Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

最近購入した本(文学)

2010-04-29 00:50:48 | 文学
日に日に閲覧数が減っている・・・耳すまのネタを書いてから急激に減りだしたのですが、何か問題があったでしょうか・・・。まあしかし、このネタは避けては通れないので、こんなネタを受容してくれる方々がそれでもいるんだっていうことはありがたいことです。それとも、最近は文学ネタが減っているせいでしょうか?あとアニメーションのレビューとか。文学はともかく、アニメーションのレビューは後日いやってほど書くと思うので、お楽しみに(?)。イメージフォーラムフェスとラピュタアニフェスが連休中と連休明けに開催されるので、それに通おうと思ってます。ああ、時間とお金が足りない・・・

さて、最近買った本(文学・芸術関連)。

蓮實重彦『表層批評宣言』
モラヴィア『倦怠』
マルケス『ママ・グランデの葬儀』
(以上、各100円)

『美術と演劇 ロシア・アヴァンギャルドと舞台芸術 1900-1930 ロバーノフ=ロストフスキー・コレクション』
桑野隆『夢みる権利』

『美術と演劇・・・』は展覧会のカタログです。
特に100円で買った小説は読む予定が今のところありませんが、いつかは読みたい、と思ってます。『ママ・グランデの葬儀』は未読だったはず、なのです。

関係ないですが、きのうの『けいおん!!』は、よかったですね。うまかったですね。あそこを切り取るか、っていう一場面を切り取っていて、修学旅行での何とも言えない昂揚感や愉快さが醸し出されてましたね。やっぱ他のスタジオとは違うんだなあ。あとアングルっていうか、映し方が凝ってますよね。凝ってるというか、スタイリッシュなドラマっぽい映し方してますよね。1期もそうでしたっけ。画面手前に物を置いたりとか、そういうことなんですが。

なんか、とりとめもない記事になってしまった。いつものことか。

グロテスクって

2010-04-28 00:52:55 | Weblog
なんか新しい投稿画面ができているので、試しにそれでやってみます。
最近、閲覧数が減っています・・・飽きられているのか・・・

さて、グロテスクについて。といっても、別にグロテスク・リアリズムについての記事ではないし、またグロいものについての記事でもありません。

そうではなくて、グロテスクなものへの嗜好はちょっとハイセンスっぽくて格好いいと思われてるんじゃないか、ということについて。

よく分かりもしないのに幻想文学を読んだり、というか読みもしないのに幻想文学を買ったり、人形を巡るエッセーを読んだり、怪奇小説を買ったり、暗黒小説について調べたり、江戸川乱歩は神だと言ってみたり、そういう人っていると思うんですよ。まあぼくもそれに近いですけどね。なんか、文学が好きな人だったら、こういうグロテスクなものが好きでなくてはいけないし、そうあるべきなんだ、なんていうふうに考えてしまうわけです。透き通った美とか純愛とか切ない思い出とかに憧れていてはいけないのです。とまあ、そう考えてしまうわけです。

で、実際のところ、グロテスクなものへの興味は嘘ではないのです。確かに関心はあるのです。でも、いざ読んだり見たりしてみると、性に合わない、ということがままあるんです。これはやっぱり、自分はセンスがない、ということなのか、それとも単にグロテスクなものが好きというのがハイセンスの持ち主という観念が間違っているということなのか、どっちなんでしょう。後者であってほしいですが。

ぼくは奇怪なもの(つまりグロテスクなもの)は嫌いではないですよ。度が過ぎればアレですけどね。でもそれよりもずっと、優しいものや綺麗なものの方が好きなのです。シュヴァンクマイエルなんかはグロテスクなのであまり好きではないですねえ。ほら誰かがセンスねえなあって呟いている・・・でも、乱歩は大好きなんですけどね。

探し物

2010-04-25 23:00:47 | Weblog
とある古書店マップを探して、自分の部屋を探しまわりました。まあ小さい部屋なので30分ほど。きっと手提げかばんか机の一番下の引き出しに入っているはずだ、と思って探してみましたが、どうしても見つからない。そうしているうちに意外なものが出てきたりして、なぜこんなところに!?などと呆然としている暇があったら探せよってことで探してみるけどありません。

しかし、あっと気付いて夏用のバッグを探ってみたところ、あったあったありました、去年の結婚式でもらったもの(と言っても引き出物ではなくて料理のメニューなどですが)と一緒に出てきたのでした。古書店マップが。

そういえば、早稲田の古書店街には最近ずっと行っていないなあ、とふと思う。というか、ここには一度しか行ったことがないのだけど。もっぱら中央線沿線で済ましているので。シクロフスキーのとある評論が昔100円で売られていたというし、今度久しぶりに行ってみるかあ。

今はちょっとばかし忙しいのですけれど、時間を見つけて。いやしかし、外国語を読まなければいけないのですけれど。でも、外国語は疲れますね。日本語だって読むのはしんどいっていうのにさ。外国語漬の生活なんて、せいぜい一ヶ月くらいしか持たないんじゃないかって気がします。それともそれ以降は慣れですかね。

さてさて。探し物が見つかって、ほっと息がつけました。

井上ひさしとスタジオジブリ

2010-04-24 00:47:11 | アニメーション
予告通り、書きます。

「井上ひさしとスタジオジブリ」と聞いて、人は何を思い浮かべるでしょうか。たぶん、多くの人は何も思いつかないのではないでしょうか。最近亡くなった、日本を代表する文豪と、日本を代表するアニメーションスタジオとの接点とは何か?ズバリ、狸です。

高畑勲は、狸をモチーフにした映画の構想を練っていました。1992年のことです。その5月に、彼は井上ひさしの小説『腹鼓記』に着目します。狸について、井上ひさしなら何か教えてくれるのでないか、そう考えた高畑勲は、井上ひさしに連絡を取り、会いにゆきます。快く協力を申し出てくれた井上ひさしは、狸に関する自分の資料を惜しげもなく開示したのでした。

完成した作品が、『平成狸合戦ぽんぽこ』です。この映画が公開された翌年、ジブリは監督に近藤喜文を立て、『耳をすませば』を公開します。舞台は、同じ多摩地域。ぽんぽこのラストシーンとなった背景が、耳すまではオープニングの背景として登場します。つまり、連続性のある物語として、この二作は存在しているのです。それは恐らくテーマにおいてもそうなのですが、それはひとまず措き、井上ひさしの話に戻りましょう。

『COMICBOX』という雑誌は、『耳をすませば』の特集号を組んだとき、映画鑑賞のコメントを井上ひさしに頼んでいます。「ぽんぽこ」での井上ひさしとジブリとの縁を知っていた編集部による機転だったのか、それとも偶然か、ぼくには想像することしかできませんが、いずれにしろ、井上ひさしが「ぽんぽこ」と「耳すま」とを結ぶもう一つの「かすがい」になった瞬間でした。それは、両方の作品に間接的に関わったから、という意味でもそうですが、それよりも、彼の耳すまへのコメント内容がそうさせた、という意味の方が強かったのです。

井上ひさしは、『耳をすませば』に対し、どのような感想をもったのか?彼のコメントを要約しましょう。

ヒロインの月島雫がテストで「開発」という文字を書く「瞬間的なカット」があるが、なぜ宮崎駿や近藤喜文は彼女によりにもよって「開発」と書かせたのだろうか。そう思いながら観ているうち、わたしたちの「既成の物差し」が覆されていった。例えば、「仮の宿」としての団地が、「なにか宝石で出来ているようなものとして」描かれているのだった。「畑や原っぱや文部省仕様のコンクリ校舎と団地とが、(・・・)みごとに共生していた。それもじつに美しく」。これまで醜い光景として描かれていたものが、美しい景色として描かれているのだ。「開発だの、団地だの、虫食いの景色だのを二人は正から負へとひっくり返している」。それは、雫にとってはそこが「かけがえのない、ただ一つのふるさと」だからだ。開発を現実として受け止め、そこから未来へと歩みだす。「これはおそらく今までになかった力強い思想だ。月島雫たちに導かれて、わたしは生まれて初めて、虫食い状に開発された東京郊外の、林立する団地の夕景を眩しく見た」。

「ぽんぽこ」と「耳すま」との続きものとしての物語については先述しましたが、ここには、それに直接絡んでくる思想が見事に述べられています。「ぽんぽこ」という作品は、人間による自然の開発を狸の姿を通して告発するものでした(もちろん狸らしく滑稽に)。「耳すま」はそのラストを受けて、まさにそのラストシーンから、物語が始まります。人間は自然を開発し、いやありていに言えば破壊し、動物の棲家を奪った。しかし、そこに住む人間は、いかにして生きてゆくべきなのでしょう。人間は自然環境を作り変えてしまった。動物を殺した。でも、だからといって、人間がその「罪」ゆえに、裁かれるのを待つしかないとしたら、それはあまりにも悲惨な思想でしょう。たぶん、『耳をすませば』という物語は、それでも人間の幸福はありうるのだ、ということを直球で伝えた作品なのです。人間に虐待される側を描いたとき、もうどうしようもないくらい罪深い人間の業に絶望し、全てを投げ出したくなってしまう。でも、そのような人間にさえ、幸福というものは起こりうるし、そして雫たちのような人間がいる限り、絶望してはならないのだ、という力強い思想をぼくたちは受け取ることができるのです。

井上ひさしが団地の美を指摘するとき、ぼくらはこのような「ぽんぽこ」と「耳すま」との思想的な連続性をも視野に入れる必要があります。人間の為してきたことを丸ごと受け止め、そこから歩み出す。「耳すま」が「ぽんぽこ」のラストシーンから始まったように、歩み出す。そうしようではないか。

ぼくがこの井上ひさしの文章に出会ったのは、もう何年も前になりますが、彼のこの短文から、ものすごい影響力を受けました。これを収録している雑誌の表紙には、「この街が/わたしの/ふるさとです」という文が記されていますが、「開発」と「ふるさと」というキーワードを基に、ぼくは色々なことを考えました。そして、以上のような結論に至ったのです。そしてそれは、結局のところ、「人間を肯定しよう」という最も力強い思想だったのかもしれません。

なお、井上ひさしによる団地の美の認識は、『耳をすませば』のテーマそのものでありますが、一部背景を描いた井上直久(同じ井上姓なのはおもしろい偶然ですね)のイバラードという世界観もまた、見慣れた景色を美しくする、という「美化」の観察眼に基づいています。その観察眼は、宮崎駿によって「イバラード目」名づけられ、そしてぼくの考えでは新海誠にも受け継がれてゆくのですが、それはまた、別の物語です。今日は、井上ひさしとスタジオジブリのお話でした。

コミックボックス 耳をすませば特集号

2010-04-23 00:43:19 | アニメーション
その存在を知ったのは、1997年でした。
当時はまだ中学生で、ネットも今ほど普及していなかったし、「それ」を探す術をぼくは持ち合わせていませんでした。思えば、ノルシュテインの存在を知ったのもこれと全く同じ時期で、更に言えば「不条理」という言葉を知ったのも同じ時期でした。いや、同じ本からだった、と告白してしまいましょう。

時は流れ、大学生になったぼくは、「それ」を真剣に探し始めました。けれども、ない。中野や神保町の専門店に何度も足を運びましたが、ない。もちろんネットで検索をかけても、ない。存在は、確かなのです。ぼくは「それ」の写真を見たことがあったし、現物を見たことさえありました。市場にはほとんど出回っていないのではないか、そう思って、ここ数年は半ば諦めかけていました。

ところが、今日、中野でついに「それ」と対面しました。

『COMICBOX』1995・9月号。『耳をすませば』特集号です。210円でした。なぜこんなに安値が付いているのか、ぼくには分かりません。もう一冊の、ナウシカ特集号は310円でした。こちらの方はよく見かけるので安値も分かるのですが、それでも100円高い。どうして?これは、いまや非常に貴重な本です。たぶん、1995年に発売されたときに購入した人以外は、あまり所有していないのではないか、そう思ってしまうほど、これまで見かけることがありませんでした。それとも、単にぼくの運が悪かったのか?・・・ああ、もしそうだとしても、このぼくの「運の悪さ」は、あながち「悪さ」とも言えないのです。

ぼくはアニメーション関連の雑誌や本を、ある程度の量所有していますが、それらはほぼ全て、この特集号を探す過程で見つけ、購入したものです。アニメーション関連のコーナーを物色するときはいつも、最大の目的はこの特集号を探すことでした。この探究心が他の多くの本との出会いのきっかけを作ってくれたのでした。ですから、ちょっとアニメーションに詳しくなったのは、まさしくこの雑誌の不在の力ゆえだったのです。

ぼくはこの本に巨大な憧れを抱いていました。表紙の写真と井上ひさしの映画評だけ別の雑誌で見て、それにぼくは猛烈に感化されました。どのようにぼくは井上ひさしに感化されたのか?それはまた別の物語ですが、しかし、この本が入手できなかった、というその一事によって、この不在の書物から露出した一部分が多大なる影響力を持ちえたのです。

次回は、「井上ひさしとスタジオジブリ」と題して、『耳をすませば』のテーマに迫ります。

まさかの結末

2010-04-20 23:35:17 | 文学
今日は調子の出ない一日でした。
いつも出てるわけじゃないけど、いつにも増して、負の引力に引っ張られていました。
いや、あくまで調子の話です。

さて、ショートショートを読んでみよう、ということで、電車の中で長期間に渡ってちょっとずつ読んでいた『まさかの結末』という本を読み終えました。ハイネというドイツのベストセラー作家が書いたそうです。ハイネって言っても「あのハイネ」ではないです、念のため。

正直なところ、あまりおもしろくない。「まさかの結末」という題名通り、結末に趣向を凝らしているのですが、別に・・・といった感じで。何が悪いんでしょう。非常に印象的なことを言うと、胸に迫って来るものがない。かなり軽い感じの作品で、中には冗談みたいのもありますし、一生懸命書いたんだろうけど、一般の高校生の考えたような妙に深刻ぶったのもありました。

機知が平凡で、目を惹くものがありません。「復活」などはほとんどあり得ない設定で、意外な結末を迎えますが、それもどこかで見たような・・・という気にさせられます。内容に深みがないんですよねえ。霊安室に寝かされた男性が息を吹き返して、こっそり家に戻るのですが、そこで妻の浮気と息子の自分への背信を目にします。男は息子の拳銃で妻とその浮気相手を撃ち殺し、そして霊安室へと踵を返します。大量の睡眠薬を飲んで永遠の眠りにつきながら、息子が犯人に仕立て上げられることを夢見る、という話。
題材は確かにおもしろい。でも、どこかで見たような話ですよねえ。たぶんハリウッドだったら、このストーリーに男が自らの人生の意義を考えるシーンなんかを挿入するんでしょうけど、そういう場面や台詞もない。凡庸さにも届かない、という出来なのです。チェーホフだったら、まあこんな題材では書かないでしょうけれど、これが人生なのだ、この残酷さが、などという意味のことを男に悟らせて終わり、にするかもしれません。

よくは書けている。でも省察がない。あったとしても、それは「秘中の秘」のような高校生レベルのものだったりします。おやっというのもありましたけどね、でも基本的にはまるで興をそそられない話がほとんどでした。

ベケット・カフェ

2010-04-18 16:39:34 | 文学
本題に入る前に。
朝日新聞に、「1Q84」評が載っていましたが、最後は皮肉たっぷりで、というのもそれは春樹に批判的な斎藤美奈子さんが執筆したからなのですが、まあそれはいいとして、でもなぜ朝日新聞はわざわざ彼女に書評をお願いしたのでしょうか。冷静な(というか冷めた)意見が欲しかったからなのか、単に文芸時評の連載の繋がりからなのか。変に盛り上げる必要はないと思いますが、変に水を差す必要もなかったんじゃないかなあ、と思い・・・

もう一つ。ぼくの本棚に『世界のSF ソ連東欧篇』という早川から出ている世界SF全集の一冊があるのですが、とても大きいくせして、その存在をきのうまでかんっぺきに忘れていました。いつも目には入っていたのに、題名までは見えていなかったんですねえ。う~む、読んでみたいけど、今年中には無理そうかなあ。

というわけで、本題。
ベケット・カフェ第三回公演が6月3~6日に荻窪で行われます。新訳の『プレイ』という作品だそうです。予約は2000円で、当日は2500円。けっこうお安いです。詳細は鴎座のHPに譲りますが(興味のある人は探して下さい)、終演後にカフェ・トークなどもあるそうで、演劇が好きな人は行ってみる価値あり、かもしれないですね。

ベケット・カフェの存在は第一回目から知っていたのですが、まだ行ったことはなくて、今回は初参加してみようかなあ、と考えております。ベケットの劇は実はまだ生で観たことはないんですよねえ。テレビでならあるのですが(『エンド・ゲーム』を観た)。

そういえば、荻窪といえば、駅前の有名な焼鳥屋が壊されて、移転したのですよ。なんでも駅の開発のためらしいのですが、馴染み客の多い、古くからある昭和の趣を残したお店だったので、残念でなりません。いったい杉並区はあのお店を壊してどうしよっていうんでしょうかねえ。跡地をどうしようというんでしょうか。

四月の雪

2010-04-17 00:08:42 | Weblog
いま外では雪が降っています。珍しいこともあるものだ。亡き祖父が癌の手術をした年にも、四月に雪が降ったらしい。そういうことで言えば、今年の雪は将来どのように思いだされるのだろう。不幸なことで思い出される年にはなってほしくないな、と切に願う。

語学ができないのは今に始まった話ではないですけれど、それでも改めてうんざりさせられる。もう覚悟して、これから当分の間、日本語の本を読むのはよそうか、と思う。ぼくはしばしば極端から極端へとふれるのです。空き時間は全てロシア語か英語か、まあとりわけ前者を読みたいと思ってます。

語学力が飛躍的に向上した年。あの年はね、四月に雪が降ったんだよ。稀なことでね。それまで全く語学のできなかったぼくが、急にできるようになった年でもあったんだ。まるで符合しているみたいだね。珍しいことってのは重なるものなのさ。

やれやれ。雪が降るように勉強ができるようになるわけではないのです。むしろ汗を流すようにしてできるようになるものです。分かっちゃいるけどね。

気分の落ち込み

2010-04-15 23:25:03 | Weblog
激しい気分の落ち込みで、今日は一日中寝ていました。平日にこんなに寝ていたのは、たぶん今年に入ってからは初です。というか、休日でさえ初、体調が回復してから初、かもしれません。

何か書くことがあったような気がするのですが、忘れました。
明日は学校に行かなければなりません。ちょっとした資料を作っておく必要もあるので、先ほどいやいやながらやっておきました。もうそんな気力は残っていないのに・・・

全てを投げ出したい気がします。大きなものに押し潰される圧迫感を感じます。ふざけてる。もうこんな世界にはつきあいきれない。

ぼくの神経は危うい。幻聴か、はたまた耳鳴りか。また怯えつつ夜を過ごすのか。

やれやれ。次回は明るい記事になるといい。

想起するのは「私」

2010-04-14 01:09:25 | Weblog
眠い・・・何もする気が湧かない・・・けいおんまでまだ間がある・・・ということで、パソコンの電源を入れました。やらないといけないことは山積しているのですが・・・

さて、「私」の自己同一性とは、過去の「私」と現在の「私」とが同一であるとみなされるとき、確立していると言われますが、過去における「私」って何だろう・・・と思いを巡らしてみる。
そもそも、過去における「私」が現在における「私」と同じかどうか、ということはどのようにして確かめられうるのか。それはもちろん想起することによって、ということになります。現在の「私」が過去を想起したとき、その際の「私」が現在と同一であるならば、私は自己同一的であると言えます。「私」の一貫性が重要なわけです。ただし、そこには現在の「私」が正しい想起をしているという前提が必要であって、もしも「私」が譫妄状態にあったり、また無意識に過去を捏造してしまっているような場合、この一貫性は疑わしいものになります。したがって、現在の「私」が正しい知覚で想起をしたときに、過去の「私」と現在の「私」が同一であるとみなされる場合、自己同一的であると言えるでしょう。

また、他者の視点からはどのようになるでしょうか。過去の「私」と現在の「私」とを一貫して知っている人がいると仮定します。両親などがよい例でしょう。彼/彼女らが、当該の「私」の一貫性を認めたとしたら、「私」は自己同一的であると言えるのでしょうか。難しい問題ですが、たぶん違う。というのも、内面というものはえてして外化しないことが多く、外からの判断だけでは「私」のありようを知ることは至難だからです。

しかしそうすると、自己同一性とは、「私」の実感からのみ構成される、非常に脆弱な概念ということになりはしないでしょうか。他者の意見は一つの保証としては有効かもしれませんが、それが十分条件ではありません。

過去を正しく想起することができない記憶喪失の人間を想定します。ただし、彼は記憶を失っているだけで、性格そのものは変化していないとします。そういうことがありえるかどうかはひとまず措き、とりあえずそう仮定します。このような人間は、自己同一的ではないと断言できるでしょうか。確かに、彼は正しく過去を想起できません。しかし、いわば神の視点から眺めた場合、彼の内面には変化は見られないのです。これは、輪廻転生における自己同一性は可能か、という問いでもあります。

果たして自己同一性という概念は、重要なものなのでしょうか。一貫した自己を有することは社会生活を営むに当たっては大切なことですが、しかしそれが自分の実感にしか基づいていないのだとしたら、欠陥のある概念であるように思われます。さりとて、他者の視点からは、内面をうかがい知ることはおよそ不可能であり、他者の協力はあまり期待できません。真の意味で客観的な視点こそが求められています。でも、それを知るのは誰なのか。「私」の全てを客観視することができるのは誰なのか。恐らくそんな人間はいません。そうだとすれば、実は自己同一性という概念は、神という存在を人間の外部に仮構した概念であるのかもしれません。神の存在を仮定すれば、この概念は完璧になり、その存在を抜き取ってしまうと、つまり「私」の実感からのみそれを捉えようとすると、不十分な概念になります。神。どんなときも「私」が「私」であることを知るのは、まさしく神しかありえず、「私」一人の判断では、記憶が異常をきたしている場合はそれを知ることができません。

ところで、こんなことを書いている間に『けいおん!!』の時間が近づいてきました。いい暇つぶしになったな。最近ウィトゲンシュタインを読んでいるので、ちょっと哲学っぽいことをしてみたくなったのでした。

大学院の入学式

2010-04-12 23:00:46 | Weblog
武道館であったので、行ってきました。
たぶん午前中が学部で、午後が大学院?

話の長い人がいて、30分くらい予定時間をオーバー。
それにしても、総長以外の人の話の内容が、妙に偏っている・・・

君たちはその才能で社会に奉仕する責務がある、とか
米国の一流大学に留学しなさい、とか
君たちはエリートなのだから、とか
世界一を目指さないようなら、それはモラルの低下である、とか

なんとなくぼくの癇に障ってくる話が多くて、閉口しました。
とりわけ、心身の健康を損なっている人には、規則正しい生活習慣を疎かにしている人が多いようだ、との指摘には思わずカチンときてしまい、この人の挨拶には拍手してあげませんでしたよ、へっへっへ。そりゃお酒を飲みすぎて体を壊す人も世の中にはいますが、毎日きちんと生活していたって病気になる人はなるのです。これは不可抗力です。それを、あなたが自らを律していないせいだ、と決めつけられては、たまったものではありません。もちろんそういう意図はなかったのでしょうけれども、まあ失言ですよね。

心も体も健康で、米国の一流大学とやらに留学し、英語でコミュニケーションできるようになり、正確な英語で論文を書き、世界一とやらを達成し・・・とまあこういうことを目指すべきであり、そうしないのならばそれは「モラルの低下」であるとおっしゃっていたわけなのですが、やれやれだ。発言内容が理系の思考に偏っていたことは発言者自身も認めていたことではありますが、こういう英語万能主義や米国崇拝はぼくみたいなマイナーな文学をやっている人間にはお門違いな話だし、世界一っていう発想もよく分からない。理系じゃないから、一番に発見、とかないもんね。

しかしそれでも文系が気楽というわけではなく、なかなかに厳しい世界なのですが、でもこういう他に抜きんでてやろう、という発想は少なくともぼくにはないですね。とにかくやれやれな入学式でした。

帰りの電車で、東大や早慶に入らなければ一流企業には入れないんだぜ、と真顔で話している高校生がいましたが、それに対してその友人が、「一流って何かよく分かんねえし」と言って電車を降りてゆきました。ふむ。

もう一ついい話。総武線の飯田橋には、青森県の物産店があるのですね!今日は雨降りで入りませんでしたが、今度入ってみよう。

そういえば、入学式では宇宙飛行士の野口さんから、ビデオメッセージがあり、いまやナンバーワンからオンリーワンを、競争から協調を目指す時代になっている、ということを話していました。こっちの方が建設的な発想のような気がします。甘ちゃん、とかではなくて。特に「競争から協調へ」という言葉は、いいですね。

今更ですがイロモネア

2010-04-11 01:45:49 | テレビ
今更ですが、イロモネアが終わりましたね。
あの番組って、けっこうタブーに挑戦したような気がしていて。
というのも、芸人って実際には別にそんなおもしろくないんだよってことを証明してしまったようなところがあるから。笑いを取るのは難しい、というのは当然そうだとしても、この番組によって、いかに他のほとんどのお笑い番組が笑いを水増しさせられているかが明らかになってしまった。本当はそんなにおもしろくなくても無理に笑っていたり。

今まで一番おもしろかったのは、なだぎの超スピードで読書する男の話。それと、ゴルゴの「会社辞めます!」でした。

後半はなんだか迷走したような感がありましたが、この時期以外はとてもおもしろかったです。裏番組も強かったし、激戦区だったことは確か。またスペシャルなどでやってくれるのかなあ。

・・・なんか眠たくて、めんどくさいので文章がめちゃくちゃになってます。ご容赦ください・・・要は、イロモネアがなくなって残念かも、という記事でした。

ポドリスキイ『猫の町』

2010-04-09 00:24:26 | 文学
ポドリスキイ『猫の町』(群像社、2009)を読みました。この本は、こんなふうに紹介されています。

(・・・)ある夜、人間が猫に襲われ、猫インフルエンザのウィルスが見つかると、町は検疫のために封鎖され、感染をおそれた町の住人は猫殺しにはしりはじめた・・・。
鳥インフルエンザ、豚インフルエンザとつねにパニックにおちいる現代社会を30年前に予見していたロシアのミステリー小説がいま蘇る!

でたらめですね。いや、間違った情報ではないですよ。確かにこういう事件もこの小説の中では起きます。でも、それはごく一部のことで、表面的な出来事です。どうしてこの事件がクロースアップされたかといえば、たぶん、今の日本にこの本を売り込むことのみを目的にした商売文句を作る必要があったからなのでしょう。群像社らしからぬ行い、と言っておきます。群像社には、こういう売り込みをしてほしくないです。出版社ですから利益を追求する姿勢を否定はしませんが、でも、この宣伝文句はまるで大衆にへつらっているみたいで、感心しないです。

それはさておき。かなり妙な小説です。まず、あまり巧くない。この猫の町の不気味さや得体の知れなさを徐々に描いて、最後にそれを爆発させる、という意図で書かれているのでしょうけれども、それが成功していない。よく分からない理由で凪いだ海に怯える美女とか、闇の恐怖とか、ちょっと滑稽なほどです。これがどうして猫インフルエンザの恐怖に直結してゆくのだろう、とぼくはかなり訝しみながら読み進めていったわけですが、まずこのような読み方を強いる本書のあらすじに問題がありますよ。カバーの折り返し部分に、ブログの最初に提示したあらすじが書かれてあるのですが、てっきりこの小説は猫インフルエンザでパニックに陥る小説だとばかり思って、勘違いしていました。

まあでもこれは作者のポドリスキイ氏には甚だ迷惑な話でしょうね。けれども、それを差し引いたところで、この奇妙な恐怖感の醸成の仕方は、お世辞にも巧いとは言えません。

「闇の力」とでも言うべき謎の意志が、猫を操って人間を破滅に向かわせる小説。これが『猫の町』の要諦です。なんだそりゃ、と思ったあなた、そう、あなたです、たぶんあなたが実際にこの小説を読んでみても、なんだそりゃ、と改めて感じて本を閉じることになるでしょう。

得体の知れない闇の力に囚われて狂気に陥る男の物語なのですが、このような妙な小説って珍しいのではないかと思います。ファンタジーに見えてそうではないし、パニック小説でもない、リアリズム小説でもない、中途半端な幻想小説と言えば一番近いかもしれません・・・

もしもこれからどなたかがこの小説を読むおつもりでしたら、まず最初にするべきは、この本に載っているあらすじを無視すること。第二にするべきは・・・いやもう、後は虚心に読むだけかもしれないですね。

ただ、この本を読もうかどうか迷っている人には、ぼくは迷わずこう言います。読まなくてもいいんじゃない、と。でも、妙な小説があるもんだと自分で確かめたい向きには、お薦めしますよ。

ちなみに。訳者のあとがきに、政治と絡める読解方法が紹介されていましたが、たぶん妥当な読みです。そうでも考えないと、なんでこんな妙な小説を書いたのか、理由が分かりません・・・

けいおん!!

2010-04-07 18:08:32 | アニメーション
いよいよ始まった第二期。
OPは何言ってんのかさっぱり分かりませんでしたが、あのハイテンションは好きです。

いや、おもしろかったですよ。秒速5センチメートルかどうかは分かりませんが何とも言えない速度で舞い落ちてくる桜の花の優美さにうっとりしました。制服に桜の花びらの影が映っているところとか、さすがに芸が細かくて、いい。

それにしても高3かあ。なんか切ない。一生あんな生活が続いてほしいって思っていたのに、アニメの中でも時間は流れてしまうのね・・・

今週はなかなかテンポがよくて滑り出しとしては無難。今後は、思い切った演出なども見てみたいです。思い切った、と言ってもハルヒみたいな実験的なものじゃなくていいので、前期けいおんの最終回(おまけの回)の冒頭のような、しびれる演出を期待。あの無言がよかったのです。まあ今回も冒頭は無言で、ギターだけで盛り上げようとしていましたけどね。最終回とちょっと呼応している感じがgoodですね。

さて最後に声を大にして言っておきます。ゆいはかわいい。

おもしろくない小説って

2010-04-07 00:56:41 | 文学
おもしろくない小説を読み始めてしまいました。
なんていうか、書き方が下手なんですよね・・・
う~ん、困った。
読まなければならない本は山積しているのに、こんな小説を読んでいていいんだろうか、と悩ましいです。

でも、読み始めた小説は基本的に読み終えないと気が済まないので、さっさと全部読んじゃうのが正解かなあ。早く、早く。

この小説を読み終えたら、しばらくまた評論に戻りそうです。しかしするとブログにレビューがなかなか載せられないなあ。まあ、評論でも俎上にのぼせてしまえばいいのかもしれないですけど、なんとなく、それはなるべく避けてるんです。理由?・・・さあ。

そうだ、超短編を暇なときに拾い読みして、そのレビューを書けばいいではないか!うん、そうしよう。まあとりあえずは今読んでいる小説のレビューを書きますが。

ああ、今日もくだらない記事でした・・・