Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

アンダーグラウンド

2012-06-30 23:07:33 | 映画
「『戦争と平和』、これははたして何であろうか?これは小説ではない、叙事詩ではなおさらない、歴史的記録ではさらさらない」――レフ・トルストイ

『アンダーグラウンド』、これは何だ?

3時間近く、一体ぼくは何を観ていたんだ?恐るべき大作、と一言で表現してしまっていいものか、いやよくない!しかしこの巨大な映画を、どうやって伝えればよいのだろうか?

旧ユーゴスラビア映画。1995年製作。クストリッツァ監督。3時間近くの長尺。パルチザンで共産党員のマルコとその友人クロの友情と裏切りと愛と死と笑いとダンスと戦争と涙と・・・それからあらゆることの物語。そうだ、これはあらゆることの物語でした。全部だった。トルストイの小説は「ぶくぶくのモンスター」と評されたことがありましたが、それに近いかもしれません。あらゆる要素を含んでいて、そしてそのあらゆることが中心になっている。19世紀ロシアの小説、ドストエフスキーやトルストイの大長編とのみ比較ができる、そういう圧倒的なスケールの大作でした。

物語は猥雑な喧騒と共に始まり、そして終わります。終始吹き鳴らされる民族音楽の音色は不埒なほど騒がしく、陽気。主要登場人物たちも狂ったように騒ぎ、暴れ、踊る。その一方で、物語は痛ましく、民衆は戦争に常に脅かされ、欺瞞が瀰漫し、騙された人々は地下で生き延びる。

ぼくはこの作品を解説してはいけない、あらすじを書いてもいけない。そんな気がします。この世の全てが濃縮された、圧倒的な3時間。ぼくはただ断片的に印象を書いていこうと思います。
クロと息子のヨヴァンが地下から地上へ出て、息子が月を太陽と勘違いする場面は滑稽で悲しく、そして彼が生まれて初めて太陽を目撃する瞬間は、余りにも美しく、涙を禁じ得ません。アレクサンドル・グリーンの短編「消えた太陽」を想起しました。

マルコとナタリヤが銃殺されて火をかけられ、車いすが炎を纏いながらぐるぐるとクロの周りを回り続ける、恐るべき現実と幻想的極美が一体となった場面は、生涯忘れられそうにありません。

この映画は、ユーゴスラビア現代史の一大絵巻であると共に、一大幻想でもあります。

「許そう。だが忘れん」

恐らくはこの作品は何ものかを許す作品でありました。そして「祖国」についての物語でした。

おかしい、駄目だ、ぼくにはこの作品をまとめることができない。しかしそれも当然です。この作品について知りたい人は、どんな俊英の書いた解説をも頼りにしてはいけません。ただこの映画を目撃してください。人の一生が、その人になって生きてみなければ決して理解できないように、国の興亡が、そこでいつまでも暮らし続けなければ絶対に体感できないように、この映画は、目撃することによってこの映画の中を生きなければ、知ることはできません。

もし宇宙に全能の神がいたとしても、神にはこの映画を創ることはできなかったでしょう。神にさえ不可能なのです。これは人間の映画だったから。

何度でも言いましょう、この映画は、全てです。トルストイよ、この映画を観て嫉妬せよ。

イメージフォーラムフェスティバルG

2012-05-01 22:43:33 | 映画
「3.11を経て 映像作家のまなざし」というプログラムGを観てきたのでした。

制作者が最後におっしゃっておられましたが、去年一年、自分は何をしていたのだろうと思わざるを得ないですね、確かに。

「チェンマイ チェンライ ルアンパバーン」という作品は、タイとラオスで映した光景をまったりとした語りと共に見せるのんびりムーヴィーだなあと思っていたら、「人殺しの赤いつぶつぶ」が出てきて、タイ・ラオスと日本とが強烈に対比され始めます。色々な感想があろうかと思うのですが、ぼくが一番怖かったのは、語り手の声の変化。あんなにまったりと喋っていた撮影者の声を、これほど緊迫した峻厳なものに変えてしまう原発事故の恐ろしさ。

お目当ての「663114」は、なんとなく既視感のある結末でベタと言えばベタなのですが、しかしやはりこれも怖い。戦後66年に起きた3月11日の4基の原発事故、という意味らしいですが、ふむ。9・11もそうですが、出来事を数字に還元してしまう方法には異論もあるわけで、というのも人の死を記号化してしまっているからですが、この作品の場合は、そういう数字/記号の持つ無機質さを逆手にとって、不気味さを醸成しているようにも感じました。なんていうか、蝉が主人公なのですが、何があっても生きようとする蝉の健気さに対する大事故の無情さが、感情の欠片も感じさせない記号に体現されている気がしたのです。この数字の持つ冷酷な感じ、得体の知れなさ、そういうものが作中に瀰漫している。

ところでミランダ・ジュライ『ザ・フューチャー』を観たいのですが、渋谷でレイトショーだけかよ。連休中にパークタワーでやってほしかったなあ。

ナルニア国物語

2009-04-05 01:25:01 | 映画
やっとテレビで放送してくれました。どんなものかと興味津々で観ました。
ちなみに原作は未読。

物語は非常に単純で、悪い魔女をやっつけようという内容。そういう話自体にはそれほど興味を惹かれませんでしたが、幾つかの細部がとてもおもしろいと思いました。

まず、導入部分。疎開するという冒頭ではなく(とはいえこの部分も実はとても重要だと思いますが)、ナルニア国に迷い込む過程がすごくよかったです。衣装箪笥が異世界に通じるという発想はおもしろいですね。まあ観る前からそのことは知ってはいたのですが、極めて日常的な場所から幻想的な世界へと入り込めるというのは興奮します。子供だったら、自分の家の箪笥を開いて調べてしまうのではないでしょうか。箪笥なんてどのうちにもあるものですから、誰でも異世界へ行けるという可能性が提供されるわけです。ぼくが小さい頃、テレビの番組で、部屋の隅(ゴミ箱の陰など)かどこかがやはり異世界に通じている、という話を観たことがありますが、ぼくはそれを観終わった後、実際にゴミ箱を動かしたりして家の中に異世界へのドアを探しました。『ナルニア国物語』の作者はそういう子供の気持ちを分かってますね。すごいです。

そして人間が足を踏み入れたことのないその国が、雪で覆われていた、という設定もすばらしい。雪のないところから雪の降る森に突然迷い込んだ状況を思い浮かべてみれば、それがどんなに目の覚めるよう体験を得させる設定か、分かろうというものです。雪にはそれだけの力があります。あの有名な川端康成『雪国』の冒頭を引き合いに出すまでもないでしょう。まるで違った世界に来てしまったことが示されるわけです。しかも、今この国が冬なのは魔女に支配されているからであり、予言された子どもたちがやって来たことで雪が解け暖かな気候になるという展開にスムーズに移行できます。つまり、雪はナルニア国が異世界であることを端的に表現していると同時に、世界観を形作る重要な要素にもなっているのです。道具立てに二重の意味を付与するのはストーリーテリングの常套ですが、この作品はそれが特に巧いですね。

それから異形の者との出会い、幻想的な歌を披露しながらの心温まる語らい、現実世界への帰還――と、この映画はこれ以上ないほどの魅力的な出発をします。ところが、それ以降は物語がやや平板化してしまうような気がします。また、エドの裏切りや密告、そして改心は成長物語としてのこの映画の欠かすことのできないストーリーラインを形成しているのですが、けれどもどうして裏切ったのかがいまいち得心がいきませんでした。どうやらあの女王は悪い魔女らしいということが彼には分かったはずなのに、それでも彼女の元へ行ってしまう。女王はお菓子目当てで密告した、と言いますが、本当にそんな下らない理由で家族を売ったりするでしょうか。あどけない子供ならともかく、少なくとも12歳くらいにはなっているように見えました。フォーン(だっけ?)を密告したのには悪気はなかったのですが、兄や妹の場合は明らかに事情を知った上でのことです。それほど性格がひねくれていた、と言えばそれまでですが、どうもしっくりこない部分でした。まあ女王があれほど非情な女だとは思っていなかったということもあるのでしょうが…

アスランの復活もちょっと説明不足のような気がしましたし、信じさえすれば的を外さないという弓矢の使い道もほとんどありませんでした。最後はとにかく戦って終わりという感じ。戦闘シーンも少し短すぎる気がしました。火の鳥のアイデアなどはおもしろいんですけどね。

ただ、エピローグ的な結末部分はよかったです。ナルニアですっかり大人へと成長した兄弟姉妹。彼らは森を馬で駆け、自分たちがやって来た場所に偶然辿り着きます。見覚えのあるところ。あの外灯が目印です。以前の暮らしを忘れてしまっていた彼らは、再び箪笥の中へと入ってゆき、そして元の世界に戻ったときには、体も子供の姿になっていました。教授のじいさんに見つかる4人。でもどうやらじいさんもナルニア国のことを知っているらしい。余韻の残る終わり方です。

こうして書いてみると、最初と最後がよかったってことですね。ロード・オブ・ザ・リングより迫力では負けるけど、ロマンチックではある、そんな感じです。

そうだ、書くのを忘れていましたが、自分たちが見も知らぬ国へ行って、そこで悪い魔女の率いる軍勢と戦い、勝利した暁に王となる、というストーリーは、子供たちにとって非常に魅力的ではないでしょうか。少年の興奮する冒険活劇の基本を押さえていますね。アメリカ的だとかなんだとか、そういう理屈は抜きにしましょう。

『ハルムスの幻想』

2009-03-31 00:01:04 | 映画
きのうのフィルムセンターのことから書こうか迷いましたが、記憶がより早く薄れそうなこちらを先にアップします。

スロボダン・D・ペシチ監督の『ハルムスの幻想』。
一応断っておきますが、実写映画です。

東大でハルムス関連のちょっとした催しがあって、そこで観てきたのですが、まあおもしろいものではないです。ハルムスが逮捕されるまでの生活と彼の種々の作品とを前触れなしに交叉させつつ、そこに天使という幻想的なキャラクターを紛れ込ませた映画。

ハルムスについてはここでも何度か取り上げているのですが、ロシアのだいたい1930年代前後の作家・詩人です。ぼくはこの人の作品が好きで、日本語はもちろんロシア語でも読んでいます。日本では一般にほとんど知られていない作家で、今日東大の教室も閑散としていましたが、しかし近年急激に日本でも注目されるようになっています。日本における海外文学界で圧倒的な知名度を誇る柴田元幸氏の『モンキービジネス』(原著の題名は英語だったと思いますが)で紹介され、つい最近もやはり柴田元幸編の『昨日のように遠い日』で短篇が数編訳されています。他にも『ハルムスの小さな船』という一冊丸々をハルムスの作品で構成した単行本が出版されましたし、『飛ぶ教室』という児童文学の本でもハルムスが扱われています。絵本も出ています。つい4、5年前まではこんな状況が来るとは想像だにしていませんでした。たぶん柴田先生がハルムスに興味を持ったことが大きいでしょうね(それがいつかは聞いてないですが)。一般の読者にもハルムスの存在が知られるようになりました。

映画の話に戻ります。『ハルムスの幻想』では、ハルムスの作品が(もちろん実写化されて)随所に挿入されます。したがって、彼の作品(さっきから「作品」という中性的な名詞を用いていますが、これはハルムスの書くものが「小説」という概念から逸脱しているため)を読んだことのない視聴者は、映画を観ても意味不明だろうと思います。ハルムスの伝記的部分とその作品部分とが何の境界線もなく溶け込み入り混じっているので、分かる人には分かる、という些か倣岸な映画と言えるかもしれません。ぼくは幸い元ネタを色々と知っていたので、チンプンカンプンという事態は避けられましたが、最初にも書いた通りさほどおもしろくないことには変わりません。

この映画に対しては、総括的な興味というよりは、断片的な興味をそそられるというのが普通の鑑賞態度だと思われます。今日の催しでも質問として挙げられた、事物のシンボル(例えば梁は何を象徴しているのか、など)や、天使の翼の技術的問題(あるいはそれに関する監督の意図)、天使の両性具有性、ワンカットの長回しなどは、その一例でしょう。これに加えてぼくが関心を持ったのは、色彩です。カラーで始まった映画はモノクロに変わります。伝記的部分がモノクロで表現され、ハルムスの作品の実現はカラーで表現されるのかと思いましたが、そう単純ではないようです。例えばモノクロの中にも空だけが青や赤錆色に塗られていたりします。ちなみにこの画面設計はカレル・ゼマンの映画を想起させます。彼は実写とアニメーションとを混交させたトリッキーな作品を撮っていますが(ぼくの想定しているのは実写がモノクロのもの)、そのような混在性が、実写の建物と人工的な空の色との対比に見出せるような気がします。ところで映画において色彩が意味ありげに使用されている例として、タルコフスキーの『鏡』を挙げないわけにはいきません。これは基本的には過去と現在とで色が使い分けられるのですが、やはり複雑な基準があるようです。

この映画の中ではハルムスは割と常識人のように描かれていますが、実際にはエキセントリックな人物であったようです。映画のハルムスは天使についてこのように言います。彼らは天使をおかしなもののように見るが、おれにはそう思えない、と。これはハルムス本人に向けて言われている言葉のようにも思えます。そうすると天使とハルムスとは親近性があることになりますが、事実、分身的な関係性にあったのではないかと推測できます。それは、天使がハルムス本来の「異質性」を肩代わりしていた点、また最後にハルムスが翼を持った天使(?)になる点からも判断できます。

先の天使について述べた言葉から想像されるように、ハルムスが何を異質なもの、奇妙なもの、不条理なものと見ていたかということは興味深いテーマで、この映画は実にその「奇妙なもの」について語られた作品であるように思いました。ハルムスはソ連社会そのものを奇妙なものと感じていたのではないか、とぼくは個人的に考えているのですが、ハルムス的な意味不明さの溢れるこの映画も、ハルムスにとっては真っ当な世界を切り取ったものなのかもしれません。

スターウォーズ エピソード3

2009-02-22 00:23:31 | 映画
ダースベイダーの過去を描く三部作の最後の作品。初めて観ました。
『スチームボーイ』に出てきたような乗り物がありましたね。車輪みたいな形状で、その中に入って運転するやつ。ライトセイバーは明らかに日本のチャンバラの影響を受けていますが、この乗り物もひょっとして?でも制作時期を考えるとぎりぎりなので曖昧ですが。

本来ならば強大な敵であるダースベイダーの過去を綿密に描くという発想はとてもおもしろいですね。スターウォーズ・シリーズは壮大な父と子の物語ですが、最初に撮影された作品が子の物語だったとすれば、後年の三部作は父の物語ですよね。

ぼくはシリーズの全てを把握しているわけではなく、それどころか覚えていない部分もかなりあるのですが、熱狂的なファンがいるというのは頷けます。世界観の遠大さはもちろん格闘シーンがカッコイイですしね。

ぼくは小説ではSFってどういうわけか駄目なんですが、こういう映画とかアニメーションとかならむしろ好きな方です。小説の場合、機械の動力の仕組みなどをアレコレ説明されても嘘臭いとしか思えないのですが、実際に眼前に映像を突きつけられると、すげえ!ということになります。架空の話だということが自明ですから、嘘の世界に何の抵抗もなく入っていけるというか。ところが小説だと、俗世間に足を引っ張られて、なかなか本の中の世界に没入できません。想像力が欠乏しているためでしょうか…。映像を見せられないと分からないというのでは、小さな子供とおんなじですね。やれやれ。

第一作も久々に観たくなりました。

プチシアター vol.1

2009-02-17 22:48:17 | 映画
『プチシアター vol.1』を観ました。
ところで今日は11時から断水なので、それまでに寝ようと思っていて、早くこのレビューを書き上げてしまうつもりです。
さて収録作品は、「魅惑の一缶」「ハーヴェイ」「岩のつぶやき」「パイロット」の四作品。例の如く記憶に従って書いているので題名は若干違っているかもしれません。いずれもショートフィルムです。

「魅惑の…」はお馬鹿ムービー。ガールフレンドを自宅に招待する約束をして、彼女をもてなす準備をしている青年がキッチンで缶詰を開けると、そこからものすごい数の蝿が飛び出してきた。彼女が来る前に、この蝿どもを退治しなくてはならない…その奮闘。ひまし油みたいなのを飲んで下痢をして、それを流さずに放置、なんていう描写はとんでもなく下品で、はっきり言ってぼくの趣味ではないのですが、でもやっぱりちょっと笑ってしまいます。だいたいそれで蝿をトイレにおびき寄せて退治しようとでも思ったんですかね?効果なかったみたいですが…。むしろ彼女がやってきてから効果を発揮するという…。どうしようもないショートフィルムで、こういうのが作られてるっていうことを知ると、なんだか安心しますね。あ、馬鹿な奴いるぞって。いや、いい意味でね。

「ハーヴェイ」は、小説ならたぶんおもしろかったんでしょうが、実写で観るとかなり怖いです。文字通り半分だけの体をした初老の男が、隣人の女のもとに忍び寄る。お決まりのシャワールームで二人は出会い、女は気絶。男は彼女の体を真っ二つに切断し、二人は一つとなる…。体を切断する音、ギーコーギーコーという鋸かなにかで切断する音が聞こえるんですよね。う~む、気味が悪い。しかし一番醜悪なのは半分だけの体と、無理矢理に一つに繋ぎ合わされた二人の体です。切断面にはごちゃごちゃしたものが見えていて、繋ぎ合わせてもそれは隠されません。というのも、幾つものリングみたいなもので繋がれているその隙間から、内部が丸見えだからです。女の半身が体を引き離そうとしてぐいぐいっと切断面を掴んで引っ張るところは、げーって感じですね。ちなみに、この映画は全編モノクロ。これでカラーだったら嘔吐ものですよ。しかしいずれにしろ、子供が見たらトラウマになりそう。でもどこか馬鹿馬鹿しさも残る映画です。

「岩のつぶやき」は一転して見事なアニメーション。岩の感じる時間と人間の感じる時間とを対比させて、人類/文明の盛衰を描き出します。人類が文明を築き上げる長い努力も、岩から見ればほんの一瞬の間にしか過ぎず、文明の崩壊へ至る過程は突然で、悠久の自然からすればそれはまるで岩の見る一睡の夢でしかありません。崩壊の様子はカタルシスをもたらし、それと同時に視聴者は自然の長いサイクルに思いを馳せてしまいます。人間とは違う時間感覚に着目したのは非凡なところで、宮崎駿なども虫の感じる世界について語っています。制作者たちの謙虚で誠実な態度と自然への畏敬の念を偲ばせる、とてもよい映画だと思います。

「パイロット」は楽しい作品。パイロットがコクピットで打ち上げ態勢に入り、いざ出発するのですが、なんと彼の乗っているのは宇宙船でも飛行機でもなく、テニスボール!ラケットでボールを散々打ちまくる男にキレたパイロットは、彼に向かって飛び掛り、ぶつかって攻撃します。そして仕舞いには本当に宇宙へと飛び出してゆく…。やはりこれも馬鹿げたムービーですが、他のに比べるとどこか爽快感があります。ただ、パイロットの顔に当たる照明が黄色や緑で、かなり気持ち悪いです。

「岩のつぶやき」を除く三作品はどれもゲテモノで、B級カルト映画的なノリも見られます。下らない映画観たいなーって気分の時にはいいかもしれません。不思議なのは、なぜ「岩のつぶやき」がこれらとセットになってDVDに収録されているのかってこと。確かに岩が少し不気味で、普通ではない映画ですが…

マトリックス

2008-12-23 00:40:26 | 映画
先日の土曜日に『マトリックス』がやっていました。1999年の作品なんですね。あれからもう9年かあ。つい最近の映画だと思っていたら、時が経つのは早い。当時、学校の先生がこの映画を観て、よく分からないところがあった、なんて言っていたような。それから何年か経った後、大学の先生が、あのカンフー・シーンはどうのこうのと言っていたような。たぶん日本文化が外国に与えた影響(あるいは外国映画における日本文化とか)について話していたと思うので、その文脈で『マトリックス』を出したんだろうな。

『マトリックス』が押井守の影響を受けている、という話は有名ですね。例えば頭の後ろに機械との接続口があるところとか。あとカメラワークなんかがよく挙げられるのかな。格闘シーンは酔拳と日本の漫画のごた混ぜといった感じ。銃弾をすばやく身をかわしてよけるところは、かなり漫画チックですね(体の残像がいくつも見える)。もし銃弾を手で止めてそれを指の力で打ち返したら、完全にドラゴンボールなので、それをやったらおもしろかった。まあ、日本人が見たらギャグにしか思えないかもしれませんが。

さて仮想現実というのはパソコン技術の向上とともに色々なメディアで見られるようになったテーマですが、『マトリックス』はよくできている方だと思いました。どうして人間は仮想現実の世界で生きねばならなくなったのか、という肝心なところを忘れてしまったのですが・・・。ロボットと人間が対立して、太陽エネルギーを必要とするロボットに対抗するため人間は自ら空を雲で覆い太陽を隠し、でロボットは人間を養分とするようになり、人間はロボットによって生み出されるところまでいき・・・それからどうして人間が仮想現実の世界で生きるようにロボットに仕向けられたのか、その理由を忘れてしまった。人間は現実世界で眠らせ仮想現実の夢を見させておけばいいだろうとロボットは考えたのかな。でもそうしたらわざわざ仮想現実をユートピアに近づける必要はないし、なんでだろう(結局ユートピアにはならなかったが)?

アクションシーンは日本人が見るとちょっと馬鹿臭いところもあるんだけど、そういうところも含めてなかなかおもしろかったです。最後の救世主登場のシークエンスなどは、ちょっと感動的でさえあった。すげぇ、強すぎる、と。

ところで今日は寒かったですね。強風と横殴りの雨の中、自転車に乗って帰りましたが、手がかじかんで、家に着く頃には完全に寒さで麻痺していました。昼頃は暖かかったんだけどな。6時半の段階で新宿は5.6度らしくて、体感温度はそれよりずっと低くて3度くらいだったんじゃないかと思っています。ちなみに今ぼくがキーボードを叩いているこの部屋も寒い。

続・三丁目の夕日

2008-11-22 00:46:41 | 映画
CLANNADショックから立ち直れない…
気分転換をしないとダメになる…エヴァのときのように…

さて、金曜ロードショーで「続・三丁目の夕日」がやっていました。
なかなかよくできてるんじゃないですか?あんまりよくなかった、という声も聞いていたので、そんなに期待してなかったんですけど。ただまあ、展開が見え見えですが。

けれども、この映画は意外な展開にハラハラドキドキ(←古っ)するものではなくて、あの時代の空気を感じ取って懐かしんだり憧れたりするものなんじゃないかと。密接な人間関係を細い目で眺めたりしてね。

一番よかったシーンは、茶川(吉岡秀隆)の小説「踊り子」の一節を吉岡秀隆がナレーションするところ。文章もなかなかよかったけど、やっぱり吉岡秀隆の声はしんみりするよね。あの声に癒やされます…

給食費を払ってないから給食を食べない真面目な生徒、という設定は、昨今の給食費滞納問題へのアンチテーゼ?というのはあまりに安易な発想か。

冒頭のゴジラはけっこう迫力があった。そういえば本場のゴジラってもう全く観なくなったなあ…。

なんというか、書くことがあんまりない。今日はもうこのへんで。

『ブリュレ』

2008-11-12 02:25:51 | 映画
これは、現在公開中の映画『ブリュレ』の感想ではありません。
『ブリュレ』の監督が急逝したことについての、若干の随想です。

『ブリュレ』の監督は、32歳だったそうです。新海誠がいま35歳くらいですから、同世代と言っていい。どうして新海誠の名前を出すのかというと、彼はこの映画に寄せて文章を書いているからです。以下、新海誠のホームページから転載。

 「双子のパラドックス」という思考実験がある。双子の片方がロケットに乗ってずっと遠くまで行って、再び地球に戻ってくる。すると相対性理論により地球に残った片方のほうがずっと歳をとっていて云々、というやつである。僕がこの美しい映画を観て思い出したのは、この言葉だった。
 地上に生きるしかない僕たちの時間も、ある意味では人によって流れ方が違う。僕たちは愛する人とずっと同じ時間を生きたいと願うが、それを叶えることは実はとてもとても難しい。だから誰しもそれぞれの生き方を学ばなければならない。双子の旅はそういう焦燥に貫かれていて、だからその姿は、とても深刻に僕たちの胸をうつ。
 そしてその若い焦燥を、おそらくは主演の中村姉妹を含めた制作者たちも共有していたのではないか。世界の何処に立つべきかをまだ迷っているかのような双子の姿を見ながら、僕はそう想像する。きっとその時期、その人たちにしか撮り得なかった一篇なのだ。奇跡のようなフィルムだ、と言うほかない。(新海誠・アニメーション監督)

新海誠がなぜこのような文章を書いているかというと、この映画に関わった人たちの何人かが彼の友人だからだそうです。同世代の監督とは、どうだったのでしょうか。
『ブリュレ』は、この人の初めて監督した映画だったそうです。しかも、長い年月をかけてようやく日の目を見たとか。しかし、その初監督作品が公開中に、死んでしまった。これから、というときに。

新海誠はまだ20代のときに注目され、デビューしました。それからコンスタントに作品を発表し続けています。大きな賞も受賞しました。一方、『ブリュレ』の監督は、32歳でようやく映画公開に漕ぎ付け、これから、というときに亡くなってしまいました。32歳のデビューというのは、映画界では早いのか遅いのかぼくには分かりませんが、無念だったでしょうか。それとも、幸福だったでしょうか?ぼくはときどき思うのですが、本当に幸福な死というのは、まだ叶わぬ夢の実現に向けて歩いてゆこうとするときではないでしょうか。夢が叶った後に満足して死ぬのではなく、まさに夢見ているときに死ぬのが、人間の幸福なのではないか。ぼくはゲーテの『ファウスト』のラストを思い浮かべています。ファウストは人類の未来のために土地を干拓し、絶えず努力している民衆の姿を見て、「時よ止まれ」と言ってしまうのですが、これから、という瞬間こそが最高の一瞬になりうる。そして『ブリュレ』の監督は、その「これから」という時に亡くなったのです。叶えたいことがあったでしょう。もっと映画を制作したかったでしょう。しかしそれを「無念」とみなすのではなく、死ぬときまで見続けた「夢」とみなすのです。夢をついに見つけられない人も多いこの世の中で、夢を抱き夢に抱かれて眠ることは、幸せなのではないか。夢を見続けた人は、夢に見られて死んでゆくのかもしれません。

ピアノチューナー・オブ・アースクエイク

2008-11-02 00:24:55 | 映画
ブラザーズ・クエイの新作映画『ピアノチューナー・オブ・アースクエイク』を観ました。
クエイ兄弟の映画は基本的にストーリー性が感じられないものが多いので、この作品はどうなのだろうか、と思って観始めました。というのも、この映画は珍しく長編なので。長編で筋がなかったら、これはけっこう厳しい戦いになりそうだから。

で、最初の内は、ストーリーがあって、ああなるほどね、と思っていたら、途中から意味が分からなくなってきて、何がなにやら。大まかな筋は分かるのですが、「なんかよく分からん」という印象が残るのです。たぶん細部の意味がはっきりしないからだと思います。

ただ、この映画はストーリーを追って楽しむ類の映画ではないでしょう。ほとんどセピア色に見えるほど抑えられた色調の中で強調される光と影のコントラスト、奇岩の林立する背景、カメラの構図、摩訶不思議なカラクリ機械、無気味な人形、そして妖艶な女。これらのものを愛でる映画であり、その意味でこうしたものを愛でることのできる精神が要求されているとも言えます。ほとんど一幅の絵を眺めているような静止画像はただただ美しいです。

が、映画の途中、あっちの方からこっちの方からいびきが聞こえ始めて…。かくいうぼくも睡魔に襲われかけたのでした。ちょうど中盤だったと思います。

この映画は、レーモン・ルーセルとカサーレスの小説を基にしているそうです。どちらも読んでいませんが、後者はぜひ読みたいと思っています。ちなみに、『ストリート・オブ・クロコダイル』はシュルツの小説が原作で、どうやらブラザーズ・クエイはなかなかの文学愛好家らしい。この3人は文学が好きな人には馴染みの名前だと思いますが、そうでない人にとっては聞いたこともない名前の作家たちだと思うので。シュルツの小説は持っているのですが、まだ読んでいません。難しそうで…

で、クエイ兄弟のこの新作ですが、映像美を愛する人は堪能できると思います。一方ストーリーがガンガン進む映画が好きな人には、いい睡眠薬になることでしょう…

西遊記とドラゴンボール

2008-10-15 21:39:57 | 映画
おとといテレビで『西遊記』が放映されていました。なんとなく最初から最後まで見てしまったのですが、想像していたよりも楽しめました。特に中盤の孫悟空とギンカクとの飛行勝負は、映像技術を駆使して圧巻の出来だったと思います。でも、飛べるんだったら山の上の玉を取りに人をやらずに自分で行けばいいじゃん(けっきょく自分で来たが)、とか思ってしまって、ちょっと脚本に無理があるような気もしましたが、ま、いいでしょう。

そんなことよりも、気になることがありました。『ドラゴンボール』との類似です。『ドラゴンボール』が中国の『西遊記』に想を得ている部分があるのはそうなのですが、そういうことではなく、鳥山明の『ドラゴンボール』オリジナルの部分と似通った箇所があったのです。

まず、『西遊記』のひょうたんの内部。これって、『ドラゴンボール』のブウの体内と同じではないですか。三蔵法師が繭みたいなものに包まれてしまっているところは、ブウの体内に取り込まれた悟飯たちの状況とそっくりです。
それから、キンカクが孫悟空に向かって言う、「わが弟にならぬか」という台詞。これは、フリーザの父クルド大王がトランクスに向けて言った、わが息子にならぬか、という台詞をパラフレーズしたものに他なりません。どちらも、自分の弟/息子を倒された後に吐いた言葉です。

玉を求める冒険の旅、その結果甦る龍…『ドラゴンボール』とよく似ています。
ひょっとすると、同様の指摘は既に何度もされたのかもしれませんね。誰が見たって、この類似は明らかです。
監督は、よっぽど『ドラゴンボール』が好きなんだろうな。

カサブランカ

2008-09-16 00:16:41 | 映画
ハンフリー・ボガート主演の『カサブランカ』。
余りにも有名な作品ですが、恥ずかしながらこれまで見たことがなく、今回が初見でした。で、感想ですが、おもしろい。

初めはカサブランカの情勢がいまいちよくつかめず、登場人物の政治的な立場とか、あいまいなまま見ていたのですが、次第に分かるようになってきて、それにつれて物語の行方にも興味がもてるようになってきました。

あらすじ

ドイツの通行許可証が盗まれ、その持ち主が殺害されたところから映画は始まります。ひょんなことから町のバーの支配人リックの元にその通行許可証が舞い込みます。彼は店にその許可証を隠しますが、そこへ許可証を購入してアメリカへ逃れようとする人物が現れます。それは地下組織のリーダー・ラズロとその妻で、もともと通行許可証は彼らの手の元に届く手はずになっていました。しかし、その売人は警察に逮捕され、その直前に許可証はリックの手に渡ったのでした。バーでリックはラズロ夫妻と出会いますが、どうやらラズロの妻とリックは顔見知りのよう。かつてパリで二人は逢瀬を楽しんでいたのでした…

ここまでが導入部です。果たして通行許可証は誰の手に渡るのか、ラズロは警察から逃げ切れるのか、そしてリックとかつての恋人との愛の行方やいかに…

このような物語が、フランス領のカサブランカで、次第に台頭してくるドイツとフランスとの対立の中、展開されます。

二人の男の間で揺れ動く美女、愛する女性のためを第一に考えようとする二人の男、過去と現在の恋…複雑な大人の恋がかっこよく描かれます。

この映画には名台詞が多いですが、中でもお気に入りは、これ。
「おれたちには思い出のパリがある」
ここでぐぐぐっときてしまいました。この台詞に酔わない人はいないんじゃないかってくらい、胸に響きました。

ラストもかっこよくて、ステキ。とにかく、かっこいい映画なんです。銃撃戦でハラハラしたり、冒険にドキドキする映画もいいけど、物腰の柔らかな大人がスマートに愛や友情に身を捧げるのもいい。

最後に、この名台詞を付け加えておきましょう。
「忘れられないキスをして」
だっはーーー!降参です。

蟲師

2008-09-10 00:53:06 | 映画
大友克洋監督の『蟲師』を見ました。
原作の漫画は途中までしか読んでいませんでしたが、映画で使われたエピソードは既読。もっとも、ほとんど内容を覚えていませんでしたが。

原作はどこか漫画『ゲゲゲの鬼太郎』的で(怪奇現象を解き明かしてゆくところが)、読み終わるとじんわりとした余韻を残す作品が多いですが、映画ではホラー的な要素が加味されているように感じられました。途中、虹を探す男が出てきてからは、陽気な雰囲気になりますが、しかし随所に恐ろしさを刻印するようなシーンがありました。それと、原作にあったような余韻が薄れてしまっています。漫画はそこが見所だと思うので、映画化によってそういう部分が失われたことは残念です。

かなり尺が長く、131分だそうですが、少々退屈に感じられました。
また、いまいち意味がよく分からなかったです。初めにも書いたように、原作の内容をほとんど忘れてしまっているので、予備知識もなく、映画の中からしか情報を得られませんでしたが、「トコヤミ」(「常闇」?)と「ギンコ」(蟲)の関係など、把握し切れませんでした(だからラストの意味がいまいち…)。

あと、スペクタクルシーンが多いのかなと予想していましたが、案外少なかったです。ま、あんまり映像技術に頼ってもナンなので、それはそれでいいのですが。

恋がないと映画はできない、とでも言うように、恋のスパイスを少しだけまぶしている感もありますが、かえって不自然に感じられました。

概して、ちょっと地味な映画です。飛び抜けたものが何もない、というか。それが魅力だと言う人もいるかもしれませんが。

ぼくは、映画よりも漫画版の方が好きですね。

ターミナル

2008-09-07 22:24:09 | 映画
テレビでやっていたので『ターミナル』見ました。
楽しめました。主人公の置かれた状況がとても滑稽で、こんな設定をよく考えたものだと感心。自分で工夫して色々なものを作ってしまうところも、「ありえないだろ」と思いつつ見ていましたが、いい。最初は皆から不審がられていたけど、最後には皆と家族のような関係になるという、おきまりの演出も、そうなる過程の描出が洗練されていて、引き込まれます。友人の恋や幹部の昇進などを挟み込みつつ、主人公の恋も並行して描いてゆくところもさすがに上手い。

ただ、主人公がニューヨークに行きたいと願っていた理由が、少し弱いかな、という気はしました。だから本当に終盤までは楽しめたんですが、最後の最後で物足りなさが残りました。

ところで、主人公はロシア語を喋ります。出身地は恐らく旧ソ連のどこか架空の国という設定になっているんだと思います。途中で、やはりスラヴ系の人物と主人公が話し合うシーンがありますが、そこで相手は「ニェ・ルースキイ」と言っていました。これは、「(おれは)ロシア人じゃない」という意味です。

主人公の国名は「グラコージア」と聞こえましたが、「グルコージア」かもしれません。そうすると、なぜ彼がロシア語を話すという設定になっていたのかが分かってきます。グルコージアはグルジアをモデルにしていると思われます。つまり、この映画の影の主題はアメリカとグルジアとの友好。まあそこまで考えなくても十分にこの映画は楽しめますが、つい最近一般の人にも明らかになったグルジア・アメリカ・ロシアの微妙な関係を考えると、なかなか深いメッセージがあると言わねばなりません。ロシア人が登場しないことにも何か意図があるのではないか、と勘繰りたくなります。もっとも、スピルバーグがロシアを敵視するとは思えませんが。

ただ、個人的には映画に政治的な背景を読み取るのは好きではないです。
ロシア語を話すおかしな外国人が空港でどのように人々との友情を深めたか、いかに解放を待ち続けたか、そういうところを楽しんだ方がいいですね。

ちなみに、仮にグルジアをモデルにしていたとしても、深い意味など最初からないのかもしれませんね。

メン・イン・ブラック

2008-09-07 00:26:24 | 映画
昨日、テレビで『メン・イン・ブラック』(以下『MIB』)がやっていた。
この映画はぼくが中3のとき公開された映画だ。そのことはよく覚えてる。
ぼくが中3のときは注目映画が幾つも封切られた。例えば『もののけ姫』『ロストワールド』『タイタニック』だ。このうち『もののけ姫』と『タイタニック』は、日本の映画の興行記録を更新した。まず『もののけ姫』が、次いで『タイタニック』が。今では『千と千尋』が第一位だけど、当時はこの二つが相次いで一位になったんだ。

『MIB』はそれらの映画の陰に隠れてしまった感があるけど、それなりに注目を浴びていた。ぼくは当時この映画をすごく見たかった。上に挙げた三つの映画は映画館に見に行ったんだけど、結局『MIB』は見に行かなかった。受験生ってことが影響したのかもしれないし、ただなんとなく行きそびれただけかもしれない。他にも、『エヴァ』が公開されたのはぼくが中3のときなんだけど、これにもやっぱり行けなかった。行こうとしたんだけど。

『MIB』は、要するに地球に極秘で住んでいる宇宙人を極秘で管理する人たちの活躍を描いた話(彼らは黒いスーツの着用を義務付けられている)で、宇宙人の造形が見所の一つだ。タコみたいなのがいたり、やけに小さいのがいたりする。極悪の宇宙人をやっつけることに物語は収斂されてゆくんだけど、こいつがゴキブリの親玉的存在ということになっていて、どこかゴキブリを髣髴させる造りになっているはずなんだけど、あまりそうは見えなかった。たぶん審美的な問題だろう。でかいゴキブリが画面の真ん中で足を広げてごそごそしていたら、たぶん観客はぞっとするはずだから。

物語の後半は、地球が滅亡するかもしれない、あと数分で滅亡だ、ということになるんだけど、その展開がなんだか急で、あまり緊迫感もなかった。地球的な規模に話が膨らむのは、少し『ドラゴンボール』に似てると思う。もちろん、そういうところだけ。

話はスピーディだし、ギャグもあってそれなりに楽しめるんだけど、どこか馬鹿馬鹿しくって、B級映画の香りがする。映画では、ゴシップ誌が重要な情報源とされるけど、この映画もなんとなくゴシップ的なノリがある。高級感はなくて、襟を正してみる必要もない、ただ娯楽として消費されていくような映画。世の中にはこういう映画も必要だろう。

中3のときに見ていたら、どういう感想を持ったんだろうな。