Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

パソコン不調

2009-07-30 23:46:08 | Weblog
パソコンが一昨日くらいからおかしいです。
ネットをしていると、急に画像が表示されなくなってしまうのです。
それ以外は問題ないのですが、これは困る。
実は今もその状態。
いったん閉じてから、また始めると元通りになるのですが、急になるから怖い。
しかも、その症状が今日から急激に悪化してしまいました。
きのうまでは、そろそろネットをやめようかという頃になってそうなっていたのが、今日はもうまさにまっさかりのときにそうなって、しかもそれが連続で続いています。つまり、いったんブラウザを閉じて、それから開いて、しばらくするとまた画像が表示されなくなり、また閉じて、それから開いて、するとまた表示されなくなり…という繰り返し。
本当にもうパソコンを買い換える時期にきているようです…
ああ困った…

つづき(ヤンポリスキー)

2009-07-30 00:13:34 | 文学
きのうのつづき、ヤンポリスキー『デーモンと迷宮』を読んで、ぼくの思ったこと。

きのうは、この本の文章を引用しなかったので、これが一体どれほど難解(に見える)かが分からなかったと思うので、今日は提示しておきます。例えば、このような――

「言語・視覚・身体いずれもが、分節化された記号的地層と、その意味作用の臨界となる物理的・身体的平面をもっているのだ。」

要は、(主語が)記号的側面と物理的側面をもっているのだ、という意味なのですが、ぼくはこういう文に戸惑ってしまうのです。評論でよく使われる「分節化」はまだいいとして、「意味作用の臨界」だとか、「身体的平面」だとか、イメージが湧いてこないんですよね。で、この本っていうのは大体がこういう記述で埋められているわけです。

ぼくはこの本から大いなるヒントを得られたので、論文執筆にはとても役立つと思うのですが、しかしながら、なんとなく頭の中がもやもやしていて、すっきりと理解できないんですよね。理論書とか評論なんて大抵そんなもんじゃないかと思われるかもしれませんが、ぼくはそれでは納得できないのです。せめて85%は理解できていないと、「分かった」という印象にはなりえないし、また読んだ意味そのものが薄れてしまうような気がするからです。

完璧主義者ということなのかもしれません。『デーモンと迷宮』にしても、それほど難解な文章ではないと思うし(一応ぼくにとって大切なところはぼくなりに把握できたわけだから)、実際に読みやすいと言っている人がいるわけだから、通常程度の評論の難解さのレベルにあると言えるのかもしれませんが、それでも、完全には理解できないわけで、そうすると、ぼくは我慢ならなくなってしまうのです。「なんておれは頭が悪いんだ!」と絶望して、本を読む意味まで見失ってしまうのです。天才的な頭脳を求めているのかもしれません。でも、それは所詮無理なんですよね。ぼくは天才にはなれない…。けれども、読んでいる本の内容くらいは完全に理解したいと思っている…。「完全」の定義は難しいですが、そういう高次元での話をしているのではなく、単純な意味で、書いてあることくらいはすんなりと頭に入ってくればいいね、と感じているのです。

救いは、指導教官の先生も、ドゥルーズの本は難しくてよく分からん、と公言していること。ああ、先生でも分からない本はあるのね…でも、ぼくのレベルはあまりにも低すぎるんじゃないだろうか…

ヤンポリスキー『デーモンと迷宮』

2009-07-29 00:47:19 | 文学
批評書については感想を書かないと言いながら、ネタがないので仕方なく。

それにしても、これについて書くに当たって、ぼくは恥ずかしい告白をせざるをえない。というのは、ぼくは本書『デーモンと迷宮』の内容がよく分からなかったのです!

ヤンポリスキーは現代ロシアの著名な批評家で、数年前に日本にも来日し講演したことがあるそうですが、ぼくはハルムス研究で彼の名前を知り、その後、彼の著書を一冊入手しました。ところが読んだのは本書が初めてで、こんなに本格的な邦訳が出ていたとは、ロシア文学に興味がある者として不明なことに知りませんでした。

それにしても、難しい。この難しさは、この本が主に身体を論じており、且つぼくがこれまで本格的な身体論を読んでこなかったことに由来していると思われます。つまり、基礎知識がまるでないところに、このような微細で奇想の評論を提示されても、理解できなかったのです。

奇想、と言いましたが、ぼくはしかし全部を読んだわけでなく(と言うよりは第一章の他は僅かな断片に目を走らせただけですが)、その奇想について、つまりそれが奇想であることさえ了解できませんでした。これは、高山宏氏の書評の言葉をぼくが借りているだけです。氏によれば、本書は「実に読みやすい」そうで、自身の関心とも親和性が高く非常に楽しめたようです。

ヤンポリスキーは機械的身体、痙攣する身体といったものを論じ、またバロック的なものにも関心があるようですが、「バロックと言えば高山宏」です。何か自らと通底するものを感じ、それで興味深く読めたのかもしれませんね。

…と書いて、ぼくはここにある嘘を隠しています。嘘、というか、不安です。それは、次のような疑いです。すなわち、本書を理解できなかったのは、結局のところ、単にぼくの頭が悪いからではないか?高山宏氏がよく理解できて、ぼくにはよく分からなかった、というのは、知識の差のみならず、知能程度の差も関係しているのではないでしょうか。こういった疑念は、ぼくにとってはもう何年も前から馴染みのものですが、それは不安と確信との間を揺らいでいます。ある本があって、頭のよい人が100理解できたところ、ぼくには1しか理解できなかったとしたら、果たしてぼくは読書した意味があったのでしょうか。単なる暇つぶし以上のものを読書に求めているのだとしたら、この結果は重たすぎます。

ちなみに、訳者による解説の文章は難解な内容ではないのにちっとも頭に入ってこなかったので、文章の相性が悪い、ということもあるのかもしれません。そうであることを祈りつつ…

論文で思う

2009-07-28 01:33:35 | お仕事・勉強など
ぼくはいま修士論文に取り掛かっているのですが、ぼくのやっていることっていうのはとても幅広いのです。もう本当に範囲が広くて、広く浅く、ということにならざるをえません。でもそうなったのはもちろん故意でして、そのことで悩んでもそれは結局自分が原因なのです。

しかし、本当のことを言うと、ぼくはもっと一人の作家のことや、一つのテクストについて詳しく調べ、それを分析したいと思っているのです。それをしないのは、まずぼくが飽きっぽいから。一つだけのことに専心するなんて、とてもじゃないけどできそうにないのです。例えばチェーホフをけっこう読んでいるのでチェーホフについて論文を書こうとしても、やっているうちに飽きてしまうんじゃないかと思うわけです。寝ても覚めても、一年中(いやもっとか)チェーホフではね。

それと、実はこちらの方がより本質的な理由かもしれませんが、ぼくは一つのことだけで論文を書ける自信がないのです。だいたい8万字は書かなくてはならないのですが、チェーホフのことだけで、場合によったらその一つの作品だけで、8万字も書けるのか。かりにチェーホフではなく日本であまり研究されていない作家であったら(ハルムスとか)、欧米の文献が基盤となるし、そうなったらぼくにはそれを読みこなして論を発展させてゆける自信がないのです。

だからぼくは、日本語でも読める文献のあるテーマを設定し、そのテーマについて調べ、関係する文学作品を論じる、という手順を踏むことになるのです。もちろんこれはぼくの性向に由来するものではありますが、いま言ったような自信のなさも大きく影響しています。

だから希望としては、まだ日本では研究されていない作家や作品を、独自の手法(テーマ設定)で切り込むことですね。ぼくは参考文献をけっこう駆使するタイプなので、それには外国語でたくさんの本を読まなくていけないので大変そうですが、そんなことができたらいいなあ。今回の論文では、一部でそれに近いことをしようと画策しています(今日思いつきました)。翻訳のない某ロシア文学をミメーシスの観点から論じられるかな、と。メルツァーという人がいるのですが、この人が卓抜な論文を書いていて、それに触発されたのでした。

暇を見つけてそのロシア文学作品を読み直しておこうっと。

もんじゃもんじゃ

2009-07-27 00:29:33 | お出かけ
月島にもんじゃを食べに行きました。
ぼくは東京っ子なのですが、もんじゃってこれまで一度しか食べたことがなく、月島にも行ったことがなかったのですが、急に食べに行くことに決まったのです。

月島ってどうしても「月島雫」を想起させる(というのも、月島を知ったのは雫を知った後だったから)ので、ちょっと緊張してしまいましたが、何事もなく月島に到着。って当然か。大学が本郷にあるので、そこから大江戸線で15分くらいです。

月島は下町だっていう印象が強かったのですが、駅から出た辺りの景色は、どこにでもある東京の街並みと変わりませんでした。大きな道路に高く聳えるマンション群。しかし、一歩商店街に足を踏み入れると、そこはもう別世界。もんじゃ屋が何十と軒を連ね、その合間合間に色々な小さなお店が建っています。長い長い屋根がこの商店街の中空にかかり、こじんまりしたお店がその下に並んでいます。このような、一つの特徴で統一された風雅な街並みは、どこか金沢の古い街並みを思わせます。なんかいいい感じです。

さて適当な一軒に入ってもんじゃを注文しました。ところが、どうもそれほどおいしくないような…別にまずいわけじゃないんですが、ソースや醤油の味付けはお客次第でしたし、なんか麺のないやきそばを食べているような気が。もんじゃっておいしい食べ方やおいしいお店があるんですかね、やっぱり。もうちょっと勉強してから行くべきだったかな。いずれ、リベンジ(?)したいと思います。でもそのときはお好み焼きも注文しようかな…これは邪道か?

イヤホン購入

2009-07-25 00:01:42 | Weblog
長年愛用していたイヤホンが壊れたようなので、新しいのを買いに行きました。
ぼくのイヤホンの用途は、パソコンで映像を観るときに使う程度なのですが、なくては困るのでね。

で、試してみましたが、最近のはすごいですねえ。音が違う。というか、前のがぶっ壊れてたから高音質で聞けなかっただけかもしれませんが。

「時を刻む唄」を新しいイヤホンで聞いて、感動しましたよ。この歌はやっぱりいいなあ。CLANNADはやっぱりいいなあ。
ところでYouTubeはブラウザをバージョンアップしないといけないそうですね。ぼくのパソコンはかなり古いので、試してみたらお使いのパソコンではできません、と言われてしまった。やっぱり買わなきゃ駄目かなあ。でも今年は論文を書かなきゃならないし、愛用のを代えるのはけっこうストレス。それに新しいOSが発売されるとか聞くし。ビスタは評判よくないし。いったいどれを買えばよいのやら。パソコン音痴にはさっぱりです。まあしかし、今のところ買う予定はなし…(これでいいのか)

イヤホンも新調したことだし、何かDVDでも観ようかなあ。

ポー詩集

2009-07-24 00:21:38 | 文学
今年はエドガー・アラン・ポーの生誕200周年だそうですね。朝日新聞にも少し記事が出ていました。(記事は)かなり欲張った内容でしたね。

そういうわけで、ということはないのですが、新潮文庫から出ている、阿部保訳の『ポー詩集』を読みました。有名な「大鴉」「アナベル・リイ」も所収。

これを今日読んだのは本当にたまたまで、生誕200周年だなんて知りませんでした。ポーといえば、怪奇小説や探偵小説が有名ですが、彼の本領が発揮されたのは実は詩である、と考える人もたくさんいます。ぼくはこれまで小説しか読んでこなかったのですが、詩がすごいらしいというのを聞いて、前から読んでみたいと思っていました。それを達成できたのが、偶然今日だった、ということです。

ちなみに言うと、ぼくは詩というものをこれまでほとんど読んでこなくて、というのも詩は原文で読まなければ意味がないと思っていたからです。ロシアも例外ではなくて、もっともある程度は読んでいるとはいえ、しかし小説に比べてかなり少数の作品しか読んできませんでした。だったら原文で読めよ、と言われれば何も言い返せないのですが…

でも、そんなに頑固になる必要はないだろう、と最近は思い始めていて、それで試しに読んでみたのがポーだったわけです。薄っぺらい、すぐに読了できてしまいそうな本でしたからね。

前置きが長くなりました。本題は短いです。
ポーは27歳のときに、まだ13歳という少女ヴァージニアと結婚します。が、まもなく彼女はみまかり、ポーはこの上ない悲哀と絶望を味わいます。その感情が投影されたのが、本書に収録されている「大鴉」や「アナベル・リイ」です。他にも、「死美人」という言葉に象徴されるように、愛しい人の死、美女の死というものにポーは強く惹かれているようで、それは彼の代表作「アッシャー家の崩壊」でも明らかでしょう。けれども、本書の詩では、死者の復活という怪奇的な要素は見られず、ただ哀悼や憂悶の情を詠います。

ポーの詩は、恋人を詠う他の多くの詩とは違い、太陽からは隔離され、青白い表情や暗い夜が印象に残ります。海の底に沈む都などは、ポーの心象風景としても考えられそうです。そのような情景を描き出すには、阿部保の訳文も力を貸しているでしょう。古風でありながら簡明で、余分な贅肉が削ぎ落とされた名文です。

この中では特に気に入った詩というのはなかったのですが、原文で熟読すれば、また違った感想を得られるかもしれませんね。

ウォレスとグルミット

2009-07-23 01:24:29 | アニメーション
ウォレスとグルミット・シリーズの最新作、『ベーカリー街の悪夢』を観てきました。このシリーズは大好きなので、楽しみにしていましたが、案に違わずおもしろかったです。

今回はサスペンス・タッチで、イギリスということでヒッチコックの流れを引いているとかいないとか…

ウォレスとグルミットはパン屋になっていて、パン屋ばかりが殺される事件に巻き込まれてしまいます。というふうに、今回は殺人事件が主なプロットの原動力となっているのですが、ちょっと違和感がありますね。このシリーズで殺人はないよなあ、という気がしてしまうから。でもそこはニック・パーク、決して深刻にはならずに飄々としたタッチで、暢気でゆるりとした日常を描いているので、「らしさ」は健在です。

とにかく楽しい出来に仕上がっていて、クライマックスのほとんどドタバタでありながらもスリル満点のアクション(?)は見ものです。最後にけっこうどぎついブラックユーモアがあるのは賛否の分かれるところでしょうか。あれがブリティッシュ・ジョークなのかもしれませんが、個人的にはちょっと…ジュラシックパークじゃないんだし…

でも概してよい出来で、人形の動きの滑らかさには驚くばかり。人形アニメの域を超えています。前半の見所である車と自転車の走行シーンはスピード感抜群で、さすが。この臨場感はもはやニック・パークの専売特許か。ポヤールのある種のアニメーションでもスピード感は重視され、当時として画期的な表現を達成しているし、ノルウェーの『ピンチクリフ・グランプリ』なども最大の見所はカーレースのスピード表現なわけですが、ウォレスとグルミット・シリーズのスピード表現は他の追随を許さないほど。緊迫感と疾走感と、抜群に巧い表現です。

さてシリーズの過去作品が3本同時上映されていて、その中でもやはり『ペンギンに気をつけろ』クライマックスでの追いかけっこには瞠目するばかりですね。あんなにスリリングで、でもとても愉快でユーモアがあって。すごいです。

このシリーズをまだ観たことがないという人は、夏休みを利用して劇場に足を運んでみるとよいかもしれません。今日はちょっと混んでましたけどね。ちなみに吹き替え版と字幕版がありますが、どちらでもお好みで。ぼくは字幕版で観ましたが、動きが派手なので、映像に集中したいという方は、吹き替え版の方がいいかもしれないですね。

古本

2009-07-22 02:35:49 | 文学
今日はもう遅いのでほんの少しだけ。

このあいだ、古書店に行って、ピニャール『世界演劇史』という本を買いました。文庫クセジュなので250円。比較的薄い本ですし、これで世界中の演劇史を著述するのは不可能だろうと思って目次を見てみたら、日本のことも書かれてあるんですねえ。すごい。でも、その記述はさすがに貧弱みたいですね。ロシア演劇にもほとんど触れられていないし。前、『中世劇の世界』という本を購入しましたが、それを補足する程度のものとして見ているので、まあいいんですけどね。

あと、春陽堂から出ている江戸川乱歩文庫も購入。新潮文庫から出ているのと収録作品がかなり重複しますが、この文庫は一冊くらいは手元に置いておきたかったので。近いうちに読むつもりです。

というわけで、このへんで。ごきげんよう。

怪童丸

2009-07-21 00:40:57 | アニメーション
アイジープラスとアイジーのアニメーション『怪童丸』について。

ちなみに、きのうの記事を読み返してたら、文学関係者がアニメーションについて論文を書くことに否定的な意見を述べている文章が、誰か特定の人を非難しているんじゃないか、というふうにも読めるような気がしてきました。念のために言っておきますが、誰も念頭にはおいていません。あしからず。ただ、国文学者が出したジブリの本って、誰が読むんだろう…と思ったくらいです(ぼくは読みましたが)。

さて『怪童丸』。
たしか2001年くらいの作品で、45分くらいです(記憶が曖昧ですみません)。
驚きました。まさかのバッドエンディング。え、これで終わりなの!?って呆気にとられましたよ。いまだに不思議な気持ちです。続編があるんでしょうか。あったら教えてください。

金太郎の話は誰でも知っていますよね。♪まさかりかついだ金太郎~って歌にもなってますよね。しかし彼は実在の人物で、長じて源頼光(みなもとのらいこう)の家来となります。同じく家来の渡辺綱ら頼光の四天王と共に、酒呑童子(しゅてんどうじ)という鬼を退治した、という伝説が残っています。この話って最近の若い人はあまり知らないみたいですね。ぼくは昔本で読んだのですが、周りの人に聞いてみたら知らないと言っていました。

さて、その金太郎が『怪童丸』に登場します。坂田公時(さかたのきんとき)として。しかも設定では少女ということになっています。まだ15歳くらいですが(正確な年齢は忘れました)、立派に四天王の一人を務めています。主人公です。彼女らが、都を脅かす妖しを退治しようとする、というお話。

相手の親玉は公時(漢字これで正しかったっけ?)が幼少の頃から彼女を歪んだ愛で捉えていた姫で(ただの同性愛ではない)、今ではすっかり常軌を逸してしまっています。童子の姿をした鬼を従え、若い姫らを術で操り、都を襲います。それに立ち向かう頼光たちでしたが…

まず目を引く特徴は、その淡い色使い。霧の向こうに霞んでいるような色彩です。ただ、血だけが妙にくっきりしていて、一際赤い。たぶん血を鮮明に見せるためにこういうふうにしたんだと思います。

それから、渡辺綱が鬼の腕を切り取る、という逸話を再現している点も好感をもてました。これは有名な話なのです。そのときの戦闘シーンはなかなか迫力があり、ぼくは好きです。馬の足を次々に切断してゆくところなどが。

なんといっても、頼光たちが負けてしまうラストが鮮烈なのですが、これは姫に語りの重心を移したためでしょうね。監督が姫に感情移入する余り、殺してしまうのが忍びなかったんでしょうか。しかし、これでは物語が終わらない気がするのですが…やっぱり続編があるように思えてきます。まあでも、バッドエンディングもたまにはいいですけどね。

アニメーションと文学

2009-07-20 00:52:57 | アニメーション
そういえば、とふと気になったことがあります。いや、厳密に言えばずっと前からそう感じていたんだけど、また最近気になりだしたこと、です。

ノルシュテインの『外套』は、ゴーゴリの『外套』を下敷きにしているわけですが、どこまであの世界観を表現できるのか、という点。ゴーゴリの『外套』っていうのは文体が昔から注目されているわけですが、当然アニメーションではその文体を表現することはできないわけです。エイヘンバウムによれば、感動的な部分と滑稽な部分との交代がグロテスクな効果を生む、というのがゴーゴリの小説であり、それは独自の文体によって達成されているわけですが、アニメーションではいかに表現するのか。ぼくはノルシュテインの未完の『外套』を何度か観たことがありますが、ちまちましたアカーキー・アカーキエヴィチの日常が描かれているばかりで、ゴーゴリの魅力だとエイヘンバウム以来考えられてきた要素が抜け落ちしてしまっているような気がしていました。

もちろん、ノルシュテインの表現そのものはたいしたものです。台詞がなかったのですが、単に彼の生活を描写するだけで、その性格を的確に表して、吝嗇ぶりと小役人っぷりを際立たせていました。アカーキー・アカーキエヴィチがすす切れた外套を点検する様子や紅茶をすする様子はぞくぞくするほど巧い描写で、さすがノルシュテインです。しかし、原作の持っていたユーモアはどこへいってしまったのか?

たしか冒頭の10分だか20分だかしか見ていないので(完成したらどれだけの長さになるのか)これからユーモア等も出てくるのかもしれませんが、主人公の高潔さや悲壮感がクローズアップされすぎないようになることを願っています。あまりにもせせこましい彼の生活風景は、ひょっとしたらそれだけで笑いを誘うものになりえているかもしれませんが、もう一度観て確認しておきたいところです。

                   ★          ★

さて、それとは全く別の話で、アニメーション批評に他分野の専門家が参入している事態について。「もののけ」以降にこの傾向は顕著になったように思われ、一時は社会学なり心理学なりの論文が百花繚乱の呈でしたが、近年でも、例えば文学の専門家がアニメーションを論じることがときどきあります。で、思うのですが、こういう部外者がアニメーションを論じることってのは、どうなんでしょうか。昔からのアニメファンや制作者はどう考えているのでしょう。

彼らの中には、優しく説き起こす場合もありますが、難解な概念や用語を使用してアニメーションを解説しようとする人もいます。しかしそれは、本当にアニメーションを解き明かしたことになるのか。また、読者に誰を想定しているのか。ぼくとしては、やはりアニメーションの専門家がきちんとした視点と手法で論じるべきだと思うのです。日本のアニメに関しては、何人かの専門家がいて、彼らはよく雑誌などに寄稿していますが(ときには著書を出す)、しかし海外のアニメーションについては見事に無知だったりします。日本製のアニメはとても詳しいのに、海外のこととなるとスタレーヴィチの名前さえ知らない、ということは往々にしてあります。そんなに偏った知識と狭い視野で果たしてアニメーションの魅力を解明できるのか。いわんや素人(他分野の専門家)をや、ってところです。

一方、海外のアニメーションには造詣が深いのに、日本のアニメーションをてんで馬鹿にしてしまっている人もいるでしょう。それでもいけない、とぼくは思います。文学のことを考えみれば分かりやすいと思います。たとえロシア文学の専門家だって、最低限の日本文学の知識がなければ研究者としては半人前だし、その逆も然り。でも、幅広い知識を有している文学研究者というのはたくさんいますからね。どうしてアニメーション界ではそういう人が少ないのか、というのは疑問です。もちろん、ぼく自身にも言えることなのですが。

きちんとしたアニメーション評論家が出てくる土台を作らないといけないと思います。専門性ばかりを求めると大衆から遊離してしまう恐れがありますが、でも基礎的な教養は必要なはずです。パソコンの知識さえあれば誰でもアニメーションを制作できる今だからこそ、多くの人にアニメーションならではの魅力を考察していてもらいたいですね。エヴァばかり観ていた人がノルシュテインを観れば仰天するはずだし、マクラレンが最上だと思っていた人がエヴァを観ればやはり吃驚するわけです。色々な知識があれば、将来的に制作の幅が広がるでしょうし、その人の方向性を決定付けます。また多くの人が最低限の教養を身につければ、鑑賞眼も磨かれて、結局は制作者にプラスに働くでしょう。

文学や社会学の知識を総動員してアニメーションを論じる方法はあっていいし、結局のところぼくにはそういう手段しかありませんが、でも現状のようにそれが大勢ではいけない。やはり、日本にも海外にも熟通した専門家が必要だと思いますね。

…とまあ、ぼくの昔からの勝手な意見です。

イバラード物語

2009-07-19 01:50:42 | 漫画
きのうのショックからまだ立ち直れず、今日はとりあえず漫画を一冊読む程度のことしかできませんでした。でもそれだけでもできたというのは、最悪の状態ではないってことです。

さて、井上直久の漫画『イバラード物語』読みました。
どこかますむらひろしを思わせる素朴な、しかしトーンを貼らないで描く細密なタッチは流行りの漫画にはない我流のもので、繊細さを醸し出しながら幻想性をページ一杯に瀰漫させています。

井上直久は本来画家であり、彼のイバラードと呼ばれる幻想世界を描いた絵画は非常に詩情に富んでいて独特ですが、この漫画はまさにそのイバラード世界を舞台にした作品であり、彼の絵画が好きな人ならばきっと気に入ってしまうでしょう。彼の絵画はふつう風景の一部を切り取ったものであり、静止した世界なのですが、漫画の世界は躍動的で、様々な冒険が繰り広げられます……と言ってもよくあるような活劇ではなくて、イバラード独自の設定が生かされた冒険なのです。思念を増幅させるシンセスタ、あるときはライトセーバーであるときは銃であるときはライターでもある、それで空さえ飛行できるリグタ、線路のない高速鉄道ジーマ、それを見ると魔法の力が失われるというめげゾウ…などなど、数多くのイバラード固有の道具や現象が鏤められていて、というよりはそれが土台になって話が展開します。ここは魔法使いが普通に生活している世界であり、モグラは言葉を話すし、自分の抱いているイメージ(思念)が実際に目に見える形をとったりします。ラピス・ラズリに火をつけて煙を出せば、あらゆるものの細部が急激に見え出して、ついに自己の存在が不安定になってしまう…

記憶(ロム)を宿したロム石が化石になって積もっている森、ラピュタの生誕、高速ホタルなど、幻想的で想像力に満ち溢れた形象は枚挙に暇がありません。そういうものたちが凝縮された漫画が、この『イバラード物語』です。こういうのが好きな人には堪らないでしょうね。

ちなみに、井上直久の絵画(イバラード)は彼のHPで容易に見られます。
 ↓
http://iblard.com/hanga/

ロシアン・ショック!

2009-07-17 23:27:05 | Weblog
太宰治なら自殺してるぜ。

今日、ロシア文学関係のグループで飲み会があったのですが、その出席者というのが、

ロシア人
ロシア人
先生
先生
ロシア語の得意な学生
ぼく

という6人。
ざけんじゃねえぞうってやつですよ、タルルートくん風に言うならばね。
会話の90%以上がロシア語。文字通りの意味で、自殺したくなりました。

ぼくに話し掛けられたロシア語は、適宜通訳されて伝えられるのですが、それがまた情けなくて。お前何年ロシア語勉強してるんだよっていう。いや聞き取りは真面目にやってないんです、なんて言い訳にもなりゃしない。だいたい、才能ないんです。分かりきってることなんです。はっきり言ってしまうと、できるようになる人ってのは、元からある程度できるんですよ。学校の勉強を思い出してください。東大に入る人は、小学校からある程度はできた人たちなんです。たいして勉強しなくてもできる人たちで、それが更に努力するから東大に入れるんです。もちろん全然できなかった人が猛烈に勉強して合格するっていう例もあるでしょうが、少ないと思いますよ。ぼくなんかも学校の勉強はできましたが、外国語の聞き取りっていうのはできたためしがないんです。これはもう才能の問題ですよ。だからぼくができるようになるには、相当の努力をしなければならない。でもそれをしないから、いつまで経っても平均以下なんです。

ときおり通訳されるものの他はほぼ全ての会話が聞き取れなくて、皆が笑っているのに一人だけぼんやりとしてる寂しさよ。知っているロシア人の先生が前に座ったので、ときどきぼくもロシア語で話し掛けるようにしましたが、それが「完全なる片言」。「アクショーノフが死んだ」、「普通の筋が殺人に」、などなど。先生からの質問は、「夏の予定は?」すらよく聞き取れずに通訳される始末。恥です。もううんざりですよ。自分にね。

久しぶりにロシア語を生で聞いたので、かなりなまっている、ということはあったんだろうけれども、それにしても、ですね。飛び降りるなり手首を切るなりしてもうどうにかなってしまいたいですよ。大体にしてぼくは自傷癖(?)の傾向があるので、こういうときは本当に落ち込みます。太宰治じゃなくても死んでるぜ。

とにかく今日は最悪だった。鬱鬱な文章ですいません。

私は何者かであっただろうか?

2009-07-16 23:43:24 | アニメーション
ニーナ・ショーリナ『夢』という人形アニメーションがあります。10分ほどの短編ですが、ぼくは好きで、最近この作品の中で聞けたフレーズを思い出しています。

私は何者かであっただろうか?

今まさに死のうしているかに見える男の独白が続くアニメーションで、人形アニメーションなのに非常に幻想的で、寒々とした作品です。人形なのだから具体的だと思うのが普通で、しかも日本では人形と言えばかわいらしいのが想起されがちなのですが、この『夢』はまるで違います。さて、男の独白「私は何者かであっただろうか?」は、胸にきりりと突き刺さりますね。男はすぐに、「何者かであったものなど、愚か者ばかりだ」という意味のことを付け加えるのですが、それは本当でしょうか。それともただの負け惜しみ?

ぼくはまだ何者でもなく、周囲の人たちがどんどんと「何者か」になってゆくのを見るにつけ、非常に悲しく寂しい気持ちになります。頭を抱えたくなるほどの絶望。ああ、何者かになりえた連中など、所詮馬鹿ばっかだよ!と言い切れたらどれほど楽か。

さて、彼女の別のアニメーション『ドア』(という題名だったっけ?)も、一風変わった作品です。あるアパートの立て付けが悪くて開かないドアを巡って住民たちが騒動を巻き起こすのですが、これがただの笑劇にはならず、魔術的な効果さえ出てくるのですから、たいしたものです。概して幻想的で特殊な雰囲気を持ったものを作るのが得意なようです。

アニメの殿堂とやら

2009-07-16 01:34:14 | アニメーション
ここ最近ブログへの訪問者数が急増していて、ちょっと怖い思いをしていたのですが(なぜ?)、再び元の状態に戻りつつあるので一安心(なぜ?)

さて、例の通称「アニメの殿堂」とやらのことで、今更ながら思うことを少し。
まず、これって民主党が政権をとったらただちに凍結する事業の一つらしくて、今のままではまず間違いなく実現しない事業だと思われます。自民党は、このアニメの殿堂の運営やら展示方法などについて広く国民から意見を求める、などとのたまってましたが、ちゃんちゃらおかしい。だって、すぐにおじゃんになってしまう計画かもしれないんだから。

正式名称は国立メディア芸術ナントカとかと言うそうですが、「メディア芸術」という名詞がどれほど一般人に浸透しているのかは怪しい。ぼくなどは毎年メディア芸術祭に遊びに行くので、大体のイメージくらいは持っていますが、多くの人はそうではないと思うんですよね。だから、国営の漫画喫茶などと野党から揶揄されるわけですね。これはひどい悪口で、まあ漫画を馬鹿にしているとしか思えないわけで、こんな暴言を吐く方も吐く方だと思いますが。

さて、なぜ「メディア」なのかということはぼくには実はよく分かりません。アニメ、漫画、ゲームなどを総称するのになぜメディアという名称が付されたのか。絵画や音楽、文学といった旧来の芸術に対して、メディア芸術よりは「新芸術」とでもした方がむしろ分かりやすいのでは。しかしながら、「旧」とか「新」とかいうのは暫定的なもので、いま新しくてもじきに古くなってしまうのだから、あまりよい名前ではないことは分かりきっています。それに感情的に言っても、芸術を「旧」とか「新」とかで括ることに反発があるのは容易に想像できます。

それよりもむしろ、メディア芸術は「芸術」という名称の方に問題があるのかもしれません。漫画やアニメの制作者の中には、自分(たち)は芸術品を作っているわけではない、と考えている人たちは大勢いるでしょう。そうではなく、もっと猥雑な民衆性に奉仕しているんだ!と。そもそも少し前までこれらの作品は一般的に言って下位文化に属すると思われていて、その認識が改まったのはつい最近のことでしょう。宮崎駿の国際的な評価などがその情勢を後押ししたんですね。サブカルチャーは日本を代表する文化ということになって、政治的・商業的にそれらは利用され、「芸術」の枠に嵌められてしまった。だから当然そういう動きに反発する人たちが現れるわけです。

どこかの政党のようにのっけからそういう文化を馬鹿にする古い体質の人から、今言ったような事情でサブカルの高尚化に反発する物知りまで反対者はたくさんいるわけで、そういう中でアニメの殿堂を作るのは難しいでしょう。安ければ大して問題になりませんが、100億を超えると言えば、アホらしいと思う向きも多いでしょう。

アニメの殿堂がどのようなものになるのか、という具体案はほとんど決まっていないようですので、ぼくもそれについて云々できないし、またどうせ凍結されそうだから、無駄ではないか、という諦めが先にきて、これについて何事かを語ろうとする意思を奪ってしまうのですが、基本的なことを一つだけ。芸術という範疇でだけアニメーションや漫画を捉えるのは間違いではないか、ということ。

文学や映画のようになればいいと思っているわけです。あるものは芸術的だし、あるものは大衆的な。芸術文学館なるものが仮に建造されるとしたら、ぼくはそこにあまり足を運びたくないです。ぼくなんかは純文学ばかりを読んでいる人間ですが、それでも文学にある娯楽性というものは重視しているし、あまりにも文芸的な作品というものは数少ないことを知っています。ほとんどは程度の差こそあれ大衆文化に結びついているし(ドストエフスキーだってプロットの枢要は探偵小説だ)、もしも高踏的で文芸的で芸術的で大衆への媚びがない文学作品ばかりが集められていたら、ちょっと嫌です。大衆的なものを蒐集するのであれば、どこまで手広くやるのかということが問題になります。ピンきりですからね。

だから、アニメーションを芸術という単一の単位で括って、一箇所で展示するという発想はほとんどありえないことのように思えるわけです。アニメーションと言ったって、文学のようにピンきりですからね。線引きを誰がするのか。どのようにするのか。

アニメーションや漫画を展示する施設があること自体はいいと思います。でも、やるのなら、戦前・戦中アニメーション館とか、人形アニメーション館とか、あるいはもっと漠然とした括りでもいいけれど、テーマ毎のイベントをしょっちゅう開催するとか、「芸術」にこだわらない方針を目指してもらいたいです。文学記念館は全国に数多くありますが、中央集権的な現在の方針より、もっと複数的で小規模な方向に話をもっていってもらいたいですね。図書館にDVDや漫画(またそれに関わる雑誌、たとえば『アニメージュ』など)を置いて無料で(または安価な値段で)貸し出せるようにするとか。

ところで、アニメーションや漫画はそれを観る、読むことで享受するわけですが、アニメの殿堂の構想では、その場ですぐにそういうことができるようになっていることでしょう。貴重な作品を蒐集して、館内に研究員を置けば、こういったものを勉強する人には喜ばれるでしょうね。しかしそれよりも、アニメーターの生活保障に金を使えよ、という声は根強いわけですが。

ですが正直なところ、ぼくも考えが揺れています。結局、まだ何も決まっていない、そして計画そのものが凍結しそうなアニメの殿堂への賛否は、自分の中でもはっきりしないのです。