Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

古本まつりでの収穫

2009-10-31 02:00:26 | 文学
本は出会いだ。

とは誰かさんの発言ですが、今日、神保町の古本まつりで色々な本を物色しているとき、心の底からそう思いました。まさに出会いですよ。これだけたくさんの本があれば、全てに目を通すことはできないわけで、限られた時間と体力のなか、すーっと棚や露店の前を横切って、ちらちらっと並んでいる本たちのジャンルを見て、ときには一冊一冊の本の題名を見て、という手順を辿って、実際に手にとって見てみるわけですが、その途中で見落としてしまっている本は必ずあると思うんです。でもその一方で、ここには大した本がないなと思っていい加減に眺めていたワゴンの中に「おやっ」というものを発見したりして、うれしいこともあるのです。ほんとに運ですよ。本との出会いは。そもそも出会いが運ですからね。

というわけで、今日ぼくの出会った本たちの名前。

                ★      ★      ★

・プロップ『ロシアの祭り』
これはですね、かの有名なウラジーミル・プロップのマイナーな著書ですね。なんと300円でした。1966年に翻訳されているのでかなり古いですが、目次をぱらぱらとめくってみたところ、重要な指摘があったので購入を決めました。

・『戦後短篇小説再発見16 「私」という迷宮』
講談社文芸文庫のこのシリーズは何冊か持っているのですが、そのときどきで自分の興味のあるテーマの本を買っているようです。いま現在は、「私」というものにぼくは関心があります。もっとも、この本はぼくの関心とは微妙にずれているような気もしますが。解説を少しだけ見てみると、私小説的な方法論が話題に上っているようなのですが、ぼくにとってはそれはどうでもよくて、抽象的に言えば「私」の解体、つまり「私」と世界との非-結び付きであったりアイデンティティの崩壊であったり、そういう文学に関心を抱いています。テクストに現れる「私」と実生活上の「私」の違いとか、そういうのはもういいですから…

・海野弘『ロシア・アヴァンギャルドのデザイン』
これはたぶん一般向けの本で、研究書ではないですね。アヴァンギャルドの美術や建築には無知なので、こういう簡単な入門書的なのが手元にあると便利かなあと思って買いました。

・レスコフ『封印された天使』
これは集英社版世界文学全集の一冊です。他に「僧院の人々」所収。レスコフの小説は、ぼくは他に『真珠の首飾り』と『魅せられた旅人』を持っていますが、この『封印された天使』はなかった。この小説は、以前に新潮文庫で出ていたことがあったのですが、もちろん絶版。『魅せられた旅人』はよく古書店で見かけるものの、『封印された天使』はそんなに出回っていないようですね。ところが今回は525円で入手。やったね。

結局この4冊の本たちとぼくは邂逅し、家に連れて帰りました。しかし、置き場所がない…

秋といえば鎌倉

2009-10-30 00:35:07 | お出かけ
きのう、ソローキンを知らなかった8年前の自分はなんて無知だったんだ、と書きましたが、これを読んでひょっとすると気分を害された方がいるかもしれない。ぼくは自分に対する要求がけっこう高いのでこんなふうに思ってしまうのですが(まあロシア文学が一応の専門な訳だし)、別にロシア文学を極端に愛好している人以外であれば、ソローキンを知らなくったって、プーシキンやらゴーゴリやらレールモントフやらを知っていれば、十分に知識があると言えます。ソログープやブルガーコフを知っていたら物知りのレベルです。だいぶ高所から意見を述べているみたいですが…いやほんとに、なんていうか、ソローキンを知らなくてもロシア文学をたくさん読んでいる人はいますからね。無神経だったな、と反省しているのです。真面目に。聖司が自分の作ったバイオリンを「まだ全然ダメさ」と言うのにちょっとだけ似ています。自分に対する要求が高くて、言い方が厳しいのです。本当のレベルの高さを知っているので、それ以下のものは「全然ダメ」なものに思えてくるのです。ぼくの物言いもそれです。と考えれば、許せる気がしてくる…でしょう?

さて、秋といえば鎌倉(このあいだは耳すまだったけど)。これは多くの人の共通理解ですよね。でもぼくにとってもそうなのです。というのは、中学2年の秋に鎌倉へ遠足か何かで行ったことがあるから。

たしか鎌倉宮というところがものすごくよかったです。人がいない閑静な場所で、紅葉がとてもきれいで。今でもあの鮮烈な赤をよく覚えています。

ところでこの鎌倉でぼくは、学校でちょっとした噂の人物になってしまいました。鎌倉の街を歩いていたら、女子高生に声を掛けられたんですね。どこから来たの、とかそういう他愛もないことだったと思うんですけども、一緒にいた奴(と呼んでおく)がそれを色々な人に「逆ナンされた」と言いふらし、帰りの品川駅では既に何人もの野郎(と呼んでおく)から騒がれたり羨ましがられたりすることに。もちろん翌日から学校でさんざん冷やかされました。

「あれは逆ナンじゃない」、と何度も否定したのですが、実際、それが真相でした。ナンパじゃなくて、単に声を掛けられただけだったんですよね。まあしかし、そういう誤解も含めて、いい思い出です。それにしても、中2だったけど身長は175cm近くあったはずだし、高校生に見えたのかなあ。

なんか、ネタがないばっかりに、他人にとってはどうでもいい思い出をぐだぐだ書いているなあ…でもね、ぼくは自分の中学時代が好きなのです。だから許してください…

で、秋、鎌倉に行くなら、もう一度鎌倉宮に寄りたいですね。いやそれとも、あれはもう思い出の地として、二度と訪れない方がいい場所なのかもしれませんが。

ロシア文学

2009-10-29 02:30:07 | 文学
学校で講演会があったので行ってきました。
修士論文のことが頭から離れず、ほとんど何も聞いてませんでした。

8年前のこと、2001年の10月のシンポジウムのことを思い出します。
ぼくはまだこの大学の学生ではありませんでしたが、新聞でシンポジウムのことを知り、本郷まで出かけました。そこには、ソローキン、ペレーヴィン、トルスタヤ、アクーニンといった、錚々たるメンバーが椅子を並べて文学にまつわる話を聞かせてくれたのでした。現代ロシア文学の最前線を伝えるこのシンポジウムは、ぼくにとっては非常に大きな体験となりました。

当時のぼくはまだソローキンの名前さえ知らず、ロシア文学について全く何も知らない状態でシンポジウムの聴衆の一人となりました。当然ドストエフスキーやチェーホフは読んでいたものの、現代ロシア文学に関しては決定的に無知だったわけです。

この会場でぼくは『ロシア神秘小説集』を購入しました。たぶん題名につられて買ったのだと思います。その日ぼくは風邪を引いていて、声ががらがらで満足にしゃべれなかったのですが、販売員の男性と少し話をしました。ロシア文学についてだったかもしれません。もちろん、当時はこの本所収のソロヴィヨーフの論文がトドロフの幻想文学論に影響を与えた画期的なものだったことを知りませんでしたし、それどころか、トドロフの名前さえ聞いたことがないのでした。

何も知らなかったあの頃は真剣で、本当に真面目に作家らの話を聞いていました。今でも、ペレーヴィンがサングラスを外さない理由や、ソローキンが例のテロについて述べた見解を覚えています。

ところが今では、知っているというこの「知」が邪魔になって、ぼくからロシア文学に対する真剣さを失わせています。その「知」など所詮たかが知れているにもかかわらず、です。あれからぼくはソローキンを読み、そしてそこで購入したのだったか、ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』を読み、ペレーヴィンもアクーニンもトルスタヤも読み…ロシア文学の階段を着々と登ってきたのでしたが、大切なものを落としてきてしまったのかもしれません。

知らない、ということは武器です。真剣になることができるし、その結果大いなる感動を得られる。ぼくは自分がロシア文学に詳しいなどとは思っていませんが(ロシアの事情を知らないぼくにそんなことが言えるはずもない)、8年前のような単純で純粋な無垢、言葉の真正な意味における無知の状態にあるわけでもありません。知恵の悲しみ、などとグリボエードフを気取るわけでは毛頭ありませんが、これからは知らないことにも果敢に挑戦しなくてはいけないな、と思う次第です。日本語で書かれていないことの多くは知らないわけだから、外国語にはまた8年前のような気持ちで取り組めるのではないか、そう思うわけです。

バタイユを読んで、ふとそんなことを考えました。

神保町に行く予定

2009-10-28 00:35:59 | 本一般
神保町で古本祭り開催中です。
ぼくは今週の金曜日に行く予定です。あと学校帰りに月曜にも寄るかも?

このあいだ、探していた本をブックオフで入手してしまったので、今は特にこれが絶対必要!というものはないのですが、ぶらぶらと散策して目ぼしいものを購入しようと考えています。ただ、あまりお金をかけたくないので、文庫中心に探していきたいなあ。

実はアニメーション関係の雑誌でずーっと探している本があるのですが、どこにもないんですよね。もちろんアマゾンにも。でも今回は文学中心の古本巡りになるはずなので、期待できませんね。

それにしても、買うのはいいとして、置くところがないです。文庫はまあ何とかなりますが、もしハードカヴァーとか雑誌などを買うことになったら、置き場所には苦慮します。最近はあるロシア語の本が欲しくて、でも場所が取れないのでそれで迷っています。いらない英書を捨ててしまえばいいような気もしますが、それは本当に最後の最後の手段ですね。しかしCDが陣取っている場所をちょっと工夫すれば数冊は置けるようになるかな。

あと、こんな手があります。例えばレーピン『ヴォルガの舟ひき』とブローティガン『アメリカの鱒釣り』を文庫に取り替えてしまう。ハードカヴァーは場所を取りますが、文庫は小さいですからね。まあ同じ本を二度買うことになりますが、要するにお金で空間を買うわけですよ。ぼくはこのあいだも、三島由紀夫の豊穣の海シリーズを、箱入り本から文庫本に交換しました。おかげでスペースが生まれ、今ではそこにロシア文学のアンソロジーが入っています。

ですから神保町でもひょっとするとこの作戦を実行に移すかもしれません。今の内にあれこれ考え思いを巡らせ、その日が来るのを楽しみに待ちましょう。

つくばエクスプレス

2009-10-26 00:52:44 | お出かけ
つくばでロシア文学の学会があったので聴講してきました。
で、つくばエクスプレスに初めて乗りました。
てっきり指定席のある電車なのだと思っていたら、普通のと変わらないんですね。ただ、快速は30分に一本しか来ませんが。

たまたまボックス席のある車両だったので、せっかくですからボックス席に。なんだかおせんべみたいに平べったい座席でしたが、まあ新幹線ではないのでこんなものなのかな。それにしても、秋葉原とつくば間を45分で結ぶとは。びっくりですね。今更ですが。確かにかなりスピードが出ている気がしました。

さて。筑波大学は広いですね。東大の比ではないですよ。大学の中をバスが循環してますからね。すごいなあ。
紅葉がもう始まっていて、今日はとても寒かったこともあって、秋を満喫しました。
そういえば、このブログを開始してすぐにTBをいただいた先生の姿をお見かけしました。おもしろいから名乗ろうかな、と思いましたが、どうせ忘れてるだろ、と考え直してやめときました。正解だったかな。

明日からバタイユの本を読むつもりです。感想は・・・たぶん書かない・・・?

旅番組

2009-10-25 00:31:17 | テレビ
テレビを買い換えてから(前のは故障したので)、旅番組をよく観るようになりました。それまでは、こんなもの、と思って文字通り見向きもしなかったのですが、画面が格段にきれいになって、風景が映えると考えたんですね。なんて安易な発想!

ぼくはテレビというのはかなり集中して観る方で、会話をしながらとか、寝転んだりしながらとか、そういう見方はせずに、椅子に座ってじっくり鑑賞します。いや、鑑賞していました。ところが、体調を崩してからというもの、椅子にじっと座っていられなくなって、テレビを観るのもままならなくなりました。今ではもうよくなったのですが、その習慣から、寝転んで観ることが多くなりました。そして旅番組の発見。意識を集中させて観る必要もないし、ぼんやりしながら観て、飽きたら眠って、というふうにテレビを観ることが増えました。

旅番組は、心安らかにテレビを観る、という他の人にとっては当たり前かもしれない見方をぼくに教えてくれました。感謝です。

で、旅番組は出演者によっておもしろさが左右されますが、見所は風景よりも宿ですね。部屋がどんな具合か、建物の外観はどうか、料理は豪華か、などなど。もちろんお値段も気になります。個人的には宿は和風が好み。和室はやっぱり広くてくつろげますからね。そして料理も和風がいいなあ。お刺身としゃぶしゃぶ乃至すき焼きを希望(なかなか食べれませんが)。そういう願望があると、あ、この宿は泊まりたいなあとか、ここはバイキングだからいいやとか、旅番組を観るのも楽しめるようになります。

あと、文学館巡りの旅とか、そういうの放送してくれるとうれしいですね。あんまり需要ないかな…

修士論文にケリつけました

2009-10-24 01:19:26 | Weblog
とりあえず最後まで書きました(「結論」部はまだですが)。とはいえまだこまごました作業が残っていて、読まないといけない本も残っています。面倒なのは続きます。が、数日間はちょっと休もうかなあ。あ、でも明日本を借りてきてそれを読まなきゃなあ。はああ。

結局、16万字に膨らみました。原稿用紙400枚ですね。規定枚数の倍書いたことになります。もちろん量があればいいってもんではないのですが、ぼくのテーマからして、このくらいの量は必然だったのかもしれません。それにしても、そのうちの5万字余りは実質一週間もかかっていないので、驚くべきスピードですね。卒論だったら一週間で書けるということか。

懸念していたハルムス論が思いのほか字数が伸び、5万字を越えたのでうれしいです。やればできるじゃないか。これだったら、最初からハルムス論にしてもよかったなあ。

これから卒業論文を書く、という人にアドバイス(修士論文を書く人にはアドバイスできないです、同じレベルだから)。長い論文を書くのは初めてという人がほとんどでしょうし、何から取り掛かればいいのかさっぱり分からないという人も多いと思いますが、まず、全体の構想を考えるといいです。大まかな目次を作るとか、論述の流れをメモ帳に書き出してみるとか。メモ帳は必須ですよ。読書メモとしても活用できるし、こういう構想をまとめる道具にもなります。そして一章分の大体の構想がまとまったら、書き始めることですね。細かいところまで考え詰めていなくても、書けば何とかなることが往々にしてあります。書くことがすなわち考えることだと言ってもいいくらいです。ちなみに、書いているうちに当初の構想からずれてしまうこともよくありますが、気にせずにそのまま書き進めるべきです。メモ帳はあくまで叩き台。

また、最初から書く必要は必ずしもありません。特に一章一章が独立している場合、どこから書いても構いません。ぼくはわりと律儀に最初から順番どおりに書く方ですが、今回は結果的に1、3、2、4章という順番で完成しました。

章立ては、50~100枚くらいであれば3章か4章くらいが妥当だと思います。そして普通はその章を更に細かく分割します。

パソコンの利点として、削除したものを保存しておけるところが挙げられます。必要ないかも、と思って削除したくても、せっかく書いた文章を消してしまうのはつらいですよね。だから、その文章を別のファイルに保存しておくのです。そうすればかなり気持ちが楽になりますし、また、やっぱり必要だ!ってときにも大助かりです。

実践的な(基本的でもある)アドバイスは以上です。まあぼくなんぞは論文のアドバイスができるほど優秀な人間じゃあないんですが…。けど少しでも学部4年生の参考になればいいですね。

東京国際映画祭~アニメーション~

2009-10-23 00:40:32 | アニメーション
東京国際映画祭に行ってきました。
アダム・エリオット監督の『メアリーとマックス』を観に。
2日前に前売り券を購入したにしては、特等席でした。

六本木ヒルズに行くのは初めてで、道が分かるかなと心配しましたが、日比谷線の六本木駅の目の前だったので迷いようがない。会場には10分くらい前に到着。並んでいなかったので一番に入場しました。といっても、指定席ですから一番の意味なんてないですけどね。それにすぐトイレに立ったし。

上映開始前のCMは、色が焼けているのかなんなのか、かなりぼんやりとした色しか出ていないので本編は大丈夫かと急に不安になりましたが、杞憂でした。

さて、『メアリーとマックス』はアヌシーで最高賞を受賞したという触れ込みで、どうやらいいアニメーション作品らしい。けれどそれくらいの予備知識しかありませんでした。ほとんど何の先入観もなく観始める。

最初はギャグ満載で、こういう傾向の作品か、と思っていたら、実はハートウォーミングな感動大作。もちろん随所にギャグを忘れない。最後は泣かされてしまいます。なるほど想像以上にいい作品。

人形アニメなのですが、人形アニメっていうのは、しかしぼくの中では評価が難しいのです。人形アニメの究極の形は、人形の表情が全く変化しないことだと思っていて、それこそ能面のような人形が活躍すると傑作ができると思っています。例えば川本喜八郎の『道成寺』は、人形の変化しない表情の中に女の情念がぞくっとするほど露わになっていて、その感覚への訴求力は人間の表情を凌ぐほどです。人形というのは人間の模倣に過ぎないのではないか、という疑念は人形というものについて少しでも考えたことのある人の頭には常にあり、もしそうだとすれば、人形アニメーションは模倣に過ぎない芸術になります。ノルシュテインは、それが模倣だという理由で人形アニメーションをあまり好まないようですが(『『話の話』の話』)、人形が人間の表情の真似をしていては、模倣という限界を突破できないのではないか、と考えてしまいます。だからこそ、表情を無にして人間の表現力を突破させる。限定的な「有」よりも、際限のない「無」の方により巨大なものが含まれている、という発想ですね。

『メアリーとマックス』は、かなり表情豊かな人形たちが登場します。しかし、それは人間の模倣とは言えず、グロテスクに誇張されています。醜さを誇張したような歪んだ造形で、あまりかわいくない。物語自体も、誇張されたエピソードの乱れ撃ちで、けっこう数奇な人生が語られます。確かに、このような物語であれば、グロテスクな人形を使用したアニメーションというのも理に適っているかもしれない、そう思わされました。

物語はすばらしいのですが、では映像化する意味があるのか、という疑問に対してはどう答えるのか。これは小説にしても、感動的でユーモアもある、なかなかの作品に仕上がった気がしますが、アニメーションにすることで、そういう要素が「誇張された」のではないか、と思われます。個々のエピソードを生かす役割を果たしているのではないでしょうか。

肝心の内容については触れていませんが、ネタバレはよくないですよね…。内容に触れずに言うならば、ただの感動映画にはなっていない、ということです。お涙頂戴ものの安易なつくりではなく、ブラックユーモアを効かせた辛口の感動作とでも言いましょうか。人間存在への洞察が見られますが、少し達観したようなところは、むしろ監督が若いせいでしょうか?というか、この監督のことは一切知らないのですが、まさか初老の監督じゃないだろうな…。「人間とは~だ」という感慨は、それがいくら省察に富んだものであったとしても、若い人か本当に年取った人しか作品には出さないんじゃないかと思うのですよ。「人間とは~だ」という本当なら解答が得られないはずの問題に解答が与えられていて、ぼくとしてはそこが少し唐突で、残念な気がしました。もっとも、それが感動の引き金になっているし、実際いい言葉なので胸に染み入るのですが、一言で表現してしまっていいものか、どうして急にそんな言葉が出てきたのか、疑問も残りました。ただし、この映画は複雑な人生を誇張という手法で単純化しており、最後の帰結として「人間とは~だ」で終わるのは、非常にこの映画に相応しいと思います。けれど、そこがこの作品の限界でもある。一個の作品としては完成していて、文句なしにおもしろいし感動的で、深みもあります。けれども、なんだろう、「分からなさ」がないんです。人生を描いているのに、感動物語で終わってしまっている。確かにそれはそれですばらしいんですけども、やっぱり人生が単純化されてしまっているんですね。この映画は評価できる、傑作です。でも、ぼくの求めているものとは完全に合致しない、そういうところでしょうか。いや、おもしろいんですけどね、すごく。大好きですよ。

秋といえば耳をすませば

2009-10-21 01:29:36 | アニメーション
秋。耳をすませばの季節です。
なぜかって?ぼくが初めてこの映画を観たのが秋だったから。でもそれはたぶんぼくだけの印象ではありません。ぼくとだいたい同世代で、色々な理由で公開時に映画館まで足を運ばなかった人なら、耳をすませばと言えば秋だよね、と思っている人が少なからずいるはずなのです。
なぜかって?最初のうち、金曜ロードショーの耳すま放映日が、秋だったからですよ。耳をすませばが金曜ロードショーで公開された日のデータをここに書いてみましょう。1996年10月11日、1998年10月23日、2000年11月10日、2002年7月19日、2004年3月12日、2006年3月10日、2008年2月22日。

2000年までに金曜ロードショーで初めて耳をすませばを観た人にとっては、耳をすませばと言えば秋なのです。で、この期間にこの映画で深い感銘を受ける人は、たぶん中学生から二十歳くらいが多いでしょうから、ぼくとだいたい同世代の人間になるわけです。そして、深い感銘を受けた人にとっては、耳をすませばと言えば秋、というよりは、秋といえば耳をすませば、なのです。

放映日データからこういうことが分かるのですよ(もっとも、これはぼくの丹念に調べたジブリ視聴率データからの抜粋なのだが)。もちろん例外はありますよ。二十歳を大幅に越えていても感動する人たちは大勢いますからね。だいたいの傾向を予測したまでです。

ただし、耳をすませばが秋の映画だってことは、その内容からもいちおう言えることです。この映画は夏に始まり秋に終わりますからね。秋の印象の方が強ければ、秋の映画として位置付けられるでしょう。ところがおもしろいことに、この映画は夏の描写はなかなか詳細なのですが、秋の描写は最後を除いてかなり省略しています。というのも、時間の経過が早いからです。その余りの早さゆえに、一度観ただけでは中盤の時間経過が理解し難いほどです。聖司はいなくなり、汐(姉)もいつのまにか引っ越してしまい、制服は冬服に。ですが、終盤の印象深さによって、この映画はやはり秋の映画になりえているだろうと思います。冷え込みの強い夕刻、部屋の外で西老人を待つ雫の心細さ。鍋焼きうどんの温かさ。聖司に羽織ってもらったジャンパーのぬくもり。明け方の寒気。これらは、愈々寒くなろうとする秋の気配を的確に捉えた描写でしょう。

ちなみに、雫と聖司が再会する日は、映画の中では明示されないものの、11月11日であることが推測されます。雫の部屋にかかっているカレンダーと、聖司が予定より一日早く到着したという発言から、この日だと分かるわけです。

だから、やっぱり、秋といえば耳をすませば。
でも、映画公開時に劇場まで行った、という羨ましい人にとっては、夏こそがそうなのかもしれませんね。

熾火にならずんば

2009-10-20 01:18:20 | Weblog
ここでこうやって愚にもつかないことを書いているうちに、一部の志高い人たちは努力を重ね、着実に能力を培っているのだと思うと、やりきれなくなります。ありていに言えば、夢に向かってがんばっている人たちを見るのがつらい…
ぼくは何をこう燻っているのだろう。

能力が問題だと考えてきましたが、案外性格というものも重要な要素なのではないかと思うようになりました。積極性や物怖じしない性格というものは、何事につけ、事を成すには不可欠であるような気がします。自分にはそれがない。大いに欠けている。根こそぎ抉られていると言ってもいいくらい。

何かに精進して、真っ白に燃え尽きて灰になるくらいの人生を送りたいものです。それでなければぼくの人生に意味などあるのでしょうか。ぼくは何かを成せるのでしょうか。死んでしまいそうなほど自分が恥ずかしい…

恥ずかしいと言えば、修士論文、最初に書いた部分は読み返すのが恥ずかしい。かといって今更訂正している暇もないし、これを提出しないといけないのか。もっと対象を絞り込んで、丁寧に論述を掘り下げてゆけばよかった。ああ、無念。

最近になって、本を読むこと、研究をすること、という事柄が、前よりも少し分かるようになった気がします。それだけに、これまで努力してこなかった自分が恨めしい。いつも気付くのは遅くなってからなんですよね。これが後悔。

いま自分ができることをするだけ、という境地に至れればどれだけいいか。それにしてもああ、いたたまれない…

ユニクロにて

2009-10-19 00:48:39 | お出かけ
休日でちょっと体がだるかったので、気晴らしにと思いユニクロへ出かけました。
そこで、おじさんから店員と間違えられてしまいました。

「~はありますか?」と聞いてくるので、「ぼくは店員じゃないんですけど」と告げると、「あ、ごめーん。だって店員に見えるんだもん!」と言ってぼくの肩をばんと叩き、笑い声を残してその場を立ち去ってゆきました。

けっこう地味な装いだったのですが、店員に見えるかなあ、と不思議な気持ちに。それにしても陽気なおじさんだったなあ。

で、ユニクロではシャツが安く売られていたのですが、サイズと柄が合致するものがなくて、買いませんでした。ちょっとだけ買うつもりだったのです。というのも、依然に購入した秋物の服が、通気性がよすぎて外では寒いんですよね。地味すぎる気もするし、誤算だったなあ。

まあもうしばらくしたらもっと寒くなるだろうし、そうすれば着る物もまた変わってきますからね。晩秋に着るやつはもう持ってますから。

そういえば最近、ブログにろくなことを書いてないですねえ。それ以前はいいものを書いてたかといえば、そんなことも別にないですけど…。けっこうやることが多くて、読書の時間が取れないんです。はやく片付けてしまいたいのですが、集中力もないし。やれやれ。

こんな夢を見た

2009-10-18 00:50:38 | Weblog
というタイトルにすると、夢の話を詳しく書かないといけない気になってきますが、残念ながらそれはできません。

普段は夢を全く見ない、のかそれとも単に忘れてしまっているのか分かりませんが、そんなぼくにしては、今朝の夢は珍しい出来事でした。ただし、今でも覚えているのは断片だけで、それもかなり飛び飛びの記憶です。で、ここでは夢の内容を詳しくお話しすることはしません。土台無理な話ですからね。
さて。

ああそうか、これから私がなにをなくすのか、分かった。

じゃなくて、

ああそうか、本当はぼくが何が好きなのか、分かった。

という気持ちになりました、夢を見て。至福の時でした。
ぼくはヨーロッパの自然溢れる都市(郊外?)にいて、大きなお屋敷から出てきたところでした。そして箱馬車に乗り込みました。後ろの座席には可愛らしい少女の姉妹が並んで座っていて、前にはその弟と、髯を生やした父親が乗っていました。なんだかこれは映画か何かの撮影のようで、どのくらい撮影するの?と聞いたら、少女は「5時間」と答えたので、彼・彼女らとそんなに長い時間一緒にいられるんだと思うとぼくはもうすっかりうれしくなってしまったのでした。

いつの間にかぼくは彼らから別れていて、彼らの帰りを待ちわびています。予定の日を過ぎても帰ってこなかったのです。ところがついに彼らは馬車をぼくの家の前まで乗りつけ、少年がそこから歩いてきました。彼はぼくの懐の中に飛び込み、「お帰り」とぼくは囁くのでした。

いつの間にかぼくは少年少女たちと冒険をしていたのですが、その詳細は忘れました。ただ、分かったことが一つ。ぼくは、「少年少女と冒険がしたいんだ!」しかもヨーロッパで。しかも美少女・美少年限定。完全にゲームかアニメの世界ですね、これは。ううむ、嗜好がダメダメですなあ。

「ナディア」を観たときも感じたのですが、ああいう14歳くらいの少年少女が身近にいたらいいよなあ、とつくづく思います。逆に14歳くらいの頃は、話の分かる大人がいたらいいよなあ、と思っていたようないなかったような。ぼくは教育実習をしたことがあるのですが、そのときに触れた14歳の繊細な悩みに、胸が熱くなったのを覚えています。彼女は授業中の教室を脱け出して、校舎をぶらぶらしていたところをぼくと出会いました。話を聞くと、どうやら戻りたい気持ちもあるようです。そこで戻ってみるよう促してみると、怖いし恥ずかしい、と言うのです。最初に断っておきます。誤解しないでください。ぼくは、本当に抱締めてやりたくなりましたよ。本当に本当に彼女の力になってあげたくて、彼女のために何かしてあげたくて、でも教室に戻るよう勧めることしかできなくて、もどかしくて、ああ、この彼女の悩みを全て受け止めてあげたい、どうか彼女がこの繊細な心を抱えながら健やかに学校生活を送ってほしいと、真剣に願いながら、ぼくは彼女を教室の前まで送り届けました。いま、元気ですかねえ。

ぼくの教育実習の一番の思い出ですよ。あの頃の悲しみや、喜びや、怒りや、憂いや、切なさを、その瞬間にぼくはすっかり思い出すことができたのでした。14歳っていいなあ。シンジもナディアも雫も14歳ですもんね。まあ雫は中3ですけど。

今夜、きのうの夢の登場人物がまた出てきてくれたらいいなあ。一緒に冒険しよう!

論文の進捗状況

2009-10-16 23:56:44 | Weblog
書くのが速すぎるのかなんなのか、もう一段落ついてしまった。明日、新しい本を借りてきて、新しいテーマの研究に取り掛かるつもりです。と言っても、そこで書くことはもう大体決まっていて、念のためにその新しい本を読んでおく、という程度のものなのですが。


ただ問題は外国語の本。見切り発車で書き始めてしまったので、未読の参考文献がまだそれなりの数残っています。というのは、地方の大学にある本で、取り寄せに時間がかかるので、それを待っている間がもったいないと思ってもう書き始めてしまったからです。別にせっかちではないつもりですが、締め切りがあると、時間に余裕を持っていないとひどく焦ってしまい、取り組むのも自然早まるんですよね。

それらの本は、もう大体論文が書きあがってしまってから読むことになりそうです。大事な論文だったら書き直さないといけないところが出てきて嫌だなあ、と思いますが、まあ今のは草稿のつもりで書いているのでね。とはいえ…。う~む。妥協策は、「だれそれが言うように」という形式で論文に新しい本を挿入する方法ですね。ずるいけど。まあ仕方ない。

それにしても、どっと疲れが出ました。いま、体がひどくだるくて何もやる気が起こりません。もう寝ようかな…

成長なんてしていない

2009-10-16 00:43:28 | Weblog
修士論文を再び書き始めたのですが、二日で2万字書きました。多いな!自分でもびっくりです。ブログをやっているからかどうか分かりませんが、書くのが速くなっているようです。もともとけっこう速い方だったんですけどね。それにしても、今回のはかなり頭を使いました。悩みました。

日本人の書いた論文を二本立て続けに読んだのですが、ちょっとした衝撃を受けてしまって。鋭いじゃないか!日本のロシア文学研究者の書いたものって、場合によったらロシア人の書いたものよりもよっぽど優れていますよ。しかもそれがまだ若い研究者なんですからね。いやはや。それは、作家の思想を丹念に辿ることで、一般に言われているようなその作家の作品に対する見方を覆していて、うならされました。おかげでぼくも、作家の考えにかなり傾いてしまいました。それの検討をしていたら、字数がたまるたまる。

でも、その研究者の書いた論文にそのまま乗っかることもできず、ぼくのこれまでの考えを押し進めるためにどうしたらいいのかと、それでけっこう悩んでしまいました。もう一度作品を読み直して、なんとか道筋をつけられたと思ったので、論文を書き進めることができました。

ところで、そういう若手の研究者の書いたものを読んで、ぼくなどは単純に「ああなんてすごいんだ!」「立派なんだ!」と思って、「おれなんてどうしようもない馬鹿じゃないか」と落ち込んでしまったのですが、その日の夜、ふと中学の頃を思い出しました。中3の夏、ぼくは塾の合宿で長野だか群馬だかへ行ったのですが、あいにく一番上のクラスで、周りの人ができるできる…。なけなしの自信をすっかりなくしてしまったぼくは、それを塾の先生に言ったら、「あいつらができるだって?はっはっは。彼らからすると、君のほうこそすごいできる奴と思われてたかもしれないじゃないか」と言って慰められました。そんなのありえない、と当時感じたぼくですが、あれから何年も経ち、まるで成長していないことに気が付きました。とにかく周囲の人が自分より優秀だと感じてしまう。実はぼくは人の長所を見つける天才で、それでその長所ばかりが目に付いて、かえって落ち込んでしまうのではないか、と「いい人アピール」(誰に?)をしてみたのですが、もちろんそんなことに意味はありません。ああ、自信が底をついている人生なんだな。

ところがですね、二本目の論文を読んだとき、あれ、と思いました。これは、2005年にも一度読んだことがあるのですが、そのときはまるで理解できなかった難解な論文でした。しかし、いま読んでみると、ちゃんと分かるんですよ。まあ後半は議論が錯綜していてやはり掴み所がなかったのですが、前半は、かなりよく分かる。ぼくもこの4年の間、何もしていなかったわけじゃないんだなあ、と少し安心しました。しかし、それは頭がよくなったというわけではなく、単にそこでの研究テーマに対し、最近はぼく自身が少し調査しているからでしょう。これって成長なんでしょうか?まあ、知識は増えたってことかな。

でも本質的な部分は、中学の頃から何も変わっちゃいないんだ、とつぶやくぼくでした。ぼくはそのつぶやきを口の中からひっぱりだして、逃げないようにぐいと握り締めると、それを窓に向かって投げつけました。ガシャン、と音を立てて窓は割れ、破片が畳の上に氷雨のように降り注ぎました。月の光が欠片に反射して、黄色く煌めいています。ああ、今日もいい天気だな、と思って割れた窓から吹き込んでくる夜風にちょっと肩をすくめながら、ぼくは階下へとアニメを観に降りてゆくのでした。おしまい。

アレー『悪戯の愉しみ』

2009-10-14 00:57:36 | 文学
読み始めてからどのくらい経ったのか記憶にありませんが、ようやく今日、読了しました。電車に乗っているときに読んでいたのですが、今日はたまたま時間が空いたので、先ほど自宅の机の前で、最後のページまでゆっくりと。

そういえば先日はアクーニンの講演会が東大で開かれたのにぼくは出席せずアニメーションを観に行ってしまうなど、小説からは離れた生活を送っていました(論文の準備で文学の研究書には日々触れているのですが)。というわけなので、久々に小説らしい小説を読んで、ちょっと満足。ちょっと、と言うのは、やっぱりその、分量もちょっとだったから。

アレーの小説はしかし大変おもしろいです。ブルトンが彼の小説を「エスプリのテロリスム」と読んだそうですが、ブラックユーモアが効き過ぎるくらい効いていて、ときにはものすごい残酷な話があります。今日読んだ、とても悲しくてとても残酷な話を一つ紹介しましょう。「心(ハート)をこめて」。家政婦の女性は主人に激しい愛を抱いていましたが、彼は別の女性との結婚を彼女に告げます。明日が結婚という日、二人での最後の食事での出来事。主人は彼女の出した肉料理を食べますが、それがあんまりおいしくて、これは何の肉だい、と尋ねます。それに対して彼女は急に自分のブラウスのホックをはずし、下着を開く。左の乳房の下には、「十文字に口を開き血を滴らせている傷」。その肉は、彼女の心臓(ハート)だったわけです。まさに「心(ハート)をこめて」。うへっ。言葉遊びから発展した安易な内容といえばそうですが、まさか料理で出してしまうとは。

短いながらもかなり強烈な作品がほとんどです。彼の長編も読んでみたいですね。ちなみに、これはちょっと気持ち悪い話ですが、彼のタッチは乾いていて、ホラーのような恐ろしさは全くありません。