Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

忘れたい論文

2014-03-08 02:05:38 | お仕事・勉強など
大学からぼくの論文が掲載された雑誌が送られてきたのですが、正直言ってこれは見たくはない論文と言うか、記憶から払拭したい論文です。

ただ、ロシア文学関係者の方々(特に若手)には、ぜひ一度お読みいただきたい論文でもあります。というのは別に内容が優れているからとかそういう理由ではないのですが。

もともとこれは学会誌に応募してリジェクトされた論文でして、それを少し改稿したものです。つまり、はっきり言うと、学会誌に掲載されるレベルではないと判断された論文です。ですから、ロシア文学を勉強されている方々、とりわけ学会誌に論文を投稿されている若手の方々には、ぜひお読みいただいて、参考にしてもらいたいと思うのです。

もしお読みいただければ、「こんなのだから落とされるのだ」とお感じになられる人もいらっしゃるでしょうし、あるいは「このレベルでも落とされるのか」と驚かれる人もひょっとしたらいらっしゃるかもしれません。

初稿を書き上げてからもう一年以上経っているので、ぼくは自分の論文を割と客観視できているつもりです。その上で言うと、この論文が学会誌に落とされた一番の原因と(ぼくに)思われるのは、「独自性のなさ」です。

しかしその点については、ぼくはかなり確信的でした。というのも、この論文で心がけたのは、とにかくデータを提供することで、自分の意見を押し出すことは控えていたからです。もうこれまでにこのブログで何度も書いていますが、ぼくのやっている分野(作家)の日本での研究というのはそんなに進んでいないので(研究者の数が少ないので)、この分野に取り組もうとすれば、ほとんど一から勉強を始めなくてはなりません。それはけっこうきついし、また世界的にはとっくに知られていることを自分で一から掘り起こさないといけないのは、時間の無駄でもあります。だからこそ、先行研究を網羅的に紹介し、それをまとめ上げることに、非常に大きな意味があると考えました。

ところが、論文というのは自分独自の切り口でシャープにまとめ上げたものが好まれるようなんですよね。ぼくのようなタイプの「論文」は、「研究ノート」として扱われるようなのです。そういうものだと言われればそれまでですが、しかしこれからの研究者に役立つものを提供しようとしたぼくとしては、遣り切れないわけです。だって、ぼくのこの「論文」は、たとえ学術的な「論文」という範疇に収まらないとしても、読まれる価値があるからです。仮にぼくが自分の意見をすぱっと言い切った論文を書いて、それが学会誌に掲載されたとしても、それを読んで喜ぶのって誰なんでしょう。少なくともぼくが実際に書いた「論文」は、これからこの分野を研究しようとする人たちにとってはとても喜ばれるものだと思うのです。ぼくはそういうものを書いたのですから。ところが、そういうものは掲載を拒否されてしまうわけです。

査読されたとき、非常に高い評価をくれた人がいましたが、一方で最低の評価を下した人もいました。中間くらいの評価の人もいました。つまり、完全に評価が分かれたわけです。高い評価を過半数から得なければ掲載されない仕組みなのかもしれませんが、そういう点も納得できかねる部分ではありました。

で、これが掲載されないっていうのは、今後この分野を研究する人たちにとってはマイナスだろうとぼくは考えたわけです。それでまあ色々あって(先生に相談させていただいたりして)、大学の紀要(なのかな?)に投稿することになったのです。最初は思い切って「研究ノート」のつもりで書き直し始めたのですが、それはそれで書き方がよく分からなかったので(徹底できなかったので)、結局またしても「論文」という形になりました。しかしその過程で、初稿にあった重要事項を削除したりもしました。それがなければこの原稿の価値も少なくなるなあと思いつつ、かろうじて「論文」という形式にまとめるため、泣く泣く削除したのです。だから、ぼくにとって今回の決定稿は、初稿ほどの価値はない中途半端なものです。それで今はあんまり思い出したくないのです。

改めて読み返してみると、いまいち言っていることが判然としない部分もあり、確かに優れた論文ではないと思いますが、でもリジェクトされるようなものでもないと思うわけです。実際、ぼくの論文を読んでいただいたある方からは、このレベルだったら前回の学会誌に掲載されてもおかしくなかったと仰っていただけました。慰撫するお気持ちがあったのかもしれませんが、でも執筆から一年以上経って客観的な見方ができるようになったぼくが自分で読んでも、やはり腑に落ちないのです。

自分の意見を打ち出すとか、おもしろい切り口で対象を切り取るとか、そういう作業に別に苦手意識はないので、それが論文なんですよと言われたときには驚いたわけですが、でもぼくの考える「論文」と、学会誌で要求される「論文」とには、はっきりとした齟齬があるのです。後者にすり寄って自分の考えを歪めることは容易いですが、本当にそうする価値はあるのだろうか、と立ち止まって考えざるを得ません。というのも、そうしてしまうことで、この分野の研究は遅れてしまうし、ぼく自身の研究目標も遠ざかってしまうからです。

そういう意味で、学会に対してかなり冷めた目を持ち始めたってのは事実です。だから、どうでもいいやって思い始めてます。ロシア文学の発展に貢献するとか、次世代の研究者のためにとか、やっても評価されないどころか、(リジェクトすることで)やること自体を押し潰されてしまうので、もう知らないよ。

これだけが理由ではないけれど、こんなこともあって、ぼくはロシア文学から距離を置くことにしました。まあ気が向いたらまたどこかの雑誌に投稿することがあるかもしれませんが、それはもう趣味のレベルだと思います。どんなに体裁が整っていようとも、何か大きな目標や志の失われた、ぼく個人にとっては趣味のレベルのものだと思います。それが仮に「論文」と人から呼ばれたとしても、ぼくはそれを論文とはみなさないでしょう。志の低い雑文に過ぎません。

さて、そんなわけで、今回のぼくの(ひょっとしたら最後の)「論文」は、多くの若手研究者に読んでいただきたいと思っています。僭越ながら、「論文」はいかにあるべきか、ということを考えるための一助になるのではないかと思っています。ま、反面教師にしてください。

読みようによってはかなり不遜なことを書いてきましたが、この文章が的を射ているかどうかは、ぼくの「論文」をお読みいただいてから判断なさって下さい。

数学と国語の勉強

2014-03-07 00:07:59 | お仕事・勉強など
よく「非ユークリッド幾何学」というけど、そもそも「ユークリッド幾何学」が何なのか知らなかったので(ここでさらりと無知を告白)、勉強してみました。その過程でタンジェントとかログが出てきたのでそこは読み飛ばしましたが、「ユークリッド」と「非ユークリッド」の関係のあらましは掴めた気がします。

高校の頃、成績は芳しくなかったのですが、割と数学が好きで、とりわけ複素数平面はお気に入りでした。虚数という概念がおもしろかったです。中学の頃も、それが何だったのかは忘れてしまいましたが、数学の概念的な部分に興味を惹かれて、塾の先生に数学書を薦めてもらったことがありました(読まなかったけど)。

非ユークリッド幾何学というのは、虚数という概念に似た感触があります。仮に目に見える世界を「実数的世界」と言うとすれば、目に見えない世界は「虚数的世界」と言える気がして、実数的世界とは全く異なった論理で成り立っている。それはこの世界とはまるで別の世界なんだけど、でもある意味でこの世界の一部でもある。虚数的世界が「この世界」とは違う「あの世界」であると同時に、「この世界」にも属しているとしたら、それはまるでトドロフの「幻想」の定義にも似通っていて、色々と想像力を刺激されます。

もっとも、あくまでぼくは(非)ユークリッド幾何学について勉強したのであって、虚数については何にも知らないので、上に書いたことは(高校を10年以上前に卒業した文系人間の)ただの印象です。

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さて、さっきテレビで俳句の勉強をやっていたので、ぼくも一首作ってみました。
誰もいない教室。窓の外では満開の桜が輝いている。その光景を詠んで、

学び舎や
まだ見ぬ子らを
待つ桜

卒業式が過ぎ、入学式はまだ。教室の中は誰もおらず、寂しげ。その寂しさを、窓外で咲き誇る桜と対比してみました。どうですかねー。けっこう瞬間的に思い付いた句なんで、完成度は低いと思いますが、総合的にはそんなに悪くないと思ってます(自己満足)。でも、テレビに出てたあの先生に添削してもらいたいなあ。

講師の仕事

2014-03-05 23:59:35 | お仕事・勉強など
ある方からロシア語の講師の仕事を紹介していただいたのですが、自分に自信がなさ過ぎて、遠まわしにお断りしてしまいました。

せっかくのチャンスなのにとか、教えながら学べばいいのにとか、自分でも思うところはあるのですが、やはり自信がなさすぎるし、いや自信っていうか実際に能力が低すぎるし、やっぱり無理だなあと。

こんなチャンスが今後あるかどうかは分かりませんが、でもいつチャンスが来てもいいように、勉強だけはしておこうかなと思った次第。

幸い(?)ロシア文学からはもう離れているので、逆説的ではありますが、純粋にロシア語を勉強できる環境にあると言えます。上級者用の文法書とか買って、日常的に勉強しようかなー。あとやっぱり会話だよな。

どんなに必要に迫られても勉強しないぼくですが、しかし今月からはちょっと事態が変わることになっていて、ひょっとしたら勉強を続けられるのではないかと淡い期待を抱いています。それに、性格的に言って、限られた期間内に結果を残そうとすると焦燥に駆られて駄目になるタイプなので、悠揚に構えて気長に暢気に進めた方が自分に合っています。

というわけなので、紀伊国屋に行って参考書を探してこよう。肝心なのは自分のペースでやることですよ。

ぼんやりと小難しいことを

2013-12-22 02:04:20 | お仕事・勉強など
ロシア・アヴァンギャルドという運動が、見ること・触れることという問題系と密接に関わってくるという見通しが間違っていないとしたら、それを学ぶ勤勉な読者はメルロ・ポンティを読み始めるだろうし、そこからバークリの著書やモリヌークス問題にも関心を抱き始めるだろう。当然クレーリーの著作は丹念に読み解こうとするはずだし、高山宏の本にも手を出すはずだ。そしてこの過程のどこかでヴントやヘルムホルツの重要性にも気付くだろう。そのうちシクロフスキーがこの二人の著作を読んでいたことも分かるだろうし、彼らとマチューシンとの関わりも見えてくるだろう。だいたい、キュビスムの概念を少しでも理解している者なら、マチューシンでなくともその視覚理論には想到するはずで、彼とヘルムホルツとの関連が気になり出してもおかしくない。

マチューシンのことを知っているなら、当然ザーウミのことも知っているはずで、彼の視覚理論とザーウミとが本質的にかなり近いものであることもすぐに分かる。とするならば、立体未来派の人々のザーウミが見ること・触れることの問題系に還ってくるというのは当然の成り行きだ。

ところが、例えばヘルムホルツとマチューシンというテーマで書かれた日本語の論文は見当たらない。ロシア語だったら15年も前に両者の関係性に言及した論文が書かれている(ちなみに勤勉でないぼくは今日知った。で、今日読み始めた)。

ぼくはロシア・アヴァンギャルドという運動はどうも好きになれなくて、3-4年前まではそれに関する知識は皆無と言ってもよかったくらいなんだけど、それでも3-4年もすれば見えてくるものもある。で、そのようやく見えてきたものが、外国では著名な研究者によってとっくに俎上に載せられているにもかかわらず日本ではほとんど言及すらされていないことに、唖然としてしまう。アヴァンギャルドが好きな人たちは、いったい何をやっているんだろうと、不思議でならない。上に書いたようなことは、はっきり言って学部生だって気が付くんじゃないか。だってそれに関係する翻訳があるんだから。

もちろん、人にはそれぞれ自分のテーマというものがある。優れた人たちは勝手に自分のテーマを突き詰めていっているのかもしれない。でも、そのかわり日本にはまだ土台がないんじゃないかと思えてきてしまう。こんな基本的な事柄でさえもが日本語できちんと文章化されていないのだ。自分のテーマを磨くのもいいけど、そういう人たちは自分が死んだ後に自分の研究を引き継いでくれる人がいるとでも信じているんだろうか?未来のことを考えているんだろうか。やるべきは、書誌の伝達とある種の教科書の作成。

ぼくは、自分がいなくなった後のために、丹念に資料を書き出して事実関係を明らかにしてきたつもりなんだけど、どうやらそれは望まれていない仕事だったらしい。自分らしい切り口、自分のテーマで論文を書いた方がよかったらしい。でも、それは間違っていると思う。少なくとも、それだけが奨励されるべきじゃない。いつかこの作家のことを研究したいと思う誰かのために、その人たちのためになるような文章を書いてきたんだけど、それは余計なお世話だったようだ。

他の人たちが何のために研究しているのか知らないけどさ、極私的な興味で研究を続けることだけが尊ばれるのはおかしい、もっと公的な理由、つまり未来のため文化のために研究を続けることが尊重されていいはずだ。そしてそうであるならば、ごく一部の人以外は誰も読まないような専門誌に極私的な視点で書かれた論文を投稿するより他に、することがあると思う。

いつの間にか愚痴になっちゃったな。まあ所詮は負け犬の遠吠えです。

書き終えたけど

2013-10-24 02:53:23 | お仕事・勉強など
とりあえず原稿は書き終えたんですけど、要旨を書くのを忘れていて、慌てて仕上げる。要旨はロシア語なんですが、日本語で文面を考えるところから始めて4時間くらいかかったんじゃないか。要旨なのに・・・。なんでこんなに時間がかかるんだ。ネイティブの先生にチェックしてもらうためのメールを今日中に送ろうと思ってたんですが、見直す時間を少しくらいは取りたいので、明日に回すことにしました。で、明日からは学会の準備をしなければいけない。本当は今日から準備しようと思ってたんだけどな。っていうか、いずれにしろ学会発表の準備を10日間で終えてしまっていいのだろうかと、申し訳ない気持ちがあるのですが(通常授業の発表だってもっと時間をかけるんじゃないか)、もう仕方がない。まあ20分喋るだけだからな・・・。

ああ眠いな・・・。チェーホフの主人公張りに眠い。

締め切り

2013-10-16 01:17:24 | お仕事・勉強など
いつの間にか、二つの締め切りが迫っていた。一つは学会で、一つは某誌への原稿。もはや心理的にロシア文学から離れてしまった身としては、短期間で二種の原稿を仕上げるのは容易ではないと思われたが、離れてしまった方がむしろ色んなアイデアが湧いてくるのは不思議なものだ。(もしかしたら困ったことだ?)

学会の方は、「ぶち上げてやろう」なんて気焔を上げていたけれど、やはり無難な線に落ち着きそうな感じがしてきた。他方、某誌への原稿は、「アメリカと関連させなければならない」という制約があって、苦戦しているのだけれど、しかしそれ以外はむしろ他の学術誌に比べて自由なので、書きやすい。のだけど、改めて思うに、自分は論文を書くのが苦手だし、下手だ。気儘に思い付いたことをだらだら書く方が性に合っている。今回はちょっとした一発ネタで勝負しようかなと思っているんだけれども、いわゆる「論文」にはならないことが見越されているので、編集の方にこれでもいいかと事前にお伺いしてみなければならないかもしれない。ちなみに、本当は「アメリカと関連させなければならない」ということはなくて、無理しなくてもいいということだったんだけど、仲間外れ(?)は嫌なので、アメリカと絡めて書きたい。どんな要望にもお応えできますよってことを見せとかないといけない(誰に?)かなと。と言いつつ、アメリカは導入部分で使うだけなんだけどね。

なんてことを書きつつ、締め切りに間に合わない、というか原稿がまとまらないという事態に陥る可能性がけっこうあるので、不安でもある。自分のような人間が、「すみません、書けませんでした」と言って投稿しないのは何様だよってことになるので、早いとこ読書を切り上げてとにかく書き始めなければ。でも今読んでる本、索引含めて550頁超あるんだよな・・・長いよ。

学会の準備もあるしなあ。学会って、自分一人が恥をかく場だったらそれはそれで構わないんだけど、司会の先生にも迷惑がかかってしまうし、せっかく貴重な時間を割いて聞きに来てくれる人たちにも失礼だし、できる限りいいものを作らないといけないんじゃないかという責任感もあって、ちくちょう、手を抜くところがないじゃないか。ブログ書いている暇なんてないんだけど、読書時間と睡眠時間を削ってこうして更新しております。

こんな授業

2013-08-12 00:16:22 | お仕事・勉強など
暑いな。

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備忘録的に。
国語の授業とはいかにあるべきか、という定見は持ち合わせていないぼくではあるけれど、こんな授業もありではないか、という提案を書いてみる。

国語(とりわけ現代文)というのは、もしかしたら細かい受験テクニックのようなものもあるのかもしれないけれど、でも結局のところ生徒がどれほど本を読んでいるか(読んできたか)という経験が成績に反映されるものだと思っています。つまり、日々の授業のみで生徒の国語の学力を上げることは極めて難しい。

本をよく読んでいる生徒には教師が指導する必要はほとんどないのではないかと思われる一方で、本を全く読んだことのないような生徒には指導する術がほとんどないように感じられます。では現代文の教師の目的とは何かと言えば、生徒が自ら本を読むように仕向けることにあると思います。いわゆる自学自習の勧め。

そこで、こんな授業はどうかという提案。
とにかく生徒に日本語の文章を読ませたい。そのためには、まず題材がおもしろくなければいけないでしょう。興味の対象は十人十色でしょうが、でも多くの生徒が食い付きそうなテーマとして、ちょっと安易ですがマンガやアニメを用いたい。どういうふうに用いるかと言えば、最初にマンガを生徒に読ませます。あるいはアニメを上映します。次に、そのマンガないしアニメについて書かれた評論を生徒に読ませます。その評論は長かったり難しかったりしてはいけません。場合によったら映画祭か何かの審査員の短評でもよいと思います。その上で、この評論と自分の意見とを比較するように促してみてはどうでしょうか。「いま自分が読んだ/観た作品に対して、人はどういうことを言っているのだろう」という興味をうまく引き出せたら、文章を読んでくれそうな気がするんですが、いかがなもんでしょうね。ある映画を観たとき、それに対する皆の感想が知りたいっていう気持ちと同じだと思うのです。人によっては他者の感想をむさぼり読むわけです。そういう好奇心を国語の勉強に結び付けられたらなあ、と。

で、どういうマンガやアニメがよいか、という話。ちなみにこの授業は先生自身がそういったものに対して愛着を覚えていた方がやりやすいと思います。
鉄板なのはやはりジブリ作品。作品は奥深いものが多いし、評論の類も非常に多いので。次に映画祭で上映される作品。映画祭の講評目当てです。メディア芸術祭なんかがいいんじゃないかと思います。短編作品はパッケージ化されていないものが多いのが難点ですが。あとメジャーな監督の作品だったら大抵その評論が存在するので、そういうところを攻めるといいと思います。マンガはぼくはよく分からないです。ただ呉智英の『現代マンガの全体像』(及びそこで扱われているマンガ)なんかは使いやすいテキストだと思います。
もちろん、マンガやアニメだけでなく、実写映画でもいいし、音楽でもいい。テレビドラマだっていい。とにかくいきなり文章を読ませるのではなくて、まずはそれ以外のメディアに接触させて、それからそれについて書かれた文章を読ませる。そうすれば、文章を読む際の意欲・モチベーションが違うと思うのです。こうして知的好奇心を刺激して、いわゆる知る楽しさみたいなものを育んでいけたらいいんじゃないかと思うのです。


上記の授業とは別に、もう一つ提案(ってほどのものじゃないけどさ)。
本を読まない生徒っていうのは、この世にはどういう本があるのか、というのを知らないと思います。そこで、やや珍奇な文学作品を読ませてみる、というのはどうでしょう。例えば、ユアグローやハルムスといった作家の超短編。もちろん日本にも超短編を書いている作家はいるし、星新一のショートショートでもいいと思います。殊外国語文学に関しては、日本語で読める評論の少ないのが難点ですが、この点に関しては専門家に協力を求めてもいいと思うのです。中学高校の教師が大学の教師と連絡取り合ったっていいじゃないか。それから、視覚的に訴えてくる詩。ダダイズムの詩などがいいでしょうね。あと、シュルレアリスムの奇怪な絵画を見せて注意を引きつけ、次いでそのメンバーたちの書いた不可解な詩を読ませてみる。「なんじゃこりゃ」で終わってしまう可能性もありますが、絵画と文学の相同性について書かれた評論を読ませてみればおもしろいかもな、なんて。

まあ、教育実習以外では一度も教壇に立ったことのないド素人の妄想に過ぎないのですが、生徒の知的好奇心をいかに引き出すかが重要で、そして知的好奇心は日本語を通して満たされる、という点は正しいんじゃないかと思います。たぶんね。

初心に帰る

2013-06-23 03:56:46 | お仕事・勉強など
何か書こうと思っていたことがあったんですけど、忘れてしまったので、別のことを。

論文の書き方って分からないなあと常々思っているのですが、さっき「はっ」と思い当たったことがありました。それは、「書くべきことだけ書く」ということ。当たり前のようですが、博士課程に入ってからぼくはこれができていなかった。というか、修士論文からできていなかった。いや卒論から?

でも、高校生のときの読書感想文では、これをきちんと実行できていたのです。ぼくはそれを方寸に刻んで感想文に取り組んでいましたから。

逆に言えば、何度も自分に言い聞かせなければ「書くべきこと」以外のこともついついぼくは書いてしまう性質なのです。そういう特徴はこのブログを読んで下さればすぐお分かりかと思うのですが、ぼくはどうも冗長で、余計な情報を盛り込み過ぎる。自分の考えたこと、思ったことを全部吐き出してしまわないと何だか気持ち悪くて、というかもったいない気がして、それが理路整然としていようといなかろうと書き足していってしまうんですよね。最低限の辻褄は合わせますが、でも基本的にはカオス。

卒論や修論は、調べたことの発表の場だったのでこれでもよかったのかもしれませんが(いや審査して下さった先生方の心が広かったのか・・・)、やっぱり博士の論文だと通用しませんね。ぼくはとにかく調べたことを吐き出すので、まとまりに欠ける。首尾一貫性がない。個人的にはそういうのはアリだし、そしてこういう論文でも評価して下さる方はいらっしゃるわけですが(いい評価を付けて下さる審査員もいる)、やはり全員を納得させられるものでは到底ないわけです。

調べたことの一部しか論文に活かせないのがもったいな気がしてしまうのは単に貧乏性なのかもしれませんが、まあでもこの辺にこれからは気を配ってみよう。「これから」ってのが「いつ」なのかは知りませんけどね。

本当のことを書く

2013-05-26 05:11:56 | お仕事・勉強など
迷っていたのですが、本当のことを書いて、ありのままの気持ちを晒したいと思います。

今年の初めに投稿した論文が先月ボツになってしまって(と書けば、何の雑誌に投稿したのかは関係者には自明だと思います)、悲しい思いをしたのですが、色々と思うところがありました。

まず考えるのは、自分には才能がないのだろうか、という不安。やはりこれです。ロシア語もできない、論文を書く能力もない。何の取り柄もない。だったら研究者になることはできないのではないか。もともと望んだ道ではないのだし。いや、「望んだ道ではない」と言って自分の逃避を肯定しようとしているだけなのかもしれない。

それから、査読して下さった人から言われたのが、自分のやりたいことをやっていますか、ということ。前にも同じようなことをぼくは言われたことがあります。ぼくはアヴァンギャルド芸術を扱っていて、今は特に詩を研究しています。ですが、もともとぼくはアヴァンギャルド芸術がそんなに好きではないし、詩は日本語でだってあんまり読んだことがない。つまり、自分のやりたいことをやっていないわけです。なぜか。ぼくがアヴァンギャルド詩に首を突っ込んでいるのは、研究対象にしている作家がアヴァンギャルド詩を書いているからです。この作家は後年散文に移行しており、その散文に興味があって研究を開始しましたが、この作家について研究するからには苦手分野にも取り組まないといけないと思ってアヴァンギャルドについて勉強を始めました。しかしやはりこれは自分のやりたいことではないのです。それでも論文として残せれば、ぼくの「血と汗」も報われるのですが、結局それも叶わなかった。この2~3年間は何だったのだろう。徒労感。

話がやや脱線しますが、昔遊んだRPGとぼくは同じことをやっているのです。つまり、平均的なレベルの、平均的な能力のパーティを作ってしまう。例えば剣術が得意なキャラクターがいたとして、彼はその代わり魔力が弱いとします。そうすると、腕力や体力のレベルを徹底的に上げて敵と戦うのが普通ですが、ぼくはそうはしない。魔力のレベルも並行して上げるのです。

好きなこと・得意なことを伸ばすのではなく、弱点を補おうとしてしまう。結果、平均的な能力しか得られない。高校までの勉強だって同じです。ぼくにはあまり「穴」がない。この教科、この分野が際立って不得意ということはなかったのです。模試などでよく不得意分野を明示する円グラフがありますが、あのグラフがぼくは真円に近いのでした。

でも、初め苦手だったものに対してはいつまで経っても苦手意識は抜けないものです。それが不安になる。ぼくはアヴァンギャルド芸術が苦手だ。それに対する理解やその知識に関しては、まるで自信がありません。だから臆病になってしまう。自分の意見を主張することを躊躇ってしまう。先行研究で誤魔化そうとしてしまう。そうして「自分のやりたいことをやっていますか」と問われることになるのです。

いえ、ぼくはやりたいことをやっておりません。でも、この作家を研究するには、やりたくないこともやらなければいけなかったのです。ただし、それは結果には結びつかなかった。やはり自分の選択は間違いだったのだろうか。好きなことだけやるべきなのだろうか。得意分野を徹底的に伸ばすのが研究なのだろうか。

いつの間にか、そのやりたいことってのもよく分からなくなりました。ぼくは道を見失ってしまったようなのです。

動いている

2013-03-21 03:52:05 | お仕事・勉強など
大学に用事があったのですが、3時間待たされました。疲れた・・・。まあ、自分が早く行き過ぎただけかもしれませんが。

その用事とは、クラス替えです。ここのところ、クラスメイトの異動が非常に流動的になっていて、クラスが自分にちょっと合わないと感じたら(レベル的に)、すぐにクラスを変更する人が続出しているのです。ぼくのクラスには新しく4人入って来て、そのうち3人が既に去りました。更に、もともといた1人が出ていきました。そんなわけで、ぼくもまたクラスを去ることになりました。

新しいクラスはどんなところだかまだ知りませんが、今日ぼくが要望したのは、「自分は喋るのと聞き取るのが苦手だから、簡単なレベルのクラスがよくて、先生がゆっくりしゃべってくれればうれしい」ということ。「文法は分かっている」とも付け加えておきましたが、さてどうなることやら。

新しいクラスに移るのは非常にストレスですが、もうすぐ日本では新学期が始まりますし、これも皆が経験する試練だと思って乗り切るしかありません。今日相談してみたところでは、「試してごらんなさい」とのことだったので(ちなみにロシアではこの「試してごらんなさい」とか「やってみなさい」という表現は頻出)、とりあえず明日授業に出てみて、明後日も出てみて、それで判断したいと思います。

一週間前、先生から「このクラスはどう?」と聞かれました。どういう意味かなと思いつつ、「まあまあですね」と答えると、「あなたはときどきロシア語が聞き取れていないようで、困っているみたいね。別のクラスに移るのも方法よ。色々なレベルのクラスがあるわ。クラスを変えるのは悪い事じゃないの。色んな経験をするのも大事よ」という意味のことを言われたのでした。ぼくはこの先生がけっこう好きだったし(美人な先生)、それに要するに「あなたにはこのクラスは難しすぎる」ということをその先生から直接言われたわけですから、そのときはけっこうショックだったので、「いえ大丈夫です。たしかにぼくは先生が早口でしゃべると聞き取れないですけど、でも・・・問題ないです」と答えて、これからもこのクラスで勉強する意思を示したのでした。しかし、よくよく考えてみれば、これはチャンスかもしれないと思い直したのです。ぼくは確かに先生の話がよく聞き取れていないし、ロシア語をペラペラ喋れるクラスメイトと満足に会話することもできていない。したがって、クラスに溶け込めていない。これまでの約半年間、授業は苦行だったと言っていい。それならば、自ら事態を打開した方がいいんじゃないか。折しも、クラス間で学生が非常に流動的になっていました。自分もこの波に乗ってみよう、と思ったわけです。

ふう。こうやって、自分の恥を晒すようなことをわざわざ世界中に公開するのは、いちおう自分なりに考えてのことです。変に強がったりせずに、こうやって本当のことを書く方が、きっといいのです。自分にとっても、この記事を読む誰かにとっても。

ロシア語の学習

2013-01-17 01:30:27 | お仕事・勉強など
せっかくロシアに留学していても、部屋で論文を読んでばかりいたら日本にいるのと何ら変わらないので、会話の勉強に精進することにしました。そこで、ぶらりと立ち寄った本屋で早速ロシア語参考書を購入。『口が覚えるロシア語』という、例文暗記に役立つ本です。日常生活でよく使用されるフレーズを丸ごと覚えてしまおうというわけですね。ただ、ぼくは以前にも日常会話を勉強するための参考書を買っているのですが、そのままうっちゃっているのです。他にも、ロシア語熟語集とか持っているのですが、早々に挫折。ロシア語学習でやり遂げたのは、『ロシア語重要単語2200』だけです。このままではいけない!と思いつつ、やる気がなかったり体がだるかったりで、なかなか勉強に身が入りませんでした。しかし、ロシアでの生活は思っていたよりもずっと暇であることが分かったので、その退屈な時間を勉強に充てたらいいのではと考えて、今回渡航する際には参考書を何冊か持参する心算です。『口が覚えるロシア語』もそのうちの一冊に数えよう。60課600例文あるので、一日1課10例文として、2カ月で終えられる計算。

もう一つの懸念は、やはり聞き取り。これまで色々と試してみたのですが、どうしても長続きしない。せいぜい1か月が限度という体たらく。大抵の場合は2日(!)もたない有様。3年ほど前に『NHK WORLD』というサイトがいいという話をどこかで聞いて、「お気に入り」に登録したのはいいですが、それで終わり。音声を聞いてもさっぱりなので、諦めたのでした。朗読テキストが読めるという話だったのですが、そのテキストが見つからない。概要を記したテキストはあるのですが、朗読している文章そのままを読めないと、意味がない。でもとりあえず、明日からこのサイトで聞き取りの勉強をしようかなと思ってます。意味不明の音声を漫然と聞いているだけで効果があるのか分からないので、止めてしまうかもしれないけど。でも、NHKのラジオ番組はネットでも聞けるので、それは毎日続けようかな。あと、去年ナウカでリスニング教材を購入していて、それも面倒で聞いていなかったので、ロシアに行ったら勉強しようかな。ただ、MP3をパソコンで再生するという、それだけの作業が面倒で面倒でたまらなくて、これまでやってこなかったんだよな。・・・でもロシアではパソコンを起動させることくらいしか暇潰しがないので、きっと平気になるさ・・・

というわけで、今までサボりにサボっていたロシア語の学習を始めようかな。せめてロシアにいる間は続けよう。

パッとしない日

2012-10-06 04:59:17 | お仕事・勉強など
たったいま知ったのですが、大学の論文検索システムで、論文へのアクセス数を調べることができるのですね。思いがけず、ぼくがこれまで書いた論文へのアクセス数やダウンロード数が分かってしまった。100件くらいアクセス/ダウンロードされているみたいです。たぶん専門外の人も見ているんですねえ。もちろん専門の人も見ているんでしょうねえ。いやあ、怖いなあ。不勉強ですみません。

今日から大学ではセミナーが始まり、ぼくはロシア・アヴァンギャルドの授業に出席してきました。で、先生が色々と喋るわけですが、初回ということもあってか、ごくごく基本的な情報だけで、この授業出る意味あんのかなあと、少しぼんやりしかけていたところへ、「сдвиг」がどうのこうのと先生が仰るのです。反射的に頭を上げると、先生と目が合ってしまいました。どういうものか知っていますか、と聞いているようだったので、ぼくは説明しようとしたわけです。「例えば、「 сосна」が「 со сна」に移動することですよね」と。そうしたら、「全く違う」と言われました。「全く違う」と仰ったのですよ。「ダー・ニェット」ってやつです。いや、確かにぼくのロシア語も片言だったけどさ、そしてそのとき先生は美術のことを話していたんだけどさ、「 сосна」と「 со сна」って言やあ、分かるでしょ。「クルチョーヌイフは書いていますよ、сдвигの典型的な例は、「 сосна」が「 со сна」になることです」って言おうかと思ったんですけど、話が進んでいってしまったので、結局何も言えず仕舞い。なるほど「сдвиг」ってのは本来は美術用語ですけれども、でも詩においてもその概念は使用されていたわけで、それは専門家の間では共通認識だと思っていたのですが、違うの?「 сосна」・「 со сна」と聞いて一切の反応がないということは、この先生は詩における「сдвиг」の用法を知らないのだと断ぜざるを得ないと思うのですが、どうなのでしょう。したがって、クルチョーヌイフの創作以外の著作を読んでいない。

だいたい、クルチョーヌイフの「дыр бул щыл」を「дыр бул щил」と書いている時点で、信用ならんと思ってしまったのですよね。「щыл」というのは、「ロシア語の音声システムにおいて不可能な音と文字の組み合わせ」なわけですよ。ロシア語の正書法を破壊している点で、「щыл」というのには大きな意味が見出されるのであって、「щил」と書いてしまえば、それは単なる不可解な文字の羅列に過ぎないのです。

まあ、こう厳しく書いてはいますが、実はぼくも論文の中で、この文字列を間違えて書いてしまったことがあるようなのです(ネットで検索したら間違えて書いている!)。理由は分かりません。クルチョーヌイフの著作は直接参照しているはずなのですが、なんで間違えてしまったんだろう。でも、そんなぼくだって、「щил」とは書きませんよ。間違いにも「いい間違い」と「悪い間違い」があって、これは後者です。・・・ぼくの間違いは・・・少なくとも「いい間違い」ではないよね。ごめんなさい。

と、ちょっと反省モードになってしまいましたが、ともかくぼくはこの先生の理解と知識にかなり疑問を持つようになってしまったのですよ。見解が分かれる、とかそういうことではなく、ごくごく基本的な、当然知ってるよね、ということが分かっていない気がするのです。もちろん、ぼくにもそういう部分は多々ありますよ。ロシア・アヴァンギャルドに関して、知らないことは一杯あります。基本的な知識においても、抜けているところがあるかもしれません。だからもしぼくが授業でアヴァンギャルド関連を教えるのだとしたら、学生には申し訳ないです。辞退したいくらいです。ではこのロシア人の先生は?

そんなわけで、来週からこの授業を取ろうかどうか迷い中。う~む、詩における「сдвиг」を知らないとはなあ。ハンゼン・リョーヴェとかテリョーヒナの論文を読んでないんだろうか。それでロシア・アヴァンギャルドの講座を持つって、どんだけだよ。

いやあ、(たぶん)久々に毒を吐きました。
実はまだ、今日がパッとしない理由はあったのですが、もうだいぶ長く書いてしまったので、このへんで終わりにします。


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ついでに書きます。以下のHPで、ロシア・アニメーションベスト100についての紹介がありますが、18位の題名の邦訳が間違っています。
http://mediag.jp/news/cat1/100-2.html
「臨時の音楽家」ではなく、「ブレーメンの音楽隊」です。これはうっかりミスだと思うので、誰か教えてあげて下さい。

モスクワ大学留学案内~初心者のために~(2)

2012-09-21 01:53:40 | お仕事・勉強など
1、立場
さて、モスクワ大学に留学すると言っても、どのような立場で留学すればよいのでしょうか。モスクワ大学には、大きく分けて4つの受け入れ立場があるようです。すなわち、博士課程、修士課程、学部生、研究生です。いわゆる「カンジダート」と呼ばれる学位は、博士課程を修了するともらえるようです。博士課程は3年間留学する必要があり、試験に合格して論文を提出しなければなりません。既に相応のロシア語力があり、先の見通しを立てている人が博士課程に留学するべきでしょう。聞くところによれば、近年は日本の大学に奉職する際にも「カンジダート」の取得が必須要件になっている、あるいはそれを取得していることがより優位に働く傾向が出てきているそうです(実際どうなのかは知りませんが。あくまで噂です)。したがって、大学で教鞭を取りたいという強い意志がある人は博士課程に留学するべきだと思います。

修士課程に留学、あるいは学部生として一年生から留学(つまり高校を卒業してすぐ)、という事例は、ぼくの周囲では比較的少ないようです。したがって、ぼくもよく知りません。ごめんなさい。ただ、中国人にはこのようなタイプの人たちがたくさんいます。実際ぼくの寮の隣人も学部生です。

研究生として留学する場合は、1年間(あるいは10ヶ月間)だけの滞在になります。研究生には試験や論文が課されることはなく、また授業は全て語学関係です。この点でも博士課程の学生とは異なります。彼らは、語学の他に哲学や文学(文学部に留学した場合)の授業も必修となっており、それぞれの試験に合格しなければなりません。概して、博士課程はシビアですが、研究生は緩いです。

研究生として留学しても、何の学位も得られませんから、物質的なメリットはありません。したがって、ロシア語力を磨きたい・ロシアで文献調査をしたい、といった個々人の目的に応じて留学するべきです。博士課程の学生の最終的な目標は「カンジダート」の取得ですが、研究生の目標は人によって様々です。目的意識をしっかり持っていることが求められます。

2、実際の授業
ここからは文学部に絞って書きます。モスクワ大学での授業は、恐らく全て小教室で行われます。日本のような大教室や講堂で生徒が先生の話に耳を傾ける、という光景は見られません。多くてもせいぜい10人程度のクラスで、先生と対話しながら授業が進行します。もちろん例外はあるようですが、一般的にはこのパターンです。とりわけ語学の授業は、こういう方式です。
まず最初にテストを受けます。博士課程の学生の場合は、その結果によって、昨日言及した、大学付属の語学学校である「ツモ」に通うことが義務付けられるようです。つまり、ロシア語力が十分でないと判断された場合は、語学学校へ通わなければならないわけです。一方研究生の場合は、どんなに結果が悪くても「ツモ」に行かされることはありません。自分の語学力に相応のクラスに編入され、そのクラスメイトたちと一緒に授業を受けることになります。博士課程の学生数は極めて少ないのですが、研究生の数は比較的多いため、結果的にクラスの数・クラスメイトの数も多いようです。ぼくは研究生として大学に通っていますが、クラスメイトは10人くらいいます。もっとも、一番人数の多いクラスですが。他のクラスはなぜか数人でしたから。「ツモ」では、欧米系とアジア系とでクラスも分かれる傾向がありますが、モスクワ大学ではそういうことはなく、ぼくのクラスにはスイス人、スペイン人、ドイツ人、フランス人、ベルギー人、台湾人、そして日本人(ぼくだけ)がいます。研究生のレベルはピンキリで、ロシア語を始めて半年という人から、もうかなりぺらぺら喋れる人までいます。
語学とは別に、「フォネチカ(音声学)」という授業があります。これは、発音や聞き取りを特に勉強する授業です。日本の大学でこういうシステムを持っているところがあるかどうか知りませんが、日本の大学も是非導入すべきだと思いますね。読めても話せない、という(ぼくのような)学生が多い理由は、こういう教育システム上の欠陥も関係しているような気がします。少なくとも、発音を矯正してくれる機会は日本では少ないのと思うので、フォネチカの授業は貴重です。

ところで、モスクワ大学の授業は頻繁に予定が変わります。急に時間が早まったり、あるいは授業そのものが消滅してしまったり。実は、ぼくはいまこれに悩まされています。自分の出るべきフォネチカの授業が何なのか、依然として分からないんですよね・・・。また、来週の授業も時間が早まるんだか早まらないんだか、よく分かりません。個人的に先生に尋ねてみたのですが、先生もよく分からないという答えでした。ともかく、留学する前に、せめて聞き取りはできるように努力しておいた方がいいと思います。

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いずれ、事務手続きについても書きたいと思いますが、これはまだぼくには謎の部分が多いので、その謎が解けたら書こうと思います。

モスクワ大学留学案内~初心者のために~

2012-09-20 01:53:03 | お仕事・勉強など
これからモスクワ大学に長期留学する誰かのために、ごくごく基本的な情報を提供しようと思います。留学について最初ぼくは皆目分からず、人に聞いてばかりいました。だからそういうぼくみたいな人のために、些細な知識を提供してあげましょう、というわけです。もっとも、依然としてぼくは様々なことが意味不明のままなので、これから知識を増やしていって、そしてそれをアウトプットしたいと考えています。

1、留学資金
1-1、私費留学
まず、モスクワ大学に留学するのに、私費で行くか公費で行くか、という選択があります。私費で行く場合は、①旅行会社などの長期留学プランを通じて渡航する、②個人で大学とコンタクトを取って渡航する、という二つのパターンがあります。①の場合、例えばJIC旅行センター(代表的なロシア旅行会社)で行くとなると、行く先はモスクワ大学の付属教育機関である「ツモ(ЦМО)」というところになります。ここでは専ら語学の勉強をすることになります。最初にテストを受けて、その結果次第では文学や歴史等、自分の専門的関心に応じた講座を受講することができますが、基本は語学学校であり、その所在地もモスクワ大学とは少し離れた場所です。とはいえ、モスクワ大学の寮に住むことができます。②の場合は後述します。

1-2、公費留学
各種奨学金や、各大学に設けられている交換留学制度がこの項目に相当します。その応募方法や応募条件や応募時期は、それぞれ大きく異なっています。したがって、私費以外での留学を検討されている方は、まずは自分の大学等(のHP)に掲示されているはずの奨学金や交換留学制度についての情報をチェックするところから始めるべきでしょう。
さて、運よく奨学金を得られることが決まったら、次はモスクワ大学と自分でコンタクトを取らねばなりません。これから留学しようとする人の中には、既にかなりロシア語力があって、ロシア語でメールを書いて大学とやり取りをするということに抵抗を感じない人もたくさんいるでしょう。ですが、そもそもこのブログ記事はそういう人たちを対象にしていません。ぼくのような、ロシア語でメールを書くなんて大変だよう!という人に向けて書いています。ですが、案じるには及びません。必要事項だけを書いて送ればよいのです。
まず、これから留学しようとする人は、モスクワ大学から必要な書類を受け取る必要があります。また、必要な書類を提出する必要があります。そのために、最初のメールでは簡潔に次のように書いて送りましょう。「こんにちは。私は●●大学の学生(院生)の○○です。今年の秋からモスクワ大学の★(学部・大学院・研究生)の☆学部に留学したいと思います。受け入れ証明書(справка)を下さい。」これでいいんですよ。ロシア語ができない人は、余計な情報は書かなくてもいいのです。そうしたら、しばらくするとモスクワ大学から返信があります。たぶんそこには、「授業料と寮費を支払うという条件で、あなたを*年*月から*年*月まで受け入れます。受け入れ証明書を添付いたします。なお、パスポート情報とパスポートの写真、それから添付のアンケートに記入したものをお送りください」と書かれているはずです。そうしたら、アンケートに回答したものとパスポートの必要ページを自分でスキャンして、再びモスクワ大学にメールしましょう。なお、その際に、「招待状(приглашение)を送ってください。また、送る前に招待状のPDFも送ってください」と書くのを忘れないようにします。すると、たぶん「招待状は*月頃に送ります。」と返事がきます。
無論、奨学金や交換留学制度の種類によっては、他にも必要な書類等があるかもしれませんが、その場合はそれらの機関から必ず通知があるはずですから、それに従えばいいのです。あるいは、ぼくが必要な書類を忘れているかもしれませんが、しかし基本的なやり取りの流れはこの通りで間違いありません。
この後しばらくモスクワ大学からの通信が途絶えると思いますが、しかし「受け入れ証明書」を受け取っていれば、とりあえずは安心です。あとは「招待状」を待つだけです。

2、航空券の手配、ビザの取得
招待状が届いて、出発日が確定したら、航空券を手配してビザを取得しましょう。前者にはパスポートが、後者にはパスポートと招待状が必要です。ただ、ここが大事なところですが、恐らくあなたに招待状は届きません。理由は分かりませんが、招待状をスムーズに受け取ることができた日本人をぼくは知りません。招待状の取得は、出発予定日のぎりぎりになるものと考えておくべきです。場合によっては間に合わないこともあります。ですから、航空券の購入もぎりぎりまで待ちましょう。
ところで、旅行会社に航空券の購入とビザ取得の代行を依頼するという方法があります。ある理由から、ぼくはこの方法をお勧めします。その理由は口にはできないのですが、招待状の遅着の問題に関して、非常な効力を発揮しえます。

想像以上に長くなってしまいました。次回に続く。次回のテーマ「博士課程?修士課程?学部生?研究生?」

コピー疲れ

2012-08-22 23:14:30 | お仕事・勉強など
学校で本を何冊もコピーしまくってきました。コピーし過ぎて、お金が足りなくなってしまいました。そして暑かった。

で、お金がなくてコピーできなかった本は借りてきてしまったので、後日学校へ行って返さないといけない。めんどい。それはそうと、この本はかなり貴重な本で、古書としては出回っていないようです。つまり入手は困難。だからせめてより多くのページをコピーしたいと思うのですが、どの論文をコピーしたらいいのか悩みます。もちろん、お目当ての論文はもうコピーしてしまいましたが、「これはいるかな、いらないかな」という感じの論文があるので、迷うのです。どうしよう。

それにしても、ロシアの大学と音信不通・・・