そろそろぼくと同世代の人たちの書いたものが活字になることが増えてきていて、まあそれはある程度前から続いていた状況だったわけですが、で、ぼくは思うわけですが、他の人たちは、自分と同年代の人の書いたものを、年配者の書いたものを読むのと同じような精神状態で読むことができるのでしょうか。しかも、それが優れた内容・文章である場合には。
嫉妬や羨望や劣等感、そういった諸々の負の感情は湧いてこないのでしょうか。当然湧いてくるものだとぼくは思っています。そしてそれを力に変えてゆくのだと。でも、負の感情を正の力に変換できないぼくのような人間は、どうすればよいのでしょうか。それが分からない。
別に文章でなくてもいいのです。例えば、隣の同級生はロシア語の講義を正しく聞き取れている。でも自分はさっぱり分からないとする。このときの失望や劣等感を、どのようにエネルギーに変えてゆけばよいのか。ぼくにはそれが分からない。
プライドなんてもうとっくにずたずたに切り刻まれているはずなのに、それでもまだ、ぼくはその切れ端を大事にしているというのか。それともこの切れ端こそが劣等感なのか。だったらそいつを捨ててしまいたい。遠くへ、目の届かないところへ。
頭のいいことを書いているのを見たりすると、ぼくはすっかり気落ちしてしまう。なぜだ?自分には理解できないことだったから、というのが一つ。もう一つは・・・駄目だ、分からない。いやつまり、こういうことだ。もともと自分よりも「上」にいると考えていた人だったら、どんなにすばらしいことを書いても、ぼくは嫉妬したりしない。例えば先生とかね。しかし、自分よりも「下」だと考えていた人がすばらしいことを書いたなら、恐らくぼくは嫉妬するだろう。例えば下級生とかね。もちろんこれは話を単純化しすぎかもしれないけれど、こういう図式であるのは確かだと思う。
ということは、ぼくは無意識に人のことを「上」や「下」で区別しているということなのか。忌まわしいな。であるならば、ぼくが諸々の負の感情に苛まれるのも、当然の報いなのかもしれない。正のエネルギーに転換できない理由がこれだ。つまり、罰。・・・ああ、内罰感情ってやつの一種ですかね。自分は罰せられた方がいいんだ、という気持ちは最近は薄れてきているんですが、ややもすると顔を覗かせるな。まあしかし、そんなことはどうでもいいのです。
問題は、負の感情にどのようにして対処するか、ということ。その発生の抑制法と発生時の解消法について。
それにしても、幾つかの意味で読み返すに値しない文章だな(だから読み返さない)。
嫉妬や羨望や劣等感、そういった諸々の負の感情は湧いてこないのでしょうか。当然湧いてくるものだとぼくは思っています。そしてそれを力に変えてゆくのだと。でも、負の感情を正の力に変換できないぼくのような人間は、どうすればよいのでしょうか。それが分からない。
別に文章でなくてもいいのです。例えば、隣の同級生はロシア語の講義を正しく聞き取れている。でも自分はさっぱり分からないとする。このときの失望や劣等感を、どのようにエネルギーに変えてゆけばよいのか。ぼくにはそれが分からない。
プライドなんてもうとっくにずたずたに切り刻まれているはずなのに、それでもまだ、ぼくはその切れ端を大事にしているというのか。それともこの切れ端こそが劣等感なのか。だったらそいつを捨ててしまいたい。遠くへ、目の届かないところへ。
頭のいいことを書いているのを見たりすると、ぼくはすっかり気落ちしてしまう。なぜだ?自分には理解できないことだったから、というのが一つ。もう一つは・・・駄目だ、分からない。いやつまり、こういうことだ。もともと自分よりも「上」にいると考えていた人だったら、どんなにすばらしいことを書いても、ぼくは嫉妬したりしない。例えば先生とかね。しかし、自分よりも「下」だと考えていた人がすばらしいことを書いたなら、恐らくぼくは嫉妬するだろう。例えば下級生とかね。もちろんこれは話を単純化しすぎかもしれないけれど、こういう図式であるのは確かだと思う。
ということは、ぼくは無意識に人のことを「上」や「下」で区別しているということなのか。忌まわしいな。であるならば、ぼくが諸々の負の感情に苛まれるのも、当然の報いなのかもしれない。正のエネルギーに転換できない理由がこれだ。つまり、罰。・・・ああ、内罰感情ってやつの一種ですかね。自分は罰せられた方がいいんだ、という気持ちは最近は薄れてきているんですが、ややもすると顔を覗かせるな。まあしかし、そんなことはどうでもいいのです。
問題は、負の感情にどのようにして対処するか、ということ。その発生の抑制法と発生時の解消法について。
それにしても、幾つかの意味で読み返すに値しない文章だな(だから読み返さない)。