擁立された恣意的存在は、本質と限定存在の両方に対立する。そこでこの擁立された恣意的存在は、その空無に対する否定を通じて、反省された限定となる。またそのように限定存在は、擁立された自己として本質に対立すべきである。この反省された限定は、移ろいやすい存在的否定としての質ではない。反省された限定は、反省の自己自身との同等性によって成立する。この同等性に現れる擁立された存在は、廃棄された空無な他者である。端的に言えば、反省された限定は無の同等性によって成立する。このことから反省された限定は、自らの被擁立性を克服し、他者から独立して空虚に浮かぶ自由な本質性として現れる。ただしそれは本質を装った印象にすぎない。それは本質に対立する無である。


3)限定された本質

 反省は反省された限定である。それは自己自身の中に現れた本質の映像である。この反省と同様に本質も、限定された本質である。しかし本質は直接的単純性ではなく、運動する排他的単純性である。それゆえに本質は、運動の各契機において契機それ自身の自己限定としてのみ現れる。このような本質は、まず同一性、次に区別、そして矛盾として示される。ただし本質の本来の姿は、矛盾において現れる。同一性も区別も、矛盾から抽出された運動の諸契機にすぎない。端的に言うとそれらは、矛盾の退化形態である。まず同一性とは、もともと矛盾の中にあった自己同一性が、単純化され無限定にされた姿である。次の区別も、同一性との比較で言えば、矛盾における単純化された本来的限定である。それは一方で区別される二者の相克に無関心な差異として現れ、他方で区別される二者が相克するような対立として現れる。ただしこの対立も、自らの根拠の反省を捨象した限定に留まる。これらの根拠に無反省な区別に対し、対立が自らの根拠を反省するなら、その対立は矛盾として現れる。なお本質は個物の属性ではない。したがってその命題形式が表現するのは全称判断でさえない。個物から離れて普遍命題に格上げされた特殊命題が本質である。ゆえに法則に例外は付きものである。


3a)同一性

 廃棄された直接性としての本質は、その絶対的否定性において単純な自己同一性である。それは外的反省が行うような、区別を捨象して抽出された同等性ではない。そのような同等性では、外的反省が既に区別を擁立している。したがってその同一性は、区別の外にある。しかし同一性は本質の限定ではなく、本質の存在である。それは自己自身を否定した無の存在である。一方で自己自身の無は、自己を自己自身と区別する。その非同一性は、絶対的区別である。そしてその絶対性は、非同一性自身の純粋な自己同一性に従う。それゆえに同一性は、自己自身において絶対的区別である。しかしそれは、自己自身から離れれば区別と対立する。なぜなら反省は、自己自身の無として自己を擁立するからである。ここで擁立された存在は、同一性を自己に復帰する。このときに同一性は自己の契機、すなわち自己の過去となり、絶対的区別に対立する単純な自己同等性として限定される。「A=A」の無内容な同一律が表現するのは、このように自己同等性が自己の過去として限定される経緯の捨象である。「A=A」の命題的完全性は、その表現の中に自己と自己自身の差異性として「A≠A’」が包括される限りでのみ与えられる。


3b)区別

 同一性について見出される限定の経緯の捨象は、「A≠非A」の無内容な矛盾律にも見出される。ただしこの矛盾律が表現する区別は、もともと同一性を含んでいる。すなわち矛盾律の内実は「(A≠非A)かつ(A=A)」である。それが表現するのは、反省が同一性を自己に復帰するに先だって、自己自身の無として自己を擁立する経緯である。つまり矛盾律は、同一律が捨象したところの、もともと同一性が含んでいた経緯を展開している。ただし矛盾律が内包するのは、空無な自己自身を否定する自己の擁立の経緯である。それゆえに矛盾律が表現する同一性は、否定の否定の同一性である。その同一性は、同一律が表現する単純な同一性ではない。区別は同一性の過去として現れる。しかしそこでの区別は、自己と自己自身の区別である。すなわち本来の区別は反省において現れるものであり、自己と他者の区別ではない。本来の区別は、自らを同一性と区別するような同一性である。ここでは同一性が区別の過去として現れる。しかし既に述べたように区別は同一性の過去である。ここには同一性と区別自身が共に区別の過去として現れるような自家撞着がある。そこで区別は自らを過去とし、同一性と区別自身の存在を擁立する。それゆえに同一性と区別は、それぞれ擁立された存在となる。そしてこのように同一性と区別がそれぞれ反省において対自するような区別が、差異である。


3b1)差異

 差異は反省の他在を形成する。ただし限定存在の他者が直接的存在を根拠とするのに対し、反省の他在は直接性としての自己同一性を根拠とする。差異において区別の過去として現れた同一性と区別は、それぞれ擁立された存在であり、互いに無関係である。したがって両者の区別は、両者にとって外的である。そこでこの外的反省は同一性と区別に対し、第三者的な観点で外的な同一性と区別を擁立する。それは同等性と不等性である。ただし同一性が区別自身と区別されないのに対し、同等性は区別される。それは直接的存在における「これ」の単純限定と違い、「ここ」や「その」と限定された時空の場的差異である。この外的な同一性としての同等性は、不等性と区別される。それゆえに比較される両者が同等でなければ、両者は不等である。同様に比較される両者が不等でなければ、両者は同等である。ところが同一性と区別は、同等性からすれば互いに同等であり、不等性からすれば互いに不等である。そして両者はともに自己自身と不等であり、その不等において同等である。またもともと両者の不等は、或る観点に従う。したがってその観点を外れることでも、両者は同等である。不等な両者は、不等で無ければ同等だからである。このような同等性と不等性は、差異する存在に対して擁立された存在である。逆に差異する存在は、同等性と不等性に対して反省の即自態として、すなわち無限定な区別として現れる。これにより差異する存在は、擁立された抽象的同一性として擁立される。同等性と不等性は、この擁立された存在に排他的に統一される。両者はこの統一において過去として廃棄され、差異は対立となる。
 全ての物は互いに異なる。しかし「全ての物」との表現は、既に差異を表現する。したがってこの表現は自家撞着である。この表現を「等しい二物は無い」と言い換えても、「二物」との表現が相変わらずに既に差異を表現する。この二物の差異は、媒介を通じた説明で説明し得ない。それは同一性の差異への移行でのみ説明される。それは自己と自己自身の区別に始まり、一物における同等の不等に帰着する。そしてその帰着の先は対立である。なお同等性と不等性は恣意的なものではない。それは物に内在する現実的な過去である。それは変化する物の二面である。


3b2)対立

 同等性と不等性は、一つの全体存在の擁立された二面である。したがってそこに擁立され得ない存在があるなら、それは無である。同等性は不等性に従い、不等性は同等性に従って擁立される。それゆえに同等性と不等性のそれぞれは、相手を過去として含む全体である。ただし同等性と不等性のそれぞれにとって、相手は自己の無であり、すなわち部分である。対立は一方で自己同等性への反省、他方で自己との不等性への反省により擁立される。このときに不等性と関係する自己同等性は、積極者として他者との関係を限定する。すなわち積極者とは、他者との対立を廃棄する強者である。逆にこの積極者に関係させられる受動者は、同等性と関係する不等性である。それが否定するのは、積極者としての自己である。したがって受動者は、積極者の対自的対立者としての積極者でもある。それは積極者の自己の上に立つ対立の全体である。このような積極者と受動者は、自立した対立の二面である。両者の限定は、相手がある限りで擁立される。その限定は両者にとって最初は外的であり、両者の間で交替可能な限定である。しかしその外的限定は、他者との関係を限定する限り、または逆に限定される限り、両者の内に復帰する。すなわち両者に対する積極者と受動者の限定は、両者自身の自己限定となり、両者の即自存在に復帰する。同様に数における正負の符号は、最初に対立する数に対して外的である。しかし数が自己の即自存在に復帰するなら、符号を持たない自然数も符号を含む整数に転じる。


3c)矛盾

 対立は、反省された外的差異である。そして積極者と受動者の間の内在的な対立とは、反省により限定された同一性と区別の間の外的な差異である。もともと区別自体は、排他的な自己同一である。それは排他において自己自身を否定する。それゆえに区別の反省は、自らを矛盾として限定する。ただし差異における外的な区別は、矛盾の即自態である。それに対して積極者と受動者は、擁立された矛盾である。積極者は、自らの擁立された存在を廃棄する否定者である。しかしその否定は積極者の自己自身を否定する。それは自己自身を自己の他者として擁立する矛盾である。一方の受動者は、既にして自己と不等な否定者である。しかしそのような受動者に自己の他者は無い。したがってその否定は受動者を自己と同等にする。それは受動者の自己を積極者にする矛盾である。この両者の自己否定が対立を没落させる。この没落において積極者と受動者は、自らの擁立された存在を廃棄し、矛盾の根拠を擁立する。この矛盾を根拠づけるのは、積極者と受動者の現実的な自己同一性である。


4)常識的思惟、機智的反省、思惟的理性

 同等と不等において全体を描く排中律では、全ての物はAと非Aに二分される。しかしその全体はAでも非Aでもなく、しかもAと関係する。あるいは+Aと-Aに対し、絶対値|A|は正負の対立に無関心なAとして存在する。いずれにおいてもAと非Aの対立は、対立に無関心な根拠Aに復帰する。それはAと非Aに対する第三者、あるいは+Aと-Aに対する媒介的第三者の擁立である。この媒介的第三者にとって対立する二者は、Aの量的差異を示すだけの同じ物である。しかしこの対立物の同一化は、直接的同一性において即自存在する物にとって矛盾である。それは同一律「A=A」の空無を展開した矛盾律「A≠非A」、そして排中律「U=A+非A」の、矛盾命題「+A=|A|=-A」へのさらなる展開である。+Aと-AにとってAは、自らの根拠として実在する。そしてそれが運動の実在になっている。運動する直接的同一性において即自存在する物は、+Aと-Aの相互廃棄に出現する無としてのゼロである。しかしこの無として現れる物は無ではなく、限界量+Aと-Aの間のどこかに実在する。+Aと-Aは、例えば上と下のような相関として現れる。相関する両者は相手の他者として存在する。しかしそれ自身は、相手に無関心な形で直接的同一性において即自存在する。常識的思惟が同一律に留まるのに対し、機智的反省はその中に差異的区別を指摘する。思惟的理性は、さらに多者における差異を一者における対立に置換し、それを矛盾と成す。常識的思惟は、矛盾する一者を怖れる。しかし矛盾は積極的活動を根拠づける生命である。
 矛盾は欠陥ではない。それは本質において解消される。この解消では、偶有が推論によって必然として現れる。そしてその擁立された必然が、物や主観や概念である。ただしそれらは低次の矛盾を解消するだけである。低次の矛盾は、解消において自らを高次の矛盾に引き渡す。しかし実際は、高次の矛盾を根拠にして低次の矛盾が発現している。したがって推論の上では偶有が絶対者の存在を成すのだが、実際には偶有の無、すなわち必然が絶対者の存在を成す。

(2019/06/26) 続く⇒(ヘーゲル大論理学 第二巻本質論 第一篇 第三章) 前の記事⇒ヘーゲル大論理学 第二巻本質論 第一篇 第一章)

ヘーゲル大論理学 本質論 解題
  1.存在論と本質論の対応
    (1)質と本質
    (2)量と現象
    (3)度量と現実性
  2.ヘーゲル本質論とマルクス商品論
  3.使用価値と交換価値

ヘーゲル大論理学 本質論 要約  ・・・ 本質論の論理展開全体
  1編 本質 1章   ・・・ 印象(仮象)
        2章   ・・・ 反省された限定

        3章   ・・・ 根拠
  2編 現象 1章   ・・・ 実存
        2章   ・・・ 現象
        3章   ・・・ 本質的相関
  3編 現実 1章   ・・・ 絶対者
        2章   ・・・ 現実
        3章   ・・・ 絶対的相関


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