1917年に世界初の共産主義革命によって生まれた旧ソ連は、非効率かつ非合理な社会制度および経済構造のゆえに、体制末期のゴルバチョフの奮闘も虚しく1991年に自壊した。この体制的な非効率性および非合理性は、事実に敵対した虚偽観念に裏付けられた観念論として極限でき、その観念論を国民大衆から乖離した国家意思決定機関の存在が基礎づけていた。この観念論およびそれを基礎付けた国家形態は、真実を隠蔽する一方で虚偽を撒き散らすことにより、旧ソ連経済を実質的に経済破綻させ、最終的に国家を崩壊させるにまで導いた。旧ソ連におけるこの国家形態の物理的本質は、人間的自由の欠如にある。ただしそれは、単純に報道の自由や移動の自由の欠如を指すものではない。ここで言う人間的自由の欠如とは、国家が自らに逆らう者の生活の糧を奪う権利を持つこと、そもそも国民が国家に逆らうための生活の糧を持ち得ないことを指している。つまり旧ソ連のスターリン体制が行なった粛清とは、単なる国家反逆者に対する弾圧ではない。スターリン体制が粛清したのは、自律する庶民であり、人間そのものだったのである。しかし国家において生産者が自律することを怖れ、自ら物言わぬ人形となるなら、その国が自律的な経済発展を行なうのは土台無理な話である。そのような国に可能なのは、他国の経済発展の軌跡を後追いし、自国の経済成長を労働者に対する過酷な強制労働により実現することだけである。そして実際にスターリンは、この手法で旧ソ連の急激な重工業化に成功した。また旧ソ連だけでなく第二次大戦後の旧東欧圏も、戦後復興において、全体主義による奇跡の経済発展を世界に見せつけた。鞭打てば非力な痩せ馬も猛スピードで走るであろう。しかしすぐにその痩せ馬は、どんなに鞭打っても失速し、走ることもままならなくなる。奇跡の経済復興を見せた旧ソ連東欧圏も、すぐに鞭打たれた痩せ馬のように失速すると、結局長い期間を経てそのまま体制崩壊へと至った。唯物史観の予想では、経済発展の桎梏として現れる体制は、革命を通じて葬り去られる。旧ソ連東欧圏の崩壊とは、この唯物史観の予想を見事に体現した出来事となった。
1970年代以後の資本主義世界では、コンピューター技術の進歩を背景に、情報通信分野を中心にした産業構造および社会秩序の変化が起きた。言うなればそれは、石油と原子力に続く第4次産業革命である。しかし東欧を含む旧ソ連の共産圏は、自ら報道の自由を制限したことで、自動的にこの新しい経済発展の機会を取り逃した。他方で映像録画や衛星放送などの技術進歩は、鉄のカーテンを飛び越す形で、外側だからこそ見える共産圏の事実を、共産圏内部で目隠しされていた住民たちへと逆輸入する威力を発揮した。つまり人間的自由の欠如とは、ただ経済的低迷をもたらすだけのものではなく、実は体制自らによる長期的な支配基盤の損壊だったのである。また旧ソ連において、このような人間的自由の欠如の威力を増進させる二つの事情もあった。それは、経済活動を逼迫させるほどの軍事偏重、および赤い貴族とも言われた身分制度的官僚機構である。しかしこの二つの事情も、人間的自由の欠如から派生的しただけの体制への要請事項に過ぎない。つまり国民から人間的自由を奪うための口実として軍事偏重が、そしてその暴力装置として身分制度的官僚機構がそれぞれ必要とされたのであり、その逆ではなかったのである。実際にこのことは、旧ソ連が国家として崩壊したときでさえ、ロシアが西側諸国から攻撃を受けてもいないし、西側諸国に領土を軍事占領されることも無かったという事実によって証明されている。長い国境線の警護と広い未開発地域の保全、さらに未発展地域住民の生活保護は、既に西側先進国において国家経済の単なる重荷だったのである。国境線の帝国主義的な拡張意欲は、既に西側先進国において過去のものだったわけである。
ロシアにおける共産主義革命の変質は、革命の勃発前からレーニンの暴力革命嗜好によって準備された。レーニンはトロツキーやルイコフらによるメンシェビキなど他党派との調停を拒否し、ボリシェビキの議会主義的変貌のルートを封鎖していた。当然ながら10月革命の際にもレーニンは、ジノビエフとカーメネフの合法革命の提案を拒否している。一方でレーニンは、全権力のソビエト集中のスローガンにおいて、自らの議会無視の理屈の正当化に努めた。そのスローガンでは、帝国主義議会は偽の民主主義であり、労農ソビエトが真の民主主義を実現する場であるとみなされた。ところがレーニンは、革命後に連立したエスエル左派に対して政治的譲歩をしていない。つまり帝国議会が古い階級支配のイチジクの葉にすぎなかったのかどうかよりも、むしろ労農ソビエトの方が新しい階級支配のイチジクの葉にすぎなかったのである。帝国議会を失い、労農ソビエトが民主主義において無意味なら、異なる意見交流および政策成立と調停を可能にする場は、ボリシェビキ内部に限定される。この段階でボリシェビキ内部の分派の自由度合いは、すなわち旧ソ連における政治的自由の限界を表現していた。しかしクロンシュタット反乱の鎮圧を契機に、レーニンがボリシェビキ内部の分派を禁止したことは、ロシアの政治的自由を形式的に完全に死滅させた。つまりスターリン体制の形式的要素も、このときにほぼ完成したのである。なるほどその直後にロシアを襲った最大の不幸は、ボリシェビキ独裁の頂点にヒットラーを凌駕する極悪人が君臨したことである。しかしその不幸は、偶然だったわけではない。なるほどロシアの歴史的な政治風土において、独裁とは常に恐怖政治であった。しかし共産党独裁における同志粛清と民間レベルの政治的自由の死滅は、中国など他の共産圏でも起きている。民主主義を軽視して誕生した政権は、よほど意識的に民主主義を重視しようと努めない限り、恐怖政治から抜けられないのである。また革命に成功した権力者も、意識的に民主主義を重視しようと考えることも無い。なぜなら成功者としての彼らにとって、民主主義は無用の長物にすぎないからである。ロシアの共産主義革命を堕落させた真の責任者は、スターリンではなく、レーニンである。
レーニンの威光の前にトロツキーは、自ら依拠した左翼反対派の保持に不誠実な態度を取り続けた。結果的な左翼反対派の政治的死滅は、レーニン死後のトロツキーの国外追放をもたらし、その後の時期を逸したジノビエフとカーメネフとトロツキーの合同反対派の命運を決した。この段階でまだブハーリンは、革命ロシアの社会民主主義的変貌を夢想していたのだが、スターリンに騙されたあげくにルイコフやトムスキーなど、他のレーニン時代の政治局メンバーともども粛清されてしまった。ブハーリンは、社会民主主義のための不可欠な要素、すなわち民主主義の基盤を、レーニンが既に根こそぎ破壊していたことを理解していなかったのである。スターリンは、ロシアから追放されたトロツキーを別にして、ルナチャルスキーやモロトフ、コロンタイのようにスターリンにとって無害な数人を残し、レーニン時代の政治局メンバーをことごとく処刑した。もちろん国外のトロツキーも、結局スターリンの放った刺客によって殺されている。これにより世界初の共産主義革命であったはずのロシア革命は、実際には共産主義の実現を目指すことも無く、スターリンの収容所国家へと帰結した。出る杭は打たれるという言葉がある。旧ソ連では、出る杭は皆殺しにされたのである。このような国が、科学技術や芸術文化などの創造性を発揮するはずも無いし、当然ながら経済の自律発展を続けられるわけも無い。革命ロシアの命運は、エスエル左派指導部の壊滅において早々と確定し、フルシチョフの失脚においてその政治的撤収の道さえも完全に喪失したのである。
収容所国家に可能な経済発展は、他国の経済発展の軌跡の後追いだけである。この後追いによる経済発展を、ソ連東欧圏の崩壊を尻目に、現在猛進している共産主義国家がある。もちろんそれは日本の隣人、中華人民共和国である。旧ソ連との比較で見て、中国の持つ判り易い優位点に、中国と日本の人的距離の近さがある。地理的距離で日本と上海の距離は、モスクワとベルリンの距離より若干遠い。しかし西側諸国との海外留学において相互に制限を持ち、西側文化と実際よりはるかに遠い距離感を保っていた旧ソ連と違い、中国と日本の間の留学は容易であり、日本の映画やテレビドラマなどの文化に対しても中国は開放的である。筆者から見ればこのような中国の日本文化への親近性は、田中角栄による対中円借款、および日本を含む外国資本の対中投資と並んで、中国にとっての改革開放政策の成功の基礎を為している。もちろん日本文化を通じた民主主義への憧憬は、共産党独裁の中国にとって一種の劇薬である。戦前の日本がそうであったように、遠く離れた欧米の民主主義は、独裁体制下の庶民にとって他所の絵空事である。ところが中国に近い格下敗戦国の日本の民主主義は、中国の歴史的自尊心において、その存在自体が危険な事実である。そして実際に中国共産党内部の親日派の存在は、天安門事件発生の大きな要素となった。もちろん日本の政治は、利益誘導と地縁血縁が主導的であり、自慢にならない民主主義である。それでも国家としての日本は、国民生活のためのサービス機関としての義務を自覚してきたし、日本の消費者優位の市場は、食品衛生や安全性、省エネルギーや環境保護などの多くの面で世界最高水準の規格を作り上げてきた。中国にとってそれは、生活者重視の民主主義そのものであり、改革開放政策成功で有頂天の現時点でもいまだ追いつくことのできない目標である。ただし中国は、この目標に追いつくための資格を、自ら欠いていることを自覚していない。言い換えるなら、生活者重視という目標の根底に、人権が隠れているのを理解していない。民主主義なしに人権は実現しないし、生活者重視という目標も実現しない。旧ソ連東欧圏のジレンマは、実は共産中国の前にも立ちはだかっているわけである。したがって中国による他国の経済発展の軌跡の後追いも、いずれ限界を迎えるのが筋である。
一方で、当然ながらこの日本と中国の対比は、中国国民に対して、人権に立ちはだかる邪魔者として中国権力者を露呈させる。だからこそ中国共産党は、日本との軍事的緊張関係を必要とし、その口実を次々に用意せざるを得ない。先に筆者は、これまでの中国が西欧文化に対して開放的であると述べた。しかしここ数年で見ると、中国公共放送における外国製のドラマや映画はかなり減少し、文化的国粋化が急激に進んだように感じる。反日に荒れた文化大革命の時代でさえ言わなかった尖閣諸島の中国領の主張は、明らかに70年代初頭の埋蔵油田発見を動機にしている。とはいえ天安門事件を経験した中国にとって現段階の尖閣諸島問題は、日本との軍事的緊張関係を維持するという目的において、既に別の政治的意義を有している。そのことは、習近平がロシアに対して暗示的にアムール川東岸を放棄し、尖閣諸島問題を優位に立てたことにも現われている。アムール川東岸に広がるロシアの土地は、19世紀に弱体化した清を脅してロシアが奪い取ったかつての中国領土である。しかしこの世界中に知られた史的事実以上に、既に今の中国にとって尖閣諸島は、はるかに重要な意義を持つわけである。今では中国は、この問題による日本への挑発自体を自己目的化しており、挑発により日本の軍事行動が始まるのを予期しつつ、一方で日本の再軍国化を怖れるというジレンマにある。そのジレンマは、国共内戦下にいた戦前の蒋介石の対日挑発行動にも類比可能である。しかし中国の目的が挑発そのものにあるなら、日本がその挑発に乗って軍事的に対抗するのは、無意味である。むしろそれは、逆効果を生む。かつての日本は、軍事行動開始により蒋介石の挑発行動の停止を夢見た。しかしそれは、不可能を可能にしようとする無駄な試みだったのである。昔も今も必要なのは、挑発の無意味化であり、そのための日本における生活者重視の民主主義のさらなる徹底である。中国民主主義の彼岸としての生活者大国の民主日本の確立は、中国への民主主義の移入圧力となり、それ自体が中国にとって手出し困難な脅威である。その意味で中国国内の良質の日本資本の存在は、中国国民にとってだけでなく、日本の平和的安定の希望を担っている。
(2013/03/27)
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