唯物論者

唯物論の再構築

国家の死滅

2012-06-18 23:51:41 | 失敗した共産主義

 かつて共産主義は、無政府主義の一分派として生まれた。したがって共産主義も、無政府主義と同様に、最終的に国家の解体を目指している。ここで言う国家とは、支配者による民衆支配のための暴力装置としての国家である。ただし共産主義は、無政府主義と違い、国家の破壊ではなく、国家の死滅を目指す。この国家の死滅とは、国家が自らの必要性を失い、眠りつくように消えることを指している。
 実をいうと、現代世界において国家はすでに死滅の途につき始めている。というのは、先進国において国家はすでに王侯貴族の私物ではなく、また少なくとも形式的に見て、金持ちの私物でもないからである。フランス革命に始まった民衆反乱は、民衆支配のための暴力装置としての機能を国家から次々に剥ぎ取り、国家を国民生活のためのサービス機関へと変貌させてきた。ただし現代世界においてこの変貌は、まだ不徹底なままにある。実質的に国家は金持ちの私物だからである。共産主義の使命は、この国家のサービス機関化の完遂において、国家の死滅を実現することにある。

 カウツキーはレーニンにより共産主義の落伍者に扱われたが、同じように公認共産主義からは、ベルンシュタインの社会民主主義が修正主義として排斥されている。それだけではなく、レーニンの登場により第二インターの各国機関の多くが、マルクス主義の放棄を宣言せざるを得なくなった。というのは、ロシア革命でのソ連樹立により、共産主義とはすなわちレーニン主義とみなされたためである。当時の第二インターに所属した各国機関には、労働者の支持を得るために、自国経済を優先する経済ブロック化が必要であり、レーニンの要求する国際主義に応えられない事情があった。レーニンの国際主義とは、革命の即時実現でのみ可能な空論と受け取られたのである。一方のロシア共産主義は、国外からは日本を含むヨーロッパ列強の軍事侵攻、国内では徹底抗戦を叫ぶ白軍との内戦に耐え、近代史最大の怪物へと変貌した。皮肉なことに、レーニンが生み出した自称共産主義国家は、巷の独裁国家以上に、民衆支配のための暴力装置そのものとしてロシアに君臨することになった。結果を見れば、むしろ北欧社会民主主義に代表される第二インターの脱落組の方が、国家の死滅という目的において、よほど成果を上げたのである。

 既存の国家と対決する場合、支配者の権力禅譲を望めないのであれば、暴力革命を目指すしかない。しかしフランス革命後のギロチン・テルミドール以来、革命の大義のもとに革命政権が反対派や非主流派を粛清するケースが、歴史上に何度も繰り返された。とくに20世紀の革命を牽引してきた共産主義は、過去の革命史を総括する形で、敵対者の虐殺を積極的に励行するにまで至っている。しかももっぱらそこで叫ばれていた革命の防衛というスローガンは、革命政権でのヘゲモニー争いに転用され、政権内部の粛清と虐殺に始まり、最終的に革命後の民衆支配の全域にまで虐殺と弾圧を拡大した。結果として、20世紀の共産主義革命は、そのほとんどが旧国家を超える超独裁国家を生み出しただけの失敗に終わった。つまりそれらの自称共産主義革命では、国家の死滅と逆の事態が進行し、ミイラ取りがミイラになっただけに終わった。
 20世紀末には、この過激な共産主義革命は沈静化し、逆に共産主義体制において暴力革命が起きるようになる。共産主義大国ソ連が崩壊したのに伴ない、アメリカも中南米の共産主義革命を容認するようになり、世界の革命動向もイスラム原理革命が共産主義革命に取って代わるようになった。中米で20世紀末に起きた共産主義者による革命も、ソ連型共産主義を標榜したものは既に無く、現時点では東欧革命やイスラム原理革命、または現在進行中のアラブ革命を含めて見回しても、暴力革命における粛清と虐殺の発生は、時代的にほぼ鎮静化したように見える。現代世界が落ち着いた革命史の理解は、かつて共産主義者が行った革命史の総括を、明らかに拒否するものとなっている。

 先進国での支配者の権力禅譲は、形式的に可能である。レーニンはその形式的可能性を信じなかったが、暴力革命のデメリットが周知されるようになった以上、最初からその形式的可能性を拒否して暴力革命を目指すのも許されない。レーニン流の悲観的予測に従えば、労働者は常に資本家により正規雇用と非正規雇用、自国労働者と外国人労働者、国内労働者と国外労働者に分断され、両者の対立も不可避である。雇用条件に恵まれた労働者群は、常に没落する小ブルジョアの運命に怯え、身分の低い労働者群は、自らの雇用保障を要求できる立場に無く、場合によっては自ら働く場所において国民でさえない。国内労働者には、外国人労働者または国外労働者と肩を並べるまで没落し、ようやくそこで共産主義革命を決意するという長い過程がこれから待っているように見える。
 しかしこのようなレーニン流の悲観論と違い、労働者の没落を回避するだけでなく、労働者の地位向上を行うような資本主義の社会主義的改良は可能である。また実際に北欧社会民主主義は、それを実現してきた。日本における資本主義の延命策は、別のホームページ(資本主義の延命策)に記載したので、ここでは割愛するが、筆者は混迷するヨーロッパの状況についても、似たような対応が可能だと考えている。レーニンは資本主義の社会主義的改良を、資本主義の延命策に扱い、共産主義の分娩の苦痛を長引かせるものとして攻撃した。しかしレーニンの失敗は、逆に共産主義が本来目指したものが何だったのかを鮮明にし、革命はその手段にすぎないということを明らかにした。資本主義の延命策も、それが国家の死滅を推し進める限り、共産主義への裏切りではない。
(2012/06/18)


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