Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

再開

2014-07-07 22:09:57 | Weblog
諸事情で休んでおりましたが、また今日からたぶんぼちぼちブログを書きます。いや、どうしようかな、やっぱりやめようかなとか思いつつ、こうして書いています。

近況報告するほどのことは何もないですね。先月は引きこもってました。

計画していたことが頓挫しかかってるのがちょっと残念ですが、今の自分の気持ちが以前の自分の気持ちに追い付いていないのが一因ではあるので、自己責任かなあ。ただ、けっこう人を巻き込んでしまっているので、そこは申し訳ないというか、心苦しいです。今のところお金はかかってないので、そこだけはホッとしています。意欲を持続させられたらいいんだけども。

夏から忙しくなる予定だったのですが、今のところやるべきことをさぼっていて、しっかりしないとなと自分を奮い立たせる熱意もなくて、ぽーっとしているので、少なくとも今週中には予定の作業を終えたいです。

そういえば、今月下旬にアニメーションの専門家(と言っても院生ですが)とお話させてもらえる機会がありそうなので、色んなことを聞きまくりたいです。

相変わらずぐだぐだの日々で、何も変わっちゃいないのですが、そういえば、「成長」という言葉を嫌い、代わりに「変化」を用いる人に出会ったり、ぼくの千と千尋解釈と同じ見方をしている人に出会ったり、今年はよい経験ができていると思います。

06

2014-05-15 01:06:43 | Weblog
この間「06」で始まる番号から電話がかかってきました。もちろん知らない番号。不審に思って出ませんでした。調べてみたら、大阪の市外局番みたいです。

ぼくには大阪に住んでいる知り合いはたぶんいないはずなので、間違い電話ですねこれは。

モスクワに滞在していた頃に日本から間違い電話がかかってきたことがあって、あれには困ったし驚きました。

思い返せば間違い電話にはとても可笑しなものがあって、関西の大学からサークル勧誘の電話をもらったこともありました。あれはお互い気まずかったなあ。



今日は近所で飲みました。全部おごってもらいました。すみません。でもありがとうございます。やっぱりやっぱり飲み会は近場がいいなあ。

そういえば、Aさん(現代思想をやっている若手の研究者)を交えて今度飲みましょうみたいな話が先日出て、その人は大変立派な本を書かれている方なので、ぼくが委縮していたら、「いやふざけた人だよ」と言われました。割といい人らしい。ぼくはどうもビッグネームとか権威に弱い。臆してしまう。会ってみれば気さくで優しい人だったりするんだよな。

最近、幾つかの場所から(何人かの人から)書いて欲しいと頼まれる(と言うとおこがましいな、誘われると言う方が正確か)ことがぼちぼちあり、それはとてもうれしいんですが、お金にはならないんだよなあ。そこを何とかしたい。お金を出して書くことと書いてお金をもらうことの間には深い溝がある。書かれたものの質は変わらない場合がありますが。

ここ数日は気が急いてばかりいたのですが、明日からは落ち着いて読書しようと思ってます。

くだらないことだけど

2014-05-09 00:32:35 | Weblog
お風呂で石鹸の付いたタオルをすすぐのが前々から面倒くさくて堪らなかったので、スポンジみたいなのに換えればすすぐ手間が省けるんじゃなかろうかと、先日それっぽいものを買ってきました。

それはあくまでボディタオルであってスポンジでもヘチマでもないんだけれど、でも旅館に置いてあるような手拭いみたいなタオルでもなくて、水切りがとてもいい。たっぷりのお湯に浸したそのタオルを洗面器から取り上げてぎゅっと握り締めれば、即座にほとんど水分を飛ばしてしまう。そしてどんなに石鹸で泡立っていても、少しお湯でじゃぶじゃぶやってやれば、すっかり石鹸を落としてしまう。こりゃあいい。

生活の中から厭わしいことや面倒なことを取り除いて、なるべく生活をシンプルにしたい。

くだらないことを書いてしまって何だか申し訳ない気持ちがあるのだけど、へんに大層なことを書くよりかえっていいだろうとも思う。

迷惑

2014-05-05 00:36:45 | Weblog
自分の自信のなさで人に迷惑をかけてしまうことが増えた気がするので、本当に自戒しなければならない。一方でプライドもあったりする。「自分なんて」と「自分だって」が押したり引いたりしていて、全体から見れば拮抗している。

自分の存在をなるべく消したいと、小さい頃から思うことが多々あった。
小学校から帰宅するときも、ぼくはそっと玄関のドアを開け、夜盗のように部屋に滑り込んだ。ぼくの存在を母に気付かれたくなかった。

自分の存在が他者に何らかの(良くも悪くも)影響を及ぼすと意識することは、ぼくにとって罪だった。ぼくは他者にとって路傍の石と同じ、視界に入ることがあってもそれと認識されることのないものでなければいけなかった。

自分の言動が他者に影響を及ぼすことを夢想してほくそ笑んでは、即座にそんな想像を打ち消して自分を罪深く感じていた。

ぼくは傲慢を恐れていた。謙虚でなければならない。けれども謙虚が過ぎれば人に迷惑をかける。しかもその謙虚は傲慢によって操られるマリオネットに他ならない。

他者を過剰に慮るのをやめること。自分を過剰に意識しないこと。怖がらないこと。正直になること。ぼくは本当に自戒しなければならない。

飲み会の予定

2014-05-02 00:42:33 | Weblog
次の二週間で飲み会の予定が5個入りました。あまり外に出ないぼくとしては、異例の頻度です。もっとも、飲み会と言ってもそのうちの一つないし二つはお酒抜きかもしれませんが・・・。

で、やはり二つくらいは(たぶん少し)おごってもらえそうなので、ありがたや。と、他人の財布を期待してはいけないな。

いずれにしろけっこうな出費になりそうなので、他は節約しないとな。

連休に入る前までに読もうと思っていた本はとりあえず読み終えたのですが、明日からは何を読もうか迷い中。っていうか、暑い。この部屋暑いな。

ついにchromeユーザーに

2014-04-29 22:50:52 | Weblog
これまでもときどきchromeは使ってきましたが、今回のIEの件で、完全にchromeに移行することにしました。

で、今日の昼間から色々試しているのですが、なるほどこっちの方がずっと使いやすいかも。もっと早くにchromeにしてた方がよかったかなあ、と思えるくらい。

そんなわけで、ぼくも今日からchromeユーザーです。

IEは長年使ってきたから愛着があるのは確かですが、でもな・・・別れなければならないのだ。別れるのがつらいと言うより、出会ってしまったことが辛いですね・・・。さらば。友よ。

丸6年

2014-04-28 23:41:04 | Weblog
2008年4月13日に第一回目のブログ更新をしているので、今年の4月13日でブログを続けて丸6年になりました。6年と言うと、3月まで幼稚園生だった子が中学生になってしまうくらい長い長い期間です。それでも6年前のことは比較的よく覚えています。だからあっという間という気がします。

6年間ブログを書き続けてきた間、後から記事を削除したことはなかったと思うので(たぶん)、そのときぼくが感じていたことごとが、このブログにはそのままの形で残されています。ぼく自身が過去の記事を読み返すことはほとんどないのですが、何かの折に誰かが(あるいはぼく自身が)過去の記事に目を留めて、自分にとってためになる何かを感じ取っていただけたら、ものすごくうれしいです。

実を言えば、このブログは4月でやめようと思っていました。
この6年でぼく自身はそんなに変化しませんでしたが、取り巻く環境は少しずつ変わり、また3月末には大きな出来事もありました。ブログを書き始めた頃のぼくであれば、その「大きな出来事」の仔細を綴ったでしょうが、今のぼくはそれをするつもりはありません。理由の一つには環境の変化があり、もう一つには、まさにその「大きな出来事」の性質があります。

まあしかし、4月に入って改めてブログを続けることにしました。
今の自分には何もできない、という諦念がどっしりと胸の奥に居座っていますが、それでも何か書き続けなければならないという、ほとんど義務感に近いものがぼくを急きたてるからです。

ここには割と自分の率直な感情が吐露されているので、実際にぼくと何度も話したことがある人よりも、このブログを定期的に読んで下さる方の方が、たぶんぼくのことを深く理解して下さっていると思います。それがうれしいとぼくは思っています。自分を理解してもらえる道具を与えられていることに感謝し、そしてそれを活用できていることに安堵します。たぶんネットがなければ、ぼくは他者からひどく誤解され煙たがられたまま、暮らしていたことでしょう。いやそれは現状も変わらないかもしれませんが、それでも、理解してくれる人たちがいる、あるいは理解してくれる人が現れる可能性がある、と今は信じていられるので、随分気が楽です。

前にも書きましたが、ぼくはこの世界に「雫」はいると思っています。「聖司」はいると思っています。「思っている」と言うより、「知っている」と言った方が正確な気さえします。たとえ彼らがぼくの目の前に現れなかったとしても、いると断言します。いた。いる。いるだろう。かつて。いつも。これからも。

その確信があまりにも強いためにむしろぼくはブログをやめることにそれほど躊躇いはありませんでした。でも、また改めて自分のペースで続けていきます。

ゴールデンウィークに

2014-04-25 23:19:57 | Weblog
分野の違う研究者・批評家の方とお会いすることになったので、その方の著書を拝読。専門や分野が違う方が、おもしろく感じる気がするのは文字通り気のせいなんだろうか。けっこう読みやすいこともあり、あっという間に読了。

近いうちに、今度はもう一人の方の著書も拝読する予定。こちらも分野が異なる研究者。

ところで、3日くらい前まで全然関係ない本を読んでいて、で、新たにこの本を読み終えて、意外なつながりが見えてきたのがおもしろかったです。いわゆる読書の醍醐味ってやつなのかもしれないけど、まるで違う事柄を扱っているはずなのに、しかし思いがけず重なる部分があって、しかもその二つの重なりこそ今の自分の最大の関心事だったりするわけです。関心があるからこそ、重なっているのが分かったとも言えると思います。

そんなわけで、読書っていうのは受動的じゃいけないんだなってことを再認識。自分でも考えていないと、大事なことに気付かない。そもそも大事なことが生まれない。

さて。明日と明後日は休日だけど早起きしないと。

雑感

2014-04-10 00:56:51 | Weblog
具合が悪かったりして更新できずにいました。

さて、話題のSTAP細胞について雑感。会見を見ていましたが、個人的に大きなポイントだと思ったのは、次の二点。まず、200回以上作成に成功したという点。次に、第三者が作成に成功しているという点。

これらの点に関しては、テレビで大学の先生などがコメントを出していました。またネットのニュースでもちらりと彼らのコメントを読みました。曰く、証拠がないから信用できない。

全くその通りだと思いますが、しかしピントが外れているとも思います。

そもそもいま問題になっているのは、STAP細胞があるかないかということです。しかし、それを証明したとされる論文に疑義が生じたために、その存在は白紙に戻ってしまったわけです。何かが存在することを証明するためには、客観的な証拠を挙げなければなりません。ネイチャーの論文はその証拠を揃えることができなかったので、STAP細胞の存在は証明されませんでした。ですが、不在を証明できたわけでもありません。ここには、「存在」のレベルと「証拠」のレベルという二つのレベルがあると考えることができます。

先の大学の先生らのコメントというのは、この証拠のレベルについてだけ言及していて、存在のレベルの話をしていません。証拠がないから存在しているとは言えないのだ、と主張したいのだと思いますが、しかし不在だとも言えません。つまり、彼らは何も言っていないに等しい。証拠がないから信用できない。確かにそうです。でもいま問題になっているのは、証拠のレベルの話ではなく、存在のレベルの話です。別様のコメントが可能だったのではないでしょうか。

例えば、ぼくは次のようなことを疑問に感じました。彼女は200回以上作成したと言っているけれども、これは明らかに数日で作成できると言っているのと同じです。ところが理研はSTAP細胞が作成できるか調査するには1年かかると言っています。どういうことでしょうか。200回作成したと言うけれども、どの工程から始めてどの工程で終えているのか。同じ作業で200個作成したということなのか。

また、STAP細胞の作成に成功した第三者がいるということですが、世界中の研究者で発見者以外に誰も作成できていないとされる中で、どうしてその人だけが成功したのか、これは非常に素朴な疑問です。いわゆるコツをその人にだけ伝授したのか。もしそうならなぜその人にだけ伝授したのか(その人はインディペンデントではなく身内ではないのか)。なぜその人は成功したことを公表していないのか。

こういった疑問は誰にでも浮かぶはずなのですが、なぜか追及されていません。そうではなく、証拠のレベルの話にすり替わってしまっています。

証拠がないというのは、今更分かり切った話です。ぼくも、今回の会見を聞くまでは、どうやらこの人はとてもずさんな研究をしていて、STAP細胞というのも、そのずさんな研究の結果、誤ってES細胞などが混入してできてしまったものだろうと考えていました。しかし、今日の会見を見てみて、200回以上成功している、第三者が成功しているというのを聞いて、おやと思いました。とりわけ第三者の成功というのはとても大きなことです。というのも、その人の実験ノートを見れば、全て解決する可能性があるからです。また、200回以上作成したという実験も、ノートが残されているかもしれません。そういう点について言及してほしいのに、なぜか記者はあまり重要と思えないことを聞くし、コメントを求められた先生も証拠のレベルの話をしてしまう。

証拠がないから信用できないと切り捨てるのではなく、例えばその第三者に実験ノートの提出を呼びかけるとか、色々できたと思います。


ここまでが1つの話題。
他にもたくさん言いたいことはありますが、長くなりすぎるので手短に。
「悪意」という言葉について様々なことが言われていますが、科学の世界では悪意の有無は問題ではなく、故意にやったかどうかが問題なのだと科学者は主張しています。したがって、故意に画像を変えた行為は改竄であると。しかし、どうやら理研の規定では「故意」ではなく「悪意」という言葉が使われているようです。そうなると、事情が違ってきます。研究所が「悪意」という言葉を選んだこと自体が厳しく問われるべきではないでしょうか。なぜ「故意」ではなく「悪意」だったのかと。もし科学の世界では「悪意」という言葉が意味を為さないのだとすれば(多くの科学者がそうコメントしているように)、どうして理研はわざわざその言葉を用いているのでしょうか。不思議です。

それから任命責任。どうやら随分ずさんな研究をしていたことが今回明らかになりました。ところが、ユニットリーダーに任命されてしまっているわけです。一体どうなっているのでしょうか。業績を残しているからだと思います。その業績の中味までは精査されないのでしょう。

バカンティ教授について。この人についての報道がほとんどなされていないことがすごく引っかかります。かなりのキーマンなはずなのですが。彼の実験ノートを見れば色んなことが分かるんじゃないかって、素人ながら思うわけです。


STAP細胞はないものと決めつけて攻撃的に質問・報道する人、いやSTAP細胞はあるのではないかと擁護するような発言をする人。どちらも情緒的すぎて、あまりよろしくありません。そうではなくて、今回新たに分かった幾つもの事柄に関して抱くはずの数々の疑問点を冷静に検証し、場合によったら取材する姿勢が欲しかったです。

会見での質疑応答やその後のニュースなどを見ても、自分の疑問は解決しませんでした。

口内炎が治ったら

2014-03-27 01:02:45 | Weblog
また花粉症の症状があんまり出なくなりました。ふしぎー。

月曜日は二つ大きな出来事とニュースがありました。
火曜日は思い出せるような出来事はありませんでした。
今日は大きな出来事はなかったけど、大きくない出来事はありました。
明日はたぶんパソコンに向かって一日作業するので、大きな出来事はないはずです。
明後日もたぶんパソコンに向かって一日作業するので、大きな出来事はないはずです。

まだまだだと思っていたゴールデンウィークが、近づいてきました。今年はちょっと楽しみなイベントがあるので、心待ちにしています。いや心待ちって言うと言い過ぎだなあ。

論文が研究の過程を披露するのものではなく、結果を披露するものだとしたら、ぼくは3年間は論文が書けないということが分かりました。逆に言えば、3年経てばたくさん書けます。

口内炎が治って柑橘類を食べられるのがうれしくて、たくさん食べてます。

未来の文献学

2014-03-25 01:13:38 | Weblog
ニーチェは「未来の文献学」ということを言っているらしい。未来の誰かのために、この一行、この一文字を書くのだ、という意味のよう。

僭越ながら、とてもよく分かる。分かってしまう。書く理由というのを突き詰めて考えると、どうしてもそこに至らざるを得ない。至らざるを得ないのだけど、それでもやはり迷うし、うろたえてしまう。決然と書くことができない。

「未来の文献学」というのは、外付けの動機なのかもしれない。ただ内心を吐露したいという「発作」を隠すための。明確な理由が欲しくて、他者のためと言っているだけではないか? そういう疑いが頭をもたげてしまう。

表白欲求というのは承認欲求と背中合わせ。ただし承認欲求とは評価されたいという欲求ではなく、ただ分かってもらいたいという欲求に違いない。つまり共感の欲求。しかし共感欲求というのは、誰かに自分の成功を見せつけたいという欲求ではありえず、自分の傷を傷として認めてほしいという欲求のことだろう。けれどそれは必ずしも傷を癒してほしいという欲求ではない。そうではなく、この傷が誰かの光となることで、自分が傷ついた事実を贖おうとする欲求ではないか。自分の傷が誰かに報いることを望んでいるのではないか。そうだとすれば、やはり「未来の文献学」ということになる。ここに行き着いてしまう。

それにもかかわらず、ぼくは迷う。うろたえる。怯える。この堂々巡り。

答えは出ているのではないか? しかしこの論法に瑕疵があるのではないかと、それを探し回る。

チェーホフは、「誰のために書くべきか」ということに悩んだらしい。昔その悩みにひどく共感したものだけれど、今改めて、たぶん当時よりも高次元でその悩みに共感する。というより、その悩みの凄まじさに戦慄する。チェーホフの問いは、ぼくのよりも激しい。

すばらしいものを読むと

2014-03-23 00:41:17 | Weblog
今まで自分が書いてきたもの、書いたばかりのものが、とてもみすぼらしく思えてくるというのは、たぶん誰にでも経験があることだろうけれども、ぼくもその例に漏れない。これまでに書いてきたものを全部消去して、今後は一切書くまいとすら言いたくなる衝動に駆られてしまう。

今まで自分が読んできた体験は何だったんだろうと思えてくることもある。幸いここ何年か碌な読書をしていないぼくだから、昔のようには苦しく感じることはないんだけれども、この先の読書を考えると、暗澹たる気持ちになってくる。

夜更かしした翌日は、体調が優れないようだ。今日は一日中なんだか気だるかった。

そろそろ読書しなければならない。多く読むのではなく、少なく読むことを心がけなければならない。焦ってはならない。くれぐれも焦ってはならない。分かることを急いてはならない。知識を殖やすために読むのではない。殖やそうとするスピードに、ページを繰る手は追い付かれてしまう。違うレベルの読み方をしなくてはいけない。

そうでなければ、読書は苦痛でしかないじゃないか。

口内炎と花粉症

2014-03-18 00:19:54 | Weblog
1週間くらい前に口内炎ができて、放置してたら段々痛みが増してきて、いよいよ辛くなってから数日間が過ぎて、それでも一向に治る気配がないから、昨日ついに口内炎の薬を買ってきて塗布してみました。すると、寝る前に一度しかつけていないのに、起きたらかなり快方に向かっていて、今朝もう一度つけてみました。これですぐによくなるだろうと。

今日の午後から、花粉症の症状が出始めています。ぼくはこれまでひどい花粉症で、春はかなり苦しめられてきたのですが、なぜか今年は症状がほとんど出なくて、「こいつはきっと、去年の春ずっとロシアにいて日本の花粉を浴びなかったから、理由はよく分からないけどそれが奏功したに違いないぞ」と思いなしていました。

口内炎の薬を塗布したこと。花粉症の症状が出始めたこと。二つが生じた日にちが一致しています。もちろん、ここに因果関係があると主張したいわけでは全くないのですが、ただ、「ロシアにいたから花粉症の症状が出なかった」というのと同じくらいの関係性を、ぼくは認めたいと思っています。

去年ロシアにいたから今年は花粉症にならなかったけど、口内炎の薬を塗ったら花粉症になっちゃったよ。

日々を素材に不条理文学は生まれる。

助けられて

2014-03-10 01:46:14 | Weblog
どうしてこういうことになったのか自分でもよく分からないんですけど、それぞれ異なる5種類(いや6種類?)の文章を書いたり書き改めたりすることになって、いま色んな方たちに助けられながらパソコンに向かってます。

たぶん、大学院に閉じこもってロシアのことばかりやっていたら、こんなことにはならなかったはずなので、まずは外に飛び出してみることが必要なんだなと思いました。

といっても、別に文章で生計を立てられるわけではなく、趣味の延長なのですが(というか趣味そのもの)、ぼくの書くものをおもしろいと言って下さる方がいらっしゃるのは、大変ありがたいことです。

他にも、文章を書くこと以外で進んでいる計画もあり、そのために色んな人たちと連絡を取り合ったりしてて、気持ち的には意外と忙しいです。こちらはどうなるかまだ分かりませんが、やはり多く人に協力していただいています。

去年までは気が付きませんでしたが、ぼくは一人だったんだな。助けられてると思っていましたけど、今のぼくはもっと助けられてる。彼・彼女らには、いつか恩返しをしないと。ぼくが書くことで恩返しができるとは思いません。彼・彼女らの望みを叶えてやることが唯一の恩返しのはずです。

さあて。とりあえず昼まで寝る癖を直したいなあ。

うおい

2014-03-09 00:48:47 | Weblog
うおいって感じでやるべきことが目の前に山積していて、珍しいなあって思う。ぼくはあんまり忙しくならない環境にずっといたので、こんなふうにやらないといけないことが次々に出てくると、割とうれしい。でも体は疲弊している。

だから、今日は早めに寝ようかな。体というか、特に目が疲れた。

あれ、もっと書けるはずだったんだけど、意外と字数が少ないな。まあいいや。