「『戦争と平和』、これははたして何であろうか?これは小説ではない、叙事詩ではなおさらない、歴史的記録ではさらさらない」――レフ・トルストイ
『アンダーグラウンド』、これは何だ?
3時間近く、一体ぼくは何を観ていたんだ?恐るべき大作、と一言で表現してしまっていいものか、いやよくない!しかしこの巨大な映画を、どうやって伝えればよいのだろうか?
旧ユーゴスラビア映画。1995年製作。クストリッツァ監督。3時間近くの長尺。パルチザンで共産党員のマルコとその友人クロの友情と裏切りと愛と死と笑いとダンスと戦争と涙と・・・それからあらゆることの物語。そうだ、これはあらゆることの物語でした。全部だった。トルストイの小説は「ぶくぶくのモンスター」と評されたことがありましたが、それに近いかもしれません。あらゆる要素を含んでいて、そしてそのあらゆることが中心になっている。19世紀ロシアの小説、ドストエフスキーやトルストイの大長編とのみ比較ができる、そういう圧倒的なスケールの大作でした。
物語は猥雑な喧騒と共に始まり、そして終わります。終始吹き鳴らされる民族音楽の音色は不埒なほど騒がしく、陽気。主要登場人物たちも狂ったように騒ぎ、暴れ、踊る。その一方で、物語は痛ましく、民衆は戦争に常に脅かされ、欺瞞が瀰漫し、騙された人々は地下で生き延びる。
ぼくはこの作品を解説してはいけない、あらすじを書いてもいけない。そんな気がします。この世の全てが濃縮された、圧倒的な3時間。ぼくはただ断片的に印象を書いていこうと思います。
クロと息子のヨヴァンが地下から地上へ出て、息子が月を太陽と勘違いする場面は滑稽で悲しく、そして彼が生まれて初めて太陽を目撃する瞬間は、余りにも美しく、涙を禁じ得ません。アレクサンドル・グリーンの短編「消えた太陽」を想起しました。
マルコとナタリヤが銃殺されて火をかけられ、車いすが炎を纏いながらぐるぐるとクロの周りを回り続ける、恐るべき現実と幻想的極美が一体となった場面は、生涯忘れられそうにありません。
この映画は、ユーゴスラビア現代史の一大絵巻であると共に、一大幻想でもあります。
「許そう。だが忘れん」
恐らくはこの作品は何ものかを許す作品でありました。そして「祖国」についての物語でした。
おかしい、駄目だ、ぼくにはこの作品をまとめることができない。しかしそれも当然です。この作品について知りたい人は、どんな俊英の書いた解説をも頼りにしてはいけません。ただこの映画を目撃してください。人の一生が、その人になって生きてみなければ決して理解できないように、国の興亡が、そこでいつまでも暮らし続けなければ絶対に体感できないように、この映画は、目撃することによってこの映画の中を生きなければ、知ることはできません。
もし宇宙に全能の神がいたとしても、神にはこの映画を創ることはできなかったでしょう。神にさえ不可能なのです。これは人間の映画だったから。
何度でも言いましょう、この映画は、全てです。トルストイよ、この映画を観て嫉妬せよ。
『アンダーグラウンド』、これは何だ?
3時間近く、一体ぼくは何を観ていたんだ?恐るべき大作、と一言で表現してしまっていいものか、いやよくない!しかしこの巨大な映画を、どうやって伝えればよいのだろうか?
旧ユーゴスラビア映画。1995年製作。クストリッツァ監督。3時間近くの長尺。パルチザンで共産党員のマルコとその友人クロの友情と裏切りと愛と死と笑いとダンスと戦争と涙と・・・それからあらゆることの物語。そうだ、これはあらゆることの物語でした。全部だった。トルストイの小説は「ぶくぶくのモンスター」と評されたことがありましたが、それに近いかもしれません。あらゆる要素を含んでいて、そしてそのあらゆることが中心になっている。19世紀ロシアの小説、ドストエフスキーやトルストイの大長編とのみ比較ができる、そういう圧倒的なスケールの大作でした。
物語は猥雑な喧騒と共に始まり、そして終わります。終始吹き鳴らされる民族音楽の音色は不埒なほど騒がしく、陽気。主要登場人物たちも狂ったように騒ぎ、暴れ、踊る。その一方で、物語は痛ましく、民衆は戦争に常に脅かされ、欺瞞が瀰漫し、騙された人々は地下で生き延びる。
ぼくはこの作品を解説してはいけない、あらすじを書いてもいけない。そんな気がします。この世の全てが濃縮された、圧倒的な3時間。ぼくはただ断片的に印象を書いていこうと思います。
クロと息子のヨヴァンが地下から地上へ出て、息子が月を太陽と勘違いする場面は滑稽で悲しく、そして彼が生まれて初めて太陽を目撃する瞬間は、余りにも美しく、涙を禁じ得ません。アレクサンドル・グリーンの短編「消えた太陽」を想起しました。
マルコとナタリヤが銃殺されて火をかけられ、車いすが炎を纏いながらぐるぐるとクロの周りを回り続ける、恐るべき現実と幻想的極美が一体となった場面は、生涯忘れられそうにありません。
この映画は、ユーゴスラビア現代史の一大絵巻であると共に、一大幻想でもあります。
「許そう。だが忘れん」
恐らくはこの作品は何ものかを許す作品でありました。そして「祖国」についての物語でした。
おかしい、駄目だ、ぼくにはこの作品をまとめることができない。しかしそれも当然です。この作品について知りたい人は、どんな俊英の書いた解説をも頼りにしてはいけません。ただこの映画を目撃してください。人の一生が、その人になって生きてみなければ決して理解できないように、国の興亡が、そこでいつまでも暮らし続けなければ絶対に体感できないように、この映画は、目撃することによってこの映画の中を生きなければ、知ることはできません。
もし宇宙に全能の神がいたとしても、神にはこの映画を創ることはできなかったでしょう。神にさえ不可能なのです。これは人間の映画だったから。
何度でも言いましょう、この映画は、全てです。トルストイよ、この映画を観て嫉妬せよ。