唯物論者

唯物論の再構築

超出

2012-06-09 17:42:40 | 弁証法

 論理の矛盾は、その論理に外れた存在の出現によって露呈する。逆に論理に外れた存在が現われないなら、論理矛盾も露呈することは無い。ただし論理に外れた存在が現われたなら、その論理は既に破綻した論理である。破綻した論理は、新しい論理に置き換えられる必要がある。そのような破綻した論理の新しい論理への置き換えを、弁証法では超出と呼ぶ。

 論理の超出は、論理の置き換えが始まるずっと以前に既に始まっている。その開始は、論理に外れた現実世界の存在が意識のうちに現われた時点に遡る。そもそも論理からすれば、自らの理屈に外れた存在は、自らの理屈において存在し得ない。そして無を除けば、存在し得ないものは意識に現われることもできない。ところが不備を抱えた論理では、この存在し得ない存在が意識に現われるという事態が実際に起きてしまう。現われることの無いはずの存在が現われるのは、論理にとってあたかも無から存在が創造されたかのような非合理な出来事である。もちろん実際に非合理なのは、出来事の方ではなく、既存の論理の方である。しかしこの非合理な出来事は、その現実的な力によって既存の論理を崩壊させ、新しい論理を超出する。そして既存の論理を崩壊させた非合理な事実は、新しい論理において合理となる。言い換えるとそれは、意識において存在し得ないとされた非存在が、同じ意識において現実存在へと変化したのを意味する。この不可知から可知への変化は、単なる無知から知への変化ではない。無知は論理を形成する役割を持たないが、不可知は既存の論理の屋台骨を為すからである。
 このような不可知の転覆は、超出において論理の崩壊に決定的な役目を持つ。しかし実際には、不可知の転覆として起こり得るのは、あり得ない存在が悟性に現われる場合に限られる。あり得ない存在が直観に現われるという事態は、それこそあり得ない話である。ただし言論統制された社会では、あり得ないとされた差別や貧困のような事実や、あり得ないとされた体制への反逆が、公共報道から抹殺されることがある。この場合では、世間に点在する個別の意識にとって、あり得ない存在は実際にあり得ないものとなる。このような社会での一般的意識では、自らが所属する社会の論理は整合しており、社会の抱えた現実的矛盾は個人の直観に現われない。しかし抹消された情報が世間に流布されるようになると、個別の意識にとってあり得ない存在が初めて直観に現われる事態が発生する。裸の王様は自らの裸の事実を認識できなかった。しかし王様の視力を奪うなら、王様はそもそも自らの裸の事実を直観できないのである。この点については、別の機会に述べる。
 超出に関してヘーゲル弁証法は、あり得ない存在が直観に現われるという非合理を、当然の権利のごとく語る。精神現象学における論理展開も、普遍的な存在の中に突如として区別が現われるところから始まる。普遍的存在と区別し得る存在とは、非存在、すなわち無にほかならない。つまり精神現象学の出発点は、存在と無の二元論となっている。なるほど、現象にたち返って論理を構築し直すのであるなら、論理の始まりは常にこの二元論が現われると理解すべきなのかもしれない。ところがヘーゲルの説明は、そのまま存在の充実に突き進むだけであり、論理の始まりにたち返ることは無い。つまり無の出現は、常に暗黙の前提であり、存在はその無を吸収して成長する存在者として描かれている。言い換えるなら、ヘーゲルにおける存在は常に悟性的概念であり、この存在に対して現われる無とは、実は感性的直観なのである。したがってヘーゲルにおいても、実存は本質に先立って現われている。ところがそれにも関わらず、ヘーゲル弁証法は実存を本質にとっての無として扱う。無はヘーゲル弁証法の隠れた動因でありながら、常に存在の影に隠れている。主役は本質の側にあり、出来上がった悟性的概念がヘーゲル弁証法を牽引する。結果的にヘーゲル弁証法は、形式的には身元不明の理念を目指して論理が進み、実際には出所不明の現実が論理を構築するという非合理な理屈となった。つまりヘーゲル弁証法において存在は、常に無から立ち昇っている。ヘーゲルの現象学は、表面的に現象にたち返っただけにすぎず、内実としてフッサールの言う現象学ではない。それは概念が現象する様を記述しただけであり、少なくとも直観の現象学ではない。

 カント超越論は、その不可知論において哲学に背後世界の錯覚をもたらした。この錯覚を断ち切るために要請された哲学の課題は、現象にたち返って論理を構築し直すことである。ところがこの課題の実現に挑んだはずのヘーゲル弁証法は、たち返った先の現象を無の中に消失させてしまった。しかし現象とは現実存在であり、決して無ではない。当然ながらヘーゲル弁証法に対して、自らは無ではないと主張する現実存在の反逆が始まる。この現実存在の反逆は、最初にマルクスとエンゲルスの共産主義として、そしてキェルケゴールの実存主義として、さらにフッサールの現象学として現われた。
 論理が現象にたち返ったときにぶち当たる困難は、現象のもつ一面性や一過性、すなわち現象の有限性にある。カント超越論は現象を、その有限性において物自体と分離した。それに対してヘーゲル弁証法は、現象を積分することによりその有限性を克服して見せた。しかし既に見たように、ヘーゲル弁証法は、現象を概念へと転じたことにより、現象を現象の対極であるはずの本質へと変えている。つまりヘーゲル弁証法は、ありのままの現象の理解に失敗している。ヘーゲルの現象学と入れ替わりに、次に現象学として現われたのがフッサールの現象学である。フッサールは、ヘーゲルを踏襲せずに、ショーペンハウアーを踏襲する形で現象の真性を得ようとする。ショーペンハウアーでは、現象の真性は観照において現われた。同様にフッサールも、中立な判断が存在するのを前提にして、現象学を構築する。つまりフッサールは意識の本来性を、観照における中立性に見出したのである。しかしカントやヘーゲルの時代と違い、ファシズムと共産主義が荒れ狂う暴虐の時代において、フッサールの発想はあまりにも無邪気である。少なくとも共産主義は、中立などという浮世離れによって判断の真性を語ることをしない。そして共産主義と同様に、このフッサールに対してハイデガーもまた、観照的中立とは異なる観点で意識の本来性を問題にした。フッサールの後継として登場したハイデガーの現象学は、フッサール現象学のほぼ完全な持続である。しかしそれにも関わらずハイデガーの現象学は、この問題意識において、根底からフッサール現象学と別物になった。
 共産主義は、現象の真性に関わる意識の本来性の問題を、階級闘争理論で説明した。現象の真性を保証する本来的意識は、所有関係の外側に立つ意識でなければならない。本来的意識は、自らの真性を無所有によって実現すべきだからである。共産主義は、原初の仏教やキリスト教がそうだったように、そのような意識を無産者の中に見出している。そして共産主義は、無産者の社会の実現こそが、現象の真性の実現になると考えた。だからこそ共産主義は、このような意識の本来性を備えた階級として労働者階級を定義したのである。意識の本来性は、ハイデガーの場合では、実存主義的決意を必要としたのに対し、共産主義の場合では、意識の所属する経済的状態が単純に保証している。ただしこの単純さは、共産主義だけではなく、実存主義にも共通する誤謬を露呈している。その誤謬の基礎には、弁証法の超出に関する勘違いがある。

 共産主義と実存主義は、両者ともに現象の真性を観照的中立によって得ることを虚偽とみなし、それを拒否した。そして共産主義は労働者階級の中に、実存主義は先駆的決意の中に、それぞれ現象の真性の居場所を捜し求めた。しかし労働者は、実際には所有関係の外側に立つ存在ではない。また先駆的決意は、実際には虚偽的中立に対する忌避感情にすぎない。両者は共に、偏った立場の中に自ら陥没したことを自慢の種にしている。しかし結果的に階級闘争は、その最初の出発点を忘れ、レーニンによって一種の紅白戦に転じた。また本来的実存も、その最初の出発点を見失い、サルトルによって一種のカルトに転じた。とはいえこのような変質は、両思想の出発点の段階で既に始まっている。なぜなら両者は共に現象の真性の確立を、現象の取捨選択によって目指したからである。
 弁証法に対するカントとヘーゲルの関係では、カントの二者択一型弁証論に対してヘーゲルは積分型弁証法で対抗した。しかしその後の哲学は、ヘーゲルの否定を通じて、カント流の二者択一論に回帰していった。なぜなら既に見たように、ヘーゲル弁証法における超出は、非合理の看過だからである。しかし超出は、主体の意識状態に合わせてその現われを変化することがあっても、自らの現われを消失させることは無い。つまり労働者の真実と資本家の真実は、異なるとはいえ、両方とも真実なのである。フッサールは現象学において、現象への回帰を宣言した。それにも関わらず、フッサールは観照的中立により現象を取捨選択する。現象の取捨選択とは、それ自体が現象の加工である。現象学は、現象への回帰を宣言した舌の根も乾かぬうちに、現象からの離反を進めている。ハイデガーは、フッサールによる現象の取捨選択の方法に問題を感じ取り、実存主義的決意による現象の取捨選択を目指した。しかしそれにしても、取捨選択であるのに差異は無い。事務的に選択するのも、決意をもって選択するのも、選択という点で何も変わることは無いのである。
 現象の取捨選択をしなければ、現象学はヘーゲル流の現象の積分に舞い戻ってしまう。現象の取捨選択をしても、現象学は現象から離反してゆく。このジレンマについて、共産主義も実存主義も、実は既に答えをもっている。意識が所有関係から自由になるなら、また意識が自らの自由を自覚するなら、現象はその意識に対して、自らの真実を現すからである。逆に言えば、意識が所有関係に拘泥するなら、また意識が自らの自由を自覚できないなら、意識は自ら現象の真実を覆い隠すからである。人間は、自由である限り、現象に加えた自らの誤謬に気付くし、現象の中に秘められた真実を直視できる。自由な意識は、取捨選択の必然からも自由なのである。そのような意識には、逆に取捨選択の余地などは存在しない。自由な意識は、他人によっても、また自分によっても、現象の取捨選択を強制されないのである。そもそも現象の取捨選択が起きるとすれば、意識にとっての事実が二通りに存在することになってしまう。つまり超出とは、ありのままの事実の直視であるどころか、ありのままの事実それ自体なのである。

 なお、ありのままの事実に対して、自由な意識がいかなる行動を選ぶかは神でさえも知り得ない。なぜなら自由な意識が目指すのは、自らの真実だけであり、それ以外の全てから既に自由だからである。
(2012/06/09)


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