久しぶりに家庭集会(1)が教会で(2)開かれた。コロナ禍をはさんで5年ぶりだという。当教会では今年は各組ごとに月1回くらいの頻度で持たれているようだ。月1回といっても2000人前後の信徒数で9組に分かれているのでなかなか順番が回ってこないようだ。私どもの組は6つの班から構成されていて、今日は各班長さんを含めて20名ほどの参加者があった。
家庭集会といってもカトリックとプロテスタントではその形態が大分違うようだし、カトリック教会の家庭集会も教区ごとの違いは大きいらしい。家庭集会とはこういうものだと一概には言い切れないようだ。
家庭集会は何のためにするのか。そこで何をするのか。カトリック教会の場合はどうなのか。一般的な姿は解らないので今日の様子を少し記録にとどめておきたい。
今日は、まず主の祈りの後、参加者の一人あたり2分間限定の自己紹介、各班の近況報告があった。続いて神父様の講話があり、その後「分かち合い」(質疑応答)(3)があった。最後にアヴェマリアの祈りと栄唱でお開きだった。2時間ほどの集まりだった。
久しぶりの家庭集会だったのでわたしには興味深かった。まず参加者が女性中心で、男性は神父様を含めて3名。事実上婦人会の例会みたいだった(4)。自己紹介は皆さん個性豊かにもかかわらず2分間を厳守しておられた。神父様も自己紹介のなかで、召命や神学校時代の経験、叙階の話しをかなり踏み込んで話された。名前は健次だが3人兄弟の長男だという話しなど皆さんを和ませておられた。神父様の人となりが皆さんによく伝わったようだった。2分間の制限は超えていたかな。
家庭集会の中心である、神父様の講話ではヨハネ21:15~19の「イエスとペテロ」の対話の箇所が取り上げられた。神父様は「愛」には3つの意味があると説明された。アガペー(神愛)・フィリア(友愛)・エロス(性愛)だ(5)。イエスがペテロに「あなたはわたしを愛しているか」と3回問うたとき、1回目と2回目はアガペーの愛だが、3回目はフィリアの意味で「愛しているか」と問うたのだという(17節)。神父様は、日本語の訳語としての「愛」の問題以上に、フィリアとしての愛を宣べ伝えることが福音宣教につながると話された。聖書に出てくる「愛」はアガペーの意味で使われる場合がほとんどだが、フィリアの意味での使い方もあると説明された。ここから本題かと思ったら司会者から時間厳守と言われ、続きは次回にということになった。
続いて分かち合いの時間になったが、実際には神父様への質問と神父様からのお答えの時間になった。いろいろ質問が出たが、結局は二つの問題に話題は絞られた。一つは告解、二つ目は終油(葬儀)の話しだった。高齢者の集まりだから当然の話題と言えば当然だろう。告解では、告解での大罪・小罪とはなにかとか、告解の仕方が変わってきているがなぜか、などの質問があり、神父様はきちんと答えておられた(6)。終油の秘跡や葬儀の在り方(家族葬が増えている)に関する質問も多く、みなさん切実な問題なのであろう(7)。
ということで家庭集会は実りの多いものであった。教会は共同体だと口では言ってもごミサで顔を合わすだけでなかなか交流する機会はない。家庭集会は良い機会になった。
【水上健次師】
注
1 実は家庭集会とはなにかははっきりしない。わたしは霊性の向上と共同体としての教会の強化のために各家庭が寄り集まって一緒にお祈りする(分かち合いをする、証しする)集まりだと理解している。しばしば、家庭集会は、聖書勉強会とは違います、家庭教会とは違います、という点が強調される。聖書研究は全く別の集まりがあるし、家庭教会は家庭を信仰と希望と愛の共同体にする集まりとされ(「カトリック教会のカテキズム要約」第3編第2章第4の掟 = あなたの父母を敬え の456項)、家庭集会とは別扱いされる。
文書上も家庭集会は『カトペディア 2004』や「日本カトリック教会情報ハンドブック2024」にも「カトリック教会の諸宗教対話の手引き」(2021)にも説明されていない。司教団文書を少し調べたところ、「家庭を支え福音を生きる教会共同体の実現をめざして」(1994)に「第二回福音宣教推進全国会議」で家庭集会が「分かち合い」の場として想定されているように書かれているが、はっきりした規定はなされていない。
歴史的にも、日本の家庭集会がいつ頃生まれ、現在のような形でいつ頃定着したのかはよくわからない。福音派(リベラル化+土着化)vs.宣教派(信徒数の増大を目指す)という軸で近代日本のカトリック教会の歴史をきれいに分析された三好千春氏の好著『時の階段を下りながらー近現代日本カトリック教会史序説』(2021 オリエンス宗教研究所)にも信徒養成の重要性を訴えながらも家庭集会についての詳しい説明はない。
家庭集会という集まりは、キリスト教以外の宗教・宗派でも使われるようだし、キリスト教でもカトリックとプロテスタントでは内容や強調点が異なっているようだ。プロテスタント教会の各教派でも違うのかもしれない(証しの強調か、聖書研究の強調か、分かち合いの強調か、など)。現在は様々な試みがなされている段階とみておいた方が良さそうだ。
2 家庭集会は、当然、信徒の家庭に何家族かが集まってお祈りするものだった。わたしが経験してきたのはそういうものだった。ところが時代の流れの中で自宅の開放を良しとしない考え方が広まり、教会の集会室に集まるという形が定着しつつあるようだ。この方がより多くの方が集まれるという利点があるのかもしれない。費用の点でもお茶菓子代程度で済むのも利点かもしれない。
神父様が指導司祭として家庭集会に参加するかどうかもこれといった決まりはなさそうだ。信徒は自分たちの司祭を親しく知る機会だし、司祭からみれば信徒養成の良い機会なので、教会で開かれる家庭集会には司祭が参加するという形は定着していくように思える。
3 この「分かち合い」という言葉も最近は良く耳にするようになった。みみざわりは良いがわたしにはあまりなじみのない言葉だった。いつ頃から使われるようになったのかは解らない。教会用語としてはそれほど古くは無いのではないか。日本司教団は「家庭を支え福音を生きる教会共同体の実現をめざして」(1994)のなかで、次のように述べていた。
「ことばによる分かち合いにとどまらず、物や時間やお金などを含めて自分自身の痛 みをも伴う生き方を分かち合う、このような生き方が福音宣教の重要な柱として定着し ていくことが大切であり、さらに『福音宣教』と『分かち合い』との関係をより明確に していくことが求められています」。
つまり、教会が共同体として福音宣教していく手立てとして分かち合いを考えていたようだ。
これは現在の用語の使い方とは少し異なる捉え方だ。現在では分かち合いとは「傾聴」(聴くこと)という意味で使われる。宣教や聖書研究という意味ではない。むしろ霊性の向上、人格的な出会いを強調する言葉となっている。たとえば、「分かち合いのルール」をつくっている教会もあるようだ。聴いたところによるとある教会では次のようなルールが作られているという。
①人の意見を否定しない ②人に知られて困る内容の話しはしない ③その場で知った話しは外に漏らさない ④意見が合わないときは反論しないでパスする
要は、人の話に耳を傾ける、傾聴に徹する、が分かち合いの意味で、議論したり、説得したりする場ではないことが強調される。分かち合いは英語のsharing の訳語だというが、sharing is caring と言われるようにshareにはそういう感情の共有や共感という意味が含まれているのかもしれない。この言葉は現在は完全に定着した教会用語と言って良いだろう。
4 わたしが以前他の小教区にいた頃の家庭集会はほとんどご夫婦そろっての出席が多かった。今回は女性が多かったのは当教会でも高齢化が進んでいるからであろう。
5 4種類あり、4番目はストルゲー(家族愛)とする説もあるようだ。日本語の「愛」という言葉ではこの3種類(4種類)のギリシャ語の使い分けを訳し分けることが出来ないのだという。
6 年に一度は告解しなければならないが、きちんと告解をする信徒は減ってきているという。イースター前に「共同回心式」があるのでそれで済ます人も多いという。告解は「赦しの秘跡」なので、「神の前に心を開いて」「良心の糾明」をすることが大事なのだという。ちなみに、心の糾明は告解の「7つの要素」の1番目で、①神に対して②隣人に対して③自分自身に対して、することになっている(7つの要素とは、心の糾明・悔い改め・告白・司祭の勧め・悔い改めの祈り・ゆるしのことば・生活の改善 のこと 『祈りの手帳』三訂版 2022 84頁)
7 所属教会でなければ葬儀は挙げられないわけではない、という説明に皆さんホッとしておられたようだ。日本の習俗への適応を勧める視点が強調される『カトリック教会の諸宗教対話の手引き 実践Q&A』(日本カトリック司教協議会諸宗教部門編 2021)ですら、日本の「祖先崇拝」観念・行事と「靖国神社」問題に関しては慎重に立場の表明を控えている。以前は終油の秘跡も「天国泥棒」などと揶揄されたりしたが、祖先崇拝や葬儀に関する対応は小教区の司祭の判断に個別かつ具体的事例に応じて任されているのであろう。