ここでは伝統的な哲学的宇宙観と現状の理論物理学や大脳生理学などの科学的宇宙観を照らし合わせる形で、形式理論一般を整理する。
カントより前の世界観では、例えばスピノザのように、宇宙は物質と叡智の2次元である。物質と叡智は、物質世界と意識世界の言い換えになっているが、単純に可視世界と不可視世界を指す。また存在者の属性はこの2次元で構成されるので、存在者はその片側だけで存在することは無い。つまり存在者は常に、可視的な形状を持つとともに、不可視な理念を併せ持った存在である。
カントに到って宇宙の形式は、物質と叡智ではなく、空間と時間の2次元に変わる。この転換は、物質から意識を追放し、意識から物質を追放した。物質は空間的属性をもつ一方で時間的属性を失い、意識は時間的属性をもつ一方で空間的属性を失った。言い方を変えると、物質は時間を失うことで意識との通路を失い、意識は空間を失うことで物質との通路を失ったのである。これを受けてショーペンハウアーは、物体形状の変様を表象世界の出来事に扱い、物体理念を意志世界に求めるようになる。しかし物質から時間を取り去れば、物理学は意識上でのみ成立する学問になってしまう。
この奇妙な事実が、哲学と科学の間に断絶を持ち込んだ。そして物理学は哲学から離れ独自に、意識から独立した4次元世界を構築し、物体を研究するようになった。もちろん物理学の4次元は、縦横高さの空間次元と時間次元を合わせた4次元である。また生理学も哲学から離れ独自に、意識と連繋する脳や神経、さらにシナプスやホルモンなどの身体部位や神経物質を通じて、意識を研究するようになった。これらの科学は、カントが行った質料と形式の峻別を遵守している。それにもかかわらずこれらの科学の世界観は、よほどカントより前の物質と叡智の2次元世界観に酷似している。理由は簡単である。物質も意識も、ともに4次元世界の存在者のためである。
もともとカントにおける空間と時間の2次元は、物質と叡智の2次元を継承している。ところが物質と叡智のそれぞれの世界は単純に、可視世界と不可視世界にすぎない。しかし存在者の可視か不可視かは、その存在者の認識形式と実は無関係である。意識は不可視なので、その空間的延長も見えないというだけの話である。つまり物質も時間形式の枠内にあり、意識も空間形式の枠内にあるのだ。
誰しもがカントの認識形式理論を見て、その着眼点に驚嘆する。しかしカントは、その着眼点を活かすのに失敗している。物質と叡智の2次元を継承して認識形式を考えたのなら、カントは空間と時間ではなく、別の2次元形式を設定すべきだからである。カントが設定すべきだったのは、時空間と存在の2次元形式、さらに言えば時空間と実在性の2次元形式である。カントの認識形式理論の問題は、存在者を規定するための時空間と異なるもう一つの形式を見失ったことにある。
カントの見失った5次元目の形式は、ヴィトゲンシュタインが拾い上げている。ただしヴィトゲンシュタインは5次元目の形式に対し、存在とか実在性というあいまい表現を使わず、また質量とかエネルギーという物理学的表現も使わず、彼流の単直な表現で「色」と言っている。確かに色彩は、その光学的波長の大きさに形式をもつ。しかしヴィトゲンシュタインの言う色は、色彩ではない。とはいえ彼が敢えて色と規定したのには、理由がある。基本的に彼の認識論は、視覚映像を想定しているためである。例えば液晶画面を構成するのは、空間的拡がりと時間的に生起する色である。液晶画面は、赤緑青の3色を1セットにした発光体を画面上に隙間無く配列し、その一つ一つに異なる色を発行させて全体の画像を形成する。その仕組みは、光学的波長の大きさで示される色彩の形式を前提している。つまり色彩の形式が時空間に加わることで、液晶画面の視覚映像が成立している。それは現実世界の4次元映像に対しても成立するとヴィトゲンシュタインは考えたはずである。その結果が彼に5次元目の形式を、むしろわかりやすく色と表現させた理由になる。とはいえ色が具体的に何を指しているのかについて、ヴィトゲンシュタインは言及していない。筆者の推測では、ヴィトゲンシュタインの言う「色」という形式は、時空の基体となっているライプニッツ流単子の質量的拡がりを指す。
素粒子論では、時空の1点は無ではなく、空である。そこにエネルギーが蓄積されれば、その1点は質量をもつ。そのような時空の座標点は、縦横高さの空間次元と時間次元を合わせた4次元で拡がっている。その時空座標は、発光体を隙間無く配列した液晶画面になぞらえても良い。そして質量は、時空の1点がもつ5次元目の拡がりの値である。時空の1点は、液晶画面上の発光体のようなものなのである。
(2011/01/20)