唯物論者

唯物論の再構築

階級闘争理論

2012-04-29 10:19:04 | 弁証法

 ヘーゲル弁証法は、観念論の基本に従い、理念が現実を規定する理屈である。つまり現実とは、理念が物象化しただけのものでしかない。また現実世界における矛盾対立の結末も、既に絶対理念の内部で確定していたものにすぎない。現実世界の出来事はどれも、理念が決めた線路の上を走っているだけなのである。したがってヘーゲル弁証法は、理念に対して忠実である一方で、現実を蔑んだ理屈だと言って良い。一方でヘーゲルにおいて理念とは、既に出来上がった体系を表現しており、人間世界では国家として現れるものである。結果としてヘーゲル弁証法とは、出来上がったシステムを肯定するだけで、現実にある困難を直視しない理屈となっている。それは現実の改変を目指すものではなく、現実の追認に終わる理屈にすぎない。
 ヘーゲル弁証法では、例えば封建的身分制も、社会における矛盾対立を調整するために生まれた秩序として積極的に容認されることとなる。フランス革命に賭けた期待をナポレオンの登場により裏切られた若きヘーゲルは、そのまま既存秩序の容認に埋没したからである。ところがヘーゲルの時代にあっても、フランス革命が示した封建的身分制への民衆の反逆は、このような現実肯定論を既に時代遅れにしていた。ヘーゲル弁証法は、理念に現実を決める役割を与えるのだが、肝心の理念がどのように自らを決めるのかは謎のままである。結果としてヘーゲル哲学はそのことを、次代の哲学の宿題として残した。端的に言うとそれは、古い理念が新しい理念に変わる理屈を、どのようにして弁証法に取り込むのかという宿題である。また具体的に言うとそれは、王制が共和制に変わる理屈を、どのようにして弁証法に取り込むのかという宿題である。それはヘーゲル弁証法が抱えた現状肯定論を、どのようにして革命理論に変えるのかという宿題だと言っても良いかもしれない。そして唯物論や実存主義は、ヘーゲル弁証法が抱えていた理念と現実の優位関係の逆転のうちに、その問題点と答えを見出すこととなる。

 ヘーゲル弁証法における絶対理念は、自己矛盾の解消を目指して自らの新バージョンを生み出す。しかし絶対理念の動きは、常に結果からの類推により説明される。またそれ以外に説明の道は無い。ただしそれは出来上がった古い理念の解釈であって、次代の新しい理念の構築に繋がることはできない。なぜなら観念論では、理念が現実世界を決めるのであって、その逆では無いからである。現実世界には理念を決める権限が無い以上、現実世界の分析は最初から未来予測に対して無駄なのである。このために、マルクスの言うように、哲学者は世界を解釈をするだけに留まることとなる。この問題に対処するためには、おのずと観念論からの離脱が必要となる。
 理念が現実世界を決める観念論と違い、唯物論では現実世界が理念を決める。したがって唯物弁証法とは、理念が自らを決めるのではなく、現実世界が理念を決めるものでなければならない。そこでの次の問題は、現実世界における矛盾の抽出であり、その矛盾を生むような対立し合う複数の実体の抽出となる。ヘーゲル弁証法は、既に確立している矛盾の解決システムから逆に矛盾を抽出した。しかしこの方法だと矛盾の抽出者は、確立したシステムの存在を前提にするため、常にそれを擁護する側に立たざるを得ない。明らかにこの方法では、矛盾の抽出者が古い理念が新しい理念に変わる理屈を見出すのに困難がある。しかも矛盾の抽出者は、現実世界の動きに比して、常にワンテンポ遅れた動作をするだけであり、それも現実世界を解釈するだけに終わってしまう。哲学はいかにして現実世界の動きに追いつけるのか? これに対するマルクスとエンゲルスの挑戦は、ヘーゲルと違い、現実世界に存在する困難の直視から始められた。そして彼らが見出した現実世界の困難とは、社会に蔓延する目を覆いたくなるような貧困であり、耳を疑うような不幸の歴史であった。

 現実世界は、自己矛盾の解消をいかなる法則に従って推し進めるのか? そもそも現実世界における矛盾とは何を指しているのか? マルクスとエンゲルスが着目したのは、旧時代の矛盾ではない。彼らが着目したのは、彼らの時代に現前していた社会的生産力の増大に伴う生活物資の余剰と、それに歩調を合わせて生まれる市民生活における生活物資の欠乏というあからさまな矛盾である。マルクスは、この矛盾が資本主義的所有関係にその起源を持つと直観的に理解した。とはいえ現実世界がこのような矛盾をいつの日か解消するはずだというのは、彼でなくともわかる話である。彼の挑戦の意義は、誰がいかにして、そして何故ゆえにこの矛盾を解決するのかを、現実世界が答えを出すより先に答えるところにある。なぜならそれが、ヘーゲルの残した宿題への解答になるはずだからである。そして彼らは、それについて曲りなりに答えを出した。それこそがマルクスとエンゲルスの階級闘争理論である。それは、矛盾を解決する主体は労働者階級であり、その解決方法は体制の漸進的修正ではなく、暴力革命であると宣言する理屈であった。
 ただし階級闘争理論は、この矛盾の解決を労働者階級が何故ゆえに目指すのかについてあまり説明していない。単純に貧困が革命を必要とするだけであり、それ以上の説明は無い。結果としてこの理論は、社会の全階層が一丸となってこの矛盾の解消を目指すという答えを放棄している。もともとマルクスとエンゲルスの時代は、革命以外に体制変革の道を持たない時代であり、社会全体が平和を希求する道など空論でしかなかった。彼らの時代において社会変革とは、常に支配者との血みどろの対決でしかあり得なかったのである。しかしそうであっても、平和的漸進を空論として放棄することは、マルクスらしからぬ人間の理性に対する悲観と受け取れるものである。そのような悲観は、人間そのものに対する悲観であり、人間に対する絶望とも言い得るためである。一方で或る種の歪んだ精神は、そのような人間に対する絶望を格好の餌にする。それは例えば「罪と罰」の主人公ラスコーリニコフのような恨みと怒りに裏打ちされた特殊なエリート意識に囚われた精神である。筆者にしても、身の程知らずに、このような考えに年中取り付かれている。そのような精神は、人間の理性に対する楽観と信頼を嘲笑うのを特に好む。そして実際にそのような絶望は、レーニンにおける人間的隣人愛に対する蔑視へと容易に連繋した。しかしすぐわかることだが、人間の理性に対する悲観とは、形を変えた不可知論にすぎない。それは人間の理性において、真理は永久に不可知であると諦めるだけの短絡で子供じみた絶望だからである。そして不可知論とは、観念論にすぎず、唯物論ではない。
 階級闘争理論は、マルクスとエンゲルスの時代のすぐ後に、天国への階段を人骨で作ろうとする恐怖の革命論へと堕落した。その一方で共産主義革命に対する恐怖は、旧支配層の権力放棄と政治権力からの離脱を促し、社会全体による平和への希求も現実味をもつようになった。つまり現代世界では、マルクスたちの時代と違い、社会体制の平和的漸進も空論では無い。またそこでの所有の分散化と労働者の資本家化は、労働者と資本家の対立図式を次第に影の薄いものへと変えた。その意味で階級闘争理論は、時代遅れのものとなったかに見える。しかし現代資本主義は、資本主義的所有関係による矛盾を消失させたわけではない。矛盾が存在する以上、その矛盾を生む異なる実体は、現代にあっても現実世界の中に対立し合う形で実在している。ただしそれは、労働者と資本家の階級対立ではなく、それよりはるかに単純な形で、持つ者と持たざる者の対立、つまり富者と貧者の対立として純化しているように今では見える。ともあれ矛盾が実在する限り、階級闘争理論も死滅することは無い。当然ながらそれに対する現代的理解も、いまだに必要とされているわけである。
(2012/04/29)


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