Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

陽なたのアオシグレ

2014-02-06 23:43:18 | アニメーション
『陽なたのアオシグレ』については、ここで感想を記したことがあったっけ?ちょっと思い出せません・・・。まあともかくこの作品について書こうと思ったんですが、なんかお腹痛い。夕飯食べてからお腹がぐるぐるいっている。

だからさっさと切り上げてしまおう。『陽なたのアオシグレ』はもう2回観ましたが、確信しました、めちゃくちゃ好きです、これ。

ハチャメチャで何でもアリで、すっ飛ばしていて、かっ飛ばしていて、いったれーって感じのアニメーション。

途中、「ノーパン喫茶」なる看板がちらりと映ったのが気になりました。うける。Dr.スランプに「喫茶ノーパン」が出てくるけど、昔こういう喫茶店って実在してたんでしょうか。調べればすぐ分かりそうですが。

まあいいや。お腹痛い。

山賊のむすめローニャ

2014-01-31 23:46:29 | アニメーション
宮崎吾朗監督『山賊のむすめローニャ』が、今秋からNHK BSプレミアムで開始するみたいですが、うちは見れないなあ。制作はジブリではないけど、制作協力はするらしい。原画マンを手伝わせるとか、そういうことなのかな?楽しみではないけど、興味はあります。

ところでなんか背中痛い。

あと、ちょっと風邪気味のような気がする。でも気のせいかもしれない。

ちなみに『山賊のむすめローニャ』はリンドグレーン原作。『長靴下のピッピ』(表記これで合ってったっけ?)の作者。かつて宮崎駿らがこの作品をアニメーション化しようとしたけれども、断られたという歴史は(たぶん)有名。不思議な因縁ですね。

もう眠い。



追記
「長靴下」→「長くつ下」でした。やっぱり!

ジブリ新作は

2013-12-13 00:00:54 | アニメーション
『思い出のマーニー』だそうですね。米林宏昌監督。来年の夏公開予定。今のところほとんど情報がないのですが、どうやら10か月程度の短期で制作されたらしいので、そんな大作ではないのではと想像。もしかして短めの作品?

いずれにしろ、ぼくはあんまり期待していません。ただ、脚本に安藤雅司が名を連ねているとの情報もあるので、そこにはちょっと興味があります。原画にも参加しているのかもしれませんが、脚本とはどういうことなんでしょうね。

まあ、詳しい情報が公表されるのを待ってみます。

かぐや姫の物語 前置き

2013-11-24 00:19:57 | アニメーション
パンフレットに掲載されている監督・高畑勲の解説と俳優・山口智子のレビューによって、この作品の肝の部分は言い尽くされているのではないだろうか、という気がしなくもないですが(とりわけ山口智子のレビューは実によく書けていた)、でも一応自分の言葉で感想を述べてみたいので、ここに少し書いておきたいと思います。

まず初めに言うと、すばらしかった。ここまで感動するとは思っていませんでした。感動する用意なんてできていませんでした。高畑勲の監督作は、世間的にはなぜか冷遇されている気がするのですが、もし何らかの先入観があって『かぐや姫の物語』を見に行くつもりがないという人がいたら、ぼくはその人に「試しに行ってごらん」と勧めたい。

でも、今yahooのレビューを少しだけ閲覧してみたら、低評価もそれなりにあって、驚きました。どんなに優れた作品で、どんなに自分の心に届いた作品でも、それが万人から理解されることはない、という当たり前の事実に、打ちのめされました。ああいうレビューを見ていると、文章のひどさ(文法的な誤り、誤字など)や内容のひどさ(事実誤認、明らかな的外れ、無教養、傲慢な姿勢など)にうんざりし、そういう人たちから低評価されてしまうことに義憤を感じる一方で、そういう人たちから高評価されてしまうことに遣り切れなさを感じてしまいます。もちろん、そうではないレビューもたくさんありますが、そうではないレビューも低評価だったり高評価だったりして、結局のところ万人から支持を得られているわけではないのです。

傑作だからこそ評価が割れるのでしょうか? ドストエフスキーだって、万人から理解されているわけではありません。生前は評価されなかった天才たちも大勢います。でもぼくは悔しい。こんなにも心揺さぶられる作品がけなされるのは見るに堪えません。ひょっとしたら「批評」というのはこういう瞬間に誕生するのかもしれないな、とふと思いました。

なんとかこの作品のすばらしさを人々に伝えたい。もっと知ってもらいたい。その欲求の一方で、しかし自分の言葉でそんなことが果たして可能だろうか、この作品を伝える言葉などそもそもありうるのだろうか、という不審が沸々と湧いてきます。この欲求と不審に引き裂かれながら、それでも欲求の勝る時間というものがあって、そういうときに慌てて「批評」を書かなくてはなりません。

どうやら前置きが長くなりすぎたようです。そしてその間に、不審の影が大きくなってきてしまいました。

『かぐや姫の物語』は、様々な見方をすることができます。ぼくは、「喪失の物語」としてこれを捉え直してみたい。そして一人の人間が生きて死ぬまでの過程とその「物語」とを密に関連させてみたい。というのは、ぼくが劇中で涙したのは、まさに「喪失」のシーンであったから。喪失の予感と、喪失の実現。

すみません、たぶん明日書きます。ぼくは劇場で嗚咽を堪えるのに必死でした。感動したからいい作品だなんて言うつもりはありません。ただこれは自分の心に響きました。余りにも高く、深く。よもやこれほどの衝撃を受けるとは、全くもって予期していませんでした。その衝撃の大きさのあまり、レビューを書くことすらできない・・・。

いつも世界はサカサマだ

2013-11-14 23:53:06 | アニメーション
「上り坂」っていう言葉がある。文字通りに捉えて、これを人が上ってゆく坂のことだと思ってる人たちがいる。もちろんそれは間違いじゃない。でも完全に正しいわけでもない。なぜなら、坂の上にいる人から見れば、「上り坂」は「下り坂」だから。つまり、そこには「坂」があるだけであって、「上り」とか「下り」とかいう形容詞は、全くもって相対的なものなのだ。もしも自由に飛び回れる視点の持ち主がこの世界を眺めたら、そこには「上り坂」も「下り坂」もなく、ただ「坂」があるだけだろう。

『サカサマのパテマ』という映画は、一言でいえば、こういう「坂のパラドックス」を主題化・構造化している。地上人から見れば、重力は地中に向かって働いている。でも地底人から見れば、重力は空に向かって働いている。後者は空に落ちてゆくのだ。しかし彼らにとって、それは決して不思議なことではない。彼らの世界ではそれが真理であって、空は奈落に他ならない。

こんなふうに書くと、この映画は難解なんじゃないかって敬遠したくなるかもしれない。でも実は全然難解ではなくて、小難しい理屈なんて出てこない。世界が変われば見方が変わる。人が違えば見方も異なる。そんな当たり前のことを、本当は誰だって知ってるはずのことを、重力が正反対に働く世界を並立させることで、見事にビジュアル化している。

そういう意味で、この映画は異文化コミュニケーションや未知との遭遇がテーマだと言っていい。「異文化」や「未知」というのは、自分の属しているのとは異なる文化、世界、人間のことで、例えば地上世界と地底世界なんかがそれに相当するわけだけど、よりミクロなレベルで言えば、異性のことでもある。少年にとっての少女、少女にとっての少年。もうお分かりのように、この映画は「ボーイ・ミーツ・ガール」の王道なのだ。

ところで、「地上世界」や「地底世界」なんていう言い回しをする限りにおいて、ぼくもまた一つの偏見に捉われたままだ。この言い方は、「地上世界」の側から見た視点に由来していて、「地底世界」から見れば、「地上」こそ「地底」に他ならないから。でも相対的な概念/言葉がこんなふうに全部サカサマになってしまうのでは、ぼくらは意味の通る文章なんて書けやしない。つまり、ぼくらはぼくらの見方に否応なく縛られていて、別の見方に立って何かを考えることが、ほとんど不可能なのだ。

この映画は、そのことも教えてくれている。どんなに相手のことを分かった気になっていても、本当にその人の立場になってみない限り、実は全く理解していなかったことを。他者理解というものが本質的に極めて困難であるという事実を『サカサマのパテマ』は描いて見せるわけだけれど、でもこの作品はそれによって絶望を提示したりしない。それどころか、事も無げに、あっけらかんと、こう言い放っているかのようなのだ。「だったら相手の立場になってみりゃいいじゃないか」って。

一つの価値観が、次々とひっくり返されてゆく。特定の価値観、自分(たち)の価値観だけを真だとすることがどんなに愚かしい営みなのかということを、『サカサマのパテマ』は映画全体で示してくれている。そんな価値観は、別の人から見たらサカサマの価値しかないんだぜってことを、陽気に教えてくれている。

世界はいつもサカサマで、こんがらがっているけれど、でも他者同士が手を結べば、空だって飛べてしまうのだ。色々と詰めの甘い部分もあるけれど、希望と可能性に満ちたいい映画だと思う。

宮崎駿は見た

2013-09-07 02:46:28 | アニメーション
宮崎駿の引退記者会見、全部見ましたが、幾つかの発言が印象に残りました。

その内の一つ、ロシアの記者からノルシュテインの影響を問われて、宮崎駿は次のように言いました。ノルシュテインは「負けてたまるか」っていう相手です、と。「友人です」と言いつつ、「負けてたまるか」と競争心を剥き出しにする。いやはや、宮崎駿の熱情は未だ衰えていません。たとえ体力に衰えが兆していたとしても、その精神は頑健。それにしても、ノルシュテインにライバル心を燃やすことができるのは、宮崎駿をおいて他にいないのではないでしょうか・・・。すごいなあ。

それから、一番心に残った作品として、『ハウル』を挙げていたのも印象的。『ハウル』は「棘」だと。ゲームの世界をドラマにしようとしたとか、どのように理解してよいのか分からない発言でしたので、いつか誰かがこの点についてもっと突っ込んだ質問をしてほしいものです。

過去作品は振り返らないとか、『風立ちぬ』ラストにおけるダンテ『新曲』の煉獄のモチーフとか、声優についての考え方とか(昔の映画の役者の存在感を常に念頭に置いている)、そしてもちろん「この世は生きるに値する」とか・・・印象深い発言が幾つも。

あと、『紅の豚』の頃を境に、日本の状況(あるいは世界の状況)が変化していったことに触れていて、それがとても興味深かった。

初期作品の公開するスパンが短かったのは、それまで溜め込んでいたものを吐き出すだけだったからです、みたいなことを仰っていましたけれども、それもやはり『紅の豚』辺りまでですよね。つまり、『紅の豚』~『もののけ姫』の間に創作の転機があったのではないでしょうか。ちょうど漫画版ナウシカの連載を終了したのもこの時期のことです。そして、作品の印象が変化するのもやはりこの頃(『もののけ姫』あたり)です。

『紅の豚』っていうのは、本来だったら必要な説明が欠けていたりして、後期作品の特徴を備えています。でもそういう類似ばかりではなく、もっと根本的な部分で後期作品と地続きになっているような気がします。

まあそのへんはおいといて、この記者会見を見ていると、ひょっとしたら宮崎駿はまたやってくれるんじゃないか!?という気持ちにさせられてしまう。それがたとえ長編映画ではなくとも、何かやってくれるんじゃないかと。依然として燃え盛っている意欲。情熱。

とりあえずはお疲れ様でした。でも、あくまで「とりあえず」です。ぼくはまだまだ宮崎駿に期待してます。

ぼくも宮崎駿に遅れを取ってばかりはいられません。どんどん離されていくのは仕方ないとしても、見えなくなってしまってはしょうがないので、なんとか付いていかなくては。時間は限られている。創造的時間は10年だ。明日からがその10年になるようにしなくては。

最後に。「アニメーションは、世界の秘密を覗き見させてくれる」みたいなことを仰ってましたが、これは名言でしょう。宮崎駿は世界の秘密を覗き見たんだ。芸術家の究極的な目標は世界の秘密を知ることだと、ぼくは個人的に思っているんですが、ぼくもいつかその秘密に肉迫したいなあ。ここは感動しましたね。「ラピュタは本当にあるんだ!」みたいな感じで、「世界の秘密は本当にあるんだ!」って。宮崎駿は、それを見たんだ。

宮崎駿にはなれずとも同じ道はいける

2013-09-03 02:27:57 | アニメーション
ちょっと道後温泉に行っていたのですが、その感想は後日ということにして、宮崎駿の「引退」について。

長編制作からの引退が公式発表されましたが、これまでも宮崎駿は何度も「引退」を口にしてきたと言われます。そのような発言の一つが『もののけ姫』の際に大きく報道されました。しかし結局これ以後も宮崎駿は作品を作り続けてきました。だから、今回の発言もそれと同じようなものだろうと考える人がいるかもしれません。でも、今回とこれまでとでは、事情が全然違う。今回は宮崎駿ではなく、ジブリの社長が公式にアナウンスしているからです。

もちろん、引退を宣言してもそれを撤回する可能性はありますから、今後絶対に宮崎駿が長編アニメーションを監督することがないとは言い切れませんが、しかし年齢のことを考えると、このまま本当に引退してしまう可能性の方がずっと高いと思います。とはいえ、引退するのはあくまで長編からであって、短編にはこれまで通り関わっていくのかもしれません。

いずれにしろ、これからぼくらはもう宮崎駿の新しい長編アニメーション映画を観ることができないかもしれないわけです。

このことについて、受け止め方は人それぞれだと思いますが、個人的には、あまり動揺しませんでした。そうなのかと、すんなり受け止めることができました。でも次第に彼の作品やその思想、人生へ思いを募らせてゆきました。

カリオストロからポニョまで、宮崎駿の監督作がぼくは好きでした。そのいずれをも讃える心がぼくにはありました。ところが、ポニョ公開以後、いつの間にかぼくは宮崎駿の作品にかつてほどの執着を見せなくなっていました。金曜ロードショー(show)で作品が放映されても、テレビにかじりつくようにして視聴することはなくなりました。というか、もう最近は視聴していないのです。理由は幾つか考えられますが、事実としてあるのは、関心が薄れてしまったということ。

『風立ちぬ』は、宮崎駿の監督作で唯一、ぼくの心に響きませんでした。ぼくはそのことを悲しく思いますが、しかし今回の引退発表を受けて、宿題をもらったのだな、と考え直しました。そして、『風立ちぬ』が心に響かなかったことを、むしろうれしく思うようにさえなったのです。

先に書いたように、ぼくは彼の引退発表を最初は軽く受け止めました。でもやがて彼について様々な感情が湧いてくるようになりました。宮崎駿のおよそ30年の監督生活を振り返ることは、自分の人生を振り返ることに等しい。もののけ姫が公開されたとき、自分はどのように感じたのだったか。千と千尋のとき、ハウルのときは?ラピュタを初めて観たときの印象はどうだったか。ああ、この人は自分の人生にとても大きなものを刻み付けていったんだな。そしてぼくはかつて、宮崎駿の道をゆくことを心に決めたのだったな。・・・

「ナウシカにはなれずとも同じ道はいける」。ユパは漫画版『ナウシカ』の最終巻でこう語ります。ぼくは宮崎駿の道をゆく。中学生のぼくにとって、それは彼の思想を受け継ぐという意味だったかもしれないし、彼の作品のメッセージに応答し続けるという意味だったかもしれない。ともかくぼくは、宮崎駿の思想に、作品に、才能に刺激を受け、彼を追い続けようと決心したのです。だからこそ、『風立ちぬ』にぼくの心が反応しなかったことに、ぼくは落ち込みました。中学生だったときからだいぶ月日が過ぎたにもかかわらず、当時の決心は当然のように覚えていて、いくら関心が薄れたと言っても、ぼくにとって宮崎駿が「憧れの対象」であり、「理想」であり、「偉大な先導者」であることには変わりなかったのです。

もしもぼくが『風立ちぬ』にこれまでと同じような感銘を受けていたとしたら、彼への関心を減らしている自分にとって、しかし彼への尊敬の念は持ち続けている自分にとって、今回の引退発表は、自分が宮崎駿から「卒業」するいい契機になっていたかもしれません。ずっと宮崎駿の監督作品にぼくの心は応答したぞ、よかったな、でもこれで終わりだ、監督ありがとう、と。

けれどもそうはならなかった。ぼくは『風立ちぬ』が響かなかった。だからぼくは、まだ宮崎駿から卒業できそうにありません。この作品が自分なりに理解できるまで、彼の後姿を追い続けなければなりません。これはぼくの宿題だ。でも今になって宿題を与えられたことが、とてもうれしい。人生の目標ができたような気さえします。

宮崎駿というのは、ぼくにとって、自分の立ち位置を測る大きな道標のようなものです。もちろんその道標もぼくと同様に絶えず動いているかもしれません。その道標が常に安全な位置にあるとも限りません。そちらへ進めば危険なことになるかもしれません。でもぼくは、宮崎駿の道を行きたいと思った。

今のぼくにとって、宮崎駿の道をゆくとは、彼の思想に従うということではありません。その作品に応答しづける感受性を保ち続ける意志を持つということです。

宮崎駿が本当に長編制作から引退すれば、彼の評価はいよいよ定まってくるでしょう。でもぼくにとって、彼が天才だろうがそうでなかろうが、人々から愛されようが煙たがられようが、作品の興行成績が良かろうが悪かろうが、そんなことは一切関係ありません。問題は、ぼくにとって彼がとても重要な人だということ。彼はこれまでのぼくの人生の中で極めて大きな位置を占めていました。そしてこれからも大きな位置を占め続けてほしいのです。

『風立ちぬ』は、随分と遠くにある道標です。でもだからこそ、ぼくは歩き出すことができる。そこまで行くんだ、きっと。

「メロスって馬鹿じゃん?」

2013-08-02 02:01:57 | アニメーション
EL EMPLEO / THE EMPLOYMENT - OPUSBOU


このアニメーションを見て、人がどのように感じようがぼくの知ったこっちゃないはずなんだけども、でも「自分は使われる側よりも使う側になりたい」というような感想を目にすると、一種の絶望に陥る。

先の選挙で国民は「原発」や「憲法改変」よりも「経済」を選んだという事実。

かつて教職課程の授業でこんな話を聞いたことがありました。中学の授業で『走れメロス』を読むと、クラスに必ず一人は「メロスって馬鹿じゃん?」と言い出す生徒がいると。

漫画『ナウシカ』において、皇弟ミラルパはいつまでも愚かなままでいる土民たちをやがて憎むようになったと、皇兄ナムリスは語ります。

先日テレビ番組に、現行の憲法は日本人が作成したものではないからよろしくない、(日本人の作った)大日本国憲法の方がむしろ望ましいと真顔で話す一般人が出演していました。

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頭がよく優秀である人ほど、人間の能力など大したことはないのだ、才能の個人差など些細なものだ、と言って諦観しているものです。しかしぼくには、人間の能力は個人差が非常に大きいという気がしてなりません。

「メロスって馬鹿じゃん?」と言う生徒をいかに「指導」すべきか。どのような感想・主張をも許容する、解釈の多様性という話を出したりすれば、あるいは少数者の意見を掬い取るべきだという話に耳を傾けたりすれば、「教育」は立ち行かない。「メロスって馬鹿じゃん?」という考えに至った思考回路を分析して、その誤りを正すこと。・・・ぼくには、それはできななかった。自分が尊大にも生徒に「正しい」知識を教え、彼らをよき方向に導こうとする意思はない。少数意見も含めて多様な考えを多様なまま伸ばすことができればいい、そう考えていた。

けれども、それは理想論だ。信じられないくらい優れた人間がいるということは、その逆も然りということではないか。途方もない無知、恐るべき愚昧。

このアニメーションのテーマを端的に言葉で表現できる人はきっと頭がいい。できない人は愚かだと自覚した方がいい。しかしながら、頭が切れることが必ずしもよいとは限らないとも思う。むしろ、愚かである方がより多くのものを感じ取っているかもしれない。問題は、端的な言葉で愚かしい内容を表現してしまう人だ。

感想に正解はない。でもある種の感想を目にすると、ひどく気が滅入ってしまう。

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本当は今回の記事のようなことは書かない方がよいのでしょうけれども、ひどく衝撃を受けたので、思い切って開陳してみました。

生きることの功罪

2013-07-29 02:32:19 | アニメーション
2013年6月7日、ぼくはコメント欄にこんなことを書いていました。

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「才能のある人が弱い人を排除してのし上がっているということを書いたとき、念頭に置いていたのは実は宮崎駿なのです。彼は、自分は若い才能を食いつぶすことでこうやって作品を作って生きている、という意味のことを何かのインタビューで述べていました。当時はその言葉の意味がよく分からなかったのですが、後になって「これはひょっとしたらすごい言葉かもしれない」と感じるようになりました。

ぼくらは誰かに支えられている一方で、誰かを蹴落として生きているのかもしれません。世間で認められている人は、その程度が一般の人よりも大きいでしょう。才能があって世に出た人が、支えてくれた誰かに感謝するのは当然ですが、しかし自分が蹴落としてきた人たちに謝罪することは、なかなかできることではありません。宮崎駿は、この負の面にも自覚的です。もしかしたら彼の真意は別のところにあったのかもしれませんが、しかしぼくは今このように彼の言葉を理解しています。

自分をもっと優秀な人と比べて「被害者」として嘆くばかりではなく、自分が「加害者」でもあるということに、「彼ら」は自覚的であってほしい(宮崎駿のように)、とぼくは思っています。ぼくは幸い宮崎駿の言葉を知っているので、ときどき自分(東大に通い奨学金をもらって留学している)を罪深く感じます。しかし、「彼ら」もそのように感じているのだろうか、と疑問に思うことがままあります。そこがぼくの不満ですね。ただし、この「謝罪」という行為・感情は「傲慢」ではないか、と思われるときもよくあります。要するに、ぼくはこういうことでうじうじ悩んでいるわけです。」

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『風立ちぬ』という映画が、この「被害者」と「加害者」のことを同時に描いた作品であるのは、間違いないような気がしています。既に多くのネット上のレビューで指摘されているように、この映画は一人の天才のもたらした災厄を描いています。ただ「美しいもの」を求め続けた結果、主人公は殺戮兵器を生み出したわけです。天才は巨大な利益を生産することができますが、一方で恐ろしい災いをも招来する。この矛盾を描破できるのは、当代の天才・宮崎駿を措いて他にいないでしょう。ただし、この映画は実のところ人間一般の生の功罪を描いているような気もするのです。

生きているということはただそれだけですばらしい、とは最近よく耳にする言葉ですが、それのみならず、生きているということはただそれだけで醜い。

天才であれば、生み出す功も罪も凡人より巨大でしょう。この作品は一人の天才に託して人間一般の功罪を描出している気がします。

『風立ちぬ』が、夢や才能の持つ二面性に正面から向き合っている、というのはすぐ分かることですし、そしてそれが天才の夢・才能に限定されるものではないはずだということも、自ずと気が付きます。問題は、それが劇的に表現されているのではないという点でしょうか。クライマックスに「ただ美しいものを作りたかっただけなんだ・・・」という主人公の哀哭でもあれば、なかなか感動的な映画に仕上がっていたと思うのですが、この作品にはそんな山場はなく、淡々と物語が進んでゆくだけです。登場人物の心理的な葛藤もほとんどない。

ぼくは正直この作品に戸惑っています。宮崎駿の後期作品の特徴を確かに備えた『風立ちぬ』は、自分の心に響いてしかるべきなのですが、そんなことはなかった。主人公のように懸命に生きていないから分からないのだ、と言われればそんな気もするし、夢や才能がないから分からないのだ、と言われればそんな気もします。お前は弱者の苦悩や、それでも生きようとする意志の方に興味があるから分からないのだ、と言われればそれが正しいような気もします。

天才の天才による天才のための映画。そう言って知らん顔することも可能なわけですが、そうしたくはない。全く困った話だ。

素材と加工――『風立ちぬ』という映画

2013-07-21 01:18:53 | アニメーション
宮崎駿『風立ちぬ』について、「素材と加工」という視点から感想を書いておきたいと思います。なお、その際ネタバレする可能性があるので、未見の方は注意して下さい。

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と書いてみたものの、ネタバレして困るような「ネタ」はこの映画にはほとんどありません。大震災があり、世界大戦があり、少女との出会いと別れがある、というのは映画を見る前から多くの観客が共有していた情報ではないでしょうか。そしてこれら以外に大きな「ネタ」はないのです。流行りの「最後のどんでん返し」も当然ありません。映画の進行は極めて急速で、且つ淡々としています。どこかに山場を作ることを意図的に避けているとしか思えない。しかしそれにもかかわらず、ネット界隈では「泣けた」というような感想が多いのです。もちろん作品をけなす人もいるのですが、その一方で感動している人たちがいる。これほど「泣けた」という感想が多いのは、宮崎駿の近作では珍しいような気がします。では、宮崎駿はいわゆる感動大作を作るよう指揮したのでしょうか?それは違うとぼくは思う。

『風立ちぬ』は、明らかに『千と千尋』以降の後期宮崎駿の系列に属する作品です。後期の特徴というのは、物語の整合性の希薄性、突出したイメージ、不可解な登場人物の行動原理等であると個人的に考えていますが、それらは「情報<イメージ」という図式に還元できるかもしれません。つまり、イメージに比して情報量の少なさが、物語をしばしば不可解にし、登場人物の行動も一貫性を欠いているように見させてしまう。

ネット上を短時間だけ見回した限り、『風立ちぬ』に対してこのような観点から批判している人はほとんどいませんでした。誤魔化されているな、と思う。『風立ちぬ』においては、他の後期作品と同じように、明らかに説明が不足しています。例えば地震や戦争が起きても、それが関東大震災や第二次世界大戦であることは一切説明されません。普通、時間が大幅に経過したら、次のカットで「○○年」といった表示を出すことが定石ですが、そういった時間経過を明示する手段は全く取られません。観客はただ登場人物の台詞の端々から、「あれから何年か経ったのだな」とか「もうすぐ世界大戦が始まる頃だな」とか想像するしかないのです。仮に日本の近代史を全く知らない人がいたとしたら、この映画の時代背景はちんぷんかんぷんではないでしょうか。それにもかかわらず、情報量の少なさや登場人物の心理説明の少なさに対して批判の声が上がらないのは、今回の場合、恐らくそれらは観客の脳内でほぼ完全に補完可能なものだからです。映画は一応日本の史実をなぞっていますから、最低限の日本史の知識があれば、映画内で今どういったことが行われているのか理解することができるのです。ここが、ファンタジーだった『ハウル』や『ポニョ』とは異なる点です。たぶん観客の多くは史実を知っているので、それを映画における歴史的背景に自然に重ね合わせて見ることができているのです。ここでは史実=素材と、映画=加工とが、多くの観客内で一致していると言ってよいと思います。

素材というのは、題材と言い換えてもよいのですが、要するに芸術作品を作り上げるための材料のことです。一方加工というのは、素材を用いて出来上がった物(作品)、あるいは素材を作品にするための作業を指します。例えば歴史映画における歴史が素材、演出が加工(あるいは演出して出来上がった映画そのものが加工)と言えます。芸術作品というのは、ほとんど全ての場合、素材と加工から成立していると考えられます。

この二分法を持ち出せば、「泣けた」という感想が多かった理由も明らかになるように思います。これまで書いてきたように、この映画は後期宮崎駿の特徴を有しており、物語や登場人物の心理への説明を欠いています。そのような場合、登場人物に感情移入できないことが多く、観客は置いてけぼりにされる可能性が高まります。しかし今作では多くの人がそれとは違った反応を見せている。なぜかと言えば、彼らは素材に感動しているからではないでしょうか。つまり、薄幸の少女との出会いと別れという、いわば「難病もの」という素材の設定が、否応なく観客の涙を誘っているわけです。しかし監督は映画の中で悲恋を強調する加工=演出は一切していません。宮崎駿は、あくまでも淡々と描写してゆきます。

加工に全くひねりを加えない宮崎駿。『風立ちぬ』の評判は、素材(日本人なら誰でもわかる歴史の知識と難病ものという設定)に助けられていると言っていいと思います。

ところが、本来なら枯淡の雰囲気になるはずのこの映画は、「異様」としか言いようのないような迫力に満ちています。説明というものを完全に省いてしまったことで、映画の時代や雰囲気が、不定形で生々しい何かを醸成しているように思うのです。現在を生きているぼくらが現在という時代を定義できないように、『風立ちぬ』を見る者も『風立ちぬ』の時代を把握できないような錯覚に囚われるのです。『風立ちぬ』の時代に放り込まれたような錯覚、視界はもやもやとして先行きが見えない。知識としては知っているはずなのに、なぜか既視感はなくその時代の空気をひりひりと感じてしまっている。これは、加工することを極力避けた演出の賜物でしょう。

ちなみにこの異様な感覚は、作画や効果音もその醸成に大きな役割を果たしていると思いますが、今回はその話はなしということで・・・。

実在した零戦の設計者と文学者とを素材にして、映画という一つの加工物を創り出す今作では、素材と加工という視点からの分析は非常に有効だと思います。ここまでぼくは、宮崎駿は素材を加工することは極力避けていると書いてきましたが、しかし今作においてはそもそも主人公が大きく加工された人物です(実在した二人の人間が融合されている)。また、夢のシーンも加工性の高いものであると言えるでしょう。つまり、素材と加工とが複雑に入り混じった、極めて幻想性の高い独特な作品に仕上がっているわけです。

他にも書きたいことは幾つかありますが、まあこんなところでおしまい。

『宮崎駿ワールド大研究』

2013-07-16 01:15:00 | アニメーション
新宿の紀伊国屋に久々に立ち寄ったら、色んな本が出てました。ざっと見て買ってしまったのは、『宮崎駿ワールド大研究』。文学関連の本でも買いたいものがあったのですが、高い。高過ぎる。なぜ日本の本はこんな高いんだ。もっとも、この『大研究』は1000円弱でしたが。

ぱらぱらと拾い読みしてみたところ、意外とおもしろい。ライトなジブリ本かなと想像していたのですが、思った以上に突っ込んだ指摘がある。山川賢一という評論家(まどかマギカ論を書いた人)が大活躍で、この人が半分以上の記事を執筆。いちおう雑誌形式の本で、単著ではないので、10人ほどの執筆者が色んな項目/記事を担当しているのですが、その山川さんが一人で半分以上書いてしまっている。すごい熱意だ。しかもけっこう勉強している(という表現が悪ければ、「よく見ている/読んでいる」と言ってもいい)。1977年生まれという若さもいい。いわゆる若手研究者/評論家だ。

「ムスカはパズーの分身である:宮崎の描く悪役たち」と題された文章など、けっこうおもしろい。よくあるような分身論かなと期待せずに読み始めたら、漫画版ナウシカのミラルパやナムリスにも言及していて、というか彼らを悪役の一つの到達点とみなすことで、ムスカとパズーの分身関係を逆照射していて、興味深い。こういう視点は自分にはなかったなあ。ところで『ナウシカ』の「ヴ王」って、非常におもしろい固有名詞ですよね。ヴ王。この名前は何に由来するんでしょうか。

他にも、おかだえみこさんの発言に驚いたりもしました。彼女は『ラピュタ』を手塚治虫と一緒に見に行ったのだとか!そして手塚治虫はラピュタに嫉妬したのだとか。彼がナウシカに嫉妬していたらしい、という話は聞いたことがありますが、ラピュタもそうだったのか・・・。

この本もそうですが、若手の論客が好きなことを書いているのっていいですね。やはり若手はある程度傲慢で、向こう見ずで、傍若無人くらいなのがいいのかもしれない。先人や他者に配慮しつつせこせこ小さな領域だけで自足してしまうのは、よくないな。もっと大股で歩かなければ。

風立ちぬ キャスト発表

2013-06-07 03:59:58 | アニメーション
宮崎駿監督の新作映画『風立ちぬ』のキャストが発表されました。
詳しくは、公式サイトへ。
http://kazetachinu.jp/

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さて。ここ10日間ほどで20冊ほど本を買ってしまっています。郵送が大変になるのでもう買わないようにしようと決めていたのにもかかわらず、今日も5冊。まずいなあ。もう書店にはなるべく足を運ばないようにしたいですね。でもせっかくロシアに滞在しているのだからって考えもある。

ところで今日はなんとなく時間がなくなってしまって、明日の宿題まだやってません・・・。昨日も同じようなことを書きましたが、あれから頑張って宿題をこなしたのでした。しかし今日はどうかな?

それにしても、宮崎駿の「企画書」を読むと心躍りますね。「高畑勲と宮崎駿の比較文体論」というテーマで書いてみたいともう何年も考えているのですが、機会は訪れません。魅力的なテーマなんですけどね。

宮崎駿というのは、一言で言えば天才なのだと思いますが、しかしその「天才の属性」がいかなるものなのか、ということを詳らかにしたいと思っています。天才の属性。ちょっと分かりにくい表現をあえて採用しています。というのも、これはまだ書かれていないテーマだから。

田中さん?

2013-06-06 02:42:10 | アニメーション
先日買ったアニメーション事典の「ノルシュテイン」の項目に書誌情報が掲載されていたのですが、そこに田中さんという方の書いた「ノルシュテイン映画の心理的時間」(原文ロシア語)という論文(?)がありました。へえ、日本人でノルシュテインを研究していてロシア語で論文を書ける人って、意外といるんですねえ。早速検索かけてみましたが、この「田中さん」がどういう方なのかは分かりませんでした。

「優秀な人間はそうでない人間を疎外している」とかそういうことを本当は書こうと思っていたのですが、あまりに卑屈で暗い内容になりそうなので、やめました。でも、自分が「弱い人間」を排除することでのし上がっているということは、彼らは自覚した方がいい。

あれ、この文脈でこんなことを言ったら、まるでこの「田中さん」が優秀な人間で云々という感じに聞こえてしまうな・・・。そういうつもりは全くありません。悪しからず。

そういえば明日は朝が早いのに宿題まだやってないな。なんかやる気しないな。

モスクワで『言の葉の庭』を観る

2013-06-01 06:30:24 | アニメーション
5月31日に全世界で視聴可能となった新海誠監督の最新作『言の葉の庭』、観ました。幾つかのトピックについて書きたいと思います。

・『耳をすませば』のモチーフ
今作には『耳をすませば』の残像があるように思います。主人公が靴作りの職人を目指す少年であることは、『耳』におけるバイオリン作りの職人を目指す少年というモチーフと響き合っていますし、また作中からは『耳』を仄めかす台詞を聞き取ることができました。家を出ていくタカオの兄が言う、「部屋が広くなっていいだろ」という台詞、それからクラスメイトの世間話の一部「ほんと月島らしいよな」という台詞。前者は、やはり家を出ていく汐(雫の姉)が言う台詞と共通しています。後者に関しては特に説明する必要もないでしょうが、雫の名字は月島でした。

・『耳をすませば』の変奏
『言の葉の庭』は、『耳をすませば』の変奏であると考えることができます。特筆すべき変更点は、少年目線になったこと、年齢差が生まれたこと。

・『耳をすませば』のテーマ
新海監督は『耳をすませば』が好きなことが知られていますが(http://www.anikore.jp/features/shinkai_1_3/)、彼はこの映画を初恋が実る奇跡的な物語として捉える一方で、それは現実にはほとんど例がないと冷静に考えてもいます(この点に関しては、『星を追う子ども』の舞台挨拶で触れられていたはずです)。したがって、『秒速5センチメートル』のような「初恋が実らない話」を作ろうとする意欲が生まれてくるわけです。新海監督が『耳をすませば』に本来備わっているのとは別の意味での「ありったけのリアリティ」(『耳』パンフレットにおける宮崎駿の言葉)を加えたのが『秒速』であるとみなせるのです。『言の葉の庭』においても、そのような意味での「リアリティ」は息づいているように感じられます。つまり、恋というものはお互い惹かれ合ってさえいれば必ず成就するようなものではないという現実=リアルが前提としてあるわけです。この前提を形成するのが本作における男女の年齢差でしょう。

・『耳をすませば』と風景
では、『耳』と『言の葉の庭』における共通テーマは何かと言えば、その最大のものは風景に対する視線だと思います。前者に関連して「イバラード目」と言われる世界に対する新鮮な視線は、一見すると凡俗で薄汚くさえ思える世界から、まるで子どもが初めて世界を目にしたときのような新鮮な驚きと喜びを取り戻してくれます。新海作品に通底している風景美は、まさにこのような「イバラード目」を視聴者にも授けてくれるかのようです。新海監督の視線のフィルターを通して見つめられた世界は、あまりにも美しい。『言の葉』においてその風景美は途方もないものになっています。輝いている世界を描くのみならず、そのような世界の輝きの独自の見せ方にも磨きがかかっており、「何を」「いかに」見ればよいのか、教えてくれているかのようです。

・リアリティを突破する
先程、男女の年齢差が一種のリアリティを形成していると書きましたが、もしもこの年齢差が乗り越えられない壁として機能し続けるのなら、リアリティはリアリティのままであることでしょう。ところが、この壁=リアリティは、突破される予感があります。その契機となったのは、タカオとユキノの心情激白でしょう。これまでの新海作品では、主にモノローグで物語が進行することが多く、登場人物の内に秘めた想いは必ずしも相手に届きませんでした。ところが今回、二人は感情を爆発させてダイアローグを行うのです。そしてそれによって、二人の距離は心理的にも身体的にも縮まることになります。ディスコミュニケーションからコミュニケーションへの転換と捉えてもよいと思います。恐らく突破されるリアリティというのは人間関係のそれだけではなく、風景のそれでもあるように思われます。つまりリアルを超えた美。人間というものは世界をこれほど美しく眺めることができるという例証。

・再び『耳をすませば』
『耳』における恋愛は、互いを見つめ合う類のものではなく、前を向いて地に足付けて歩く人のそれでした。『言の葉』においても、遠い地点を目指して歩こうとする少年が主人公です。前を向くこと。今作の最大のポイントはそこなのではないか、と思っています。


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という感じで、あえて『耳』との関連に的を絞って書いてみましたが、恐らく今作の最大の見所の一つは風景美です。日本にいる方は是非劇場でご堪能下さい。46分。1000円です。