Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

村上春樹『回転木馬のデッド・ヒート』

2009-01-31 00:48:48 | 文学
これは小説(フィクション)ではない、と村上春樹は「はじめに」で語っていて、というのも、この本の中に収められている作品はいずれも人から聞いた話を文章にしたものだから。要するにどれも実話らしい。だからこれは小説ではなく、スケッチなのだと言う。ところが。読んでみて感じるのは、とても実際にあった話だとは思えないってこと。40日間、同じ人物から毎日奇妙な電話を受け、そして嘔吐し続けた男の話、好きな女性を望遠カメラで観察し続け、生活が破綻してゆく男の話など、現実にはありそうもない話の数々が開陳される。だから本当にあった話というのは嘘かもしれない。小説家というのは嘘をつくことを正当化されている人たちだから、ある本の括りを「小説」ではなくて「スケッチ」とするような嘘をついたのかもしれない。これは実際にあった話で…と語りだされる虚構の物語はたくさんあるけれど、村上春樹のこの本も本当を巧妙に装ったそういう類の本かもしれない。

分量が24ページの物語が多く、そういう点から見ても、これはきちんと計画された物語なのだよ、と暗示されている気がするんだけど、それは考えすぎだろうか?同じページ数の物語なのに、当然のことながら、全く違った内容が展開されて、しかもそのいずれもがとても興味深い、奇怪な物語なので、非常に楽しめる。奇怪な、と言っても、作中人物の行動や彼/彼女に生じる出来事がいつも変わっているとは限らず、むしろ一般的な場合さえある。ところがそういう場合、その人物の考え方が普通ではない。これらの物語はどこかしらが歪んでおり、よく日常に亀裂が入りそこに幻想が忍び込んでいる、というような説明をする人がいるけれど、幻想性のない非日常的な不思議が微妙に立ち現れていると言っていいと思う。決して幻想ではない。でもどこかがおかしい、ずれている。

村上春樹の作品の中では比較的マイナーな部類に入る本だと思うけど、初めて飲むうまく調合されたカクテルみたいに味わい深くて、ぼくは好きだ。村上春樹特有の、外国語の文章を訳したような、且つ端正な文章も十分堪能できる。

「よいご旅行を」と男がギリシャ語で言った。
「どうもありがとう」と彼女は言った。

肩の凝らないこういう些細な描写が本当に上手な作家だと思う。

2009-01-30 02:32:40 | アニメーション
                     渚ーーーーーー!

こういう結末が来るのは知っていたけど、今ですか?
それとも「思わせぶりなラスト」ってだけで、また来週はあの笑顔を見られるのですか?
次回予告のひきちぎられた表札を見ると、その期待はあまり持てませんが…

あの「もう一つの世界」が本編中に挿入されるなど、これまでにない展開。

あの大雪に埋まった街並みの鮮やかさは脳裏に残ります。

そしてエヴァを思い出させるような朋也の心理表現。
淡くぼかされた後半の映像。

来週のCLANNAD、気になります。

何もネタがない日

2009-01-29 00:28:15 | Weblog
やっぱり何もネタがない日っていうのはありますよね。

今日は午後から大学の授業に出て、眠いなあ、あとまだ1時間もあるよ、とか思いながら話を聞いて、図書館で少し調べものをして帰りました。で、図書館から出たら、階段に黒い染みがぽつぽつできていて、あれ、雨かな、いや模様かな、今までこんな模様があったの気付かなかったなあ、と思いながら歩き始めると、雨に濡れた「アスファルトの匂い」が立ち上ってきて、やっぱり雨かもしれない、と感じた途端、顔にかかる雨粒。大学を出てすぐの横断歩道を渡ったところにある古書店を物色し、出てみるとさっきよりも明らかに激しい雨。ぼくは駆け出し、もう一つの横断歩道を渡ったところにある古書店に入りました。ニェムツォヴァーの『おばあさん』を探していたのです。しかしお目当てのものは見つからず、代わりにメリメの『エトルリヤの壺』を購入。欲しかったわけでもないのですが、なんとなく。古書店を出たら雨はほとんど止んでいました。

地下鉄に乗り込み、それから別の電車に乗り換えドアの脇に立って外を眺めていました。喉が渇いた、疲れた。飴でも持ってくればよかったなあ。

夕飯はきりたんぽ鍋。おいしいのです。お腹が空いていたのか、いつもよりも大食い。久々にレッドカーペットを観て、パソコンに向かいます。今日はネタあったかなあ。

                  夕立のアスファルトの匂いとか、
                  そういうものを、
                  ぼくはずっと、
                  一緒に感じていたいって思っていたよ。

『ほしのこえ』が観たくなった。

『イジー・トルンカの世界Ⅲ』

2009-01-28 00:00:10 | アニメーション
収録作品は「SSとバネ人間」「コントラバス物語」「草原の歌」「楽しいサーカス」「フルヴィーネクのサーカス」「情熱」の6作品。例によって記憶を頼りに書いているので、タイトルは微妙に違っているかもしれません。

この第三巻には、トルンカお馴染みの人形アニメの他に、セルを使った初期作品や切り絵アニメが収められており、また作品の数も6つと多めなので、最もバラエティに富んだ巻になっています。

「SS」はナチスをおちょくったようなモノクロのセルアニメ。バネを足に取り付けた煙突掃除夫がぴょんぴょん跳ねながらナチス(タイトルに「SS」が入っているからナチス親衛隊か)を翻弄し、彼らに逮捕された人々(や小鳥)を解放します。注目は人物の動き。どこか「べディ・ブープ」を思わせる粘着性の非常に伸びのある動作に驚かされます。トルンカはセルでもけっこういけるではないか。

「コントラバス物語」はチェーホフの小説が原作だそうですが、覚えがありませんでした。で、たった今読んでみました(全集を持っているのです)。小説とアニメとでは、大体の筋は同じ。当然と言えば当然ですが。しかし、小説の方がおもしろいですね。好みの問題かもしれませんが、しかしチェーホフの小説の方がテンポがあって、場面の切り替えもスピーディ。ユーモアもたっぷりあります。ところがアニメはいささかスローテンポで、そもそもストーリーが掴みにくいのです。一切の台詞を排していることがこのような分かりにくさを生じてさせていることは明白で、重要な箇所には台詞を挿入してもよかったのではないかと思います。そうでなければ人物にもっと極端な芝居をさせるとか(服を盗まれたと知ったコントラバス奏者は、大袈裟に服を探す仕草をするべきでは?)。

「草原の歌」は西部劇もので、この作品集の中では最もエンターテインメント性の強い作品。お決まりのキャラにお決まりのストーリーで、お決まりの結末。馬車に乗っていた美女が盗賊の一味に襲われて、そこをカウボーイが助け、盗賊のボスと一騎打ち。これに勝利して、最後はめでたしめでたし。歌で愛情表現するのはおもしろいですね。オペラみたいで。この作品は世界初の「人形アニメによるスピード表現」を成功させたものとして称賛されるべきであるようです。ぼくとしては、御者の隣に座っていた男が投げ捨てた空き瓶の横を馬車が通り過ぎてゆくシーンがツボでした。空き瓶を小道具にして疾走感を演出している(おまけに抒情性すら感じました)。あれはいい。それと、盗賊のボスとの戦いも、ひねりが効いていてけっこうよかったです。あの自滅っぷりがね。

「楽しいサーカス」は切り絵アニメ。だと思います。これはサーカスを単にアニメーション化しただけ。

「フルヴィーネクのサーカス」は有名な作品ですよね。フルヴィーネクというのは「人形劇の父」と呼ばれるヨセフ・スクーパが創造したキャラクターで、ポヤールの作品にも出演しています(「探偵シュペイブル」)。怪我をしたフルヴィーネク少年が夢の中でサーカスの舞台に立って様々な演目をこなしてゆく…。ポヤールの作品よりはこっちの方がぼくは好きです。

「情熱」は、走るものに拘りを見せる赤ん坊が少年、青年と大きくなってゆく、その過程を描いた作品。彼は特にスピードに関心があり、そのせいで大怪我をします。たしかスピード狂の自転車乗りを描いた短編アニメーションが他にもあったはずですが、名前を失念。ちなみにポヤールの「飲みすぎた一杯」もスピード狂の悲劇を描いた作品。これはほとんど「禁酒キャンペーン」の一環みたいなアニメですが、そのスピード表現はポヤールの面目躍如たるものがあります。

さて、これでⅠ~Ⅲ巻まで鑑賞が終了。ちょっとした充実感。もうすぐメディア芸術祭も始まるので、2月の上旬まではアニメ祭りが続きそうです。

チェスタトン『ポンド氏の逆説』

2009-01-27 00:21:58 | 文学
昨日に引き続きチェスタトンの短編集。こちらは主人公がポンド氏で、ブラウン神父ではないことが決定的に違うわけですが、でも基本的な物語の発展形式はブラウン神父ものと同工異曲です。この短編集では「逆説」が軸になって、ポンド氏が発言したありそうもない命題がいかに真実であるかが物語られます。例えば二人の意見が完全に一致したために相手を殺した男の話とか。

この話だけ種明かしをしてしまうと、要は、悪いことをしでかす人間なら殺してもいい、という信念が一致した二人の男のうち一方が、そういう考えを持っているお前は社会に害をなす人間だから殺してもいいんだ、と言って相手を殺してしまうのです。なるほど、と思わされますが、どこかで聞いたことのある話です。あの有名な「羅生門」(芥川龍之介)にこういうシーンがありましたよね。生きるためだから死人の髪の毛を抜いてもいいんだ、と主張する老婆に対し、ではおれも生きるためなのだからお前を追いはぎしていいんだ、と室に入って矛を振るう下人(相手の論理に乗っかって相手を論難する、という意味です。)。こう考えると、「羅生門」もまた逆説の物語として捉え直せそうです。

「恐るべきロメオ」はポオの「モルグ街の殺人事件」のパロディ的作品。実際に、小説の中でポオのこの作品に言及しています。パロディというと、一般的には諷刺の意味が込められているとか、笑いの効果が現れているとか、そういうことが言われますが、しかしもっとニュートラルな定義もあり、それによればパロディとは「批評的距離を置いた反復」に他なりません。必ずしも否定的な意味合いが強いわけではないのです。明らかに「恐るべきロメオ」はポオを揶揄しているわけではなく、また滑稽の味も薄いようです。むしろポオへのちょっとしたオマージュであって、テクストを多層化することに貢献しているように見えます。ただ一方で「恐るべき○○」(The Terrible ○○)という題名はロマン派か何かの恐怖小説のパロディにも感じられ、そういう小説をからかい半分で眺めているともみなせそうです。

そういえば、きのう、チェスタトンの『ブラウン神父の童心』では人間心理が現実離れしていたり、その深層を解明しようとしたりしていないから探偵小説としてはいまいちだ、というような意味のことを書きましたが、しかし人間の心理というものが一種の逆説的なものであるならば、これでいいのかも、と思い直しました。

それにしても、今日は眠い…。きのうも『ポンド氏の逆説』を読んでいる途中でうとうとしてしまったのですが、今日は最後の短編で瞼が重くなり…でもどうにかこうにか読み終えた途端に頭がはっきりしました。これってつまり、小説があまりおもしろく感じられなかったということでしょうか?う~む、どれも粗筋だけを聞けば、自分好みですごく読んでみたくなる話なんですけどねえ。

チェスタトン『ブラウン神父の童心』

2009-01-26 01:02:22 | 文学
松本清張に続いてチェスタトンです。いかにも「探偵小説に目覚めた」的な流れですが、でも実はそう単純ではないわけで、チェスタトンの小説には松本清張を読む前から興味がありました。というのは、ボルヘスがチェスタトンを好んでいた、という伝記的事実を去年知り、そのうえ篠田一士によればチェスタトンの小説にはボルヘスを思わせるところが随所にあるらしいからです。ボルヘスが好み、またボルヘス的でもあるチェスタトンの小説とはいかなるものか、というわけで、是が非でも読みたいと思ったわけです。

チェスタトンはブラウン神父という人物を創出したことで知られ、その五冊からなる「ブラウン神父もの」はコナン・ドイルの「シャーロック・ホームズもの」に比肩せらるるとのことですが、日本における知名度では明らかにシャーロック・ホームズに劣りますね。他に有名なものとしては『ポンド氏の逆説』と『木曜の男』が挙げられます。後者は光文社の古典新訳文庫でたしか新訳が出たと思います。で、今日のテーマは『ブラウン神父の童心』です。これはブラウン神父ものの第一短編集で、神父が初登場した小説が収録されています。

前置きが長くなりましたが、肝心の読んだ感想はというと、トリックというより奇想に属する話が多いですね。江戸川乱歩がチェスタトンのトリック創案率は随一だ、みたいなことを言ったと解説に書かれていましたが、しかしトリックと呼ぶにはあまりに大雑把なものが目に付きました。実際にはちょっとありえないような仕掛けなんですよね。特に「見えない男」などは、いわゆる「盲点」を中心に据えた話なわけですが、無理があります。どこに無理があるのかを書くとネタバレになってしまうのでもどかしいのですが、要するに作者が強引に「見えない男」を見えなくさせているように思えます。この盲点であれば、見えているはずなんですよね。

「イズレイル・ガウの誉れ」はもはや探偵小説ではなく、「世にも奇妙な物語」と化していますし、「秘密の庭」は一番探偵小説らしいと言えばらしいのですが、犯人が意外すぎて、その動機から切実さがなくなってしまっています。総じてこの短編集は意外な結末を持った奇妙な話の集合であり、たぶんその点においてボルヘス的なのでしょう。逆説のような切れ味鋭い切り返しを結末に用意するところは確かにボルヘスの知性を思わせますし、トリックと言うよりは、滅茶苦茶に見える出来事を独特で奔放な論理に従って辻褄を合わせる奇想もまたボルヘスの想像力を思い出させます(辻褄合わせがボルヘス的だという意味ではありません)。

ただ、これが探偵小説の体裁を取っているところが引っかかってしまって、というのも、探偵小説というのはリアリズムが基調にないと成立しづらいジャンルだとすれば、チェスタトンの奇想とそのリアリズムとが反発し合っているような気がするからです。解説には、「氏(チェスタトン)の扱う素材を写実的な手法で描くなら、おそらく子供だましの支離滅裂な作品ができあがるに相違ない」とあって、それをチェスタトンの「抽象的表現がカバーしている」のだ、というのですが、探偵小説というものが実際の人間心理と細かな情況描写に基づいているのなら、『ブラウン神父の童心』にリアリズムを期待するのは仕方のないことであって、しかし実際には本書にリアリズムは感じられないのです。箱はあるのに(リアリズムの様式なのに)、中身がない(リアリズムが足りていない)といった物足りなさ。人間心理を克明に描写することをもリアリズムとここでは呼んでいるわけですが、まさにこの点がチェスタトンの小説に足りない部分であるようです。人がなぜ犯罪を犯したのか、動機はなんだ、というようなことが当然読者は気になるはずですが、それへの答えがおざなりになってしまっていて、「初めに奇想ありき」なのです。実際にその行動を起こしえた可能性、また犯行に至った心理などはいい加減にあしらわれているように思えます。もちろん説明がないわけではないのですが、明らかにそこには重点はおかれていません。探偵小説としては、成功とは言えないのではないでしょうか。

しかし、それは一種の「逆説」とも取れるわけで、あえて探偵小説の枠にはめ込むことで、奇妙な効果を狙ったと言えるのかもしれません。が、ぼくとしては、探偵小説というジャンルに捉われず、チェスタトンの奇想をとにかく楽しみたいですね。

ところでこの短編集には夕暮れの風景描写が異様に多くて、ほとんど全ての作品に黄昏時のシーンがありました。チェスタトンのこだわりでしょうか?

なお、探偵小説にしては会話よりも叙述の文章が圧倒的に多くて、またその描写もなかなかの本格派。すらすら読める体のものではありませんでした。目下『ポンド氏の逆説』を読書中ですが、この本でもそれは同じなので、これがチェスタトンのスタイルなのでしょうね。

松本清張『疑惑』

2009-01-25 00:29:37 | テレビ
ドラマ、観ました。原作は未読。ただ最近は松本清張の初期小説を立て続けに読んでいたので、興味がありました。

先に全体の感想から言わせてもらうと、とてもおもしろかったです。まず容疑者が逮捕され、それから事件の真相を調べていくうちに過去の出来事が挿入される、というプロットの組み立て。それがなかなかスリリングで、特にラストのクライマックス、水の中での夫婦の攻防は見応え十分でした。台詞を一切排し、音楽だけをバックに流す手法は効果覿面で(「てきめん」って難しい漢字だな)、感動的でした。

ピカレスクものかなと思っていたら、どうも単純にそうとも言い切れない展開になってきて、逆転無罪という判決結果そのもののように、最後に被疑者の人間性が鮮やかにひっくり返される。その一方で、室井滋演じる記者の低劣っぷりが憎々しいほどで、マスコミの象徴のような存在になっていました。松本清張の原作にこういうマスコミ批判があったのかどうか知りませんが、この点は非常に現代的なテーマですね。その反面、少し手垢にまみれすぎたテーマだとも言えるわけですが。

沢口靖子演じる被疑者の悪女ぶりは堂に入っていて、とりわけその目付きは恐ろしいほどでした。それに対する田村正和はさすがの風格で、舌鋒鋭く核心に迫る様子はまるで古畑。そう言えば、この二人は古畑任三郎で競演したことがあり、そのときは沢口靖子は犯人役でした。たしか「嘘をつかない女」とか、そういう題名だったと思います。彼女はシスターで、非常に落ち着いていて寡黙、おしとやかで信心深い女性の役を演じていましたが、今回の『疑惑』では一転してものすごい悪女役。幅が広いですね。

おもしろかったので、原作が読んでみたくなりました。

『イジー・トルンカの世界Ⅱ』

2009-01-24 01:04:07 | アニメーション
収録作品は、「悪魔の水車小屋」「二つの霜」「電子頭脳おばあさん」「天使ガブリエルとガチョウ婦人」の4作品。なお題名は記憶に頼って書いているので、実際とは微妙に違っているかもしれません。あしからず。

一番おもしろかったのは「二つの霜」です。子供のためのお伽噺のような内容で、とても単純かつユーモア溢れる好編です。(たぶんチェコの)冬の森に、二人の擬人化された霜たちが、自分たちを厄介者呼ばわりする人間たちを困らせてやろうと画策し、折りよく橇に乗ってやってきた二人の男たちの元へ飛び立ちます。二人の霜は二手に分かれて、一方は太った男を、一方は老人を寒さで凍えさせてやろうとしてあの手この手で攻め立てます。霜の姿は人間には見えないので、鼻をつまんだり、オーバーの中に入り込んだり、好き勝手に悪さをします。太った男はまんまと風邪を引いてしまいましたが、老人は霜の攻撃を軽々と払い除けてしまい…

霜の姿はセルで描かれ、半透明で白っぽく、絵本に出てくるお化けみたいないでたちをしています。一方人間たちは人形です。二つの手法を一つの作品で混在させるのは消して珍しくはありませんが、この場合はそれが見事にはまっていて、実に心地良い出来。傑作とか大作とか大仰な形容は似合わない小品ですが、当DVDの収録作品の中ではぼくは一番気に入りました。

さて、残る三作は、いまいちストーリーがよく掴めませんでした。「水車小屋」と「ガブリエル」は大まかなところは分かりますが、「電子頭脳」はさっぱりです。「水車小屋」のあの手回しオルガン(?)も謎めいていますし、「ガブリエル」は前半がはっきりしないのですが(後半になってストーリーが見えました)、「電子頭脳」は最初から最後まで皆目分かりませんでした。少女がおばあさんと写真を撮っていて、二人はそのうち奇妙な建物に入り、おばあさんの操作した機械によって少女は未来世界のような場所へ旅立ち、そこで少女の祖母と名乗る電子頭脳を備えた椅子と出会い、最後はまた最初のおばあさんが現れて少女と共にいずこかに消えてしまう…という筋立て。少女の乗る透明な乗り物は超現代的な先端技術を感じさせて、この作品の見所の一つなんだろうと思いますが、それが一体なんなのかが分かりません。ストーリーが分からない小説や映画なんていくらでもあるような気がしますが、それはそれで別の取り得はあるものですけれど、この「電子頭脳」はおまけに少々退屈で、ぼくにはちょっと…合わないようです。

「悪魔の水車小屋」はその題名から「クラバート」を想像したのですが、そうではなく、手回しオルガン(?)奏者が水車小屋に現れた悪魔を退治する話。妖精か何かにもらった道具でそれを成し遂げるのですが、どういう経緯で妖精から援助を得られたのかが分からないので、いまいちしっくりこない物語です。

「ガブリエル」はこの収録作品の中ではたぶん一番はっきりとしたストーリーがある、一編の短編小説を読んだ後のような余韻に浸れる物語です。はっきりとしたストーリーというのは中盤からそれと分かるので、前半はぼんやりと画面を見ていることになるのですが、その分後半は物語のおもしろさを味わえます。とはいえ、これは誰もがどこかで聞いたことがあるような話であり(ひょっとして何か有名な話をアニメーション化?)、また非常に不気味な内容でもあるため、あまり楽しめる作品ではありません。不気味さというのはもちろん内容もさることながら、主人公の男の顔の醜さが大きな役割を果たしています。トルンカが用いているのはもちろん人形なのですが、その造形がおどろおどろしくて、思わず顔を背けたくなるほど。容貌の醜さが作品全体の不気味さに繋がるということを、江戸川乱歩の大傑作「人間椅子」にぼくは教えられたのですが、この「ガブリエル」でも顔はそのような効果を生んでいるようですね。さてこの物語は、さる男が聴聞僧(?)になりすまし、信心深い美しい婦人に近寄り、天使ガブリエルに化けて臥所を共にしようと奸計を巡らす話。滑稽譚にも塑像できそうな素材ですが、実際には不気味で悲劇的なものに拵えられています。

コクトーに絶賛されたように、トルンカはものすごく高い評価をかちえていますが、ぼくにはいまいち彼の真価が見えてきません。とりあえず今度『イジー・トルンカの世界Ⅲ』も観てみるつもりです。

リカルドゥー『小説のテクスト』

2009-01-23 00:22:44 | 文学
最近は読書の記事を載せていませんでしたが、このリカルドゥー『小説のテクスト』という本を読んでいました。小説ではありません。評論です。原題は『ヌーヴォー・ロマンの理論のために』です。この題からも分かるように、フランスのヌーヴォー・ロマンの批評書です。ぼくは別にヌーヴォー・ロマンが好きというわけではないし(というかほとんど読んだことがない)、著者のリカルドゥーのファンというわけでもないのですが、この本の中でインターテクスチュアリティが扱われていると別の本に書いてあったので、覗いてみることにしたのです。ぱらぱらとめくってみて、該当箇所を見つけたらそこだけ読めばいいと思っていたのですが(というのも細かい字で400ページ近くある本だから)、どうしても見つからず、仕方なく最初から最後まで通読することにしました。

感想はというと、案外おもしろかったです。最近の評論は、「批評用語」で武装した難解なものが多いのですが、この本はそういう用語をほとんど使わず、またテクストに即して緻密に読解しようとしていて(いわゆるクロース・リーディング)、文学批評のあるべき姿だと思います。意味分からない本が本当に多いですからね。そういうのは哲学に半分足を突っ込んでいるので(デリダとかドゥルーズとか)、その方面の知識も必要とされますし、どんだけ賢くないといけないんだ、っていう。けっこう勉強はしましたが、やっぱり分からないものは分からないですよ。翻訳が悪いんだってよく言われますけど、原書で読んだら余計分からないですから。

さて、リカルドゥー『小説のテクスト』は一種のミメーシス論であり、反復論であると見ました。これはぼくが「反復」を専門に勉強しているからそう映るだけかもしれませんが、はっきりと言えることは、反復に通じる側面が確かにこの本にはあるということです。ミメーシス論というのはどういうことかというと、『小説のテクスト』では表現・再現的な文学のあり方を批判し、それに対して自己再現と反再現という概念を提出しています。それぞれヌーヴォー・ロマンとテル・ケルの文学が相当するのですが、それらはあるべき文学が表現・再現的なものではなく、生産的なものであることを主張した結果として生まれた概念です。人間の心理を「表現」しようとしたロマン派の詩、世界を「再現」しようとしたユゴー的な小説は、どちらもミメーシス(模倣)の理論に縛られていたと考えられます。いわば、「アリストテレス的な呪縛」にかかっていたと言ってよいでしょう。ところが、現代の文学は模倣するのではなく、生産するのだ、というのが著者であるリカルドゥーの基本的な立場です。そこで、この本の大半を占めるのが、文学がいかに生産的であるかを立証しようとする記述になります。

その証明過程をここで詳しく述べることは不可能です。というのは、それが非常に複雑で難解であるからではなく、フランス語の知識を駆使したルーセル的な言語実験を想起させるからです。フランス語の知識がほとんどないぼくがそれを真似ようとするのはあまりに無謀だし、よしんばできたとしても、ちょっと専門的過ぎますよね。ただ、例えば「黄」という単語(もちろんフランス語)がそれに類似した綴りや音韻を持つ単語を次々に「発生」させてゆく小説を分析するリカルドゥーの手法だけを述べておきます。これは「類は友を呼ぶ」式の「類似」に注目した分析方法ですが、一方で「相違」に注目することも忘れていません。例えば「赤」という単語が出てきたら、それが「黒」を喚起しそれをテクストに呼び出す様を詳らかにしているのです。これが、ぼくがこの本を一種の反復論と呼ぶ由縁です。綴りにしろ音にしろ類似した単語が散種されていれば、一定のイメージの反復と言いうるということは恐らく多くの人が認めるだろうと思いますが(太陽、血、薔薇という単語の総体は「赤」を喚起する、など)、きれいに反発しあう語彙の群れもまた反復という概念を逆照射します。というのも、ドゥルーズの著書にあるように、反復というのは「差異」と表裏一体であるからです。

既にある世界や心理を再現するのではなく、ある語彙が新たな語彙を、つまりテクストを生産しようとするその動態的な小説のありようにリカルドゥーは着目し、主にヌーヴォー・ロマンを対象に分析してみせたわけです。その一方で、ポーの「黄金虫」も俎上にのぼせられているのですが、これが扱われている章は「読むことのアレゴリー」とでも言えそうな内容になっています。「黄金虫」は羊皮紙(パランプセスト)に書かれた暗号を読み解く話ですが、その行為が「読むこと」一般にまで敷衍されている気がしました。あるテクストの下には別のテクストが潜在している、という考えをリカルドゥーは「黄金虫」から導き出すのですが、それが羊皮紙(パランプセスト)と深く結び付いている点からして、どうしてもそれはジュネットの超テクスト性を取り上げた大著『パランプセスト』と響き合うし、したがってインターテクスチュアリティやソシュールのアナグラム、クリステヴァのジェノ・テクストを喚起します。加えてぼくはナボコフの『青白い炎』をも想起しました。いずれも表面に現れているテクスト(フェノ・テクスト)の下に蠢いている(無数の)テクスト(ジェノ・テクスト)を暴こうとする志向性があります。リカルドゥーは「読むということは、(略)テクストの作用のかくされた秩序というものに対して注意深くなること」であると述べています(p.72)。暗号を解読するという行為はまさに注意深い読書であり、『青白い炎』における註釈作業もまたそうであると言えるでしょう。後者は壮大で奇想天外な誤読の試みでもありますが、読むということがえてして誤読でありうるならば、やはりそれは、ナボコフ自身のプーシキンへの註釈作業のアレゴリーを超えた、読むことのアレゴリーであるでしょう。

ちなみに、そもそもの読書の目的だったインターテクスチュアリティについては、この本ではほとんど言及されていませんでした。確かにこの本だと書いてあるのですが、どういうことなんだろう…。ただ、興味深い例として、「象嵌法」というのがときどき言及されていました。これはいわゆる「相互内的なインターテクスチュアリティ」に相当しそうなので、これが収穫です。なおこの手法についてはデーレンバックが『鏡の物語』というやはりヌーヴォー・ロマンを扱った本で主題として取り上げています。

そういえばこの本は翻訳が気になりました。作家や作品の名前が通例のものとはほとんど違っているのです。ルーセルがルッセルに、ヴァレリーがヴァレリになっていたりします。またなぜかプロップがポップになっていました。ルーセルなどは翻訳の時点で(1974年)まだ定訳がなかったのかもしれませんが、そうでないものもちらほら…

だいぶ専門的な記事になりました。ここまで読んでくださった方、どうもありがとうございます。

韓国アニメ『マリといた夏』

2009-01-21 01:01:52 | アニメーション
韓国のイ・ソンガン監督による長編アニメーション『マリといた夏』を観ました。
この作品は2002年のアヌシーで長編部門のグランプリを受賞。高く評価されているようです。日本では2005年にイメージフォーラムにて公開されましたが、あんまり評判にならなかったようですね。この映画が日本で公開されるとき、ぼくは観に行こうかどうか迷ったのですが、結局行かず、今日初めての鑑賞となりました。

この映画が公開されるとき、たしか新聞だったと思うのですが、紹介記事だか評論だかで取り上げられていました。その際、はっきりとした自信はないのですが、ぼくのぼんやりとした記憶では、この映画の映像がセクシュアルな表象を持っていると論じられていました。ある映像は、セクシュアルな部分を想起させる、というふうに。もしこの記事が『マリといた夏』に対して行われたものであったとすれば、それを書いた人は最低ですね。精神分析批評の影響だかなんだか知りませんが、何につけても性的な読みを試みようとする人がたまにいて、それはちょっと偏ってますよね。してはいけない、とは言いませんが、もっと自由な目を持った方がいいのではないかとは思います。

『マリといた夏』はまず現代における二人の男の出会いから始まります。それから片方の男の子供の頃の回想が映画に浸潤してゆきます。この回想部分が映画の主要なプロットを構成します。父を亡くし、心を閉ざしている少年(最初の男の子供時代)が主人公で、ただ一人の友人(最初に出会った男の子供時代)と「ヨー」と呼ばれる猫にだけは心を開いていました。物語は基本的にリアリスティックなのですが、幽かに幻想が忍び寄ってきていて、段々と幻想が幅を利かせ始め、遂には物語全体をすっぽり幻想世界が覆い尽くすに至ります。その過程は見事で、最初は物語の片隅にちょろちょろと顔を出す程度だった幻想が、主人公をその空想世界へと呼び入れ、更に友人の少年をも巻き込み、最後は彼らの住む世界をも支配します。こういう完璧に漸次的な構成はアニメーション映画では実は少ない気がします。はなからファンタジックだったり、途中からがらりと雰囲気が変わったりするものはよくありますが。

技術的な面で特筆すべきは顔の表情でしょうね。かなりのっぺりとした、日本のアニメではあまり見られない顔の造りです。『アズールとアスマール』に似ていたような気がします。あれは顔をCGで作成していたので、『マリ』もそうなのでしょうか?ただ残念なのは、そういう表情をした少女・マリがあんまり可愛くないことです。もう一人の少女・スギの方がまだ可愛らしいのです。マリは幻想世界にいる、神秘的な存在なので、もっと美しく造形した方が個人的にはよかったですね。この映画のマリはどこかけだものじみていて(顔以外は全身白い毛で覆われている)、眉も異様に太く黒々として、確かに妖しげな少女なのですが、しかし妖艶さとか神々しさとかは感じられず、要するにあまり魅力がないように思えました。主人公の子供時代というものを彼女の存在に仮託している面があるので、もっときれいでいてほしかったです。

ラストはなかなか感動的。舞台は再び現代に戻り、子供時代を忘れてはいけない、という真直ぐな思いが主人公の男の内面から発せられます。総じて、ほのぼのとした幻想譚であり、ノスタルジー溢れる望郷の映画と言えるでしょう。まあまあの佳品です。

懐かしやセンター試験

2009-01-19 01:41:27 | お仕事・勉強など
土曜、日曜とセンター試験でしたね。受験生の方々は結果はどうあれ一段落ついたものと思われます。ぼくがセンター試験を受けたのはもうかなり前になってしまいますが、ぼくとしてはいい出来ではなく、といって、すごく悪いという出来でもありませんでした。どういうわけか世界史があまりよくなくて、がっかりしたことを覚えています。苦手な数学がかろうじて8割程度をキープしたので、がたがたにならずに済んだと思います。ただ、その年は国語が例年よりもやや難しくて、とはいえ文学部に入ることになる人間にしては、あまり得点を伸ばせませんでした。総得点はだいたい8割くらいで、ぎりぎりでした。これ以上悪いと精神的にも悲惨なことになっていたはずです。

センター試験の会場は東大で、カメラマンの数がものすごかったです。教室の中、試験が始まる15分くらい前まで、後ろの方から何台ものカメラのフラッシュが絶えず光り、ぼくはその雰囲気に呑まれてしまいました(そういえば、あの教室は2号館なのかな)。ただ、帰り、ちょうど雪が降ってきて、雪の中で銀杏並木を歩いたことがいい思い出です。これは一日目だったかなあ。今年はまだ東京では本格的な雪は降っていませんね。受験日に重なると厄介なので、受験生にとっては幸運なのかな。

センターの国語は意外と難しくて、必ずどこかでミスをしていたのですが、大学生になってからもセンターの問題が新聞に掲載されると現代文だけは解いていたところ、数年前にやっとその現代文の問題(論説文と小説)で満点が取れたので(やったぜ)、それですっかり満足してしまったのか、もう取り組むことはなくなりました。だから今日もさらりと問題を見ただけで解いてはいません。けれどもちょっと気になった箇所が。出題文中の「缶けり」という単語に「注」が付いていたのです。なんと!今の高校生は、缶けりも知らないというのか!それともただの出題者の老婆心?あと他にもごく基本的な単語に「注」が付けられていて(「煉獄」に付くのはまあいいとして)、ちょっと首をひねりました。その一方で、「多寡」という漢字が問題になっていて、この言葉の方が難しい気がするんですけどね。

国立は二次試験の比重が大きいので、そこを目指す人は、センターの結果がたとえ悪くても、気持ちを切り替えて二次対策をきちんとしてほしいですね。私大でセンターの扱いがどうなっているのかぼくはよく知らないのですが…でもそれぞれの私大は私大としてのテストがちゃんとあるはずだから、それに備えてほしいですね。センターだけで合否が決まってしまうところは仕方がないと諦めるのが大事です。要は頭の切り替えです。

ああ、センター試験、もう二度と受けたくないですね。

木曜のアニメ感想

2009-01-18 00:00:03 | アニメーション
■今週から始まった『Genji』は言うまでもなく『源氏物語』が原作。最初は漫画の『あさきゆめみし』を直接の原作にするという話だったそうですが、その企画は中止になった、というようなことを聞きました。だから今作は監督の出崎統のオリジナルがかなり入ってくるのではないかと予想。もっとも、『源氏物語』の内容を知悉しているわけではないので、どこまでが原作でどこからがオリジナルなのか、判断がつきかねますが。

さて実際に観てみると、かなり抒情的な演出ですね。あと映像美に拘っている模様。とにかく艶やかに、ほとんど幻想的とさえ言えるような画面作りを目指していると思われます。髪の毛を常に動かすなど細かなアニメーションですが、その揺れ方が規則的過ぎて、もう少し分かりにくい方法で動かして欲しかったですね。揺れ方にパターンが生じてくるのは仕方のない面があるのですが、もっと上手い見せ方があるような気がします。

『源氏物語』が原作だと、どうしても艶めかしい場面が多くなってくるのではないかと予想されますが、そこはなるべく回避してもらいたいというのが個人的な意見。そういうのがたくさんあると観ていて恥ずかしくなってきますからね。来週が心配だ。

出崎統の必殺「劇画の止め絵」はまだ現れていませんが、今後出てくるときもあるのでしょうか。『CLANNAD』には似合わないけど、源氏物語にだったらけっこうはまるのではないかと思います。ちなみにキャラの顔が濃すぎ。キャラデザは誰なの?手塚アニメーションの制作したアニメって、大抵キャラの顔が濃くて、あまり好きではないのですが…

■『明日のよいち!』は原作を読んだことがないのでこれからの展開とかまるで知らないのですが、まあ無難な滑り出し?思ったよりもギャグ性が強いようですが、シリアス方面へは向かわないのかな。

登場人物のテンションについていけないときがあり、そういうときはけっこう冷めてしまっているので、全体的な印象もあんまりよくはないですね。「はい萌えキャラです」っていうキャラが揃っていて、あと無垢な男子が主人公というのも「いかにも」な感じで、あまりに安易というか迎合的な設定なのですが、だからこそそういうものをぶち破る作品になって欲しいです。「ハルヒ」のような。無理かな…

■『CLANNAD』は昨年の続きです。最近は展開がかなり急で、ついに渚に赤ちゃんができました。そのとき両親の前で彼女が言い放った台詞に爆笑。衝撃でした。これからまた年月が大幅に過ぎていくことになると思いますが、今後の展開が楽しみですね。来るべきクライマックスでは「時を刻む唄」をフルヴァージョンで流すと効果が絶大のような気が。あの唄はたまらないですよね。喪失の哀しみを歌っていて。キャッチーなサビもいいし、歌詞もまたいいですから。京都アニメーションはキャラの心情を細やかに表現してくれるのでうれしいです。

江戸東京たてもの園

2009-01-17 00:16:19 | お出かけ
久々に行ってきました。「たてもの園」のことを知ったのは「千と千尋」がきっかけで、というのはこの映画はたてもの園の建築を参考にしたと言われているから。実際、園内に展示されている都電は、映画の「海原電鉄」のモデルになりました。

たてもの園は、文化価値の高い歴史的建造物を次代に継承させようという目的で設立されたそうです。中には、大正時代の和洋折衷の邸や江戸時代に建てられた茅葺きの農家などがあります。他にも銭湯や文具店などが並んでいます。

外見は洋館風の建物も、二階に上がると畳敷きだったりして、やっぱり日本人なんだなあと妙に納得。今日はとても寒い日でしたが、2階の畳の間は暖房をたいているみたいに温かでした。日が差し込んできているためだろうと思います。それに比べて1階は寒い寒い。農家では釜戸や囲炉裏に火が入れてあり、ボランティアの人たちがそれを囲んでなにやら喋っていました。実はちょっと囲炉裏の火に当たりたかったのですが、中に入っていけませんでした。シャイなのです。

中で、18歳くらいの少女(と呼べる年齢かな?)が一人で見学しているのを見かけましたが、こんなところに年頃の少女が一人で来るっていうのは、どういうことなんだろうと少し関心を持ちました。若いのに昔の建造物に興味があるというのはやはり特殊な趣味なので、そういう趣味を共有できる友達や彼氏がいないのか、それとも単に一人が好きなのか。ぼくみたいのが一人で歩いていてもそんなに違和感はないと思いますが…たぶん。もう社会に出てて当たり前の年齢の男なのでね。

それにしても今日は閑散としていました。平日の昼間だから当然といえば当然ですが。やっぱり休日に来た方が賑わっていて楽しめたかな。

たてもの園のいいところは、実際に建物の中に入れるところ。場合によっては椅子や畳に座ることもできます。また食事処も古い造りの建物なので、なかなか味わい深いです。ただし暖房がないので、ちと寒い。

ぼくは古い建造物に取り立てて関心があるわけではないのですが、なんとなく最近、古風なところでのんびりしたいなあと思って今日訪れたのでした。リラックスできましたが、ただやはり寒かったですね。次来るときは秋がいいかな。

『イジー・トルンカの世界 vol.1』

2009-01-15 23:44:02 | アニメーション
お正月から続いていた、アクセス数の増加がようやく頭打ちになり、去年と同じ水準に戻ったようです。記事をアップしなかったので、そのせいかもしれませんが。
一般の人のブログっていうのはどのくらいアクセス数があるものなのでしょうか…。gooブログは1000位までしか順位が出ないので、よく分からないんですよね。ただ、去年の夏に600~700件のアクセスがあった日、800番くらい(?)にランクインしたことがあるので、そんなに多くはないのだろうとは思いますが。100~200件くらいが普通なのかな?

さて、『イジー・トルンカの世界 vol.1』をDVDで鑑賞。収録作品は、「善良な兵士シュヴェイク」シリーズ3本と「手」。
「手」は何年も前に既に観たことがあったのですが、それ以外は今回が初めて。「シュヴェイク」は、チェコの国民的作家と言われるハシェクの代表作『兵士シュヴェイクの冒険』のアニメ化です。原作は大長編なので、その全てをアニメ化するのではなく、幾つかのエピソードを選んでいるようです(詳しく言うと、第一巻の最後から第二巻の最初にかけてのエピソードをアニメ化)。ちなみにぼくはこの本を持っていますが(全4冊あります)、例によって例の如く、未読。ちょっと長すぎますよね。でもいつか読んでみたいと思うのでありました、これもやはり例によって例の如く。

「シュヴェイク」は、シュヴェイクという兵士が戦争で活躍する話、ではなく、彼が所属部隊でいかにひょうひょうと生活しているかを物語る話です。上官の目を盗んでコニャックを買いに行ったり、汽車を停めてしまったり、警察に尋問されたりしますが、その度にシュヴェイクはいつものらりくらりと追及をかわし、気負うことなく困難をやり過ごしてしまいます。しかも彼は大変な雄弁家で、困ったときは色々なエピソードを開陳し、鉄砲水のようにそれを相手に浴びせ掛けます。こうまくし立てられてはいかに位の上の人物でもシュヴェイクを叱責する気は失せ、ただただ呆れるばかり。もうお分かりだと思いますが、この話はユーモア作品です。映像で観るよりも、むしろ小説で読んでみたい物語ですね。

「手」という作品は、トルンカのアニメーションの中では恐らく最も評価されているものですが、しかし最大の問題作でもあります。トルンカは人形アニメを制作しますが、「手」もやはりその例に漏れず人形が動き回ります。ただしその人形は「シュヴェイク」のような愛嬌のあるどことなくほのぼのとしたものではなく、少し不気味な、可愛らしさの排除された人形です。

ある部屋でその人形が植木鉢に水をやっているところから物語はスタートします。そこへ突然手袋を嵌めた人間の「手」が闖入し、彼(人形)に粘土で手を拵えるよう要求します。人形は拒否して「手」を追い返しますが、再び「手」は現れ、両者の攻防はその後もしばらく続きます。しかし遂に人形は「手」に操られ、大きな手を彫刻するはめになり、それを完成させます。意識を取り戻した人形はまたしても「手」から逃れようとしますが、最後には死んでしまいます。

いったいこの物語(これを物語と呼んでよいならば)は何なのか。芸術家というものは所詮、自分よりも巨大なものに操られているに過ぎない、その作品は、彼の自由意志によって創られたものではなく、別の意思が働いた結果なのだ、という作品創造の寓話なのでしょうか。あるいは権力によって創造行為は支配されているということを暴き立てる作品だ、とも言えそうです。その線で行くなら、手は権力の象徴であり、手を造形することは権力者を讃える作品を生み出すことに通じてきます。トルンカがこの作品を制作した背景について僕は全くの無知なのではっきりしたことは言えませんが、しかしそういう風にこのアニメーションを眺めることはできそうです。

ぼくは最初に「手」を観たときは全く意味が分からず、ある識者が本の中でこの作品についてコメントしているのを読んで、そのとき初めてこれが作品創造の寓話なのだ、という考え方を知りました。そして二回目を観た後ネットで調べている途中で、これが権力機構の寓話であるという考え方を知りました。だから上に書いたような視点は最初からぼくに固有のものではなくて、後から授かったものです。でも、何の予備知識もない一般人がこの作品を観て、いったいどれくらいの人がそのようなことを感じ取れるでしょうか。チェコの事情に詳しい人ならともかく、相当に勘のよい人でなければ気付かないだろうと思います。自分の鈍さを正当化したいわけではないのですが、正直言って、基本的に退屈な作品ですからね、これは。意味が分からん、の一言で終わってしまいそうな気がします。

深層の意味を理解しなければ楽しめない作品というのは「傑作」とは呼べないのではないかと思いますが、評価は高いんですよね。表面的なおもしろさもある作品をぼくは期待してしまいます。やっぱり頭が高等ではないからでしょうか…

村上春樹『羊をめぐる冒険』

2009-01-15 01:09:23 | 文学
上下巻ですが、一気に読了。まあ一冊あたりのページ数はそれほどではないし、一ページあたりの文字数もそれほどではないから、『罪と罰』を一日で一気に読了したというのとは違うわけです。

村上春樹の初期小説というのは、プロットがかなり大雑把ですね。本書の場合、主要なプロットはただ「ある羊を追いかける」、という一事に尽きています。特に前半は事件の進展どころかそもそも事件が起きていないように見えます。「僕」の人間関係の説明やその彼らとの何気ない会話の応酬によってのみ小説は進行し、かなり読んだ後にふと「そういえばこの小説はまだプロットがないな」と気付く有様でした。ある種の文体(村上春樹特有のカッコイイ文体)に小説は全面的に支えられていて、その点ではプロットを剥ぎ取り言語だけで勝負しようとした前衛小説とも重なる部分があるように思えます。もっとも、両者の小説言語のありようはまるで異なっているのですが。

途中からようやく話が見えてきて、ある羊を追うはめになった「僕」の冒険が小説そのものと読者を引っ張っていくことになります。後半になるとかなり奇態な人物が登場したり、目的の町の歴史が語られたりして小説の中味はバラエティに富むようになるのですが、基本は一つのプロットであり、まるで広々とした空間に一本の道がまっすぐ地平線まで伸びているようなものです。ぼくら読者はその道をただ進んでいけばいい。もちろん、脇には林や小川が見えますが、あまり深入りはしません。

                          ×××

この小説は『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』に続く、「僕」と「鼠」の物語であり、そしてその完結編です。

                          ×××

この小説は細部のリアリティに裏打ちされた現代小説ですが、その一方で非現実的な物語でもあって、言ってみれば、「非現実的なファクターをソフィスティケートされた形態に置き換えて現実の大地にはめこんでいく」(p.100)ような物語でもあります。いや、後半はかなり非現実的な方向へ小説は逸脱してゆくので、そう言えるのは中盤までかもしれません。

村上春樹はよく比喩を使いますが、それは少々変わっています。「例えばここにひとつの概念がある。そしてそこにはもちろんちょっとした例外がある。しかし時が経つにつれてその例外がしみ(傍点)みたいに広がり、そしてついにはひとつの別の概念になってしまう。そしてそこにはまたちょっとした例外が生まれる――ひとことで言ってしまえば、そんな感じの建物だった。」(p.122-123)これは「比喩」とすら言えるかどうか分からないのですが、非常に奇妙な説明です。こんな風に建物を形容する人はほとんどいないのではないかと思います。しかし村上春樹の文章というのはこんな感じで、ある対象を正確に描写することを心掛けているというよりは、それの印象、雰囲気みたいなものを現出させようとしているように見受けられます。細部にも忠実な、的確な描写もあるし、そういうものの方が多いとさえ言えるのかもしれないのですが、けれどもそれにしたって結局はその場やそのときの思考の雰囲気をよりよく表現するためのような気がします。

何かの真相、真実というものにはどんなに言葉を費やしても到達できるものではありません。それをどんなに描写しようとしても、具体的にも抽象的にも表現することはできないようです。だから、それのもつ雰囲気やそれの周辺を描写することは、見当外れのように見せながら、実は一番真実に近づく方法なのかもしれません。それは、ちょうど後ろ向きに歩きながら中心へ進んでゆくようなものです。脇を見る振りをして、しかし近づいているのです。

このような村上春樹の手法はあまりに文学的と言えるでしょう。芳醇な文学的香気が立ち上るようです。でもだからと言って難解な用語を振り回すわけでもなく、通常の話し言葉を使って表現しているところが、人気のある由縁なのかもしれません。文学的香気と言うよりは、文学的スモッグと言った方が適切かもしれません。それとも朝靄のかかった文学性?

ストーリーテリングで読ませるというよりは、文体で読ませるタイプの小説家ですね。ただ、エピローグで少し泣きそうになりました。なんでだかは分かりませんが。