Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

時のいたみ

2011-05-31 23:52:47 | 文学
バート・K・ファイラーという作家の「時のいたみ」という短編を読みました。1968年の作品。その年のネビュラ賞を取るべきだった、という評もあるようですが、どこが傑作なのかがぼくにはよく分からず・・・。

タイムトラベルものなのですが、「何のために時代を超えたのか」という動機が小説の核となっており、それが作品の唯一の中心で、最大の見せ場で、最高の感激を呼ぶところ・・・のはず。ネタバレしてしまうと、要するに「君を救うためなのだ」ということです。君を救うためにぼくは時代を超えてきたんだぜって・・・なんだそりゃー・・・

この作品は『時の娘』というロマンティックSF傑作選に収録されているのですが、他の未見の作品の出来が心配になってきたぞ。全てジャック・フィニイ級のものであってほしいなあ。

ちなみにちょっと付け足しておくと、「時のいたみ」はラストがいい味を出している、という評価だったんでしょうけれども、その分を加味したとしても、やはり水準以下のような気がしてならないのですよね。う~む、概してSFの苦手な人間(というかほとんど読んだことない人間)には評価は難しいなあ。

結局、幾たびも君を失う、という物語なのかな。いやタイムトラベルの残酷さの物語かな。いずれにしろ心の底にずしりと来なかった。

明日こそは・・・

2011-05-31 01:24:17 | Weblog
しまった、今日1000円使ってしまった。
しまった、もうすぐ6月なのに勉強してない。
というふうに、情けない日々が過ぎているのですが、明日こそは、みっちり勉強せねばな。およそ半月ぶりに。だいたい、ブログにしょっちゅう暗い気持ちを吐露してばかりいてはよくないですよね、たぶん。いやきっとよくないのです。

たまたま2008年の記事を見てみたら、書くことがありすぎてまとまらない、などとのたまう自分の文章に仰天しました。当時はかなり厳しい時期であったはずなのに、ちょうどそのときは充実してたんでしょうね。今は、当時に比べて体調はかなり改善しているはずなのですが、まるで充実感がないなあ。もっとも、体はだるいのですがね。原因は何だろうなあ。幾つか考えられますけど、これという確証がない。とりあえず早寝を心がけます。

ところで。

「へうおwfgんrんkうぃうd」という文字列があったとします。これは無意味ですか。確かに何の情報も伝えていないという意味では無意味ですが、この文字列を見る者に何らかの情動の変化を起こさせているという意味では有意味です。ということは、言葉や文字には情報を伝達する価値と、それ自体の価値とがあるということになります。後者には、視覚が情動に及ぼす効果、聴覚が情動に及ぼす効果とがあります。

「木の実へ綺麗ながビル街はへそ。」という文があったとします。これはどうでしょうか。文としては何の情報も伝えていないので無意味な文と言えますが、個々の単語には意味があるので有意味といえるかもしれません。また視覚的効果と聴覚的効果とがありますが、前者は通常の文と比較しても大差ないかもしれません。またこれは無意味というよりは文法の破壊と言った方が正確かもしれませんね。

文字レベルで無意味を作るか、単語レベルで無意味を作るか、という違い。後者においては文法を壊すことで無意味が得られます。ただし、その無意味というのはあくまで情報伝達という点におけるそれであって、人間の情動に働きかける点では有意味です。最初の例のような「無意味」は、情報伝達機能が最初から排除されているために、視覚・聴覚への訴求力が強くなりますが、二番目の例では、情報伝達機能が半ば保持されているために、視覚・聴覚への訴求力は弱まり、情報伝達の無意味さが強まります。どちらも無意味に感じられるはずですが、しかし最初の例では、ア・プリオリに無意味なのに対して、二番目の例では無意味を再認識する、という認識の段階を踏むことになるのではないでしょうか。いわば、前者は嚥下可能な無意味、後者は咀嚼不可欠の無意味とでも言えるでしょう。

よし、明日からはみっちり勉強するぞ。

暗黒のメルヘン

2011-05-29 22:07:52 | 文学
久々に文学ネタ。

勉強する気がしないので、アンソロジー『暗黒のメルヘン』を少しだけ読む。小説を読めるだけの気力はあるってわけです、今日のところは。

読んだのは、
坂口安吾「桜の森の満開の下」
石川淳「山桜」
の二篇。

実はどちらも初読でした。そしてどちらもおもしろかったです。
「桜の森」は、なかなか捉えどころのない幻想譚で、「結局何だったのか」ということが分からないままなのですが、人の首を玩ぶ美女の様子は妖しく、桜の森の魔的な佇まいと相俟って、作品に毒々しい魅力を注いでいます。

一方「山桜」は、切れ目の少ない長い文に綯われた美しく儚い幻想が軸になっています。が、長々と続く文体は端正さや軽やかさとは程遠く、そこで吐き出される書き手の屈折した感情の数々は一見すると汚辱に塗れた私小説家の手記を思い出させるほど。ですからその中から突如として幻想が立ち上がり、いや立ち上がるかと見えるとすぐさま霧消する様はまるで手品師の業。吐き溜めから鶴が飛び上がる驚きもこれには及ばないと思われる、一瞬の芸当には恐れ入ります。

と、抽象的な感想でお茶を濁してみる。

それにしても、と思う。久々に読む小説はおもしろい。というか、文字をすらすら読めるってすばらしい。そして気持ちよい。外国語を読むスピードは、どうもぼくの知識欲のスピードに到底追いついていない気がします。いやほんと遅い、桜の舞い落ちる速度と同じくらいだよ。

御岳山

2011-05-28 23:21:35 | Weblog
最近あまり書くことがないなあ。小説はほとんど読んでないしな。やる気しないなあ。

今日テレビを見ていたら、御岳山が紹介されていた。この山は、何年も前に友達同士で登ろうかという計画があって、しかしその当日にぼくはあろうことか熱を出してしまって結局登山できなかったのでした。

しかしテレビを見ていたら、なんか凄くいい山じゃないか?これは是非いちど登ってみたいものだ。いつか行きたいと思う。

体さえ丈夫だったら登山というのはとてもいい趣味になる気がする。

他に書くことがないので今日はこれだけ・・・

さようなら、ぼくのカバン

2011-05-26 23:47:20 | Weblog
カバンを替えました。

13年間愛用したぼくのカバン。正確に言えば、カバンというかリュックサックですけどね。
ランドセルでさえ、6年使用し続ければボロボロになってしまうことが多いのに、その倍以上の年数使い続けましたよ。よくやった、ぼくのカバン(いやリュック)。

ぼくはランドセルをまるで割れ物のようにとても慎重に使っていたので、6年経っても綺麗でふっくらしたままでした。ところがこの13年のカバンは、さすがにぼろっちくなってしまいましたよ。で、きのう、とうとう穴があいたので、別れを告げることにしました。代わりのカバンは既に用意してあったのです。

さようなら、ぼくのカバン(リュック)。思えばぼくの人生の約半分を共に過ごしてきたのだな。今までありがとうな!

新海監督のインタビュー(2)

2011-05-24 23:27:29 | アニメーション
まずは、引用します。二か所。

――僕、大学で国文学を勉強していたんですが、そこで柄谷行人の「日本近代文学の起源」という古典みたいな有名な本なんですけど、「風景というのはとりたてて描写するようなものではなかったけど、背景を文章で描写するっていうのは発明だった」、「風景を発見したことで人は内面を発見して、内面の発見と風景の発見を可能にしたのは文体の確立だった」とあったんですね。昔は人はしゃべっている言葉と書いている言葉が違ったので、しゃべっている言葉で文章を書くことになったことと、風景の発見と内面の発見がパラレルに起こったという、僕は大学時代にこれを読んで、こんな風に世の中を捉えることができるんだと。例えば恋愛は明治期に海外から輸入されたみたいな言い方もされますが、そんな風に普段僕たちが当たり前だと思っている風景だとか恋愛っていうものには起源があるということを大学時代の勉強で改めて知って、すごく感銘を受けたことが今の自分のアニメーション表現につながっていると思います。

――基本的にジブリ作品って“ロマンチックラブ”を強く肯定するタイプの作品だと思うんですよ。僕もすごく好きなんですよ、観て励まされたりしたこともたくさんあるし。それでも日本で一番大きなとても影響力のあるアニメーションスタジオが、ものすごいクオリティーで“ロマンチックラブ”を強く肯定する作品をずっと作り続けている。「雫、結婚しよう!」とかね(会場笑)。それはそれで言葉どおりロマンチックなことではあるけど、そのことによって「こう生きなければならないんじゃないか」って思う人がいるんだったら、それは結構きついことなんじゃないかなって思うんです。

(引用元= http://www.hoshi-o-kodomo.jp/report_01.php)




う~む、どのように解釈したらいいのでしょうか・・・。二番目の引用に関しては、分かるんです。初恋の人と結ばれるというようなロマンチックラブがいいなあと思う一方で、でもそれがすべてではないんだし、そうできない人の方が圧倒的に多いのだから、自分はそれを否定する映画を作りたい、という気持ち。新海監督は耳すまがお好きなようですし、だからこそ、という気持ち。うん、分かります。

では最初の引用の方は?風景、内面、文体の発見についての柄谷行人の論文が、具体的にどのように新海監督の絵作りに活かされているのか。風景や恋愛には起源があるという、新海監督の「発見」が。風景のことに話を絞れば、ふだん見ている風景と見出されるべき風景は違う、ということに意識的になったということでしょうか。ぼくは今そんなふうに理解します。つまり、見えている風景は、もっと違った見方をすれば、別のように見ることが可能だ、という転換。風景は発見されるものだ。見えるものであるというよりは、意識的に見るものなのだ。そのような視点を監督は映画の中で提供しているのではないでしょうか。

いやあ、非常におもしろいインタビューです。こんな内容の濃いインタビュー(正確にはティーチインですが)は滅多にないような気がします。新海監督は本当に誠実に質問に答えてくれるので、すごくうれしい。

イリュージョニスト

2011-05-24 00:45:50 | アニメーション
既に『イリュージョニスト』については多くの言が費やされていると思います。その上で、やはりこう言わねばならないと思う。美しい映画だ。そして哀切な映画だ。

1959年パリ。老手品師は活躍の場を失い、スコットランドの離島へ巡業する。そこではまだ手品が目新しく、下働きの少女アリスはそれを「魔法」だと信じる。やがて島を去る手品師に同行する少女。彼らはエジンバラで共同生活を始める・・・

手品では食べていくのが難しくなっている世の中で、手品師は少女の欲しがる靴やコートを魔法のようにして買い与える。しかしお金はなくなるものであり、少女は恋をするものだ。二人の歩く道はスコットランド-エジンバラで一瞬だけ交差し、そしてすれ違ってゆく。

廃れゆく手品と手品師への哀歌。最大の見せ場は、誰もいなくなった部屋で起こる影のイリュージョン。そのイリュージョンは、タネは分かっているんだけれども、しかし十分に驚異であり魔術でありうる。魔術師のいない世界で生じる魔術。確かにアニメーションそのものの比喩と取れるかもしれませんが、しかしぼくはこのシーンにそれだけではない何とも言えない感動を覚えました。日没前の閃光のような、失われてゆくものの最後の煌めきなのでしょうか。美しいものや驚くべきものは確かにあるのだ、という世界の尊厳。だめだ、整理しきれない・・・

(ディス)コミュニケーションの映画です。手品師と少女とは言葉が通じません。彼はしかし少女に衣類を買い与え、それが彼からの唯一のコミュニケーション手段となります。でもやがて彼には与えることができなくなり、また少女の愛が別の対象に向かうとき、二人の関係は必然的に壊れてしまう。それは彼らの宿命であったとしても、やはりこの関係は哀切ですね。

ところで、ぼくは何が言いたいのだろう。この極めて台詞の少ない映画について、何を饒舌に語ろうというのだろう。

老手品師が「与える」ことをやめたとき、誰かにとっての「魔術師」であることをやめたとき、世界に何が生じたのだろう。いや、それでも世界には「与える」ことや「驚異」は存在するということ、それをあの影のイリュージョンは証明している。確かに「あること」は失われた。いや失われた「かのように」見えただけなのかも。それともその「かのように」がイリュージョンなのか。

何だろう、まるで幻のような映画です。幻のように儚く、美しく、愛おしく。

あの老手品師と同年齢になってから、もう一度観てみたい。そうしたら、何かが分かるような気がします。

訂正

2011-05-23 00:23:59 | アニメーション
既に先日の記事は訂正しましたが、『イリュージョニスト』はまだ上映中のようです。
公式HPの情報では既に終了日を過ぎていますが、各劇場のHPによれば、まだ上映中です。

要するにまだ上映されているようです。

ということなので、諦めていた人は見に行きましょう。

クイズ番組

2011-05-22 23:31:40 | テレビ
新しくなった平成教育学院は問題が簡単になり過ぎました。
以前は難しかったのに、今では素朴な問題が多くて、本当に小学生向きというか。それもフツーの小学生向き。いわゆる難関中学を目指す小学生のための、彼らにしか解けないような問題ではなく、小学校で勉強しているだけでできるような、そんな。賛否あるでしょうけれども、個人的にはちょっと物足りなくなったかな。

今日の午後に放映されていたクイズ番組について。宇治原が出ているので見てみたのですが、途中からだったので、もう出番が終わっていたのか、彼がクイズを解く場面を拝めなかった。無念。

で、東大のスーパーエリートとかいう学生が出演していて、「クイズ番組を見ていて、どうしてこんな問題が解けないんだろうといつも不思議に思っていた」とか「自分が負けることはあり得ない」とか言っていた割には、案外ミスが多かったのには、ザマーミロと思ってしまった。まあ、彼の発言は番組側の演出なんだろうし、テレビに出た緊張が本来の実力を発揮させなかったのでしょうけれども、それにしても、なんとなく感じが悪かったので、ザマーミロと思ってしまった・・・。包容力がないなぼくは。ところで彼がやっていたようなクイズは、知識とスピードと正確さが要求される、クイズの王道のような問題だったのだけれど、一緒にやっていたら彼よりも余程できたので自分でもびっくりしましたよ。真面目にやったらけっこうできるんだよな、ぼくは(珍しく強気)。要は精神面なのだ。

ちなみに、スピード二択問題に出ていた人は、本当は凄い人らしいけど、見ていて可哀想になってしまった・・・やっぱりテレビは緊張するのかな。

記憶力クイズは、あれは幽白だろ。

それにしても、ちょっと気に食わない解答者がいると、宇治原にコテンパンにのされてしまえ~~と思う自分がいる。

明日は朝が早いです。おやすみなさい。

新海監督のインタビュー

2011-05-21 22:51:40 | アニメーション
ここで監督のインタビューが読めます。

http://www.anikore.jp/features/shinkai/

かなりおもしろい話をしています。ファンなら必見の内容。
個人的には、監督が『耳をすませば』をお勧めアニメにしていたのがツボでした。まじか。すごすぎる。このあいだ、新海作品と『耳をすませば』とを比べる記事を書いたばかりだし。そうか、監督は好きであったか。

あと、例の『ゲド戦記』を「秀作」と呼んでいたのが印象的でした。誠実に作られていて好感を持てる、ということのようですが、驚きました。自分の問題意識をはっきり打ち出しているところに惹かれるみたいですね。

今日は別のことを書こうかなと思っていたのですが、急遽こういう紹介記事になりました。それにしても新海監督は質問をはぐらかすことなく丁寧に答えてくれるなあ。

~し損なう

2011-05-20 22:43:32 | Weblog
『イリュージョニスト』、5月14日から新宿と吉祥寺で上映されるのを知っていたので、来週にでも行こうかな、と思っていて、それでいま時間を確認するためにHPを見てみたら、なんと上映は20日すなわち今日までだった。・・・え、たったの1週間の上映ですか?それってどうなんですか。いや確かに先月は六本木でちゃんとやってましたけど、でもだからといって、1週間だけの上映では意味ないんじゃないですか・・・。ちょっと良識を疑わざるを得ない興行に、憮然。ひどくないですか、これは。何のために新宿と吉祥寺で上映することになったのか、もはや意味が分からない。ここでやるというから安心してたのに。とにかく見そびれてしまった。かなり無念。
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〈訂正〉映画の公式HPでは、新宿と吉祥寺の上映日は「5月14日~20日」と記載されていますが、吉祥寺バウスシアターでは5月27日まで、シネマート新宿でも最低27日までは上映されるようです。各劇場のHPにて確認。(5月22日時点)
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今日は大学へ行こうとしたら友達から連絡があって、結局大学に行きそびれてしまった。新宿でその友達に会って話をしたのですが、別に急を要するような話ではなく、単なる遊びであった・・・。まあアイスティーをおごってもらったので、もうこれ以上ぐだぐだ言わないことにします。

いまちょっとロシア関係のことでメールでやり取りしているのですが、あるデータを添付して送ったのに、さっきメールを見たら、それについては一切触れずに、「データを送ってくれ。よろしく。」というような至極簡潔なメッセージが。いや送ったんだけどな。日本語だったら「きのうお送りしたのですが、念のためにまたお送りいたします」というように書いて送信するところを、外国語で書かないといけないので、よく分からないからぼくもまたぶっきらぼうに、「こんにちは。データを送ります。敬具」とだけ書いて送信しておきました。

なんとなく、~し損なう、という感じの日。

行き詰まり

2011-05-19 00:55:01 | Weblog
トルストイの言葉とは裏腹に、幸福も不幸も人それぞれだと思う。

ぼくなどは、決して裕福な生まれではないけれど、大学院にまで行かせてもらっているのだから、高校を卒業して働かざるを得ない人たちに比べたら、恵まれている方です。

ぼくは病気で右目の中心視野が失われているのですが、だからと言って全く見えないわけではないし、重大な障害を抱えている人たちからすれば、恵まれている方です。だいたい、ある程度の年齢になれば、皆多かれ少なかれある程度の心身の不具合はあるものです。

衣食住が足りて、文字通り自分の足で立って生活できているので、要するにぼくは恵まれている方だと思います。

しかしそれにもかかわらず、ぼくは苦しい。その原因は色々と考えられますが、ここに書けることとしては、研究上の行き詰まりがあります。何をしたらいいのか分からなくなってしまった。焦燥。焦燥。焦燥。年に1,2回論文書けばいいんだろ、学校にはほとんど行かないでいいし、楽なもんさ、と何も知らない人は言うでしょうが、生易しいものじゃない。劣等感、焦燥感、義務感、無力感などがぐるぐると渦巻き、真っ黒な重しとなって両肩にずしりとかぶさってくるような、この息苦しさ。

挫折(失敗)することができるのは、挑戦した人だけだ、というような言葉をどこかで目にしたことがあります。一見カッコイイですが、でも実は虚ろな言葉。挑戦したくなくても試みざるを得ないことはあるし、その上で失敗したらみじめすぎる。やはりできれば挫折はしたくない。しかしこの世界はある種のしのぎ合いですから、常に挫折の恐怖に怯えなくてはいけません。これも嫌だ。

もっと自由になりたい。何にも構わずに生きたい。そうぼくが願うのは、恵まれた者の我儘なのか。いやだから、だからね、幸福も不幸も人それぞれだと最初に書いたのです。それに、他所の人から見ればどんなに恵まれていそうな人だって、その人の内部ではどんな苦しみがのたうちまわっているかなんて、分からないですしね。苦悩は第一に相対的なもので、第二に外からは見えない。

新海作品に耳をすませば

2011-05-15 23:11:59 | アニメーション
新海誠と『耳をすませば』。
ぼくにとっては永遠のテーマです。
その理由はともかくとして、なぜ新海作品と『耳をすませば』とが並置されるかと言えば、双方が共に恋愛を扱っている一方で、まるで対蹠的な作品だからです。

『アニメージュ』が特集したジブリの関連記事を掲載した、ロマンアルバム『スタジオジブリの軌跡』という本が発売中ですが、そこには耳すまの記事も載っています。ぼくは元の『アニメージュ』を持っているし、そこで行われている宮崎駿のインタビューも当然読んでいるのですが(彼はこの作品ではプロデューサー)、改めて読み返してみると、新海作品との違いに自ずと気付かされます。宮崎駿は次のように語っています。「雫という子は常に自分自身をしっかり見つめながら、頑固なまでに自分の道を、自分自身の手で切り開いていこうとしている。そんな、「常に自分自身であり続ける」という人物を描かなければ、少女マンガを映画作品にする意味がないわけです」。「職人としての自分自身の才能を直視しながら未知の世界を切り開いていく、そんな少年の姿を描いてみたかったんです」。宮崎駿の語る少年少女像は、自分自身で自分の道を切り開いてゆこうとする確固たる信念をもった人間です。

これに対して、新海誠の『塔のむこう』という漫画では、主人公の女子高生がこう独白します。「――だからつまり、あたしは何にもなりたくなんてないんだ。あたしはまず、ちゃんと、あたし自身になりたい」。ここに描かれるのは、確固たる自我をもちえない、自分の道をまだ見つけられない不安定な少女の姿です。

雫も最初はやはり確固たる信念は持っていなかったし、自分の道というものを深く考えたことがなかった。けれども聖司に出会い、その真っ直ぐな生き方に触発されて、やがて自分の道へと歩み出してゆくのです。翻って『塔のむこう』の少女は、最初から最後まで自分の道を見出すことができず、あまつさえ「あたしは何にもなりたくなんてないんだ」と心に思います。「あたし自身になりたい」とは考えても、その手立てが講じられることはなく、彼女にできるのはただ「塔」までひたすら歩くことだけでした。しかしそれすら完遂できずに彼女は電車を使うのです。少女自身の、そして彼女の魂の彷徨。つまり、『耳をすませば』においては、白紙に鉛筆で一本の線を引くかのように、少女の成長がくっきりと印象付けられ、他方で『塔のむこう』においては少女の魂が螺旋状にぐるぐると右往左往し、どこへ至るでもないのです。塔まで歩くその軌跡は恐らく一直線ではなく、ジグザグの複雑なものなのでしょう。ここでははっきりとした少女の成長が描かれることはなく、ただ歩くという行為が題材になっているように、彼女の迷いそのものに焦点が絞られているのです。「発端、迷いの過程、解決」を一通り示してみせる耳すまに比べて、『塔のむこう』はただただ「迷いの過程」を記述しているに過ぎません。そしてこのような傾向は、恋愛描写においてもやはりまたそうなのです。

宮崎駿は先のインタビューで述べています。「人を好きになる、ということは、人間にとって本来極めてシンプルな行為のはずです。したがって、まどろっこしい心理上の駆け引きや、煮え切らない心の裡、といったものを描く甘ったるい恋愛ドラマではなく、もっと素直に恋愛感情を表現する、正々堂々とした、ラブロマンスを作りたかったんです」。新海作品とは対蹠的であることは、もはや明らかでしょう。というのも、そこではまさに「煮え切らない心の裡」を描くことにこそ力が傾注されているからです。例えば『秒速5センチメートル』のタカキは、13歳頃の淡い恋心を、20代後半まで引きずり続けていました(最後に想いを断ち切る様子が描かれますが)。

くよくよと悩んだり、想いを秘め続ける新海作品の主人公たち。一方で率直に想いを明かし、二人で未来へ歩み出そうとする耳すまの恋人たち。端的に言えば、前者は恋愛の現実を描き、後者はその理想を描いていると言えるでしょう。あるいは、恋愛の苦しみ/恋愛の喜び。希望型の恋愛と停滞型の恋愛。この点で、やはり耳すまと新海作品とでは、心理描写に非常に大きな違いがあるのです。

こうなると、両方とも大好きだ、という立場などありえないような気がしてくるのですが、ところが現にぼくがそうなのです。これは困った。困りましたが、しかし実はそれほど可笑しなことではないかもしれませんね。現実の描写にその主人公と同じように傷つき、そして慰撫され、理想の描写に心を奮い立たせられることは、別に不思議ではないから。

耳すまと新海作品とは対蹠的だ、と何度も繰り返してきましたが、共通点もあるように思います。それは、共に「肯定してくれる物語」であること。ただし、肯定の対象が違います。耳すまは、恋する心の肯定、ひいては生きることの肯定の物語です。新海作品は、悩む心の肯定、生きる上で苦しみを背負うことの肯定の物語です。そういう、踵を接する両極の物語たち。

すばらしい。

チケット発売

2011-05-14 02:35:35 | Weblog
amazarashi 1st LIVE のチケットが、本日5月14日より発売ですよ。

ライブ行きたいですねえ。でもライブって行ったことないんですよねえ。でも行きたいですねえ。

そういえば、『コクリコ坂』の声優さんが決まったらしいですね。主役は長澤まさみ。監督によれば、選んだのはカンらしい。鈴木敏夫によれば、三谷幸喜のドラマでの演技がよかったから、らしい。ちゃんとデモテープとか聞いて選んでほしいなあ。

宮崎駿が声優を使わないのには理由があるみたいだけど、それを別にジブリの絶対的方針にしなくてもいいのにな、と思う。うまい声優はたくさんいるのに。

ただ、今回は風間俊介が出るのか。あと香川照之も。特に後者は好きな俳優なので、期待します。『アズールとアスマール』にも出てましたよね。