2月5日 (火曜日) 晴れ
NHKの大河ドラマ”八重の桜”に関係する本と言う事で
津村節子さんの”流星雨”を読み終えた。
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戊辰戦争での会津城攻防戦における敗戦・・、城内の死者累々・・井戸に投げ込んでも一杯。
その埋葬を許されない事など生々しい・・・
特に会津藩は目の敵にされていた歴史背景がある。
~~~~~~~~~~~
小説「流星雨」は著者津村節子さんが、
実在した会津藩町奉行日向左衛門の次女ユキの生涯を、
子息がまとめた回想録「萬年青」(おもと)を下に書いたということです。
戊辰戦争で受けた会津藩の憤りや恨みが籠められた類のものを主にしただけでなく、
家族の死や戦争の惨状を、女性特有の生々しさで綴られていると
あとがきに書いている。
作中、会津城の開城後にようやく戦死した藩士の埋葬が許可され、
主人公が兄を掘り起こす場面もある。
会津をあとに転地させられて行った先が斗南藩と言う場所(下北)
斗南(となみ)での厳しい環境の中でも必死に生きようとする姿に涙する。
でも彼女が選択した進むべき道には、
今までの会津藩を主題にした物語にはなかった感動がありました。
★この本、やっぱりノンフィクションと思って読んでいいと思う。
タイトルの流星雨とは維新後、全国へバラバラに散ってしまった
会津藩の人達を表現した言葉です。
2011年双子座流星雨
~~~~
どの時代でも、戦争に負けると想像を絶する残酷な扱いと暮らしが待っているんだ。
特に子供・女子・老人には。・・・・
**********************
現役時代・・・
工場の有った喜多方市には出張で良く出かけた。
宿泊で会津若松市や近くの宿に宿泊、近くの町や当然若松城にも良く出かけた。
桜の綺麗なところでもある。
攻防戦の観光案内も何回か聞いていたが、
負けた後、人々のその後の動きは、殆んど語られていないので、
今回の本は新鮮な驚きであった。
又、下北から来ていた仕事仲間の家にも、旅にでかけているので
懐かしい地名が
大間・横浜・野辺地・仏ケ浦に近い佐井港などが出てくる。
===
作中に斗南藩と有るが
◆斗南藩=戊辰戦争後、会津藩が南部藩領の一部に国替えされて成立。
現在の下北半島や青森県三戸町、同県五戸町などが所領にあたる。
1870年春の移住開始から71年7月の廃藩置県まで、1年余り続いた。
藩名は、漢詩からとったとの説がある。
史跡のHPは
斗南藩 史跡
新聞記事コラムにも
~~~~~
会津ゆかり斗南藩に脚光
戊辰戦争に敗れた会津藩士の一部が青森県の下北半島などで興した斗南藩が、
静かなブームを呼んでいる。
NHKの大河ドラマ「八重の桜」の舞台に会津が登場し、
その歴史に改めて注目が集まっているためだ。
同県内の資料館には放送を機に関心を持った県外客が訪れるようになり、
斗南藩の史跡をPRする自治体も出始めた。
「明るい大地を目指してくれ――」。
大間町大間の資料館「向陽処(こうようじょ)」には、
最後の会津藩主・松平容保(かたもり)が藩士に向けて直筆した掛け軸(向陽処)など、
会津・斗南両藩ゆかりの貴重な品々が展示されている。
自宅兼生花店の2階を資料館として開放している
木村重忠さん(73)は、斗南藩士の末裔(まつえい)だ。
三戸町には、戊辰戦争で命を落とした白虎隊の悲劇を伝えるため
斗南藩士が建てた供養碑や、この地で没した会津藩校「日新館」の元館長の墓が残っている。
官軍である新政府軍に挑んで敗れた斗南藩士たちは、長く日陰の存在として扱われてきた。
だが、廃藩置県後も現在の三沢市にとどまり、日本初の西洋式牧場を作って
開拓に力をそそいだ広沢安任など、地域の発展に寄与した人物は少なくない。
市先人記念館の吉田幸弘学芸員は、これまで斗南の歴史は県民にもなかなか
知られてこなかった。
現代の青森に通じる先人の歩みに、
ぜひ関心を持ってほしい」と話している。
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NHKの大河ドラマ”八重の桜”に関係する本と言う事で
津村節子さんの”流星雨”を読み終えた。
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戊辰戦争での会津城攻防戦における敗戦・・、城内の死者累々・・井戸に投げ込んでも一杯。
その埋葬を許されない事など生々しい・・・
特に会津藩は目の敵にされていた歴史背景がある。
~~~~~~~~~~~
小説「流星雨」は著者津村節子さんが、
実在した会津藩町奉行日向左衛門の次女ユキの生涯を、
子息がまとめた回想録「萬年青」(おもと)を下に書いたということです。
戊辰戦争で受けた会津藩の憤りや恨みが籠められた類のものを主にしただけでなく、
家族の死や戦争の惨状を、女性特有の生々しさで綴られていると
あとがきに書いている。
作中、会津城の開城後にようやく戦死した藩士の埋葬が許可され、
主人公が兄を掘り起こす場面もある。
会津をあとに転地させられて行った先が斗南藩と言う場所(下北)
斗南(となみ)での厳しい環境の中でも必死に生きようとする姿に涙する。
でも彼女が選択した進むべき道には、
今までの会津藩を主題にした物語にはなかった感動がありました。
★この本、やっぱりノンフィクションと思って読んでいいと思う。
タイトルの流星雨とは維新後、全国へバラバラに散ってしまった
会津藩の人達を表現した言葉です。
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どの時代でも、戦争に負けると想像を絶する残酷な扱いと暮らしが待っているんだ。
特に子供・女子・老人には。・・・・
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現役時代・・・
工場の有った喜多方市には出張で良く出かけた。
宿泊で会津若松市や近くの宿に宿泊、近くの町や当然若松城にも良く出かけた。
桜の綺麗なところでもある。
攻防戦の観光案内も何回か聞いていたが、
負けた後、人々のその後の動きは、殆んど語られていないので、
今回の本は新鮮な驚きであった。
又、下北から来ていた仕事仲間の家にも、旅にでかけているので
懐かしい地名が
大間・横浜・野辺地・仏ケ浦に近い佐井港などが出てくる。
===
作中に斗南藩と有るが
◆斗南藩=戊辰戦争後、会津藩が南部藩領の一部に国替えされて成立。
現在の下北半島や青森県三戸町、同県五戸町などが所領にあたる。
1870年春の移住開始から71年7月の廃藩置県まで、1年余り続いた。
藩名は、漢詩からとったとの説がある。
史跡のHPは
斗南藩 史跡
新聞記事コラムにも
~~~~~
会津ゆかり斗南藩に脚光
戊辰戦争に敗れた会津藩士の一部が青森県の下北半島などで興した斗南藩が、
静かなブームを呼んでいる。
NHKの大河ドラマ「八重の桜」の舞台に会津が登場し、
その歴史に改めて注目が集まっているためだ。
同県内の資料館には放送を機に関心を持った県外客が訪れるようになり、
斗南藩の史跡をPRする自治体も出始めた。
「明るい大地を目指してくれ――」。
大間町大間の資料館「向陽処(こうようじょ)」には、
最後の会津藩主・松平容保(かたもり)が藩士に向けて直筆した掛け軸(向陽処)など、
会津・斗南両藩ゆかりの貴重な品々が展示されている。
自宅兼生花店の2階を資料館として開放している
木村重忠さん(73)は、斗南藩士の末裔(まつえい)だ。
三戸町には、戊辰戦争で命を落とした白虎隊の悲劇を伝えるため
斗南藩士が建てた供養碑や、この地で没した会津藩校「日新館」の元館長の墓が残っている。
官軍である新政府軍に挑んで敗れた斗南藩士たちは、長く日陰の存在として扱われてきた。
だが、廃藩置県後も現在の三沢市にとどまり、日本初の西洋式牧場を作って
開拓に力をそそいだ広沢安任など、地域の発展に寄与した人物は少なくない。
市先人記念館の吉田幸弘学芸員は、これまで斗南の歴史は県民にもなかなか
知られてこなかった。
現代の青森に通じる先人の歩みに、
ぜひ関心を持ってほしい」と話している。
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