「死亡遊戯」1978年 製作香港
監督 ロバート・クローズ
主演 ブルース・リー(李小龍)
「燃えよドラゴン」の一作によってブルース・リーは、それまでの映画世界におけるアクションの在り方を根底から変えた。しかもその衝撃はアクション映画の中だけに留まるものではない。それはテレビを含めた映画界全体、さらに漫画やアニメーション、画像ゲームなどの映像世界全体にまで及んだ。またそれどころかジャンルを超えて、音楽やダンスやファッション、もちろん武道を中心にしたスポーツなどのありとあらゆる文化に、ブルース・リーは巨大な影響をもたらした。同じ銀幕スターとして比べた場合、「エデンの東」のジェームズ・ディーンや「荒野の用心棒」のクリント・イーストウッドも、ブルース・リーと同じような影響力を持ったとみなすのも可能かもしれない。しかしブルース・リーとは違い、所詮彼らは映画が作り上げたスターでしかない。というのもブルース・リーは、映画が作り上げたスターではないからである。ブルース・リーの特殊性は、逆に映画の方がブルース・リーという生まれついてのスターによって作り上げられたことにある。彼の凄さは、役者が映画を食うという前代未聞さにある。彼のような映画スターは過去にいなかったし、未来に渡っても現れることが無いかもしれない。そのブルース・リーの遺作が、映画「死亡遊戯」である。ただしこの映画は、恐ろしいほどの超C級映画である。しかしこの映画は、超C級映画であるからこそ、逆にブルース・リーの凄さが際立つという稀有の出来となっている。
この映画は、ブルース・リーの死後に、彼の未完成映画を代役を使って無理やり作りあげられた作品である。そしてこの映画の前半でのブルース・リーの代役が登場して動き回るシーンは、とんでもなくつまらない。そこだけを言えば、この映画よりもそこいらの大学の映画研究会が作る無名の自主映画の方がよほど面白い。この映画の出来栄えは、映画が斜陽産業に落ち込んだ時代に、延命のために地方映画館が上映した洋物ポルノ映画の水準である。両者の間には、裸が出るか出ないかの違いしか無い。ただしこの映画は、観客に観たことを後悔させながら、いよいよ映画のクライマックスの段になってブルース・リーを登場させる。そこで奇跡が始まる。いきなり全ての歯車が噛み合い始め、映像が緊張感で締まり始める。ピントはずれの締まりの無かった映像がシャープになり、躍動感がみなぎり始めるのだ。もちろんブルース・リーが登場したとは言え、相変わらずこの映画は超C級映画である。ところが逆にこの映画の超C級さが、ブルース・リーの魔力を浮き彫りにする。ブルース・リーの存在感が、ストーリーや映像という小手先の技術を凌駕するからである。ブルース・リーが登場した時点で、既にストーリーはどうでも良いのである。この映画の最大の価値は、ブルース・リーが出るのと出ないのとで、映画の絵作りの生死が異常なまでに逆転するところにある。
ブルース・リーの主演第一作は、「ドラゴン危機一発」(1971年)である。しかしこの映画での彼の最初の出演予定は、脇役の一人でしかなかった。ところがその度迫力に目をつけた監督が主役を入れ替えてしまったそうである。なるほど映画を観ても、ブルース・リーと拮抗しそうな主役風の二枚目善人が最初に登場している。ただしその二枚目は、話のキーマンのはずなのに、序盤であっさり殺されている。もしこの監督の英断が無ければ、ブルース・リーはスターにならなかったのかもしれない。とはいえその話も、監督に先見の明があったというよりも、ブルース・リーの迫力が監督の考えを変えただけと推測される。ブルース・リーは、映画に登場したなら、間違いなく主役を食ってしまうからである。したがって元の主役との迫力比較で言えば、ブルース・リーを出演させる以上、彼を主役にするのは当然の結末である。それを避けるとすれば、最初から彼を出演から外し、明らかに魅力の劣る元の主役を使うという寂しい選択だけが残る。ブルース・リーにとってこのような幸運が一度だけ起きたのなら、それは偶然だったのかもしれない。しかし二度続くなら、既にそれは必然である。そして実際に類似した主役交代は、「燃えよドラゴン」(1973年)で繰り返されることとなった。
香港功夫映画が世界市場に認知されるようになったのは、ブルース・リーのおかげである。しかし功夫映画の出来は、「燃えよドラゴン」の後に日本で公開されたブルース・リャン/倉田保昭の「帰ってきたドラゴン」(1973年)やチェン・シンの「危うしタイガー」(1973年)の方が空手バトルも特化しており、その見せ方もずっと進化して見応えがあった。その意味でブルース・リーは、「燃えよドラゴン」公開時には既に過去の人だったのかもしれない。また香港での功夫映画の最初のヒット作は、ジミー・ウォングの「吼えろ!ドラゴン 起て!ジャガー」(1970年)であり、香港の黒澤明とも言われた胡金銓の台湾映画「残酷ドラゴン!血闘竜門の宿」(1967年、原題:龍門客桟)にその起源は遡る。したがってブルース・リーの登場は、香港台湾を中心にした東南アジアでは、一連の映画制作の流れの中の一つの頂点にすぎない。ブルース・リーの衝撃は、その流れから遊離した欧米および日本における一種のカルチャーショックだったわけである。なおジミー・ウォングの「吼えろ!ドラゴン 起て!ジャガー」は、後に続いた香港功夫映画と比べれば、不出来で安っぽいC級映画である。彼の出演作では「戦国水滸伝 嵐を呼ぶ必殺剣」(1971年)が一番面白かった。また香港功夫映画で国際的スターとなって日本に凱旋した倉田保昭は、字幕や吹き替えから解放された途端、日本語演技での大根役者ぶりを披露し、日本国内の功夫映画ファンの失笑を買った。
ブルース・リー以後の欧米のアクション映画では、バトルSF映画「マトリックス」のような白人および黒人の功夫アクションが主流化することとなった。しかし80年代前半までの欧米功夫アクションは、香港功夫映画に比べるとチャック・ノリスのような大柄ズンドウの肉体が繰り出す功夫アクションにおいて、明らかに切れ味に欠けていた。それらは旧来の欧米アクション映画における単なる殴り合いだったのである。この切れ味の悪さは、ジャン・クロード・ヴァン・ダムやスティーヴン・セガールが登場するまで続き、CGを含めた撮影技術が発達することでようやく見栄えが良くなった。ただしもともと白人同士のバトルで功夫アクションが成立するのは、そのこと自体が不自然である。したがって欧米映画の功夫アクションについて、いまだに筆者は違和感を感じている。同じ事は外国映画のチャンバラについても当てはまり、「キル・ビル」での白人のチャンバラにも違和感が拭えなかった。「キル・ビル」のチャンバラは、「スター・ウォーズ」のチャンバラと同様に、両刃刀による単なる叩き合いだったからである。殺陣は日本刀の存在を前提にした伝統芸能であり、もともと外国映画のチャンバラには使えない。ただし最近の外国映画のチャンバラは、かつての棒による殴り合いに比べると、その見せ方をかなり進歩させている。しかしその進歩は、たけしの「座頭市」のように殺陣から派生したものではなく、剣舞を使った京劇、すなわち香港映画に起源があるように見える。
(2013/02/24)
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