「模倣犯」2002年 製作日本
原作 宮部みゆき
監督 森田芳光
主演 中居正広
原作との関係を別にして言えば、この映画における絵は、全体を通じて完成している。一つ一つの絵は、ウォン・カーウァイの映画に負けず劣らず映画になっており、映像だけで充分に映画を堪能できる。役者も良かった。とくにピース(網川浩一)を演じた中居正広は、はまり役であった。と言うより、原作の正体不明なピースより、はるかに中居の演じたピースの方が良かった。ただし彼のセリフの棒読みは、演技というより実力のように見え、ちゃんとセリフを言えるのかと映画を観ながら不安にさせられた。もちろんこの不安は、テレビのバラエティ番組での中居を知っているためである。人格の欠落したピース役という演技として見るなら、その拙さはむしろ良かったのかもしれない。正直のところ、中居がこんなに格好いいと想像していなかったので、それだけでこの映画は衝撃的であった。この中居の存在感が無ければ、この映画に対する筆者の評価は、間違いなくもっと低いものとなっている。一方のピースに対抗する役どころでは、有馬義男役の山崎努も良かったが、それ以上に前畑滋子役の木村佳乃が目を引いた。また脇を固めた刑事の武上悦郎役の平泉成、有馬義男の孫娘の古川鞠子役の伊東美咲、ヒロミ(栗橋浩美)役の津田寛治、滋子の夫の前畑昭二役の寺脇康文などはどれも絵になっており、筆者は絵を見ながら感心ばかりしていた。簡単に言えば、この映画は名作である。唯一の誤算は、塚田真一役の田口淳之介である。演技以前に、田口の背丈が高すぎ、体型が大人に過ぎている。そのために田口の嗚咽する場面は、可哀想な少年の絵ではなく、情けない成人男性の絵になってしまった。しかし塚田真一は、テレビ出演をしなければならず、大人に見える役者として、森田は田口を選んだのかもしれない。結果的にシナリオ設定で塚田を冤罪被害者に変えた無理を、田口がかぶった形になっている。
筆者は、森田監督の映画を観た後に宮部みゆきの原作を読んでいる。映画がかなり面白かったのでインターネットを見ると、そこでの多くの映画の評価は予想外に低く、その評価も原作との比較でつけられるのが多かったからである。そこで筆者は、原作を読むことにした。一般的に長編小説の映画化は、映画の側に分が悪い。とくに良く出来た原作の場合、映画化により数々のエピソードが消失し、映画は単なるダイジェストに仕上がりがちである。そこで長編ドラマの映画化において映画制作者は、原作のテーマだけに特化して原作を組み立て直すか、原作への異論を前面に立てて原作を改変するか、あるいは独自の解釈においてそもそも原作と異なる映画を作るかの選択を迫られる。ここでの森田の選択は、異論をもとに原作を改変する形の映画化であった。ただし映画化にあたり森田には、選択の余地はほとんど無い。そもそもこの原作は、社会に訴えるほどのテーマを持たず、新解釈を世にアピールするほど世俗化した物語でも無かったからである。ただし筆者は、森田の異論を当然のものと受け取っている。なるほど原作の第一部はなかなか面白かった。しかし第二部以後は、あまり頂けない。とくに情念の偶然を口実にして、勝手に因果を構築するこの原作の語り口は、筆者にとってかなりウンザリするものだったからである。ただし物語のクライマックスでの犯人とルポライターの対決描写は、圧倒的に原作が勝っている。その限りで森田の原作への挑戦は、勝ち目の無い戦いだったのかもしれない。ただし宮部は森田の異論に敏感に反応したようであり、そのことをもって森田も自らの挑戦に満足したかもしれない。
この映画の原作では、登場人物の行動の多くが合理に欠けている。その理由は、彼らを冤罪の加害者として物語の最後にあげつらうためである。例えば事件の被害者家族は、被害者家族というだけで加害者家族に暴力をふるい、隷属を強いる。そのような行為は、加害者が有罪であろうが無実であろうが許されるものでない。しかしもし原作者の目的が、誤解の氷解を通じて読者にカタルシスを与えることにあるなら、むしろ冤罪加害者たちは理不尽であった方が良いとも考えられる。この目的が理想とする物語のラストは、無実の証明という印籠を前に、冤罪加害者たちが冤罪被害者に屈服する姿である。つまり登場人物たちの合理に欠けた全ての行動は、最後に明らかとなる冤罪話を盛り上げるための仕込みにすぎない。冤罪に限らず、このように周囲の誤解を物語の最初に仕込む手法は、かつて里中満智子や大島弓子らが作った少女漫画の王道であった。近年では勃興期の韓流ドラマの多くに、これと同じ手法が使われた。この手法で作られた物語では、話の最初に不幸な経緯で主人公が誤解を受け、物語の最後に主人公に対する誤解は解ける。しかし主人公は、誤解をもたらした悪者の撃退や、誤解を反省し涙する家族や仲間たちの姿を見ることも無い。もっぱらその物語は、主人公の薄幸な死で終わったからである。宮部みゆきの原作は、簡単に言えば、このような少女漫画の王道の変種であり、大掛かりな復刻版である。
先に述べたように、この手法が引き起こす一般的な弊害は、登場人物たちの合理に欠けた行動である。ところが、得られるカタルシスを大きくするために作り出された不合理は、登場人物たちを軒並み悪人に変えてしまう。不用意な誤解をする善人は、善人の資格を失うだけに留まらない。不用意な誤解とは、悪事に等しいからである。もちろん実際には、善人も誤解しないわけではない。また悪人だけで物語を構成するわけにもいかない。このために、誤解の必然性をどれだけ上手に説明できるのかが、物語の質を大きく左右することとなる。低級な物語での登場人物の多くは、不用意な誤解を平気で行なう悪人であると同時に善人であるという折衷形に終わる。そしてそれ以外の悪人に至っては、意図的に誤解を振り撒く犯罪者、もしくは理由なしに誤解を行なう人格異常者として現れる。おそらく読者からすれば、そのいずれの形の悪も、読者の理解を超えた人格として現れる。と言うのも、人間にとって合理だけが理解可能な事柄だからである。非合理な人格は、物語の因果を作者の都合に合わせるのに便利である。しかし合理に欠けた理不尽の傷は、それ以上に物語を劣化させ、場合により読者の理性をも破壊する。それは因果にカオスを持ち込み、原因も無しに結果が到来するオカルトへと物語を変えるからである。宮部の原作には、この欠陥が随所に見られる。そのために各所で語られるもっともらしい説教も、全て胡散臭い。と言うのも、作者に都合良くでっち上げた物語が、それらの説教の全てを基礎付けているからである。
この映画は、原作と話の大筋がほぼ同じである。しかし事象の規定要因の捉え方において、両者は全く異なる。原作者の宮部みゆきは、基本的に事象の原因を意識の側に求め、映画の森田芳光はそれを環境の側に求める。例え宮部自らがそのような自己認識をしていなくても、森田は原作をそのように解釈している。実際のところ原作を読むと、不幸の因果の連鎖の始点には常に悪しき意志が存在し、それが全ての不幸を世界にばら撒いている。当然ながら、問題解決の可能性を、宮部なら意識の側に求めることになるし、森田なら現実世界の側に求めることとなる。問題が意識の中にあるのなら、そのような意識の除去が問題の解決となる。しかし問題が現実世界の中にあるのなら、そのような意識の除去は問題の解決にならない。森田はこの対立軸を念頭に、敢えて映画制作において歪な映像展開と世俗的な結末を用意した。明らかに森田はこの映画の観客に、原作を支持する読者たち、そしてその究極に原作者の宮部みゆきを想定している。この映画をもって森田は、自らの対極にいる人たちにメッセージを送ったわけである。逆に原作に心酔した観客を想定しなければ、この映画における森田の多くの作為は理解不能でさえある。だからこそこの映画のラストは、呆れるほどに陳腐なのであろう。もちろんそれは、森田が可能な限りに自らのメッセージを簡明にして伝えるためである。このようなことからこの映画は、筋書きのほとんどが原作とほぼ同じであるのに関わらず、その表現する内容が全く別物という特殊な映画となった。
原作は、個々の登場人物について一人一人を情緒表現豊かにを描き、ひたすらウェットに展開する。ただし原作の登場人物の行動パターンを支配しているのは、日常生活上の必要および行動上の合理性ではなく、もっぱらその人物固有の習癖および偶像嗜好である。またそれ無しにこの原作は、物語として成立できない。しかし逆にその極度に属人的な因果は、原作においてカズ(高井和明)の行動を奇怪にした。その不自然は、物語の中心にカズの冤罪を盛り込むこと、そしてカズに善のシンボル的役割を与えるといった、原作者が物語に課した義務に起因する。原作は、もっぱら登場人物固有の習癖を繰り返し描き、わずかな正当性を拡大解釈することで、ごり押し的に各所の無理の正当化を努めている。しかしそのような無理は、カズに限らず、ヒロミとその家族、そして津田一家殺害犯の娘の行動パターンの奇異さを打ち消せるものではない。原作によるこのような非合理の押しつけは、読者の理性に対する精神的レイプと同じである。読者は理由も判らずに、原作者の理不尽な説明を鵜呑みにするしかない。
これに対して森田は、原作における過剰な内面表現をことごとく切り捨てている。原作に比べると映画は、もっぱら事件の顛末を追うことだけに執着し、登場人物の内面への切込みをできるだけ避けている。登場人物の扱い方も、いちいち名前をテロップで出すなど、まるで山本薩夫の政治映画を見ているかのようなドライな展開である。ところが映画でのヒロミの行動は、原作ほどに不可解ではない。同じ事は、カズの行動に対しても成立している。ただしヒロミとカズの不自然な関係には原作と同様の不可解さは残っており、その消化不良の解決は映画の終盤にまで持ち越される。もちろんこの話の運び方は、原作ゆずりの方法である。しかしその解決のさせ方は、原作以上に見事である。というのも映画は、内面表現への執着から自らを解放しており、その解釈を観客に委ねたからである。そして登場人物の習癖や偶像嗜好においてではなく、現実的背景において彼らの行動を説明したからである。
映画の進行に伴ない、原作との間の差異は、人物の内面表現への傾向性を超え、さらに拡がりを見せる。森田は意図的に無意味なコマーシャルシーンを、映画の中に次々に投入し始める。それどころか登場させる脇役に感情移入の中断を煽るお笑い芸人を使う。この表現手法は、読者の感情移入を煽動する原作とは逆方向の作り方である、そもそも原作における無意味なコマーシャルシーンは、宮部に固有なマスコミ批判の材料として登場した。なぜなら番組本編を中断するコマーシャルは、原作においてマスメディアの正体を表現する一つの象徴だったからである。原作者宮部は、マスメディアが見せる真摯な取り組みが実は単なる興味本位であること、被害者への同情が実は空虚な偽善であること、結局マスコミが世界に振り撒くのは、虚偽と冤罪だということを、コマーシャルの無意味さを通じて、読者に嗅ぎ取らせようとしている。一見すると、映画の中に頻繁に無意味なコマーシャルを登場させた森田の歪な映像展開は、原作に忠実な表現である。ところがこの点についての原作の記述は、数行の短い評価文にすぎない。しかも原作とは違い、映画では匿名出演者をかばうために、現場の判断で意図的にコマーシャルを使って報道を中断している。つまり原作とは逆に、森田はコマーシャルの効用として、判断停止を通じて出演者と視聴者に理性への復帰を促す役割を強調している。そしてそのような無意味なコマーシャル表現を繰り返すことをもって、森田は原作との対立を過激に示す。それはまるで、我こそがマスメディアの守護神だと言わんばかりである。明らかにそれは、同じメディアの住人である宮部に対する森田の皮肉である。
これと同じことは、物語の中での、冤罪を訴えるテレビの匿名報道番組の扱い方にも現われている。原作での匿名報道番組の扱いは、虚偽の拡大再生産を行なう空虚な存在である。たまたま視聴者が冤罪の虚偽を確認することで、匿名報道番組は当初の目的とは逆の有罪をもたらした。ここでの匿名報道番組は、偶然において逆向きに有意であっただけで、さもなければ真偽判断に全くの混乱をもたらしただけである。このような原作に対し、映画における匿名報道番組は、犯人の力を借りる形で実際に冤罪を晴らしてしまう。そのことをもって森田は、マスメディアに真理を明らかにする力があるのだと訴えている。言い方を変えるなら、原作は常に真理に対する悲観的な不可知論を抱えているのに対し、映画は楽観的な可知論を訴えている。ここにも、同じメディアの住人としての宮部の不明瞭な態度に対する森田の皮肉を見出すことができる。ここでの森田の皮肉は、表現を生活の糧にする者が表現に対して恐怖する、または表現が表現自らを軽蔑するという矛盾した態度に対して向けられている。
実際には宮部のマスコミ不信は、どの程度本心なのか不明である。物語の結末を支えたのはマスコミであり、マスコミなしに事件は解決しなかったからである。このために犯人との最後の対決の段になって、いきなりマスコミの良心が原作の中で語られる。なるほど真理認識に対する楽観は陳腐であり、足元の怪しさを顧みない危険な思想だとの指摘は、有効なのかもしれない。松本サリン事件が引き起こした冤罪事件は、特にメディア関係者において大きな棘として残っている。しかし不可知論の有効性は、もっぱら何もしない無策へと帰結するのが常である。逆に不可知論は、無策の持つ危険性について、何も教えてくれない。突如として人情ドラマに終わるこの映画の結末は、原作が抱える不可知論に対する森田の一つの回答であり、原作者に向けた提言であり、もしくは原作者にとって有り難迷惑な助言かもしれない。この映画の結末を観て、往年の映画ファンがおそらく思い浮かべるのは、黒澤明の「羅生門」である。真相が藪の中にあったとしても、その暗闇に足を踏み出すための手がかりは、現実に息づく人間との関わりとして存在する。森田は黒澤映画のパクリをもって、自らのメッセージの鮮明化に努める。ただしこの森田の低水準な妥協は、「羅生門」のパクリにも到達せず、映画の結末を陳腐化させている。贅沢を言えば、もう一捻り欲しかった。
(2013/09/15)
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